第73話 麓の村にて
五回目。
予期していない場所で、目が覚めた回数だ。
レニン伯爵の別邸で二回。自宅で一回。学術院で一回。そして、今回で五回目となる。
場所はカザルド山脈の麓にある小さな村の宿屋だ。
見たことがある室内といっても、一泊しただけの部屋は、ほとんど初見と変わらなかった。
記憶はカザルド山脈の洞窟で止まっていた。力を使い果たして、気を失ったことくらいは、簡単に推測できた。
けれど、目覚めた場所が記憶と異なると、自分の立ち位置が不安になる。何度経験しても、なかなか慣れなかった。
幸いにも、ベッドの近くにポーラがいてくれたお陰で、視界に彼女が入り込んだ。すぐに場所までは分からなかったが、その姿を見ただけでも、アンリエッタに安心感を与えてくれた。
「あぁ、良かったわ。今回は居合わせることができて」
そう言って抱き締めてくれたからだ。ポーラの肩越しに、マーカスの姿も見えた。ホッとした表情に、アンリエッタも釣られて、似たような顔になった。
心配をかけたのだと思い、ポーラの背中に手を回し、代わりに抱き締め返した。すると、何故かマーカスが嫌な顔つきになっていた。
「えっと、その、どうなったんですか? 私、上手くやれたんでしょうか?」
これまでずっと、自分のことなのに、何もできずにいたから、気になってしまった。最後の方で、ヴァリエに手を貸してもらったところまでは覚えている。
「えぇ、竜の消滅は確認したわ。この村にも知らせたから、もう貴女を見て何か言う人は減るでしょうね」
「……前とは、違うことで言うかもしれませんよ」
「でも、嫌なことを言われるわけじゃないのだから、良いのではなくて? この宿屋の主人だって、今度は快く貸してくれたのだから」
向かう前に立ち寄った時は、良い顔をしなかったということか。私が銀髪だったから。
「パトリシアさんは?」
「大丈夫だ。痣も消えたと見せられたからな」
「じゃ、具合も良くなったんだ」
元々ヴァリエが、パトリシアを近づけないようにしていたのだから、その力が作用する媒体、つまり痣が消えれば、効果がなくなるのは当然のことだった。
「洞窟から出た後に合流したんだが、その時はもうすっかり良くなっていた。水場まで辿り着けないくらい悪かったのが嘘のようだと、本人が言っていたほどだ」
「気になるなら、パトリシア嬢を呼ぶ? 向こうもアンリエッタのこと、気にしていたから」
「いえ、呼ぶほどのことじゃ――……」
ない、とまでは言わせてくれなかった。ポーラが立ち上がって、ドアに向かって行ったからだ。そのまま部屋を出たポーラとは反対に、マーカスが不機嫌な顔で近づいてきた。
「邪魔者を引き留める必要はない」
「邪魔って」
「抱き締める相手が、そもそも違うだろう」
言い方は怒っていたが、包み込んでくれる腕は優しかった。強く引き寄せられると思っていただけに、気恥ずかしくなった。
「返す力もないほど、もう体力がなくなったのか?」
すぐに抱き締め返さなかったからか、拗ねた言い方をしてきた。今までの経験上、こういう時のマーカスは、何か仕掛けてくることが多い。
慌ててマーカスの背中に触れた。
「ち、違う! どれくらい寝ていたか分からないけど、元気いっぱいだから!」
「証拠は?」
「え?」
「三日も目を覚まさなかったのに、元気と言われて信じると思うか?」
だからと言って、どう証明すればいいのよ。さっきのことで怒っているなら、強く抱き締め返せばいいって言うの?
