ヤミとヤマイとヤマナイ雨
第1話 雨の日の海賊
近ごろどうにも奇妙な雨が多い。
梅雨にはまだ早いのに長雨が続いたり、都市部でもないのにゲリラ豪雨に見舞われたり。
あたしが海賊と出会ったのは、そんな雨の中でのことだった。
温暖化だとか気候変動だとかはよく分からないけれど、昔はもうちょっと、季節ごとの天気ははっきりしていたように思う。
この時期はこの服装をして外出すれば、まず問題ないとか。
急に降りだした滝のような雨のおかげで、昇降口を出たばかりのあたしは、頭からつま先までびしょ濡れになってしまった。
「あーもう、この……」
学院を出て少しでも歩いていたのなら、自分のアパートへ急ぐかロキシーの所へ走っていただろう。昇降口を出る前なら、雨が止むか小振りになるまで待ち、止みそうにないなら誰かに迎えを頼めばいい。それを、狙ったようにあたしが外に出たとたん降り出すとは。
「でもこれは、パンツを履いたままシャワーを浴びるという貴重な体験をしたと思えば、あるいは……」
目を閉じ、いちどは試してみたいと考えていた着衣入浴をイメージしてみる。スカートやブラウスがへばり付き、己の身体というものを否でも応でも意識させる。
ふと重要なことに気付き、素早くかつさり気なく辺りに視線を飛ばす。
あたしと同じように雨を避けられなかった何人もの生徒の姿。張り付いたブラウスから透ける少女達の肌と下着の色。ピンクに水色、校則で禁止されているはずの赤や黒までいる。衣替えが始まったタイミングに感謝。女子校だから着替えは実に無防備で、人によっては傍若無人といっていいものだが、アクシデントで垣間見るのはそれとはまるで違った趣がある。
校庭のほうにはまだ運動部の生徒達が、なかば開き直った様子でじゃれ合いながら片付けをしている姿が見える。
「神様、ありがとう!」
あたしはいつか見た映画のワンシーンのように、両手を広げ空を仰ぎ雨に打たれた。
「まるで脱獄が成功した囚人のように晴れやかな顔をしているな」
もうほとんどの生徒が、帰るか校舎に入るかしたものだと油断していたあたしは、掛けられた声に慌てて顔を向けた。
「ちがっ! ……これはその、ここまで濡れるといっそ清々しいなと。決して濡れた女子高生を愛でていたわけでは――」
学院指定の競泳型スクール水着の上に、黒い二重廻しのレインコートを羽織った生徒の姿。傘は差さず、頭には当たり前のように
「へ……変態だーーッ!?」
「なかなかに失敬だなキミは。それともフレンドリーなのかな」
声の主は
「いや、その……ごめん」
濡れフェチの性癖があるなどと、妙な誤解を受けていないらしいのを確認できたあたしは、素直に謝罪した。
「構わないさ。キミもあれを見ていたのかい?」
言って雨空に顔を向けるモノ。
「……?」
強いていうなら身体で雨を受けていただけで、空を見ていたわけではない。だが、モノが言ってるのはそういうことでもなさそうだ。
「ついて来なよ」
いたずらっぽい笑みを浮かべたモノは、あたしの返事を待たず昇降口へ向かった。
ずぶ濡れのまま立っていても仕方ない。どのみち一度校舎に入って服を何とかするつもりだったあたしは、大人しくモノの後に続く。
教室に戻るのかと思ったが、モノの向かったのはプールだった。
水泳部が強豪だからというわけでもないが、うちの学院は室内温水プールを備えている。地元では有名なお嬢様校だから、室外プールでは
「好きなのを選ぶといい」
シャワーを貸してくれるのかと思ったら、ロッカーを指しモノはそんなことを言い出した。
確かに、急なことであたしは着替えを持っていない。保健室で備え置きの下着とジャージでも借りるか、購買で手に入れるか。脱いで干したところで、この天気では乾くはずもないが、運動部が共有で使っている全自動洗濯機がある。タオルにでも
「裸で出歩くわけにもいくまい。水着だよ」
「……出歩く?」
モノは帽子やコートから水を滴らせたままで、着替える様子がない。でも、これからプールで泳ぐというのでもなさそうだ。
手近なロッカーには“
モノは平然としているが、水泳部では水着の貸し借りまで当たり前なのだろうか?
