03 アビス
「アビス……君は一体何者なんだ」
自らの目前にふわふわと漂うアビスと名乗った少女に対して、オスカーは問いかけた。
「ワタシはアビス……『
「……この黒い液体と、この暗黒の空間について何か知っているのか?」
暫く考えるように周囲を見回すアビス。
人間離れした白い肌やその様子は何処か宇宙人を思わせる。
「……オスカーの記憶と照合する限り、ここは『宇宙』と呼んでも大きくは間違いではない場所。あの、黒い泥のような物質は、『ケイオス』。そのケイオスに満たされた空間を、人は『
「混界……さっきのイデアもだけど、何処かで聞いたような……」
聞き覚えのある単語に思考を巡らせようとしたオスカーだったが、意識はすぐ別の所に向けられた。
「……待て、何で僕の名前を知っているんだ?それに、『記憶と照合』……?どういう事なんだ?他人の頭の中が見えるのか?」
「聞く事が出来るのは、オスカーだけ。だって……」
そう呟き、袖の下から細い手を出したアビスは、その真っ白い手のひらをオスカーの胸に向けて差し出す。
そして……。
「なっ……うわっ!?腕が!?」
アビスの、全く力も無さそうな細く白い弱々しい腕が、なんとオスカーの胸の中へと浸透するように入ってしまったのだ。
彼の胸の奥底に、暖かいような、冷たいような、何かが流れ込む感触が現れる。
「ワタシは、オスカーと共に生きる存在……ワタシは――オスカーに分かる言葉を借りるなら、『契約』、別の言い方をするのなら、『寄生』した」
「き、寄生って……」
青ざめるオスカーを尻目に、アビスの背後から悍ましい触手が伸びたかと思うと、それはぎゅるぎゅると音を立て、オスカーを包み込むようにして彼の体内へと潜りこんだ。
『本来であれば、体の一部を貰ってワタシ達は一緒に生きる、共生関係になるはずだった。でも、オスカーの体は、何だか、上手く交換する事が出来ない、と思った。だから……ワタシはオスカーから貰った「意志」を、共有する事にした』
「意志って……」
『「生きたい」、その貪欲な、有り余る意志……そこなら、寄生出来る余地があった。意志も、意識を持つ人間にとっては、生きる為に大切な体の一部、らしいから』
「そんな事が出来るのか……」
自分の脳裏に響くアビスの声。
ぼんやりとした感覚を額にも感じたオスカーがそっと額に触れてみると、自らが長年装着していた、長い灰髪を束ねるヘアバンドにぎょろりとした三つの目の紋様が現れているのに気付いた。
どうやら体内にいる状態のアビスは、こうして周囲の状況を確認するつもりなのだろうか、と解釈したオスカーは勝手に納得した。
『ワタシはオスカーの体の一部になった。生きたい、というオスカーの意志そのもの。でも、それ以外がまるで空っぽ……だから、肉体そのものには、上手く移り住む事が出来なかったんだと、思う。でもこうして、オスカーは混界の影響も受けずに、こうして呼吸が出来るようになった』
「確かに……」
言われてみて気付いたが、先ほどからずっと感じていた息苦しさや、重苦しさを感じなくなっていた。
あの得体の知れない感覚に包まれていた混界も、こうして見ると、どこか肌に馴染むような、まるで空を、宇宙をふわふわと浮遊しているような、深海を漂うような、そんな気分にもさせられる。
更には先ほど混界に溶け出し、崩壊を始めていた衣服や頭髪も、まるで何事もなかったかのように修復されていた。
『オスカーの記憶、この混界やワタシ達に関する記憶――それは、どうやら一冊の本が原因、みたい』
「本――そうだ!」
アビスに問われ、そして引き出された記憶。
行方不明となった姉の部屋に残された遺品の数々を整理している時に見つけた、一冊の本。
西部劇やら冒険活劇やらに感化されて旅を始めた姉の、それらの書物や映像が保管されていた本棚に収められていたものだ。
姉の足跡を思い、本棚の中身を全て一通り目を通した為に、ぼんやりとした記憶しか残って居なかったが、確かにそのような単語の記載がある、架空の冒険譚の小説を読んだ覚えがあった。
「でもあれはフィクションじゃなかった?タイトルまでは思い出せないし……」
『随分とあやふやな記憶……というより、オスカーは殆ど読み飛ばしていたみたいで、ワタシにも本のタイトルや著者までも確認出来ない』
「あんまり興味なかったんだ……というよりも!」