「すまない。ポーラに先を越されて、怒りが収まらなかったんだ。だから、無理に体力を消耗しなくてもいい」
そう言って、マーカスは体を放してくれた。が、腕を掴まれたため、空いたのはほんの僅かな距離だった。
これ以上離れることは許さない、とばかりの行動に、アンリエッタはマーカスの頬に手を伸ばして、軽く唇に触れた。
「いいよ。三日間、心配をかけちゃったんだから」
目が覚めた時に見た、マーカスの表情を思い出すと、怒るに怒れなかった。私にとっては五回目だが、マーカスからしてみれば、三回目だったからだ。数日間、目を覚まさなかったのは。
あんなに心配という言葉が嫌いだったのに、逆の立場を考えただけで、するりと口から出てしまうなんてね。
頬から手を放すと、今度はマーカスの手がアンリエッタの頬に伸びてきた。気がついた時にはもうマーカスの顔がすぐ近くにあり、今にも唇に当たりそうだった。
「ちょっと待って!」
これは触れたら、すぐには放してくれないパターン。
マーカスの肩を押して抗議した。
「アンリエッタが先にしたのに、どうしてダメなんだ」
「さっきのは、その……謝罪に対する許しというか、答えみたいなものだから」
「それなら、俺も詫びとして」
マーカスが顔を傾けてきて、反論することさえ許してくれなかった。しかし、唇が触れようとした瞬間、
「起きたばかりのアンリエッタに、何をしようとしているのかしら」
勢い良くドアが開かれた。ポーラの姿を敢えて見ることなく、声を聞いただけでマーカスは、あからさまに嫌な顔を見せただけでなく、舌打ちまでした。
「だから待って、って言ったのに」
ポーラたちの登場に関係なく、あのままするような無粋な真似をしなかったことに、アンリエッタは安堵した。けれど、未遂とはいえ、恥ずかしいことには変わりなかった。
「少しは配慮ってものを知らないのか」
「あら、その少しの間も待てないのかしら。躾のなっていない犬と同じよ」
「ポーラさん、煽らないでください!」
今にも食って掛かかりそうなマーカスの腕を、両腕で抱き締めるようにして止めた。すでにアンリエッタの腕が自由に動かせているのが、その証拠である。
「そうですよ。マーカスを煽って困るのは、アンリエッタさんなんですから。落ち着いてください」
「……不服だけど、パトリシア嬢の言う通りね。悪かったわ、アンリエッタ」
「いえ、分かってもらえて良かったです」
そう言ってマーカスから放れると、こっちも同様に不服そうな顔を見せた。けれど、アンリエッタは気づかない振りをした。パトリシアに確認したいことがあったからだ。
「あの、ここの部屋に入っても大丈夫ですか?」
「え? 何のことだか分からないけど、大丈夫よ。ふふふっ。私が言うべきことを、先に聞いてくるってことは、もう体調は平気なのね。何か食べられそう?」
「あっ、はい」
指摘されて、初めて空腹だったことに気がついた。自分の体よりも、周りのことや現状の把握に意識が向いていたせいだろう。
アンリエッタの返事を聞くと、パトリシアは背後にいるルカに、食事を持ってくるように頼んだ。
「ごめんなさい、アンリエッタ。気がつかなくて。それにしても、さっきの言葉はどういうことなの。パトリシア嬢のことは、すでに説明したはずだけど」
「えっと実は、竜に神聖力を送り込んだ時、ちょっとしたトラブルが起きちゃって……」
アンリエッタは、その時の状況を大まかに説明した。
消滅を望んだのはヴァリエであって、竜は同意したわけではなかったため、抵抗されたこと。それが原因で、ヴァリエが竜の体から追い出されてしまい、現在アンリエッタの体の中にいることを。
それを聞いた各々の反応は、どれも同じようなものだった。
「だから、大丈夫なのかなって思ったんです。パトリシアさんが生贄になってしまったのは、ヴァリエが私をこの時代に呼んだことが原因だったから。すでに聞いているんですよね」
「えぇ」
眠っていた三日間。洞窟内でヴァリエが語ったことを、すべてパトリシアに伝えるのは、十分な時間ともいえる日数だった。
その期間中に、気持ちの整理をつけ終えるのも、容易に想像できる。何せ、痣が消えたのだから、もう生贄となることはない。自分を食おうとしている竜すらいないのだから、自然と心配事はなくなる。
すると、憎しみだけが残るだろう。
生贄の証である痣がなければ、普通の令嬢として過ごせていたのだ。直接的にはヴァリエが、間接的には私が、パトリシアの人生を変えてしまった。その相手が今、一つの体の中にいる。
アンリエッタは、身が縮まる思いがした。最初は体の心配をしたが、今は精神の方が気になった。
非難されるのを覚悟で、パトリシアを見詰めた。俯いて待つこともできたが、そうしたくはなかったからだ。
するとパトリシアは、アンリエッタに近づいて、傍にある椅子ではなくベッドの脇に腰を下ろした。マーカスとは向き合う形になったが、気にする様子は見えなかった。
「もしかしなくても、恨んでいるんじゃないかって思っているでしょ」
「……その権利はあると思うから」
「マーカスを見て、アンリエッタさん」
