第5話 開け罪業人形

「なに? トイレ?」


 ロフトを降りたロキシーは、唇の前に指を立て、寝ぼけまなこのあたしに耳を澄ますよう仕草で伝える。


 風が強い。窓がガタガタ揺れている。田舎のおじいちゃん家に泊まった時、雪が降る前はこんな風が吹いていたのを思い出す。


「悲鳴が聞こえなかった?」


 真剣なロキシーの様子に、目を閉じ改めて意識を集中してみても、聞えるものは変わらない。


「外、出るよ」


 ロキシーはコートを羽織りあたしを急かす。


 外に出ると、強い風がどこか人の声のように聞こえた。ロキシーの言うのはこのことか?


「あそこ!」


 凄い速さで雲が流れる空には、半分の月が浮かんでいる。月を隠す雲が流れたわずかな瞬間、空から落下する何かが見えた気がした。


「待ってロキシー、危ないよ!」


 警棒にも使えるマグライトを用意してきたものの、夜の森を歩くには心もとない。なによりここはクマの出没で騒がれている場所だ。危険すぎる。


「ロクサーヌ!!」


 こういうときだけ足が速い。ロキシーは何かが落ちた場所を目指しているらしい。

 幸い何にも行き合うことなくその場所に辿り着いたが、そこには見たくなかったものが待ち受けていた。


 前園まえぞのの話していた“凍ってから損壊した屍体”というのはこのことだろう。霜に覆われた右腕だけがあたしの足元に落ちている。左右の足はでたらめな方向に向き。首は後ろ向きに折れ曲がり、叫ぶ形のまま凍り付いた顔は、前園その人のものだった。


