第5話 ネヴラ商店街に鍵はあるか

 真夏の、珍しく霧の出ていない宵のことでした。

 上等のサマーコートを着た紳士風の男が、街はずれにある古ぼけた商店街にやってきました。商店街と言ってもアーケードではありません。2階建てほどであるビルの、シャッターの横に開いた狭い通路が向こう側まで筒抜けになっていて、そのあなぐらの中に種々の店が並んでいるのでした。いわゆる昭和レトロというのでしょうか。入り口の錆びた看板には「ネヴラ商店街」の文字がかろうじて読み取れます。


「……」


 ごくりと息を呑んだコートの男は、数回逡巡しゅんじゅんしたのち、商店街の入り口をくぐりました。あなぐらの中はそれでも電球のおかげで幾分明るく、通路の両側に風変わりな店が軒を連ねています。


 占い屋、洗濯屋、醫院いいん、顔屋、子供屋、など


 寂びた雰囲気に見合うように、それぞれの店の中はひっそりとしています。閉塞感へいそくかんがあって何となく息苦しい空気、地面に散らばる腐った板切れを避けながら歩く男は、足下まであるコートを翻して進みます。どの店を覘くわけでも入るわけでもなく、脇目もふらずに商店街を抜けると、あなぐらを抜けた先にぽっかりと夜空が顔を見せました。新月の闇に覆われた中に、一軒の店。一見すると廃墟のような白い木の壁の小屋、ここがコートの男の目的地なのでした。入り口の古めかしい外灯に灯りが入っているのを見て、コートの男は安心しました。


「よかった。開いている」


 意を決して店に入ると、白いペンキの剥げかけた床がギイイと音を立てました。埃とカビの不潔な臭いが充満する店内は、裸電球の光が白い壁に反射して目が眩みそうに明るいです。朽ちかけた棚や机には、細々と商品らしきものが置かれています。奥に細長い10畳ちょっとの部屋の壁際には古びた椅子が一脚。その椅子に腰掛けた黒髪の後ろ姿から耳障りのいい男声が聞こえます。


「最近一見さんが多いな。この店も随分有名になったもんだ」


 振り返った眉のない視線に射すくめられて、コートの男の肌は粟立ちました。椅子から立ち上がった店長らしきその人は、元の色がわからない程に薄汚れたチュチュの着崩れを直しながら近づいてきます。優に180cmを超える体軀たいくに見下ろされて、コートの男はたじろぎました。


「この店のことは、どうやって知った?」

「ヨ、ヨコカワさんから伺って来ました」

「ああ、あの“犬”好きのご婦人か。ありゃあいい客だったな」


 長い黒髪をかき上げた店長のくくく、と笑った赤黒い唇の隙間から歯列矯正の金具が覗きました。コートの男は身震いをしました。


「実は、ご相談に乗っていただきたいことがあって……」

「ほう。俺は礼儀正しいやつは大好きだからな。相談料は負けとくぜ」

「ありがとうございます。結論から申し上げると、私の記憶を取り戻す方法がないか、教えていただきたくて」


 コートの男が要領よく語って聞かせたところによると、こういうことでした。


 アベというその男は、ある程度の資産を築いて美しく優しい妻をめとり、何不自由なく暮らしていたそうです。ある日アベは、趣味のバイクで近場の高原へツーリングに出かけました。バイク仲間と高原で景色を楽しんだところまでは覚えているのですが、目を覚ますとそこは自宅で、視界には心配顔の妻と主治医。体中包帯だらけで寝室のベッドに横たわっていたのです。アベには自宅に帰る道々の記憶も怪我をした記憶もありません。号泣する妻を何とかなだめて事情を聞くと、どうやら一人で高原から帰る道すがら、バイク事故にあったらしいとのこと。主治医の治療で何とか一命は取り留めましたが、事故のショックで前後の記憶が失われているのだろうと聞かされました。