意図が分からず、言われるまま横にいるマーカスを見た。表情から、当のマーカスも困惑しているのは明らかで、アンリエッタと目を数秒合わせた後、パトリシアに視線を向けた。
「私が例え痣を持っていなくても、お兄様とマーカスの間に確執は生まれていたと思うの。そうでしょう」
「否定はできない。パトリシアが仲介できるとも思えないからな」
「失礼ね、と言いたいところだけど、自信がないから、認めるしかないわ。まぁ、そういう訳だから、経過はどうあれ、結果が良かったんだから、気にすることはないのよ、アンリエッタさん」
思わずアンリエッタは、マーカスとパトリシアを交互に見てしまった。
「顔だけじゃなくて、性格も似ていたんですね」
「アンリエッタさん、そこは否定させて。私はここまで性格悪くないわ」
「いえ、十分似ている所はありますよ」
食事を持って部屋に入ってきたルカが、援護した。
「諦めろ、アイザックだって性格悪いんだ。パトリシアだけ違うなんて道理はないだろう」
「酷いわ、私は善良な人間なのに」
「パトリシア嬢の気持ちは分かるけど、私はアンリエッタの状態が気になるわ。強靭な肉体を持つ竜とは違う人間の体に、魂が二つ宿るなんて、大丈夫なの?」
一瞬静まり、ルカが食事を乗せたお盆を、テーブルに置く音だけがした。
「ヴァリエは私に干渉することはしないって、自然に消滅する、とだけ言っていた」
「……ヴァリエを感じるといった、違和感みたいなのはあるのか」
「そういえば、全然ないかも。話しかけてもこないし、本当に私の中にいるのか分からない感じがする」
「恐らくですが、ヴァリエも疲れたのではないでしょうか」
突然、室内に姿がなかったユルーゲルの声が聞こえた。ポーラを見ても、青い狐はどこにもいない。きょろきょろしていると、ポーラが突然しゃがみ込んだ。
「見えなかったのね。さっきから、この姿で部屋にいたのよ」
「そうだったんですか。でも、私はもうユルーゲルさんの姿を見ても、大丈夫ですよ」
「誤解させちゃったわね。そういう意味で、この姿になっているわけじゃないの。今ユルーゲルは、あの洞窟を調査しに行っているから」
けれど、アンリエッタの状態も気になるため、青い狐の姿で会話に参加していたのだという。
「それで、疲れたって言うのは、どういう意味だ」
「これは仮説ですが、神聖力を使わせないように、パトリシア嬢のような生贄を増やさないようにするため、竜を抑えていたのではないかと思うんです。長い間、竜に支配されてきたんですから、抑えるのだって、相当な労力があるのではないかと」
「今はその必要がないから、私の中で眠っている、というわけですね」
ポーラに抱かれた青い狐が頷いた。
「洞窟内にも、竜を抑え込む魔法陣が、いくつか見つかっています。まぁ、原動力が私自身ですから、そんな簡単には破られてはいませんでしたが」
そう笑って言っていたが、洞窟内にあったかつてユルーゲルだったものは、姿形を保ってはいなかった。骨でもなく、燃え尽きでもしたかのような、炭の状態だった。
長い年月、二人がかりで抑え込んでも、最後のあがきであれほどの抵抗を見せたのだ。ユルーゲルの仮説は、恐らく合っているのだと、アンリエッタは思った。
「ですから、ヴァリエの言う通り、アンリエッタさんの中で、自然消滅するのではないでしょうか」
「……あの、そっちはもう危険はないですか?」
「そうですね。私が見る限りはありません」
淡々と答えるユルーゲルとは反対に、マーカスとポーラからの視線が突き刺さった。察しに良い二人には、私の言いたいことが分かるのだろう。それでも、口に出して言わなくてはならなかった。
「それじゃ、私が行っても大丈夫ですよね」
「アンリエッタ!」
「一度でいいの! 帰る前に行かせて!」
もう二度と来ることはない場所だろうから。目に焼き付けておきたい。ううん。多分、そうことじゃない。私の中にいるヴァリエが、そうさせているような気がした。
最期に祈らせてほしいと。生贄となった子たちのために。
欠落していたと、本人は言っていたが、心は聖女だと思った。母親から受け継がれた、清らかな性格。過ちを人のせいにはしないで、自ら向き合い懺悔する。
紛れもなく、私とは違う感情だった。私はそんなできた人間じゃないから。
「お願い、マーカス」
ここで一番説得しないといけない相手に向けて、手を握り、懇願した。他の人がいなければ、説得材料を用意できるのだが、今はこれが限界だった。
「条件がある」
「何?」
何故かいつもアンリエッタが使う手を、マーカスが言ってきた。
「俺とアンリエッタだけで行かせてほしい」
「私は全然構わないけど」
もう一人の説得しなければならない相手に、視線を向けた。
「マーカスがそういうのなら、いいのではなくて」
仲間意識でもあるのか、ポーラから了承を得ることが出来た。
翌日、アンリエッタはマーカスと共に、再びカザルド山脈へと足を踏み込んだ。
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