混界
01 オスカー
風と草木の騒めきを断ち切って、山中にこだまするエンジンの唸り声。
枯れ落ちた葉を巻き上げて坂道を突き進む一台のバイクに跨る、一人の人影。
突き刺すような冷たさの空気を引き裂いて、マフラーをなびかせていたその人物は、何処へ行ってきたのか随分と年季の入った愛車を停めると、灰色の髪をぱらぱらと溢しながらゆっくりとヘルメットを外した。
「……道がなくなってる」
機械のように無機質な灰色の瞳を草叢に向けたその人物の顔立ちは、男とも女とも取れない、何処か奇妙な雰囲気を纏っていた。
彼の名はオスカー。
かつての「押華」という名前を捨てた、一人の旅人だ。
両性具有で生れ落ち、直ぐに両生殖器の摘出手術を受け、無性のまま大人になった彼は、この山に当時訪れた時のあどけなさを残したまま、再びこの地に訪れていた。
行方不明になった姉の背中を追うようにして旅人になったオスカーは、一台のバイクを相棒に、自らの意志の赴くまま、求める場所へと点々と旅を続けていた。
何か目的があった訳ではないが、強いて言えば自らが何者なのか、そこに存在する人間なのか、と言った「生きる実感」を得る為に歩み続けてきた彼だったが、数日前、遠い砂塵の国の古びた宿の布切れのようなベッドでふと姉との記憶を思い出し、地元にあるこの小さな山へ向かったのだった。
「草は伸びてるけど……確かこの道だったはず……」
片手でバイクを押しながら、もう片方の手で草をむしりつつ、もはや嗅ぎなれた青臭い雑草の香りに包まれながらオスカーは草叢の奥へとゆっくり歩んでゆく。
彼の姉は十数年前に行方不明にはなったが、かといってオスカー自身にその足跡を追おう、何処へ行ったのか探し出そうといった気もなく、この山に訪れたのもただの気紛れに過ぎなかった。
実家や地元、そもそも存在しない旧友たちに用があった訳でも、顔を出すつもりすら更々なかった彼は、手探りで思い出の道を歩みつつ、その頭の中では下山した後に何処へ向かうかをぼんやり考えていた。
「……あれ?」
しかしそんな思考回路に、ひとつの感覚が差し込まれた。
履き古したブーツに纏わりつく、ねっとりとした感覚。
最初こそ泥濘を踏み込んだのかと気にしなかったオスカーだったが、その感覚は踏みなれた泥の感覚とは違い、絡みつき、足を地面から引き離すまいと掴まれているかのような不気味さを感じた。
油にも似て、しかしそれ以上にしつこいその感触に、オスカーは顔を顰めながら視線を地面へ下ろす。
「なんだこれ……油?」
草木の間から本来見えるはずの土の姿はそこになく、あるのは黒いペンキをひっくり返したような、奇妙な漆黒の粘々した液体だった。
まるで大雨が降った跡の泥水かのように、その黒い液体はでろでろと地面を飲み込み、木々の奥へと道を作っていた。
背の高い雑草によって気付かなかったオスカーだったが、既に彼のブーツと車輪は黒く染まり、粘液に足を取られ始めていた。
本来であればこのような悪路はさっさと引き返すものだが、それ以上に彼の不安と興味が混ざり合った好奇心がその足を止めようとはしない。
「この奥から流れて来てるのか?でもこの先には確かあの野原があったはず……」
もしこれが油などで、何者かによる不法投棄だったとしたら、大惨事に繋がる可能性も考えられる。
そうだとしたら一刻も早い報告や状況の確認が必要になるとオスカーは踏んでいた。
そうでなかったとしても、あの思い出の、姉と寝転び夜空を眺めながら、旅先での土産話に心をときめかせた空間に、何が起きているのか確かめずにはいられなかった。
しかし、その先の光景は、彼が考えていたものよりも、ずっと異なるものだった。
「……っ!?な、なんだこれ!?」
もはや洪水のように成り始めていた黒い粘液から伸びる草木をなぎ倒したその先。
かつて青々とした草と花、木々に包まれていた草原は、漆黒に染まっていた。
まるでそれは、夜の闇に満たされた湖であるかのように、ドロドロとしたドス黒い粘液の池と化している。
水嵩は既にオスカーの膝下までに迫っており、バイクに関してはもはや押して歩く事すら困難な状況に、しかしそれ以上に、彼はその光景に目を疑ったのだ。
「油でも泥でもない、でもこれは……何処から湧いてきてるんだ?」
どぽんどぽんと音を立てながら、オスカーはその闇の沼を突き進んでいく。
得体の知れない恐怖と不安、そして思い出の場所がこのように成れ果てた原因を探りたい気持ちに突き動かされた彼は、この沼の中央に、何かが聳え立っているのに気付いた。
「……枯れ木か?いや……これは……」
大理石のように白くつるりとした外観。
ひとつの大きな鉱石のように見えるそれは、より近付いてみるとその形状が、まるで名のある石の彫刻、女性像のような姿をしている事に気付く。
足元に見たことも無い奇妙な白と赤の花をいくつも泥から咲かせたその女神像には顔がなく、ぽっかりと空いた顔面の穴から、でろでろと黒い液体を涙……というよりも吐瀉物かと思うほどの勢いで流している。
不気味だが何処か神秘的にすら感じられる、この泥沼の発生源を、オスカーはただじっと見つめた。
「地中から汲み上げているのか?でもだとしたら誰が何の為にこの装置を……そもそもこれは何で出来てるんだ……」
もはや動けなくなったバイクをその場に何とか立たせ、腰まで浸かり始めた黒い粘液の中を進んだオスカーは、女神像に向けてゆっくりと手を伸ばす。
その時。
「っぐぁ!?地面が!?」
段差を踏み外したかのような感覚。
直後、一瞬にして下がる自分の視界。
底の見えない沼の中、目前の女神像の周辺には地面がなく、足場を失ったオスカーの足は、どんどん暗闇の中に飲み込まれていく。
「底なし沼……っ!?」
思いも寄らない程の勢いで黒い液体の奥底へと引き摺り込まれつつも、彼は必死に足掻き、その手を相棒のハンドルへと伸ばそうとした。
顔まで沈み始めたオスカーの手は、何とかバイクのハンドルを強く握りしめた。
しかし、ホッとしたのも束の間。
「……しまった!?」
必死の思いで掴んだはずのハンドルが、いや、バイクの車体ごと、泥沼の存在しない底へと沈み始めたのだ。
離すまいとして握り締めた頼みの綱と共に、オスカーは漆黒の沼へと沈んでいく。
「だ……めだ……」
やがて視界の全てが暗黒に包まれたオスカーは、何処までも深く、深く、その体を沈めるしかなかった。
呼吸も出来ない、ドロドロとした闇の底で、口から大きな泡を吐き、開けている事も出来ない瞼が落ちる。
「……――」
闇の中へと堕ちたオスカーは、行方不明になった姉の背をふと脳裏によぎらせ、そして、眠りに堕ちた。
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