第2話 さまよえるオランダ人とファフロツキー

「『フライング・ダッチマン』は空飛ぶ船の話じゃないわよ」


 マグカップを手にリビングのソファに腰を下ろすと、ロキシーは当たり前のようにあたしの足の間に腰を下ろし、胸を枕代わりにする。


「空を飛ぶ船なんてあり得ないのは知ってるけど――」

「元々は喜望峰きぼうほうで遭難して、乗員がいなくなった船の話ね」


「喜望峰?」


「アフリカの南の端っこのほう。荒れやすい海域で、昔は“嵐の岬”と呼ばれたほどなんだって。荒れた天気に怒ったオランダ人船長が、「最後の審判の日まで掛かっても港に入ってやる!」って神を罵った罰で、永遠に海をさ迷うことになった。今でも嵐の日には姿を見せることがある――っていうのが、『さまよえるオランダ人』の怪談ね」


「乗員はいないの?」


 なんとなく、骸骨になった船員が動かす船をイメージしていた。無人ならそんなに怖くないかも。


「海上で、沈んでないのがおかしなくらいボロボロになった、何百年も昔の無人船と出くわすのは、それだけで充分ホラーだと思うけど」


 ロキシーは小首をかしげ、あたしを振り返る。


「陸の上に置き換えるなら……いつの間にか、心霊スポットと噂される廃墟の前に立っているのに気付くようなものかも?」

「ああぁ……それは怖いかも」


 あたしなら廃墟の中に幽霊がいるいないに関わらず、全力でその場から逃げ出す。


 ぶるぶると首を縮こめるあたしの反応に満足したのか、ロキシーは枕――あたしの胸、だ――に頭を載せなおす。お風呂上がりで体温が上がっているのが、心地良いのかもしれない。


「もっとも、怪談よりロマンスの要素を盛りつけたワーグナーのオペラのほうが有名かも。そのコスプレ娘は、なぜ自信満々で運命のように言い切ったのかしらね?」


 UFOを発見、目撃したのが自分だけじゃないのを確認してひと安心。という感じではなかった。


白乃しらのも目にしたんだから、その子の誇大妄想で、ありもしない幻覚を見たんじゃなさそうだけど……」


 あまりの光景に驚いたのと、ロキシーに早く聞かせてあげたくて、その辺りの確認がおろそかになったいたようだ。


「魚が降ってきたのに慌てて、それどころじゃなくなったんだけど。明日にでも聞いておかないとね」

「魚。魚だけならファフロツキーズと言って、珍しいけど前例がなくはない現象ね。日本でもオタマジャクシが降ってきたって記録があったはず」


 ロキシーがスマホに検索した記事を、背中越し覗き込む。


「ふうん。鳥が吐き出したのかも、ねえ。魚やカエルも竜巻の仕業かもと言われれば、それっぽい気はするね」

「こっちの、ケンタッキーに降った赤身肉やインドに降った赤い雨は、理由はどうあれグロテスクな絵面えづらだと思うけど」


 ふと、ロキシーが振り向き、あたしの顔をまじまじと見る。


「どうしたの?」

「降ってきた魚が腐ったとか、腐った魚が降ってきたとか言ってたっけ? 触っても平気なの?」

「どうだったけ……確か、生きた魚が降ってきたけど、すぐに腐って……」


 ロキシーはマグカップを床に置くと、ひやりと冷たい両手であたしの頬を支え、おでこを合わせた。


「白乃、顔真っ赤だと思ったら、すごい熱じゃない!」

「……何度も雨に降られたから、風邪ひいちゃったかな」


 今日は早めに切り上げよう。そう考えて腰を上げようとしたあたしだったが、足元がふらつきソファに座り込んでしまう。ぽかぽか身体が熱いのはお風呂上がりのせいだとばかり思っていたが、動いたせいか頭痛が酷くなり、身体中あちこちの関節が痛む。


「ああもう、今日は泊まっていきなさい」


 ロキシーの力ではあたしをベッドまで運べない。ロキシーの家の家事を取り仕切っている、乳母ナニーのニーナさんに連絡しているようだが、すぐには来られないようだ。ロキシーは毛布やクッションを掻き集めてくると、ソファを心地良い寝台に仕立ててくれた。


「ごめんね……」

「いいから今日はこのまま寝なさい。大和撫子やまとなでしこの水着を着た話は、明日じっくり聞いてあげるから」

「えっ? あれはちが……」

「いいから」


 話したっけか?

