02 暗黒
「……がぼっ」
冷たい暗黒の中、オスカーはその苦しさから再び目を覚ました。
しかし重苦しく圧し掛かった闇は彼の身動きを奪い、瞼を開けさせることすら許そうとはしない。
吐き出した泡がドロリとした粘り気をもって弾けた事だけを肌で感じ、何故かまだ息はあり、そして生きている事を唯一知る事が出来た。
「くっ……」
少しでもまだ生きている確証を得たオスカーは、今まで感じた事もない重さの瞼を、なんとか、うっすらとこじ開けた。
その感覚だけがあっても、当然、目前に広がるのは目を閉じていた時と同じ暗黒だろう。
そう思っていたオスカーだったが、彼の目に映った泥の底は、瞼の裏の暗闇とは、少し違っていた。
自分自身が今まさに沈み、溺れていた暗闇に、僅かだがいくつもの光が煌めいて見えたのだ。
「――っ」
やはり死後の世界かと考えかけた彼だったが、しかしその考えが息苦しさによって間違いだと気付かされる。
しかしここが、ただの泥の沼の奥底ではなく、得体の知れない未知の空間だとするのならば、遥かに前者よりも生きる事が出来る可能性があるとオスカーは確信した。
薄ら開きだった瞼を、よりしっかりと、ハッキリと開いてみると、僅かに見えたその輝き達が思っていたよりも明るく、そして夜空の星々のように無数に存在する事に気付いたのだ。
「……」
宇宙にも似た空間であり、肌で感じる重さや冷たさは海の底にも似た空間の闇を、オスカーは何とか泳げないかと試みる。
既に上下がどちらかすらも分からず、そもそも上と下というモノすらあるのか分からない世界を、皮手袋がはめられた手でかき分けようと伸ばしてみると、彼はひとつの事に気付いた。
「なっ……」
使い古されて変色していたお気に入りの見慣れた皮手袋、その指先から自分の肌が見えるのだ。
どんなに崖を登ろうと岸壁を握り締めたり、誤ってサバイバルナイフで切り付けてしまった時も一切破れる事がなかった皮手袋が、まるで糸を一本一本の繊維へと解いていくかのように、暗黒に溶け出していたのだ。
ハッ、となり自らの体に目線を落としてみると、既に皮手袋だけでなく、ズボンや衣服、髪までもが、水に溶ける氷のようにゆっくりと、しかし確実に崩壊を始めていた。
これはまずい……!
そう察したオスカーは何としてでも早く、この「人食い闇」から抜け出せないかと足掻こうとする。
そんなオスカーを嘲笑う声かのようにも受け取れる音が、彼の耳に飛び込んだ。
『がぼぼぼぁ!』
「なんだっ!?」
暗黒の海水を振るわせる、悍ましい唸り声。
何かの動物に例えようにも、形容し難い恐ろしさを感じるその声の方向へと、咄嗟に目線を向ける。
暗闇を掻き分け、波打たせながら迫る半透明なヒレのような器官。
そのヒレとよく似た質感の肌の奥には内臓が透けて見え、ぎょろりとした一つ目はぐるぐると辺りを見回しつつも確実にオスカーの事を捉えている。
牙すら持たないが噛まれればひとたまりも無いようにも思われる薄ら気味の悪い深海魚のような大口を開けて、大蛇と海月を配合したような醜悪な怪物が、身動きも満足に取れない自身を今にも喰い殺そうと迫ってきていた。
魚か!?でもあんな怪物が……っ!
依然として重苦しく圧し掛かる闇に身動きが取れないオスカーに向けて、怪物は勢いをつけて迫ってくる。
焦り辺りを見回すことしか出来ないオスカーの目線に、ひとつの物体が映った。
っ!ここに居たのか……っ!
自分から僅かに離れた闇の中に沈む、一台のバイク。
何か掴むものさえあれば体を動かせると考えたオスカーは、再びその握り締め続けたハンドルへと手を伸ばす。
『がぼがぼがぼ!』
目前に迫って来た怪物を尻目に、ハンドルを力強く握ったオスカーは思いっきり自らの体を引き寄せた。
『ががぁ!』
「うわっ!?」
間一髪、怪物の大口は闇を噛み締め、勢いのままオスカーのすれすれを通り過ぎる。
その狂暴なまでに搔きまわされるヒレの力が闇を激しく波打たせ、握り締めたバイクごとオスカーは波に揉まれもみくちゃにされた。
再び上下の感覚を失いつつも、オスカーは必死に目を見開き、周囲を見渡し怪物を捉える。
獲物を飲み込めなかった事に僅かに遅れて気付いた怪物は、大回りにゆっくりと方向転換すると、再びオスカーへと向かい始めた。
くそっ、このままじゃ……!