「ですから、私は事故の前後の記憶が知りたいのです」

「別に無理して思い出すことねえよ。ショックがぶり返すだけだぜ」

「いえ、そういうわけにはいかないのです。私は……この事故に疑問を持っているんです。この事故は誰かに仕組まれたものじゃないかと思っています。」

「へえ。そりゃまた何で」

「高原からの帰り道は、事故が起こるような危険な道ではありません。それに、バイクは先月点検したばかりです。誰かがバイクに細工をして私を事故に遭わせたのだと」

「おいおい、疑いすぎじゃねえのか。命が助かったんだからいいじゃねえか」

「そんなことはありません」


 そう言って、アベはサマーコートの前をくつろげて中を見せました。バッと開いたコートの中身は全裸でした。体のそこかしこに擦り傷や打撲痕があるのは納得いくとして、最も目を引いたのはアベの下半身の怪我でした。縫い跡の痛々しい局部は、キューピー人形のソコのようにつるんとしていて何もなかったのです。


「ほう……それは酷い目にあったな」

「そうなんです。目が覚めたら性器がないんですからね。相当打ちひしがれましたよ。妻が励ましてくれなければ、きっと立ち直れなかったでしょう」


 コートのボタンを留めながら、アベは溜め息をつきました。


「事故前後の記憶を取り戻せれば、手がかりが何かつかめるんじゃないかと」

「心当たりでもあるのか」

「ないわけでは……ありません。今まで事業で随分汚いこともやってきましたから」


 店長は、分厚い眼鏡を掛けたアベの顔を穴が開くほど凝視しました。そして、あまり気乗りしない表情を見せながらも「いいだろう。ちょっと待ってな」と言って店の棚を漁り始めました。腰ほどの高さにある備え付けの引き出しからひしゃげた箱を取り出すと、それをアベに手渡します。


「開けてみな」


 中に入っていたのは、煙草の箱ほどの大きさの小洒落た南京錠でした。ガッチリとはまった錠は引っ張ってもびくともしません。しかも箱の中を覗いても、付属の鍵は見当たらないのです。


「それは、閉ざされた記憶を夢として見せてくれる道具だ。あんたが持ってる鍵をはめたら錠が開く。そうすれば夢が見られるはずだ」


 店長は椅子に座り直して、図体に不釣り合いなほど可愛らしい水煙草を吸い始めました。白い煙が吐き出される度、胸がムカムカするような不快な甘い臭いが部屋いっぱいに漂います。「御代は、そうだな……あんたの下半身の写真でも撮らせてもらおうか。安いもんだろう」と芸術家然として告げた店長に、アベは感謝の表情を浮かべたのでした。






「お帰りなさい、貴方」


 自宅へ帰り着くと、アベの妻が口づけをして出迎えてくれました。妻の早和さわは、シルクのワンピースに包まれて女優も驚くほどの美貌と気品を湛えていました。鈴を転がすような優しい声に、愛しさがこみ上げてきます。目が覚めてからの早和の献身的な看護と気配りに、何度助けられたかもしれません。子供を欲しがっていた早和への申し訳なさが顔をもたげるのを抑えながら、アベは早和を抱きしめました。


「ただいま、早和。ごめん、実は少し気分が悪いんだ」

「あら、それはよくないわ。横になられたらいかが?」

「そうする。夜食は寝室に運ぶように使用人に言っておいてくれ」


 そうして寝室に引きこもると、アベはコートのポケットから例の箱を取り出します。ベッドサイドには高級な革のキーケース、アベ愛用の品です。中には、自宅の鍵はもちろん、バイクの鍵、金庫の鍵など、アベの持っているあらゆる鍵がしまわれています。コートを脱いでキングサイズのベッドに潜り込むと、箱から出した南京錠にバイクの鍵を差し込みました。


 カチャッ


 鍵を回すと音がなって錠が外れました。その途端、アベは穴に落ちるように急速に夢の世界に落ちていきました。

 夢の中では、アベはバイク仲間と二人で高原に来ていました。抜けるような青空に入道雲、生命力の溢れる緑が心地良く瞳に映ります。長い付き合いのバイク仲間は、アベの横で写真を撮るのに夢中な様子でした。アベがバイク仲間を呼び止めて木陰へ誘うと、カメラをバッグにしまったバイク仲間はおもむろに服を脱ぎました。アベも全裸になりました。いつもそうするように裸で抱き合うと、草の匂いが爽やかに香ります。そうして高原での時間を有意義に過ごしたアベは、バイク仲間と別れて慣れた帰り道を下っていきます。もしかしたら気分が高ぶっていたのかもしれません。いつもより少し速いスピードでガードレールすれすれにカーブを曲がります。しかし、アベはそのまま何事もなく自宅に帰り着きました。いつものようにバイクを車庫に停めたところで、夢はふうっと覚めていきました。


