第22話 萩原夏芽

 あれは翔夢が小学六年生の頃。


 翔夢は父と二人で地獄の特訓をしていたが、父が仕事の平日の昼から夜にかけては近所のバスケットボールコート自主練をしていた。


 そんなある日、いつものように自主練をしている翔夢に一人の女性が話しかけてきた。


「君は、何のために生きる?」


 小学六年生には処理しきれない言葉の重みに、翔夢は練習中にもかかわらずボールを落とした。


 人生で初対面の人にかけられた言葉で衝撃的だったのは恐らく一生この言葉だろう。


 背中まである純白の髪と長身に似合う白衣が特徴的な女性は翔夢が落としたボールを拾ってにこやかに笑った。


「驚かせちゃったね、ごめんごめん。私は萩原夏芽はぎわらなつめ。近くの研究所で働いているしがない研究者よ」

「俺は赤井翔夢、小学六年生十一歳です」


 魅力的な大人の女性に話しかけられた思春期真っ盛りの翔夢は照れながらも自己紹介をした。


 夏芽は近くのベンチに座り、空いている隣をポンポンと叩いた。


 誘われるがままに翔夢は夏芽の隣に座った。


「あまりにも一生懸命に練習する翔夢君がいたから思わず声をかけちゃった。君は何のためにそこまで頑張るの?」


 そこで翔夢は学校のバスケ大会の話を、父が有名なプロ選手だった話をした。


「あの赤井春彦選手の子どもだったとはね。でもそれは君には関係のないことだよ。君には君の生き方がある。バスケはもっと楽しいものじゃないと。何かを背負ってやるバスケは背番号を付けただけだよ」


 それから翔夢は練習に楽しむ気持ちを忘れないことを意識し、以前よりバスケが楽しくなった。


 だが、バスケが楽しくなった理由は他にもあった。


 あれから平日の夕方に毎日夏芽が来てくれるようになったのだ。


 休憩の合間に研究のことや趣味の話など、翔夢が経験したこともないことを沢山教えてくれた。


 そんな日々が二ヶ月ほど続くと翔夢は夏芽を好きになっていた。


 大人の女性が自分と楽しく話してくれる――小学生が人を好きになるには十分すぎる理由だった。


 今日も夏芽は翔夢の練習を見に来た。

 夏芽が来ると翔夢は休憩にした。


「翔夢君は人の心の中を見たいと思ったことはある?」

「見れたら便利だけど知りたくないことまで目に入る気がする」

「本当にその通りだよねー。だから結局人の心の奥なんて誰も見ようとしない」


 二人の会話は大抵何の脈絡のないところから始まる。


「でもね、翔夢君は人の心を理解できる人になりなよ。人が心の奥に隠してる悩みも土足で踏み込む勢いで理解して解決してあげる。そんな人が誰しも一人くらいは周りに必要な気がするんだ」

「でもそれって失礼なんじゃ……」

「いつか君にもわかる時がくるよ。誰かと悩みを共有し、一緒に乗り越える時がくる。そんな時はちょっぴりお姉さんの今の言葉を思い出してね」


 今日はいつもより少しだけ真面目な話をして夏芽は帰る支度をした。


 夏芽は帰る直前に飲み物を翔夢にくれた。


「ベンチに置いておくからねー。ばいばい」

「あ、ありがとうございます」


 夏芽が帰ってしばらくしてベンチを見ると半分ほどの水が入ったペットボトルが置かれていた。


「半分減ってるってことは夏芽さんが飲んだやつ……」


 翔夢は一瞬躊躇うも、自分にくれたやつなので恥ずかしがりながらも内心は喜んで飲んだ。


「明日から夏芽さんにどんな顔して会えばいいんだろう」


 意図して置いていった場合も、新しいものと自分のものを間違えた場合も、飲んだことがバレれば間接キスをしたことがバレてしまう。


 翔夢は憂いていたが、それは嫌な方向に杞憂で終わった。


 その日以降、夏芽が翔夢の前に姿を現すことはなかった。


 夏芽の仕事先も、家も知らず、スマホも持っていない翔夢に夏芽を探すことはできなかった。


 翔夢の初恋は突然の別れで幕を閉じた。



「――まぁ、こんな感じかな。今思えば本気で恋をしていたかと言われれば分からないけど。所詮小学生だからな」

「でもいい人だな。その人の言葉が今の翔夢の生き様や言動に繋がるってわけか。その人のこと、探そうと思わないのか?」


 今の翔夢なら、探せば夏芽の働いていた研究所くらいは見つけられそうだが――


「いいんだ。今の俺は咲絆のことが好きだから」


 その言葉に圭佑は少し怪訝な表情を浮かべた。


「ならどうして咲絆先輩の精神具現化現象を解決してあげないんだ?もうみんな気づいてるぞ。あれは翔夢にしか解決できないことだって」

「俺だって気づいてる。でも今のままじゃダメなんだ。俺は……いつから咲絆のことが好きなのかを覚えてないんだ」


 あまりの不思議な言葉に圭佑は口をぽかんと開けていた。


「好きになったことは確かなのにいつから好きになったか覚えてないってどういうことだよ」

「生まれた時から一緒にいるから幼なじみから想い人への変わり目が自分でも分からないんだ」


 幼なじみだからという理由に圭佑は納得した。


「お前にもいろいろあるんだな。それは爆弾のリミットまでに答えを出せばいいよ。でもあんまり咲絆先輩を待たせんなよ」


 圭佑はニヤニヤしながら肘で翔夢の横腹をつついている。



 話しているとあっという間に日は落ちていて、夕食を外で食べることにした。


 帰りに湯畑近くの温泉に出向き、本日二度目の温泉に入って一日目の旅行は終了した。

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