第4話 ウェンディゴ症候群

「今回はって、そもそも目撃情報がないんだけど? ヒマラヤ山脈やカナダの原野ならともかく、そんな大きな動物が生存し繁殖を続けるには、赤木山は狭すぎるでしょ」


 ネッシーの話でロキシーから聞かされたことがある。仮に太古の水棲爬虫類が生き残っていたとしても、種を維持するには数十頭の数が必要だと。「おまけに魚じゃないなら呼吸で顔を出すことが必要だから、ネッシーがいるならもっと頻繁に顔を出し入れしてるはずよ」と。オカルト好きのロキシーにオカルティックな夢を壊され、ずいぶん複雑な気持ちになったものだが。


「歯型だけで煽りたいなら、狒々ひひか猿の経立ふったちのほうが辻褄つじつまが合うんじゃない?」

「売るために書いてるんだ。たとえ間違っていてもニュアンス違いでも、大衆の分かりやすく通りのいい、いちばんバズりそうな名前を使うさ」


 確かにヒヒやフッタチと言われてもピンとこない。マントヒヒは割と凶暴で牙がすごい動物の記憶があるけど、雪男と同じくらい場違いだよね?


「バズらせるだけならビッグフットのほうが良いはずよね。サスカッチの名称を出したのは意味があるんでしょ?」


 ロキシーの指摘に前園まえぞのは眉を上げ、感心したような表情を見せたあと、嫌な笑みを浮かべた。


「本当に書きたかった名称はウェンディゴのほうだよ。次の記事に書くつもりのネタだ。取材対象に警戒されたくなかったからね」


        §


 ここから先はサイトで読んでくれ。そう言って前園はあたし達を追い出した。ロキシーが疲れた表情なのは、久し振りの女優モードだったからという理由だけではないようだ。


「ねえ、ウェンディゴって?」

「ビッグフットっていうのは、北アメリカやカナダにヨーロッパから植民してきた人たちが、森の獣人を指す呼びかた。先住民族コウィチャン族やチェハリス族はサスカッチ、オジブワ族やアルゴンキン語族系先住民はウェンディゴって呼ぶの。植民者の“ビッグフット”が毛むくじゃらの野人を指すのとは違って、先住民は森に棲む精霊をも意味する言葉として使ってる」


「精霊?」


「姿が見えないってこと。声だけだったり気配だったり。寒気かんきでの死そのものを指すのだとも言うわね」


 声だけ。気配。

 ふと、何か嫌なものを思い出しそうになる。


「精霊としての姿は、頭にヘラジカの角を生やしてたり、身体が氷でできてたり。さっきの話で出たように、似たものをざっくり獣人系クリプティッドとしてまとめているだけで、厳密には“サスカッチ”と“ウェンディゴ”は別のものと捉えたほうが良いわね」

「別ものって、例えば?」

「ウェンディゴに憑かれると、人を食べたくなるの」


 そこで人の歯形が出てくるのか。


「ウェンディゴ症候群って精神疾患で、ビタミン不足が原因だから、クマやクジラの脂肪を溶かして飲むと治るそうだけど」

「あれ? それじゃあ前園さんは、雪男じゃなく人間の仕業だって記事を書いてるの?」


 ロキシーは応えず、渋い顔をしている。


 あたしは怖い話はまんべんなく苦手だけど、同じオカルト話でも、逃げたり殴ったりすればいい未確認生物の話なら、そんなには怖くない。けれど、それに人間を絡めると途端に“怖い”じゃなくて“いやな”話になってしまう。いやなのは怖いより受け付けない。


