第6話 濃茶とメスメリズム

 走り梅雨の雨が上がった薄明るいよいのことでした。


 ネヴラ商店街の入り口には2本の影が青く伸びています。1つは細長い影、もう1つは小太りな影です。影の持ち主たちは2人でもかしましく声を立てながら、商店街の入り口の店の前で立ち止まります。一見すると京の町家のようなその店は、商店街の雰囲気とは相反してこざっぱりとしたたたずまいです。表には一文字「占」という看板。入り口の引き戸には「お一人様ずつお入りください」との達筆。


「ウチ、先に入ってもいいよね」


 小太りな影の方が声を弾ませて言いました。細長い影の方がそれに応えて、


「先にも何も、ワタシは占ってもらうつもりなんてないから」


 と不機嫌に返します。「第一、絶対に当たる占いなんて嘘に決まってる」とぼやく細長い影に対して反論も何もしない小太りな影は上機嫌で薄明るい店内に入っていきました。細長い影は商店街の入り口に小さな石のベンチを見つけて腰掛けます。待ちぼうけを食うくらいならアミに着いてくるんじゃなかった、などと独りごちながらスマートフォンで時間を潰します。


 15分ほど経った頃でしょうか。店の引き戸がガラリと鳴ったと思うと、アミが小太りな影をゆらゆらとさせながら出てきました。


「ユミ、お待たせ」


 ユミと呼ばれた細長い影がスマートフォンの画面から顔を上げると、アミの表情は驚くほど満足げです。


「なに、アミ。そんなに良かったの? 占い」

「ううん。占ってもらえなかったんだ」

「何ソレ。意味わかんない」

「前にも言ったじゃん。話聞いて、気に入った客しか占わないって」

「そんなのでよく商売になるね。それで、何嬉しげにニコニコしてるの? キモいんだけど」

「占ってはもらえなかったんだけどね。いろいろ話聞いてくれたの」

「へえ」

「すっごく優しくてさ。あれは1万の値打ちある」

「は? 占ってないのに金払ったの?」


 バカじゃない、とさしあたり簡単に罵倒しておいて、ユミはアミの肉付きのいい肩を叩きます。ユミは、学生時代からアミのこういう愚かなところが腹立たしいのでした。


「ちょっと待ってなよ。ワタシが金、取り返してくる」


 そう言ったユミは躊躇ちゅうちょなく店の引き戸を開けました。狭い店内は、せ返るような香のにおいで息が詰まりそうです。後ろ手で叩きつけるように戸を閉めたユミは咳き込みながら正面の御簾みすに向き合いました。机と椅子の置かれた土間から一段高くなったところはどうやら畳敷きになっているらしく、天井から吊り下げられた御簾の奥の人影がユミに話しかけます。


「おいでやす。元気なお嬢さんやね。まあどうぞおかけになって」


 その声の美しいことと言ったら、極楽に棲むという伽陵頻伽かりょうびんがが耳元でさえずるような心地よさです。さすがのユミも一瞬毒気を抜かれたようで、言われるがまま、御簾の前の椅子に座りました。然れども元来勝ち気なユミのことです。物腰の柔そうな老婆の声だとわかるや、居丈高いたけだかに座り直していつもの調子を取り戻します。


「アンタ、あのバカのアミから金巻き上げたでしょ。占ってもないくせに」

「ほう、お嬢さんはそれ言いに来はったんやね。お友達思いやなあ」

「ごまかさないで!」

「ふふふ。そないに怒らはって……私はただ相談料いただいただけですわ」

「はあ? 1万は高すぎるし」

「あちらさんも、納得しはってのことや」

「だいたい占いだって怪しいし。“絶対当たる”なんてのがそもそも胡散臭い。そんな詐欺まがいのものに払う金、ないから」

「そら酷い言われようやな。わかった。そこまで言わはるんやったら、お嬢さんのこと占ってしんぜよ。外れたら御代はいただきまへん。さっきお友達からもらったお金も返しましょ。ほれで、どうで?」


 御簾の奥の占い屋もなかなかに気丈と見えて、やんわりとした口調の中にも譲れないものがあるようです。ピン、と空気が張り詰めたのがユミにも感じ取れました。


「そこの机に紙と筆ありますやろ。ご自分の名前お書きになって。それで占います」


 動物的な勘が働いたのか、ユミは黙って言われた通りに筆を執りました。筆にたっぷりと墨を含ませると、「長谷川由美」という角張った五文字が半紙を這います。御簾の下から半紙を差し込むと、スルッとそれを引き寄せた占い屋は、しげしげとその名前を眺めました。


