第74話 祈り
カザルド山脈は、四日前と何一つ変わらない姿を見せていた。
それもそのはず。銀竜がそこに住み着いていたのであって、カザルド山脈自体が召喚したわけではないからだ。雄大な山脈は、今日も足を踏み込む者を、静かに見守っているだけだった。
「寒くないか」
水場の所に辿り着くまで、何度同じ言葉を聞いただろう。
「大丈夫。ヴァリエがいるからかな。前よりも、もっと神聖力が上手く使えるみたい」
前に訪れた場所ということもあって、防寒対策は万全だった。
それでも心配だったのか、発つ前にポーラはアンリエッタに魔法をかけた。しかし、元々神聖力が体から出てしまっている状態のアンリエッタには、魔法が効き辛かった。
そこで、魔法で防寒が出来るのなら、神聖力でも出来るのではないかと試みた。
防御に近いのだから、失敗しても周りに迷惑はかからない。そんな安易でやったことだったが、驚くべきことに出来てしまったのだ。
今まで、一発で出来た試しはなかったのに。
これも偏に、ヴァリエのお陰なのだろうか、と勝手に思うことにした。
「それよりも、早く行こう。ユルーゲルさんが待っているんだから」
「待たせておけばいい。餓死寸前になれば、魔法で村まで帰るだろう」
いや、そんな状態になったら、村まで帰る力なんて、残っているわけがない。
マーカスがユルーゲルのことを嫌いなのは知っていたが、貶す姿を見たのは久しぶりな気がした。
私でさえ、もう許したって言うのに。マーカスはかなり根に持つタイプのね。一応、覚えておこう。
それとも、問題が解決したから、マーカスの中で余裕が出てきたのかもしれない。
陰口をたたくのは、その証拠なのだと、楽観的に考えることにした。嫌な顔をしても、最終的には、洞窟まで付いてきてくれたのだから。
「言いたいことは分かるけど、ユルーゲルさんに食事を届けるのは、飽く迄ついでなんだから、文句を言わないで」
そう、ポーラからの頼み事だった。ユルーゲルは竜が消滅したその日から、洞窟に籠って調査しているのだと言う。
自分の死体があった場所に長時間居られる、その神経が分からなかった。
いや、本人にとっては自分の死体ですら、オプションに過ぎないのかもしれない。何せ、アンリエッタを使ってまで実験した題材だ。サンプルとして、取れるだけ取りたい性分なのだろう。
「そもそもマーカスが条件を付けたから、こうなったんでしょう。ポーラさんも一緒に来られれば、文句を言うことだってなかったと思うけど」
「論点をはき違えるな。あいつが洞窟に籠らなければ、こんなことは必要なかったんだ」
確かに。それを言うと、最終的に悪いのは、誰だろう。籠るユルーゲルさん? 洞窟に行くことを進言した私?
「と、とにかく! 早く向かおうよ!」
マーカスの腕を引っ張った。本当は背中を押したかったのだが、先に行かせるのは少し危険だと思った。何せマーカスの腰には、剣が装備されているからだ。
万が一、ということもあるから。
それに、さっきのことを蒸し返された挙げ句、変なことを言って丸め込まれてしまう前に、マーカスの意識を別のところに向けなくてはならない。
アンリエッタは歩く速度を上げた。が、マーカスは表情を変えることなく、ただ歩調を合わせているだけだった。
***
「本当に来るとは思いませんでしたよ」
足音に気がついたのか、ユルーゲルが出迎えくれた。いや、食事を待っていたのかもしれない。
「事前に連絡はしたと聞いたが?」
「はい。伺っていますよ。しかし、マーカス殿なら、私が餓死しても構わない、くらいはやりそうだと思いまして。まして、アンリエッタさんを伴ってなら。違いますか?」
「アンリエッタ。向こうは餓死を望んでいるようだ。用事を済ませて、ここから出るとしよう」
マーカスに肩を掴まれ、反転させられた。まだ何一つ済ませていないのに、来た道を歩かされそうになった。
「マ、マーカス! 全く用事を済ませていないのに、帰らせようとしないで!」
「では、その用事というのは、どういった内容なのでしょうか。私がいない方がいいのなら、少しの間出て行きますよ」
慌てたアンリエッタの様子を見兼ねたのか、ユルーゲルが助け船を出した。しかし、後ろから舌打ちをする音が聞こえ、もう何が気に食わないのか分からなかった。
アンリエッタは膝を少し折って、マーカスから距離を取った。そして、すかさず真っ正面に向き直った目は、抗議した時のままだった。
「私はただ、祈りに来たんです! だからユルーゲルさんはこのままここにいて下さい。邪魔なのは、むしろマーカスの方なので!」
遠くにいるユルーゲルに向かって、大声で言い放ったアンリエッタは、マーカスを無視して横を通り過ぎていった。向かう先は、以前銀竜がいた所。
もう魔法陣の痕跡もなかったが、位置を正確に把握できた。祈ることがヴァリエの望みだからだろうか。
その場所に跪き、手を組んだ瞬間、ヴァリエの存在を感じた。
ここに来るのを望んだものとは違う、私の体に入ってきた時ともまた違う感覚だった。
内側から涌き出るのではなく、ふわっと体を包み込んでいるような気がして目を開けると、私と同じ容姿をした女性が、共に祈りを捧げていた。
少しだけ成長した私の姿。竜の姿ではなかったが、ヴァリエだと一目で分かった。どうやら私の神聖力を介して、具現化しているようだった。
このまま成長しても、同じ姿になるとは思えないほど、ヴァリエは美しかった。まさに、聖女と呼ぶに相応しい優しい空気を纏っていた。
元々私は、色々とひねくれていて、荒んだ性格をしている。この世界に来て、随分大人しくなった。偏に、原因の人物がここにいないからだと思っていたが、もしかしたら違うのかもしれない。
この体に入ったことで、神聖力の力、もしくはヴァリエに影響を受けて、相殺されたのだろうか。
ユルーゲルを見ていると、そう思えてくる。彼の魔法陣を使ったとはいえ、ヴァリエの神聖力によって、この時代に来たのだから。
そんなユルーゲルは、マーカスに何やら話しかけている。あの光景だけなら、仲が悪そうには見えなかった。
心底嫌いな相手を前にして、マーカスのような態度は、私には取ることが出来ない。全身で拒絶する。だから以前の私なら、今も尚、ユルーゲルを許せていなかっただろう。
皮肉なことに、ヴァリエのお陰かもしれない、と思わず視線を向けた。ヴァリエはただ、優しい眼差しを返すだけだった。それはわざと分からない振りをしてくれているのかもしれない。
ヴァリエの姿は、空気に溶けるようにして消えていった。
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