第5話 ネヴラ商店街に鍵はあるか
真夏の、珍しく霧の出ていない宵のことでした。
上等のサマーコートを着た紳士風の男が、街はずれにある古ぼけた商店街にやってきました。商店街と言ってもアーケードではありません。2階建てほどであるビルの、シャッターの横に開いた狭い通路が向こう側まで筒抜けになっていて、そのあなぐらの中に種々の店が並んでいるのでした。いわゆる昭和レトロというのでしょうか。入り口の錆びた看板には「ネヴラ商店街」の文字がかろうじて読み取れます。
「……」
ごくりと息を呑んだコートの男は、数回
占い屋、洗濯屋、
寂びた雰囲気に見合うように、それぞれの店の中はひっそりとしています。
「よかった。開いている」
意を決して店に入ると、白いペンキの剥げかけた床がギイイと音を立てました。埃とカビの不潔な臭いが充満する店内は、裸電球の光が白い壁に反射して目が眩みそうに明るいです。朽ちかけた棚や机には、細々と商品らしきものが置かれています。奥に細長い10畳ちょっとの部屋の壁際には古びた椅子が一脚。その椅子に腰掛けた黒髪の後ろ姿から耳障りのいい男声が聞こえます。
「最近一見さんが多いな。この店も随分有名になったもんだ」
振り返った眉のない視線に射すくめられて、コートの男の肌は粟立ちました。椅子から立ち上がった店長らしきその人は、元の色がわからない程に薄汚れたチュチュの着崩れを直しながら近づいてきます。優に180cmを超える
「この店のことは、どうやって知った?」
「ヨ、ヨコカワさんから伺って来ました」
「ああ、あの“犬”好きのご婦人か。ありゃあいい客だったな」
長い黒髪をかき上げた店長のくくく、と笑った赤黒い唇の隙間から歯列矯正の金具が覗きました。コートの男は身震いをしました。
「実は、ご相談に乗っていただきたいことがあって……」
「ほう。俺は礼儀正しいやつは大好きだからな。相談料は負けとくぜ」
「ありがとうございます。結論から申し上げると、私の記憶を取り戻す方法がないか、教えていただきたくて」
コートの男が要領よく語って聞かせたところによると、こういうことでした。
アベというその男は、ある程度の資産を築いて美しく優しい妻を
「ですから、私は事故の前後の記憶が知りたいのです」
「別に無理して思い出すことねえよ。ショックがぶり返すだけだぜ」
「いえ、そういうわけにはいかないのです。私は……この事故に疑問を持っているんです。この事故は誰かに仕組まれたものじゃないかと思っています。」
「へえ。そりゃまた何で」
「高原からの帰り道は、事故が起こるような危険な道ではありません。それに、バイクは先月点検したばかりです。誰かがバイクに細工をして私を事故に遭わせたのだと」
「おいおい、疑いすぎじゃねえのか。命が助かったんだからいいじゃねえか」
「そんなことはありません」
そう言って、アベはサマーコートの前を
「ほう……それは酷い目にあったな」
「そうなんです。目が覚めたら性器がないんですからね。相当打ちひしがれましたよ。妻が励ましてくれなければ、きっと立ち直れなかったでしょう」
コートのボタンを留めながら、アベは溜め息をつきました。
「事故前後の記憶を取り戻せれば、手がかりが何かつかめるんじゃないかと」
「心当たりでもあるのか」
「ないわけでは……ありません。今まで事業で随分汚いこともやってきましたから」
店長は、分厚い眼鏡を掛けたアベの顔を穴が開くほど凝視しました。そして、あまり気乗りしない表情を見せながらも「いいだろう。ちょっと待ってな」と言って店の棚を漁り始めました。腰ほどの高さにある備え付けの引き出しからひしゃげた箱を取り出すと、それをアベに手渡します。
「開けてみな」
中に入っていたのは、煙草の箱ほどの大きさの小洒落た南京錠でした。ガッチリとはまった錠は引っ張ってもびくともしません。しかも箱の中を覗いても、付属の鍵は見当たらないのです。