 ロッジはすぐそこなのに、不意にロキシーは足を止めた。


「どうしたの?」


 ロキシーが指さすほうを見ると、白いものが木立ちの中を走っている。


妙雪みゆきちゃん!?」


 ひょっとして、あたしが見失ってからずっと走りづめだったのだろうか。髪は乱れ汗だくで、今にも倒れそうになっている。


「妙雪ちゃん、止まって!!」


 木立ちに駆け込んだあたしは半ばタックルするような形で、強引に妙雪ちゃんを捕まえた。


 息も絶え絶えといった様子の妙雪ちゃんは、あっけなく地面に倒れ込んだ。

 ここまでする必要はなかったかもしれない。


 見るも無残に汚れてしまった白いコートに申し訳なさを感じていると、妙雪ちゃんが荒い息の合間に何か呟いてるのに気が付いた。


「……いやだたべないぜったいそんなものわたしは……いやだいやだぜったいひとなんかたべない……」


 全身に粟立あわだつのを覚えた。


 焦燥しょうそうし切った顔で呟き続ける名雪ちゃん。恐れ半分で取り押さえながら、あたしは無意識のうちに辺りに聞き耳を立てた。


 風の音。葉擦れ。名前も知らない虫。遠くで鳥の啼く声。


「これこそがウェンディゴ症候群の症状だね」


 あたしの肩ごしに妙雪ちゃんを覗き込みながら、ロキシーは呟いた。


        §


「そう……」


 あたし達に熱いココアを出してくれた飛冴あすささんは、力なく呟きを漏らしたきり、自分のカップに目を落とした。


 あまり役に立ってくれないロキシーとふたりで管理棟まで運んだ妙雪ちゃんは、今は寝室に寝かされている。


 室内には薪ストーブが焚かれ、柔らかな炎が揺れている。薪のはぜるぱちぱちという音と、時おり風がガラスを揺らす音。それ以外は誰も口を開かず、沈黙が続く。


「あの……ビタミン! そう、ビタミンが足りてないとかって話だから、クマの脂肪――は簡単に手に入らないか。牛脂かラード――も気持ち悪いな。そうだ、サプリ! ビタミンのサプリを飲めばすぐに良くなるって話で――」


 ロキシーが目顔で今はもう喋るなと合図をよこすも、落ち込んでいる飛冴さんを見ると、何か言わずにはいられなかった。


「雑誌のライターさんから話を聞かれたんですか?」


 やっと口を開いた飛冴さんは、伺うような上目遣いで問いかける。この場面で嘘は吐けない。あたしは黙って頷いた。


「取材が来るのにはそれなりの訳があるの。もう10年も前の話なんだけど、聞いてくれる?」


 飛冴さんは自室からファイルを持ってくると、テーブルの上で開いてみせた。


『日本人家族4人 カナダで遭難』『姉妹生存 発見される 両親は絶望的か』

 色褪せた新聞や雑誌の記事。残酷で煽情的な見出しが躍っている。


「カヤックってあるでしょう。手漕ぎの小舟。あれに乗って、川下りをしていたの。父さんと母さんと妙雪と私の4人で。経験者は父さんだったけど、ガイドを付けずに。運が無かったのね。春の嵐でカヤックを失って。父さんは助けを呼んでくるって行ったっきり戻らなかった。母さんは襲ってきたクマに引き摺られていっちゃった。最後まで叫んでた言葉は「逃げて」じゃなく「助けて」だったけど、私達には何もできなかった」


 重すぎる打ち明け話に、あたしは相槌すら打てずにいた。横目で伺ったロキシーは平然とした様子だけど、内心ではどう感じているのか。


「8日目にオブジワの小さな部族に保護されたわ。私達が森をさ迷ったのはほんの7日間のこと。それだけで、妙雪はずっとあの調子よ」

「その足もその時に?」


 よく質問できるな!?


 ロキシーの不躾ぶしつけな質問に思わず二度見してしまうも、飛冴さんは微笑みながら頷いた。


「起こったのはそれだけ? あなたはウェンディゴを見ていないの?」

「ロキシー!」


 さすがに見かねて声を上げたが、二人の表情は変わらないままだった。


「私達のことは、あの夜の森を歩いた者にしか分からないわ」

「もういくよ、ロキシー」


 ここらが潮時だ。あたしはココアの礼を言うと、ロキシーを引っ張って扉へと向かった。


都留儀つるぎさん。妙雪のこと、ありがとうね。でも、ビタミン投与なんかはとっくに試したの」


 気まずい。どう返事したものかも分からない。ロキシーは「だから言ったのに」というような目で見るが、助け舟は出してくれない。


「それともう一つ。記事に書いてあるの見逃したみたいだけど、私と妙雪は一卵性双生児よ」


        §


「あ”~~~~~~~~~~~~ッ!!」


 ロッジに戻ったあたしはすぐに寝床に登ると、頭から毛布をかぶり枕に顔を埋め、足をじたばたさせながらうめいた。


「うるさいわよ」


 下からロキシーの呆れ声が聞こえるが、こればかりはどうにも止められない。


「ねえロキシー、あたし失敗しちゃったかなぁ?」

「したねぇ」


 冷蔵庫を漁りながら気のない返事をかえすロキシー。


「なんかあたしにしてあげられることはないかなぁ?」

「これからは、他人の事情にむやみに首を突っ込まないことね」

「冷たい! さすがロキシー、金で人のおっぱいを買う女!」

「お肉たべないの?」

「食べるけどさー」


 もやもやした割り切れない気持ちも、夕食をたべる頃には落ち着いてきた。さすが国産A5ランク。


 いちど山を降りて日帰り温泉を使う案は却下され、お風呂を狭いユニットバスで済ませることになったのは不満だった。


 床に就くときには、いつものようにロキシーはあたしの胸を枕にする。息苦しさで度々悪い夢を見るが、今夜ばかりはその重みに安らぎを覚えた。


 どれぐらい眠ったのだろう。ぺちぺちと頬を叩かれる感触で、あたしは目を開けた。


 室内はまだ暗い。スマホを見ると、午前2時を過ぎたばかりだった。

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