第7話 怪異との約束

 どこからか赤子の泣き声が聞こえる、陰鬱な夕暮れのことでした。


 ネヴラ商店街の中程に、筆舌に尽くしがたい臭いを放つ店が一件ございます。天井から吊された看板に灯りが入ると、すすけたそれはかろうじて「子供屋」と読み取れます。商店街を入って奥へ進むほどに強くなるその臭いは、人によっては嘔吐を催し、人によっては陶酔するような類いの臭いでした。

その臭いを意にも介さず、一人の草臥くたびれ果てた作業着の男が子供屋の戸をたたきました。しばらくすると、

「どうぞ」

 という明るい声が聞こえて、粗末な木の戸がギシッと音を立てて開きます。途端に、せ返るような香の臭いと猫の糞尿の臭いが顔面を撫でつけました。ゴーグル付きの防塵マスクで顔を隠した男は、臭いの凄まじさ以上に猫を抱えて出てきた店員の顔に驚きました。眉と言い鼻と言い唇と言い、顔中にピアスが開いているのです。棘の生えたような口元でにっこりと笑った店員は、構わず男を店内に招き入れます。


「あ、おじさん、猫大丈夫?」


 ガラス棚の中にアジア風の民芸品が所狭しと並んだ店内は、ようやくテーブルと椅子が二脚あるだけのこぢんまりとした部屋で、数匹の猫がその周りを無言でうろついています。入り口側の椅子を勧められた男は、フラフラと座りながらそれに答えました。


「……実家が猫屋敷だったもんで。20匹はいたかねえ」

「じゃあ、大丈夫ですね。よかった」


 見た目とは裏腹に極めて愛想のよい店員は猫を放すと、奥側の席にミシミシと座って男と向き合いました。


「どうも、子供屋やってます、トモって言います。ご来店ありがとうございます」

「……」

「それで、今日はどのようなご用命で?」


 目まで覆う防塵マスクをトモが覗き込むと、白眼の澱んだ虚ろな瞳と視線が合いました。男はすぐに視線をそらすと、歯の抜けた聞き取りづらい声でボソボソと話し始めました。


「俺は……本当駄目な奴なんだ」

「?」

「その日食べるのがやっとの生活をしてるわりに、酒が辞められねえ。いつまで経ってもこの生活から抜け出せねえ」

「はあ」

「毎日毎日毎日まいにち、同じ過ちの繰り返しだ。そんな日常から、抜け出してえんだ」

「……」

「所帯を持った連れでまともになった奴を知ってる。俺だって、家族の一人でもいりゃあ変われるんじゃないかと思ってな」


 ようやく話が核心に近づいてきたと見えて、白けかけていたトモは視線を上げました。カラーコンタクトをした白眼のない目が男を値踏みするようにギョロギョロと動きます。


「それで、子供屋さんにお願いしようと思ってな」

「どんな子をお望み?」

「子供屋さんに任せるよ。俺に着いてきて不満じゃねえ子なら、誰でも」

「おまかせですか。いいですよ、オレは仕事しやすいんで。それで……」


 トモはテーブルの下の物入れからピカピカの電卓を取り出しました。太い指で軽快にそれを叩いて見せると、にっこりと男の眼前に差し出しました。


「ご予算これくらいかかるんですけど……おじさん、払えます?」


 予想通り男に碌な財産がないとわかるや、トモは嬉々として男の健康状態を根掘り葉掘り聞きました。それこそ洗いざらい話させました。そして、男の血液型がAB型のRh-と知ると電卓をしまって喜色満面きしょくまんめんに言いました。


「来週、同じ時間にまた商店街にお越しください。それまでにおじさんにピッタリの子を探しておきますよ。その代わり……」


 来週まで酒はやらないでくださいね。大事な血液なんだから。密やかに言うトモの眼がギラリと光りました。





 ちょうど1週間後に商店街を訪れた男は、子供屋の前でトモに捕まってそのまま隣の醫院いいんに連れ込まれました。血をたっぷりと抜かれたあと気付け薬にウイスキーをいただくと、次第に手の震えも治まってきました。


「とってもいい子が見つかったんです」


 自信満々のトモによると、養護施設側が是非にと太鼓判を押すほどの子供を連れて来ているらしいのです。半信半疑で子供屋の店内に入った男は、防塵マスクの中で息を呑みました。

 一瞬覚えたのは、時が止まったかのような錯覚。

 店内の椅子にちょこんと腰掛けたその少年は、肌はもちろん髪から眉から睫毛まで真っ白な姿をしていたのです。石膏で作られた偶像のような表情は、どこか気だるくどこか気高く甘やいでいます。何もかもが白い中で、黄色い瞳だけが唯、凜とこちらを見据えているのでした。