乾かすつもりで一度脱ぎ捨てたぐっしょり湿った下着を、もう一度身に付けるのも気持ち悪い。
「……お借りします」
小さく呟くきロッカーを開けると、あたしは畳んで仕舞われていた董子さんの水着を身に付けた。
急に降り出した雨のせいで、校舎内には放課後にしてはいつもより人の姿が多い。あたしは誰かとすれ違うたび、無意識のうちに緊張で身を固くしたが、生徒も教師も雨に降られてひどい格好の者ばかりで、水着で歩き回るあたし達に奇異の目を向ける者はいない。
校内を水着姿――しかも、クラスメートのものだ――で歩いていることに、あたしは背徳感と高揚感の入り混じった奇妙な感覚を抱き始めていた。
モノに連れられて向かった先は、校舎の外ではなく屋上テラスだった。高いフェンスに囲われたそこには、園芸部の管理する花壇と幾つかのベンチが設置されている。土砂降りの今は当然のように、あたし達以外人の姿はない。
「髪もせっかく乾きかけてたのに、なんで!」
「まあまあ、そうぼやかない。こっちのほうが空に近いだろ?」
そういえば、モノはあたしをソフト露出プレイに誘ったわけじゃなく、そもそも雨空に何かを見ていたんだっけ。あたしは激しい雨に打たれ、再びびしょ濡れになりながら空を見上げる。
重く垂れこめる雨雲は触れそうなほど近くに感じる。強い風にかき乱され流れる雲は、コーヒーに流し込んだミルクのようだ。少し先には晴れ間が見える。それなのに、雨雲は流れて行くことなく、聖フィデス女学院を被う
「ほら、そこだ」
モノが指し示す方向に目を凝らす。黒い雨雲の合間を流れる白く細い雲が波頭のように見える。荒れ狂う雲の海を進むのは――
「帆船!?」
朽ちかけた船体。
折れた舳先。
ずたぼろで、申し訳程度に帆柱に絡み付く帆布。
海の怪談で語られるべき幽霊船の姿が見えたのは、ほんのわずかな間で。
瞬きする間にそれは流れる黒雲に飲み込まれた。
「な?」
「いやいや、“な”じゃなくて?! あれは何? なんであんなの飛んでるの!?」
「おや、
得意顔から一転、少し落胆したような顔を見せたモノだったが、すぐに手を腰に胸を張り、風にコートをはためかせ高らかに言い放った。
「あれはフライング・ダッチマン号。ボクが待ち望んでいたボクの船だ!」
唖然とするあたしと雨空を見上げるモノの上に、魚の雨が降り注いだ。
§
「情報量! ああもう
服が乾く間ももどかしく、大急ぎで学院を出たあたしは、アパートには帰らずロキシーの元へ直行した。本当はその場にロキシーを呼び寄せたいくらいだったが、恐らく彼女は学院には足を踏み入れない。
購買で買ったビニール傘はまるで役に立たず、三度ずぶ濡れになったあたしは、ロキシー宅の玄関先からすぐにバスルームへ押し込まれた。
あたしのアパートのユニットバス4つ分はありそうな広いバスルーム。ゆったり足を伸ばせるバスタブ。シャンプーやボディーソープ、入浴剤のおかげでロキシーと同じ香りに包まれることが出来るので、あたしに断る理由はなにもない。
今日の入浴剤はラベンダーの香りがする。あたしはたっぷり張られた熱いお湯に、肩、首、口元と、順にゆっくり身を沈めた。
スクール水着の海賊――あれは個人の性癖か。深く考えるだけ無駄だ。
雨雲に浮かぶ幽霊船。空に浮かぶ船か幽霊船、どちらかの要素だけにして欲しい。
極めつけは空から降る魚。あたしには名前は分からなかったが、海にいる特に珍しくない青魚の類で、落ちる
考えるともなく、奇妙な物事を頭にぐるぐる巡らせているうち、いつの間にかうとうとして溺れかけてしまった。危ない。考えるのはロキシーの仕事だ。あたしは見たもの体験したことを漏らさず伝えればいい。
ふかふかのバスタオルで身体を拭き、用意してあったスウェットを身に付ける。ロキシーのものではない――それではサイズがまるで合わない。たびたびお泊りすることになるので、あたしの着替えは一通り置かせてもらっている。
バスルームを出ると、ロキシーはキッチンでミルクを温めてくれていた。
「はい、これ飲んで落ち着いて。ゆっくり話しなさい」
自分のカップに口を付けながら、ロキシーはあたし用のマグカップをよこす。
だだ甘い。自分で飲むのと同じだけ砂糖を入れたようだ。
でも、身体が冷えたのか、軽い頭痛がして少し身体が重い今のあたしには、ちょうどいいかもしれない。
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