 うずくまり、腹腔に顔を突っ込み内臓をあさっていた影が振り返る。


「いやだ……たべたくない……ひとなんてたべたくないよ」


 血で汚れた顔で泣いているのは、寝巻き姿の妙雪みゆきちゃんだった。


「食べなくて……食べなくていいんだよ」

「だめ、白乃しらの!」


 ロキシーの制止でも聞くわけにはいかない。この子はあたしの目の前で、手の届くところで泣いているんだ。


 刺激しないようゆっくり腰を下ろし、血塗れの手を取る。


「だいじょうぶ。きっと治す方法が――」

「私達のことは、あなたには分からないって言ったでしょ」


 白い顔。

 黒い虚ろな目。

 空に向かい大きく枝分かれした角。

 頭に衝撃を受け、意識を失う間際。

 あたしは死と寒気かんきの精霊の姿を見た。


        §


都留儀つるぎさんには、来て欲しくなかったのにね」

「私だけなら良かったっていうの?」


 挑発的なロクサーヌの言葉に、ヘラジカの頭骨で作った仮面を被る飛冴あすさは応えない。ただ仮面の下で薄く笑ったようだった。


「妹をウェンディゴ症候群に追い込んでるのは、あなたの振る舞いじゃないの?」

「何度も言わせないで。私達のことはあなたには分からない」


 飛冴はロングスカートの裾をたくし上げる。その右足は厚手のタイツ越しにも分かるほど、肉がえぐいびつな形をしていた。


「人の肉でも食べなきゃ生き抜けなかったのよ。私はもともとこの子と一つだったんだから。身を削ってでも守るのは当然でしょ?」


 飛冴は自分の台詞にくつくつと笑声を漏らす。


「おねえちゃん?」


 妙雪は倒れ伏した白乃と飛冴を見比べ、不安げな声を漏らした。


「この子はもう普通の食べ物じゃあ、ちゃんと栄養を摂ることもできない。それなら私がウェンディゴになってあげるしかないじゃないの!」


 凍り付くような風が吹き荒れる。ロクサーヌは風の中に、ヘラジカの角を持つ巨大な人影を幻視した。



『たべなよ』


        『ほら』

                     『たべないと』

 『こごえるよ』


                          『しぬの?』

         『しにたくないでしょ?』


                                 『ほら』


   『はやく!!』



「いや!」


 妙雪が血塗ちまみれの手で耳を塞いでうずくまる。

 風の中の巨人は手を伸ばし、風圧で動けずにいたロクサーヌを捕まえた。


「一晩であまり多く人が消えると怪しまれるわね。でも大丈夫。今度は屍体を残すような真似はしないから」


 凍り付く感覚と共に空へと持ち上げられながら、ロクサーヌはただ倒れ伏す白乃を見詰め声を張り上げた。


「開け罪業人形ざいごうにんぎょう! アポルオン、餌の時間だ!!」


 吊り上げられるロクサーヌを見上げていた飛冴は、不意の悪寒に妙雪を抱え跳び退る。


 足元で倒れていた白乃の背を引き裂き、黒々と禍々まがまがしいものがその身をもたげた。


「な……何!?」


 風の中の巨人がそれに左腕を振り下ろすも、盛大な雑音ノイズと共に弾け飛んだのは巨人と飛冴の腕のほうだった。


「……ひッ!?」


 理解できない物を見る目で、飛冴は消し飛んだ腕の痕を見る。


「もう「」のは、あなたなら分かってくれるよね?」


 残る右腕も消し飛ぶ。地面に舞い降りたロクサーヌは冷たい笑みを浮かべた。


   ――幾万幾億もの黒いイナゴが形作る、翼を持つ大蛇――


 己の身を喰らうものの正体に気付いた所で、もう飛冴――ウェンディゴには打つ手など残されてはいない。


「……妹は、妙雪だけは助けてあげて……」

「何をしてでも守りたいものがあるのなら、相手にも当然、それがあることを想像すべきだったわね」

「おねえちゃん!!!」

「妙雪……食べられるのなら、あなたが良かったのに……」


 妙雪の伸ばした手は届かない。飛冴は妹の目の前で、骨のひと欠片さえ残さずイナゴの群れに食い尽された。


「……おねえちゃん……たべるよ。ちゃんとたべるから……どこ?……」


 うるさかった風はすっかり鳴り止んでいる。


「まだ声は聞こえているのかしらね?」


 見えなくなった姉の姿を求め森の奥へ歩み去る妙雪を、ロクサーヌはただ見送った。


「それにしても!」


 倒れたままの白乃に視線を移す。


「またほかの女に優しくして!」


 頭を抱き寄せ膝に載せると、むにむにと頬をね上げる。

 怒りや悲しみ、恨み辛み。人の負の感情を燃料に動く罪業人形。

 ロクサーヌを呪い殺すはずの大悪魔アポルオンは、今は罪業人形の動力炉として眠っている。

 燃料が尽きれば竜は白乃を喰い尽し、ようやくロクサーヌを殺してくれるだろう。


「それじゃあわたしが困るのよ」


 お人好しの白乃が割り込んだせいで狂った順序。

 正す方法はまだ見つかりそうにない。


「わたしより先に死ぬのは許さないんだからね……」


 白乃はまだ目を覚ましそうにない。

 眠っているのをいいことに、ロクサーヌはそっと白乃にキスをした。


        §


「結局何も分からなかったねー」


 小旅行を終えるまえに。

 せっかくの旅の思い出が、ユニットバスでは残念すぎるとごね続けた結果、晴れて日帰り温泉に寄り道することになった。


 何でも言ってみるもんだ。


 壺みたいなバスタブと違い、ゆっくり手足を伸ばせる。


「クマでしょクマ。日本の山に雪男は無理があるわ」

「ロキシーがそれを言っちゃうの?」


 乗り気だったのはロキシーのほうだったように思うも、記憶があいまいで思い出せない。


 身体を流し、あたしの隣に足を浸けるロキシー。

 日本の入浴施設では、湯船にタオルを浸けないのがマナー。

 ロキシーのガードもいつもより緩くなり、なめらかな胸の先なんかがチラチラ拝める。あんまり露骨に眺めまわすと、おけでぶん殴られるけど。


「ヒューペルボリアの編集者さん、残念だったね」


 調査に来ていた編集者が、3件目の犠牲者になったそうだ。しかも、あたしたちが泊まっていたロッジの目と鼻の先で起きた惨事だ。夜通し起きていれば何か見れたかもしれないが、ロキシーをそんな危ない目に合わせずに済んだことのほうを、僥倖ぎょうこうとすべきだろう。


「……そうだね」


 あれ? 贔屓ひいきの雑誌のはずなのにそっけない。お気に入りの記事を書く人ではなかったか。


 ロッジの管理人姉妹も姿を消したそうだ。自分の経営するロッジの宿泊客に被害を出し、気に病んでのことだろうか。クマに襲われたのではないのは救いだけど、パトロールが妹さんのほうを山中で目撃したという話もある。


 そういえば、その子と話したっけ?

 でも、どうか無事でいてくれるといいな。

 顔さえよく覚えていない姉妹の平穏を、心の中だけで祈る。


 自分でも奇妙なほど感情移入していることに気付き、お湯で顔を洗いうるんだ目をごまかす。


「なんでそんなに不自然な姿勢になってるのよ? そういうの、覗きワニっていうんじゃなかったっけ?」


 気付くと、湯船の縁に頭を載せ、お湯に身体を浮かせてローアングルでロキシーを眺める形になっている!?


「ちがう! そうだけど! 今のはそうじゃない!!」


 無体にも、素足で頭を踏まれ湯船に沈められる。

 ごほうびです!ごほうびだけど、お風呂で暴れちゃいけない!

 なにやら浮かない様子だったロキシーも、どうにか笑顔を見せてくれた。


 とりあえず、このとびっきり可愛くて、ちょっとばかし気難しいお嬢様を甘やかすのが、この都留儀つるぎ白乃しらののお仕事だ。


 忘れてなければそれでいい。それだけでいい。

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