「や、潤くん。こちらが君と一緒に暮らしたいって人だよ」

「……ヨミヤマだ」


 潤と呼ばれた少年は、名乗る声に応えずにじっとヨミヤマの目を見つめていました。吸い込まれそうな琥珀こはく色の光彩の中心には引きずり込まれそうな常闇が続いています。


「ね、ヨミヤマさん、めっちゃ綺麗な子でしょ? これなら否応なしに酒を辞めて頑張れそうだよね」

「ああ……ただ、潤、だっけか。こいつ、本当に俺に着いてきて不満じゃねえのか」

「うん。潤くんもヨミヤマさんのこと気に入ったみたいだけど。ね、潤くん」


 それを聞いた潤の口元がにやりと笑みの形に歪みました。そして、少年から発せられたとは思えぬような耳を蕩けさせる声で静かに言ったのでした。


うべなるかな」






 ヨミヤマは、自らが暮らすドヤ街に潤を連れて帰りました。道々では、その日暮らしの男たちが酒宴に興じています。年季の入った酒屋の表にある自販機から目を逸らしながら、ヨミヤマは木造二階建ての飯場へと入っていきます。二階の角部屋に潤を押し込むように入れて、後ろ手に戸を閉めました。灯りをつけると空の一升瓶と精神薬のパッケージが雑然と散らばったいつもの部屋です。マスクを外して改めて潤を見てみると、見れば見るほど芸術品のような顔つきでした。上目遣いにヨミヤマをうかがう瞳にはどことなく可愛らしさも感じられます。

「お前のために酒、辞めるからな。約束だ」

 と、力強く言うヨミヤマの瞳にはどことなく温かな光が宿っていました。


 最初の十日くらいは調子がよかったのです。仕事が終わると安酒も飲まずに真っ直ぐ飯場へ帰り、潤に飯を食わせてやりました。なけなしの手持ちの中から鉛筆やお菓子を買ってやりました。潤はあれ以来物を言いませんでしたが、時折にっこりと微笑むのがヨミヤマの荒んだ心を癒やしました。今までの生活が嘘のように酒と縁が切れて、いつもの六畳の部屋は様変わりしたように明るくなりました。飯場の連中も、珍しい子供が来てから人が変わったヨミヤマを見て、首を捻っておりました。


 しかしながら、ヨミヤマと酒との縁はそう易々と切れるものではありません。二十日するかしないかのうちに、余裕のできたヨミヤマの心にふつふつと欲が湧くようになりました。出来心というのでしょうか、魔が差すというのでしょうか。仕事帰りに年季の入った酒屋の自販機の前で立ち止まるようになりました。人差し指を出しては縮こめ、出しては縮こめ。毎夕そうやって逡巡しながらも、潤を思い出してハッと我に返り、帰路を急ぐのでした。次第に自販機の前に立ち止まる時間が長くなってきます。出した人差し指を引っ込められなくなってきます。喉の奥がいやに渇いて、仕方がなくなってきます。










 ある夕、とうとう欲望に抗えずに酒を買ってしまったヨミヤマは、その場で数本立て続けにぐうっと飲み干しました。そして作業着の左右のポケットにそれぞれ1本ずつ突っ込んで飯場に帰って来ました。部屋の戸を開けると、畳の上で潤が宿題をしています。それを見るなりハッと我に返ったヨミヤマは、潤の体にすがっておいおいと泣きました。


「すまん、潤。申し訳ない。約束破っちまった。飲んじまった、飲んじまったよ」

「……」

「この人差し指がいけねえんだ。お前と約束したのに、俺は、俺は……」


 子供のようにおいおいと泣くヨミヤマの頭に、ふいに小さな掌が触れました。驚いて顔を上げると、無表情で、それでも幾分心配そうな潤が頭を撫でているのです。ふんわりとした子供特有の柔らかい感触に、ヨミヤマの涙は一層溢れました。すると、潤はヨミヤマの手を取ってその柔らかい両の掌で包み込みました。ヨミヤマと潤の視線が絡み合いました。吸い込まれそうな琥珀色の光彩の中心には引きずり込まれそうな常闇が続いています。




「汝の罪科をば清めてしんぜよう」




 酒で酔ったときのような夢見心地の中、ヨミヤマの人差し指が静かに潤の口に含まれました。官能的な感触を得て、ヨミヤマは息を呑みました。形を閲するように舌が数回指を這いました。

 そのときです。

 一瞬、火花が散るような強烈な痛みがヨミヤマの人差し指を襲いました。見る必要もなく、指先がなくなっているだろうことが感覚でわかります。血が噴き出すのが熱くて、寒くてたまりません。それでもヨミヤマは潤から目を離せないでいました。人差し指の先を咥えた潤は、これ以上ないほど神々しく微笑んでいました。ヨミヤマは思わず潤を抱きしめました。そして、「これで酒を買わずに済む。なんて幸せなんだ」と呟いたのでした。




 めでたし めでたし

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