 さすがに変態扱いされそうで、はしょったつもりだったけど。

 ロキシーは横向きに寝るあたしの胸を枕に、スマホで映画を見はじめた。小さな液晶画面の中、海の底から無数のゾンビが上がってくる。


「……ロキシー、部屋戻って……」

 そんなに近くにいると、風邪うつっちゃうよ。


 朦朧もうろうとした意識の中、ゾンビを見てしまわないよう目を閉じての呟きは、ちゃんとロキシーに届いただろうか。


        §


 夢を見ていた。


 夢の中で、まだ髪を伸ばしていたころのあたしは、ひどく腹を立てていた。

 いつも頑張っている、報われなきゃいけない子が、理不尽な痛みに泣いている。


 こんな非道がまかり通るなら、この世界まるごと壊れてしまってもいい。

 理屈ではなくただ感情で。幼いあたしの行動原理は、それゆえ純粋で愚かだった。


 目の前には石造りの一体の彫像。


 均整の取れた若く美しい青年の身体には、蛇にも龍にも見える怪物が絡み付き、半ば溶け合いそれでも異形の美を生み出している。


 表情のないはずのその瞳は深くくらいきどおりに満ち、黒々とした怒りが涙のように流れている。


 それなら、あたしもこの怒りをぶちまけても構わないよね。


 触れるだけでも叱られる高価な彫像を、あたしは躊躇なく床に叩き付けた。

 その怒りは辺り一面に広がり、あたしの身体を憎悪と苦痛が黒く染める。


 でもこれで、また笑ってくれるよね。


 それなのに、その子の鳴き声は大きくなるばかりで。

 とほうに暮れたあたしは、彫像のかわりに馬鹿みたく立ち尽くしている。


 また間違えた? こうじゃなかった? どうすればよかったの?


 解に至る式を知らぬまま、繰り返し繰り返しずっと意味のない検算を続ける。


 そんな夢だ。


        §


「いたたた……」


 熱に浮かされながら、浅い眠りを続けていたらしい。


 時計を見ると午前6時をまわったころ。外からは強い雨の音がする。まさか、ずっと降り続いていたの?


 寝返りを打てなかったせいで、身体がこわばってはいるが、頭痛はなく熱っぽさもない。


 悪い夢を見るのはたいてい、ロキシーに胸を枕代わりにされたまま眠った時だが――たった今も、毛布にくるまったロキシーが、あたしの胸に寄り掛かり眠っている。


 顔が赤い。息が荒い。


 テーブルには風邪薬や水の入ったコップが置かれているのが見える。


「ダメだって言ったのに」

「……治すには、うつすのがいちばん手っ取り早いでしょ」


 愛おしさと申し訳なさでおかしくなりそうな頭を掻きむしり、声を出さずにひとしきり呻くと、冷静さを取り戻したあたしは、ニーナさんに連絡を入れた。


 幸い昨日ロキシーが連絡していたので、今日朝一番でこちらに向かう支度の最中だったようだが、あたしが風邪をロキシーにうつしてしまったことを報告すると、


「………………………………はあぁぁ……。分かりました」


 恐ろしく長い沈黙と重いため息を返された。

 甘やかして報酬を貰う身でこの不始末では、言い訳の出来ようはずもない。


 あたしは毛布でくるんだロキシーを抱きかかえると、彼女の自室のベッドへと運んだ。あたしにとっては落ち着かない、ホラー映画のポスターや殺人鬼のフィギュア、ホラー映画のDVDで埋め尽くされた薄暗い部屋は、ロキシーにとっては一番落ち着く場所だろう。


 風邪薬と水を思い出し取って戻ると、ベッドの中のロキシーは薄く目を開けていた。


「ニーナさんすぐ来るからね。今日はあたしも学校休んで付いてようか?」

「大丈夫……いや、たぶんそれじゃだいじょばない。雨は降ってる?」

「まだ降ってる……いや、また降り出したのかな? 夜中どうだったの?」

「いちども止んでない」


 うん? いくらなんでもそんなに降るものかな……?


 ロキシーは目を閉じ少し考えるそぶりを見せた。


「白乃はちゃんと学校行って。『フライング・ダッチマン』の話の続き、楽しみにしてるから」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

禍喰らイ罪業人形~オカルト好きなお嬢様にバブみを与えるだけの簡単なお仕事~ 藤村灯 @fujimura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