「……由美はん、アンタ、1週間以内にさっき来たお友達と喧嘩別れしはりますわ」

「は? バカじゃないの。ワタシとアミは10年来の付き合いなわけ。そんな簡単に縁は切れないし」

「……そうやとええんですが」


 すっかり馬鹿にした様子のユミは「1週間後、金返してもらいに来るからね」と捨て台詞を吐いて店を後にしました。御簾の奥では、占い屋がくすくすと笑っています。そして、笑い止んだ占い屋はスッと能面のように静まりかえると言いました。

「詐欺というより催眠やがな」




 1週間後の霧雨の夜。

 ユミの姿はネヴラ商店街の入り口にありました。黒いレースのアイマスクの下の表情は硬くこわばっていて、細い二の腕には一面に鳥肌が立っているようでした。息を潜めるようにして占い屋の入り口を開けたユミは、店内に入ると静かに戸を閉めました。


「おこしやす、由美はん。まあ、おかけになって」


 御簾の奥からは相変わらず玉を転がすような優しい声が聞こえてきます。神妙な顔で椅子についたユミは、先週の威勢はどこへやら、下を向いたまま何も言いません。以前はしなかった、蒸気のようなシューシューという音ばかりが店内に満ちています。


「いらしたちゅうことは、私の占い外れたんかいな」

「……いえ」

「へえ、ほな当たったっちゅうことかいな。あのお友達と喧嘩しはったんやな」

「アイツが……わざとヒサヤに色目使ったりするから」


 顔を上げたユミの目はらしくもなく泣きはらしていました。詳しく聞かずとも、占い屋には察しがつきました。ヒサヤというのはユミの思い人なのでしょう。


「ほれは……大変やったなあ」

「アイツ、本当ウザい。ワタシがヒサヤのこと好きなの知ってるに決まってる」

「へえ」

「妙に胸露出した服着てヒサヤにくっついてさ。ちょっとくらい巨乳だからって……だからアイツ、嫌いなのよ」


 一瞬、悔しさに声が震えそうになるのをぐっと抑えて、ユミは話の口火を切りました。


「実は……今日は占い屋さんに占ってほしいことがあって」

「へえ、先週は詐欺扱いしはったのに、かんまんのかいな」


 占い屋はさも楽しそうに言いました。ユミはそれを意に介することもなく、ゴソゴソと手持ちのカバンから札束を取り出して机にトス、と置きました。


「アミのことがあったから、占い屋さん、信じることにした。ここに108万あるから、これで占って」


 占い屋は何も言わずに御簾越しにユミの顔をじっと見つめました。そしてさっとひったくるように札束を手に取りました。その手の、あまりに細く痩せさらばえて皺だらけな様に、ユミはゾッと寒気がしました。おもむろに札束をけみした占い屋は言いました。


「由美はんのこと、気に入りましたわ。ええでしょ、占ってしんぜよ」

「マジで? 何でもいいのよね?」

「かまわんよ」

「じゃあ、ワタシとヒサヤが上手くいくか、占ってよ」

「はあ、ほんなことでええんかいな。ヒサヤっちゅうのんはどんな子?」

「外資系企業に勤めてるエリートくん。バーで知り合ったの。スペック高いよ」

「へえ。任せよし。2人の名前そこの紙に書きなはれ」


 従順に2人分の名前を認めたユミは、御簾の下から半紙を中に差し入れました。スルリと紙を引き寄せた占い屋は、幾分丸くなった文字をしげしげと眺めました。そして、深く息を吐きました。


「ほうほう。2人の相性は悪うないな。ただ、お相手は恋愛には無頓着なお人と見える」

「そうそう、よくわかったね」

「それで……由美はん、まだこの久哉っちゅう子とそんなに仲ようないね。アンタは気ぃ強い女演じとるけど、実際は自分に自信がのうて久哉はんに近づけんとおる」

「……うん」

「ええ、ええ。わかります。自信がないんは、元々アンタは自分本位で他人の気持ちないがしろにするきらいがあるからやね。相手がどんなこと思うとるか、感じとるか、理解できん、しようとせんのやな」

「当たってる……」

「久哉はんと上手くいくかどうかっちゅうのんは、結局アンタが自信持てるか持てへんかにかかっとるね」

「そうは言っても、自信なんてどうやってつけたらいいかわかんない」

「心配せんでもええ。ちょうどええもんありますからな」


 ゴソゴソと占い屋が棚から何やら取り出しているらしい物音が聞こえます。陶器や金属と竹のようなものがぶつかる音でしょうか。御簾越しではユミには何をしているのやらわかりません。


シャカシャカシャカ


 ようやく聞いたことのある音がして、占い屋がどうやら茶を点てているらしいことがわかりました。茶筅ちゃせんの規則的な音が店にこだまします。音と香のにおいと茶釜の蒸気でユミは次第にぼうっとし始めました。この商店街で出てくるくらいですから、碌な茶でないのはさかしいユミには予想できたことでしょう。それでもユミは怖じることもなく夢見心地で、呆けたように座っています。コツン、コツンと茶筅を打つ音がして、御簾から茶碗がスッと出されました。