「おかしい。俺は事故には遭っていないらしいぞ。じゃあ、この怪我は一体何なんだ」


 南京錠からバイクの鍵を抜くと、ひとりでに錠がカチッとはまりました。アベは、次に自宅の鍵を南京錠に差し込みました。


 カチャッ


 再び錠が開いて夢の中に落ちていったアベの視界には、バイクスーツを着て帰宅する自分の姿が映りました。

 いつものように早和が玄関で出迎えてくれます。


「お帰りなさい、貴方」


 いつもと変わらない早和の様子に安心しながら、早和を抱きしめます。今までケーキでも焼いていたのでしょうか、早和の髪からは香しい匂いがしました。

 シャワーを浴びてリビングにやってくると、ちょうど早和がパウンドケーキと紅茶を持って入って来たところでした。ドライフルーツの入ったパウンドケーキは早和の得意なお菓子です。小腹の空いていたアベは、ぱくぱくとパウンドケーキを平らげました。食後に紅茶を啜ると、心地良い眠気がアベを襲います。そのまま倒れ込むようにソファに横になったところで、夢はふうっと覚めていきました。


「記憶がここまでで途切れている……この後何があったんだ……・?」


 アベは、恐る恐る最後の鍵を取り出しました。瀟洒しょうしゃなデザインのこの鍵は、アベと早和の寝室の鍵なのでした。アベは動悸を抑えながら寝室の鍵を南京錠に差し込みました。


 カチャッ


 不思議の国に落ちていくように眠りに落ちたアベが見たのは、ベッドに縛り付けられている自分の姿でした。

 どうにか動かせる首を必死によじって辺りを見ると、革のベルトで両手足を拘束されているのがわかります。いくらもがいても重厚なベッドの脚に固定されたベルトは外れそうにありません。助けを呼ぼうにも、口にも拘束具がつけられていて出るのはくぐもった声ばかりです。素肌に直接触れるシーツの冷ややかなことと言ったらありません。

 そのときです。


「貴方?」


 寝室のドアが開いて早和が顔を見せました。「早和!」と叫ぼうとしましたが、しゃがれた音が響くのみです。枕元に近づいて来た早和の手には肉切り包丁が握られていました。


「おはよう、貴方。まだ起きなくてよかったのに」

「んー!んんん」

「ごめんなさいね。貴方が暴れたら困るから、こうするしかなかったの。許してね」

「んんんんんんん!」

「心配しなくても、殺さないわよ。私は貴方のことを愛しているんだから」

「……?」

「だから、あの人なんかに貴方は渡さない」

 

 そう言っていつものように優しく微笑んだ早和は、アベの下腹部に肉切り包丁を突き立てました。猛烈な熱さと痛みが体に走ったところで、夢はふうっと覚めていきました。






「貴方?」


 アベが不穏な記憶の夢から目を覚ますと、寝室のドアが開いて早和が顔を見せました。いまだ夢うつつのアベは、早和の顔を見るなり小さく悲鳴を上げました。


「酷くうなされている様子だったけど大丈夫?」


 心配そうな表情で枕元に近づいて来た早和は、枕元の南京錠を一瞥いちべつしました。手にはクロッシュを被せた皿が乗せられています。アベは、手足が縛られていないにもかかわらず、早和の微笑みの圧力にねじ伏せられたように身動きが取れませんでした。


「そうそう、今夜の夜食は私が作ったの。貴方に元気を出してほしいと思って」


 「食べてくれるわよね?」と言っていつものように微笑んだ早和は、銀色に輝くクロッシュをサッと取りました。白い皿の上に乗せられていたのは、腸詰めのようでした。フランクフルトほどのそれは黒ずんだ赤色をしていて、恐怖のあまりアベは何の腸詰めなのか聞くことができませんでした。フォークでそれをつきさして「あーん」と近づけてくる早和の笑っていない瞳に飲み込まれそうになったところで、アベは意識を手放しました。


 こうしてアベは夫婦で二人ゆゆしく暮らしました。



めでたし めでたし

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る