そこまで自らの記憶の出所を考えようと頭をひねっていたオスカーだったが、その一声で会話を遮った。
「助けて貰ったのは凄く感謝してる。でも、その……勝手に頭の中を覗かれるのはあんまり気分の良い物じゃないんだけど……」
『気分が、良くない?そうなの』
「そうなんだ!だから助けて貰った手前、申し訳ないんだけど……僕が許可出してる時以外は、極力覗かないように出来ないかな……」
『オスカーがそう言うなら。まだ、基本的な言語と問われた内容以外は参照してないから、少し会話がおかしな事になったり、知識が足りなかったりするかも知れないけれど』
「うん……ごめん、でもそれも追々教えていくから……」
『分かった。お互いの為の体、勝手な事はしない』
アビスの返答にそっと胸を撫で下ろしたオスカーは、泡ぶくを立てながら一息吐いた。
暗黒に煌めく星々を見渡し、ここは宇宙と言っても相応しい空間である事実を飲み込んだ。
――かつて姉と語り合った内容を、脳裏によぎらせながら。
「さてと……随分ここには慣れてきた。何とかして今度は陸に上がらないとだけど……」
『目指すべき場所、あるよ』
「本当か?」
そう呟いたアビスが、オスカーの胸から再び現れると、ゆっくりと周囲を見渡し、そして二人の居る空間よりも遥か下の方向に向かって指をさした。
その指先は、まるでブラックホールかのような、周囲に煌めいていた光すらもない、ただただ暗黒の穴がぽっかりと存在する場所を指していた。
「あれは……」
「あの場所が、一旦の出口になるみたい。もちろん、入って来た場所と同じ場所に出られるとは限らないけど。この空間は、いろいろな世界に繋がっているから」
「世界に、繋がっている?」
オスカーの問いかけに、アビスは周囲の星々を指示した。
「あの光り輝く星々、そのひとつひとつが、『世界』。この混界、カオスから生まれ出た、無数の世界。この混界は、世界と世界の間に存在する隙間のようなもの。とはいっても、その無数の世界の面積を全て合わせたよりも遥かに広大で、虚無だけれど」
「星々の代わりに平行世界が無数に存在する宇宙、か……確かにそんな記載があったな」
莫大な数に輝く星々、そのひとつひとつの中に、自らが過ごしていた本来の宇宙が存在する――そんな途方もない事実すらも、今のオスカーにとってはもはや飲み込むのに難しくなかった。
「オスカーが本来居た場所も、この光の中の何処かにある、けど、この数から探すのは難しい。帰るのは諦めるしかない」
「……そうか」
「でも、そんな中で、何処に通じているか確証を持てる場所こそが、あの穴……」
この暗黒の空間の遥か、遥か奥底にある闇の渦。
ケイオスに満たされたこの混界において、より一際濃度の高い暗黒が渦巻いて見えるその場所こそが、ひとつの目的地になるとアビスは告げた。
「しかし遠そうだな。さっきみたいな怪物が襲ってこないとも限らない」
「さっきの怪物――
そう言って両腕を広げるアビス。
彼女の背面や裾、袖からどろどろと触手が伸び体を包み込んだかと思うと、触手によって繭のようなモノを造り出す。
その内部から現れたのは、先ほどの混物と似た、白い肌をしたマンタのような、クリオネのような大きな翼を持つ怪物へと姿を変えた。
「こんな事も出来るのか!」
『ここにはケイオスが潤沢に満たされているから、ワタシの体を構築するケイオスの形状を変化させて、こういった事も出来る。さぁ……』
腹面から白く柔らかな触腕を広げ、オスカーを優しく包み込むと、アビスはその大きな体を翻し、暗黒の渦へと進路を向ける。
『混界の奥底へ、行こう』
「あぁ、よろしく……アビー!」
『……アビー?』
「こ、これから一緒にずっと生きていくなら、何だかあだ名みたいなのも考えたいな……って思って……」
『……分かった。そう呼んで構わない。オスカーが呼びやすいのなら』
赤い瞳を少しだけオスカーに向けたアビスは、再び強く彼を抱くと、翼を大きく羽ばたかせる。
『じゃあ潜るよ、混界の底の更にその向こう――「メトロ」へ』
力強く翼を振ったアビスの体は、ケイオスを掻き分けて、海底を優雅に素早く舞う魚のように、深界を目指して潜り始める。
オスカーとアビスの二人は、混界の底の更に向こうの都市、「メトロ」に向けて歩み出した。
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