「どうぞ」


 茶碗の中の液体は苔色に澱んで渦巻いています。ユミは液体に口をつけました。ズズッ、ズズッと一息に飲み干すと、口の中に抹茶特有の苦みと嫌あな粉っぽいざらつきが感じられます。御簾の向こうでケタケタと鴉のような笑い声が聞こえました。


「よう飲まはった。これ、京のお抹茶に“人一倍繊細な人”の爪を粉末にしたもんが入っとります。これ飲んだら人の気持ちの機微、感じ取れるようにならはります。必ず自信もつきますわ」


 ユミはとんでもないものを飲まされたものですが、なぜか一言の文句も垂れずに茶碗の端をねぶっているのでした。お茶の代金はいただきまへんから安心よし、と言う軽口を聞いているのかいないのか、ユミは呆けたままふらふらと店を出て行ったのでした。






 次の日から、ユミの世界は一変しました。


「長谷川さん、書類、印刷しておいてくれたんだね」

「いや、忙しそうだったので」

「助かったよ、ありがとう」


 以前なら気づかなかったような同僚の考え、気持ちなどが手に取るように感じ取れるのです。上司の思惑を理解しての受け答えはもちろん、後輩を指導する際の話し方にも変化が見られるようになりました。そんなユミを見て、彼女のことを“仕事はできるけど自己中で無神経な宇宙人”だと思っていた同僚たちの態度も軟化してきました。ユミは、日に日に人間関係のトラブルが減って過ごしやすくなることに心地よさと自信を感じていました。


「占い屋の言うとおり、自信がついてきた。人の気持ちがわかる。久哉にも安心してアタックできる」


 来月になったら出張から帰ってくる久哉に会える。それまでにもっと自信をつけておこう。ユミはますます周囲の人の機嫌に注意しながら生活するようになっていきました。次第にユミは、人の些細な気持ちの機微に気づける自分に自惚れるようになりました。自惚れれば自惚れるほど、ますます相手の顔色を伺って気持ちを読もうと神経を尖らせます。


 そのうち、ユミは相手の思っていることが脳内で聞こえるようになっていました。周りの人のちょっとした仕草、目線、声色などを感じ取るだけで考えていることが聞こえ、過剰に気にするようになりました。

(長谷川さん、いつもわがままよね。ムカつく)

(コイツいいケツしてるよなあ)

(女のくせに偉そうなんだよ)

 表面上は笑顔でも、頭の中で聞こえてくる声は欺瞞ぎまんと嫉妬と悪意に満ちているのでした。人の心を聞くにつけ、ユミはだんだんと疑心暗鬼になってきました。夜も眠れず、食事も喉を通りません。それでもユミは態度を改めようとはしませんでした。ユミは自信をつければそれだけで久哉の心を射止めることができると盲信していました。




 月が変わって梅雨も明けた頃、駅のホームで海外出張から帰ってきたヒサヤは女性に声をかけられました。


「ヒサヤ」

「……長谷川さん?」


 黄昏時の薄闇の中、ヒサヤは始め相手が誰なのか見紛うところでした。それほどまでにユミの姿は変わり果てていたのです。大きな瞳の下には色濃い隈、ガサガサの肌、艶のない髪。ふらふらとヒサヤに近づいて「久しぶり」と腕に触れたユミの手のあまりに細く痩せさらばえた様に、ヒサヤはゾッと寒気がしました。


「ヒサヤ、元気だった?会いたかった」

「長谷川さん……どうしたの。何かあったの」

「うん。ワタシ、変わった。ヒサヤのこともっと、わかるようになった」


 ユミはヒサヤの腕をギュッと掴みました。ヒサヤはユミの手をやんわりと解きました。


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」


 途端に血相を変えたユミは獣のような叫び声を上げたかと思うと頭を抱えました。


「ヒサヤがヒサヤがワタシをきょきょきょ拒ぜ絶したたたた」


 ユミの頭の中ではヒサヤが冷たくユミを拒絶する言葉が鳴り止まない様子でした。尋常ではないユミの様子を見て、ヒサヤは思わずたじろぎました。列車の近づく音が警鐘のように辺りに鳴り響きます。


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あひさやあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ」

「ユミ!」


 頭を抱えながらホームでもんどり打ったユミは、そのままホームから落ちました。  最期、列車がユミを覆う寸前

「ヒサヤが名前を呼んでくれた」

 と壮絶な笑顔を見せたユミは通過する特急列車の下に幸せそうに消えていきました。




 めでたし めでたし

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