今度はバイクの方を押して、その反作用で自らの体を押し出す事を考えたオスカーは、強くハンドルを握り締め、怪物を睨む。
今にも怪物が目前まで迫ろうとした、その時、嫌な感覚が彼の手に響く。
なっ、しまった……!
力強く体を押し出そうとした直後、握り締めていたハンドルがボロボロと崩れ闇の中へと溶けだし、踏み台にしようとしていた車体もまるでパーツごとに分解されていくかのようにバラバラに崩壊してしまったのだ。
中途半端に押し出された力は闇に吸い込まれ、勢いがついてしまった体は意思に反してバランスを崩し虚しく闇の中に溺れる。
その瞬間を好機に思ったか、怪物はより素早く、迷いなくオスカーへと迫る。
こんな……ところで……っ!
どうしようも無い状況に無気力感に苛まれそうになりながらも、しかし最期まで諦めるものかと、自らの歩みをここで途切らせるかと、彼は自らの意志を瞳に込めて、怪物を睨み続けた。
『がぼぉごご!』
無駄な努力を嘲笑うかのように唸り声をあげた口が、今まさにオスカーを飲み込もうとする。
その時だった。
『――こっち』
「な……っ!」
唸り声と波の音に隠れて微かに聞こえた声。
意志を断ち切る事無く睨み続けたオスカーは、確かにその声を聞き取ると、条件反射のように、迷いもなく、その方向へ目線と手を同時に伸ばした。
ほぼ手袋が形を失い露になった手のひらに感じる、するりとした手触り。
それでも目一杯力を込めて、爪を立てて、握り締めたオスカーは最期の力と言わんばかりに全筋力を振り絞って自らの体をその方向へと引き寄せた。
『ぐがぁ!』
再び行く先を失う怪物。
その方にも目線をくれず、彼の目に映ったのは、あの白く、不気味な女神像の姿だった。
「なんでこれがここに!?それに……」
『ねぇ――生きたいの?』
「……っ!」
脳裏に響くような、あのか細い声。
『生きて――どうするの?』
「どうする……だって?」
『死ぬしかない状態で――君はそれでも生きたがっている――貪欲に――』
「当然だ……っ!」
何が起きたのか分からなくなっていた怪物が、未だ獲物が生きているのに気付き、再び唸り声を上げ始める。
しかしそんな事よりも、オスカーはこの問いかけに対する答えに思考を巡らせていた。
「僕には何もない、生きる目的も、人として当然のモノすら、何も持っていない……でも、そんな自分自身でも、今まで世界中を走ってきて、色んな人と出会って、その度に支えてきてくれた……それとこれとは別なんだ!ここで途切れたら、その答えも、目的も、分からないままなんだよ……!」
『意味がなくても――生きたいの?』
淡々と問答を繰り返す女神像の肩にあたる部分を、オスカーは強く握り締め、睨んだ。
「あぁ――生きたいッ!」
『そう――ワタシも……』
会話に耽る二人に迫る、容赦のない怪物。
しかしその呻き声にすらも目もくれず睨み続けていた女神像の白い肌に、稲妻のような亀裂が走った。
『……
「なに……っ!?」
直後、崩壊した女神像の顔面から蠢き出す無数の黒い触手。
ぞろぞろうねうねとうねりながらオスカーの顔の横をかすめた触手は腕のように彼の後方へと勢いよく伸びる。
『っがっがが!?』
そして聞こえてくる、怪物の一転して苦しそうな悲鳴。
半透明な肉体のそこら中を触手が貫き、締め上げ、ズタズタに、グロテスクに引き裂いてゆく。
振り返ったオスカーは唖然とその光景を、ただ見つめるしかなかった。
そうしてそこに残ったのは、先ほどのバイクと同じようにバラバラになった、かつて怪物だった残骸のみだった。
「助けて……くれたのか?」
「――助けた、訳じゃない。ワタシは、ワタシが生きたい……そう思ったから、そうした」
オスカーの頭上より聞こえる声。
女神像の破片がまるで卵の殻のように闇の中に散らばっており、花弁のようにすら見える。
そしてその中より、ゆっくりとオスカーの目前へと降りてくる、ひとりの少女。
「……君は……」
オスカーの半分ほどしかない身長に、純粋無垢な真っ白い袖の広い服。
それと全く同じ色の透き通るような肌と髪に、赤い、赤い瞳を輝かせた右目が、オスカーを見つめる。
頭頂から伸びた半透明な触覚を揺らめかせ、クリオネを思わせるようにゆらゆらと彼の目前に舞い降りるその姿は、オスカーにとってまさに蒼海の天使にも、深海の悪魔にも映った。
「ワタシは君と共に生きる、そう決めたモノ――」
今まで襟に隠れて見えなかった口元が初めて露になり、そしてその白い唇から、確かに、ハッキリとした声を闇へと響かせた。
「ワタシは――アビス」
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