第8話 商店街と祭り
刺さるような寒さが肌を貫く、晩秋の夜更けのことでした。
一人の中年男が肩をすくめながら、愛犬が歩くのに任せてそぞろ歩きをしていました。赤い月が睨み付けるように男の背中を照らしています。乾いた空気が喉を焼き、年相応に荒んだ肌を舐めました。カツカツの生活に疲れ切った独り身の男は、愛犬に手を引かれるようにして歩きます。
ふっふっふっ
足に絡みつく息遣いに目線を落とすと、愛犬が何やら小汚い紙束のようなものを加えています。しゃがんで取り上げると、踏まれて
「ネヴラ……聞いたことがないな」
愛犬を撫でながら独りごちた男がふと顔を上げると、そこには見慣れぬビルの入り口がありました。
ビルと言っても2階建てほどであるその建物は、シャッターの横に開いた狭い通路が向こう側まで筒抜けになっていて、まるであなぐらのようです。入り口の錆びた看板に「ネヴラ商店街」とあり、初めてここが件の商店街だということがわかりました。寂びた雰囲気に反して、通りの奥からは明るいさざめきと腹に響く音楽が聞こえてきます。
どうせ持ち主はわからないのだ、代わりに使ったところで誰が俺を咎めるだろう。
男はそれでも数回
占い屋、洗濯屋、
何となく吐き気を催すような異臭に
どうやら、今夜はこの商店街の祭りらしいな。
辺りを見渡すと、様々なかぶり物や仮面で顔を隠した異形の客たちは、先程男と愛犬が拾ったチケットを手に手に行き交いながらさんざめいています。男は、チケットの残りを数えました。ひいふうみいよお……、どうやら残りは6枚のようです。せっかくだから、一通り屋台を回って適当なところでチケットを使ってしまおうと男は思いました。
きらびやかな電飾に彩られた黒塗りの屋台では、道化師のマスクを着けた半裸の女たちが酒を振る舞っています。男がチケットを1枚渡すと、慎ましやかなラバードレスを召した妖艶な女主人は蛍光塗料のような酒を注いで手渡してくれました。スパイスの刺激が舌に心地良いその酒をちびりちびりと飲っていると、顔中ピアスだらけの男が大勢の美しい子どもたちを連れて屋台を巡っています。周りの客たちはその様子を、品定めをするような目で見ながらほくそ笑んでいます。男は、なんだか気持ちが高揚するような胸くそ悪いような感覚を覚えました。
隣の屋台は先程と打って変わって
型抜きをしている屋台の店主は祭りにそぐわず黒スーツを着込んでいます。眉目秀麗とでも言うのでしょうか、男でも見惚れるような美人がニコリともせず接客しています。「型抜きなんて懐かしいな」と、男がチケットを手に挑戦しようと屋台を覗き込んだところ、前の客がけたたましい獣のような悲鳴をあげました。見ると、型抜きに失敗した前の客の左手がちぎれているではありませんか。どうやら型抜きで失敗すると自分の体が、型を崩してしまったのと同じように傷つくようです。
「残念、またの挑戦をお待ちしております」
スーツ姿の店主は花が
血液の量り売りをしている屋台の横に、ようやく男が思い描いていた屋台がありました。香ばしいソースの香りを漂わせて鉄板の音が小気味よいその店は、屋号に『洗濯屋』とありました。
「焼きそば1つ、ください」
チケットを2枚渡すと、タオルを頭にまいた好青年が気持ちの良い返事で応えます。慣れた手付きで焼きそばをパックに盛り付けて、多めに削り節をかけてくれるのが実に心憎い。早速一口啜ると、甘口のソースに太めの麺が食べ応え抜群の絶品でした。
「お兄さん、これ、おいしいよ」
「ありがとうございます!」
「ここの商店街の祭りは変わった店が多いね」
「まあ、オーナーがアレだから」
この寒空の下、汗をかいている青年は爽やかに答えました。
「“アレ”というのは?」
「なんせ風変わりな人だからなあ。商店街も変わった店が多いでしょ」
「そうだねえ」
男は正直に答えました。それを聞いた青年はニカッと笑いました。薄暗い屋台の軒下で白い八重歯がキラリと光ります。
「まあ、オーナーに会えばわかるって。あそこで店開いてるからさ」
指さした先、一見すると廃墟のような白い小屋の前にも屋台がぽつんとあるようです。青年に礼を言ってその屋台に近づいていくと、目が痛くなるような刺激臭が垂れ流されています。やめておけ、と引き留める愛犬に構わず進むと、先客がしゃがんで四角い桶からしきりに何かを掬おうとしています。刺激臭の源泉はどうやらこの桶のようです。ふ、と覗き込んだ男が驚いたの何のって。
桶の中の液体には無数の眼球が沈んでいたのです。
「わあああっ」
男の叫び声に、先客はくるっと振り向きました。ガスマスク越しに
「おいおい、大の男がうるせえなあ」
頭上から降ってきた、いかにも
「その鳴き声、嫌いじゃねえけどな」
商店街のオーナーらしいこの店主は、馴染みらしい先客をとっとと帰らせると男と愛犬を手招きしました。おずおずと近づくと、店主は長い爪で男が手にしていたチケット綴りをつまみ取りました。水煙草の酔いそうに甘い香りが鼻をくすぐります。
「おーおー、こんなにチケット使って。さぞかしお楽しみだったんだな」
「え、ええ。まあ」
「心配しなくても、残りのチケットで十分遊んで行けるぜ」
「いや、はぁ」
「いやに盛況ですね」
「そりゃあな。年に一度の祭りだからな」
「何のお祭りなんですか」
男が聞くや否や、それまで
「お前、この商店街の客じゃねえな」
店主が、睨め回すような目で男を見ました。落ちくぼんだ眼窩にはまった眼球には白眼がなく、どこまでも黒い、黒い闇が続いています。男は、猛烈に冷や汗をかいて、頭がくらくらする感覚を覚えました。そして、すーっと目の前が真っ暗になると、バタン、とその場に倒れてしまいました。
真っ暗な意識の向こうで、不安そうな愛犬の声が聞こえます。頬を濡れた感触が這うのに身を任せていると、徐々に感覚が戻ってきました。目を開けると、愛犬が悄気返って男を見ています。男がそっと頭を撫でると、やっと安心したように男にすり寄ってきました。男はなんとか体を起こして、辺りを見渡しました。
そこで初めて、真っ暗な広場の中の祭りの一切合切がなくなっていることに気づきました。
真っ白い満月が冷たく、深夜の風が男たちの周りを吹き抜けていきます。広場には屋台のゴミも足跡も、人いきれの欠片すら残っていません。もしかして幻覚でも見たのだろうか、男は重い頭をかしげて戸惑いました。しかしながら、じっとりと汗をかいた掌を開くと、ぬるい眼球が1つ、入っていました。ああ、夢ではなかったんだと、男は溜め息をつきました。
めでたし めでたし
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