「それは、閉ざされた記憶を夢として見せてくれる道具だ。あんたが持ってる鍵をはめたら錠が開く。そうすれば夢が見られるはずだ」
店長は椅子に座り直して、図体に不釣り合いなほど可愛らしい水煙草を吸い始めました。白い煙が吐き出される度、胸がムカムカするような不快な甘い臭いが部屋いっぱいに漂います。「御代は、そうだな……あんたの下半身の写真でも撮らせてもらおうか。安いもんだろう」と芸術家然として告げた店長に、アベは感謝の表情を浮かべたのでした。
「お帰りなさい、貴方」
自宅へ帰り着くと、アベの妻が口づけをして出迎えてくれました。妻の
「ただいま、早和。ごめん、実は少し気分が悪いんだ」
「あら、それはよくないわ。横になられたらいかが?」
「そうする。夜食は寝室に運ぶように使用人に言っておいてくれ」
そうして寝室に引きこもると、アベはコートのポケットから例の箱を取り出します。ベッドサイドには高級な革のキーケース、アベ愛用の品です。中には、自宅の鍵はもちろん、バイクの鍵、金庫の鍵など、アベの持っているあらゆる鍵がしまわれています。コートを脱いでキングサイズのベッドに潜り込むと、箱から出した南京錠にバイクの鍵を差し込みました。
カチャッ
鍵を回すと音がなって錠が外れました。その途端、アベは穴に落ちるように急速に夢の世界に落ちていきました。
夢の中では、アベはバイク仲間と二人で高原に来ていました。抜けるような青空に入道雲、生命力の溢れる緑が心地良く瞳に映ります。長い付き合いのバイク仲間は、アベの横で写真を撮るのに夢中な様子でした。アベがバイク仲間を呼び止めて木陰へ誘うと、カメラをバッグにしまったバイク仲間はおもむろに服を脱ぎました。アベも全裸になりました。いつもそうするように裸で抱き合うと、草の匂いが爽やかに香ります。そうして高原での時間を有意義に過ごしたアベは、バイク仲間と別れて慣れた帰り道を下っていきます。もしかしたら気分が高ぶっていたのかもしれません。いつもより少し速いスピードでガードレールすれすれにカーブを曲がります。しかし、アベはそのまま何事もなく自宅に帰り着きました。いつものようにバイクを車庫に停めたところで、夢はふうっと覚めていきました。
「おかしい。俺は事故には遭っていないらしいぞ。じゃあ、この怪我は一体何なんだ」
南京錠からバイクの鍵を抜くと、ひとりでに錠がカチッとはまりました。アベは、次に自宅の鍵を南京錠に差し込みました。
カチャッ
再び錠が開いて夢の中に落ちていったアベの視界には、バイクスーツを着て帰宅する自分の姿が映りました。
いつものように早和が玄関で出迎えてくれます。
「お帰りなさい、貴方」
いつもと変わらない早和の様子に安心しながら、早和を抱きしめます。今までケーキでも焼いていたのでしょうか、早和の髪からは香しい匂いがしました。
シャワーを浴びてリビングにやってくると、ちょうど早和がパウンドケーキと紅茶を持って入って来たところでした。ドライフルーツの入ったパウンドケーキは早和の得意なお菓子です。小腹の空いていたアベは、ぱくぱくとパウンドケーキを平らげました。食後に紅茶を啜ると、心地良い眠気がアベを襲います。そのまま倒れ込むようにソファに横になったところで、夢はふうっと覚めていきました。
「記憶がここまでで途切れている……この後何があったんだ……・?」
アベは、恐る恐る最後の鍵を取り出しました。
カチャッ
不思議の国に落ちていくように眠りに落ちたアベが見たのは、ベッドに縛り付けられている自分の姿でした。
どうにか動かせる首を必死に
そのときです。
「貴方?」
寝室のドアが開いて早和が顔を見せました。「早和!」と叫ぼうとしましたが、しゃがれた音が響くのみです。枕元に近づいて来た早和の手には肉切り包丁が握られていました。
「おはよう、貴方。まだ起きなくてよかったのに」
「んー!んんん」
「ごめんなさいね。貴方が暴れたら困るから、こうするしかなかったの。許してね」
「んんんんんんん!」
「心配しなくても、殺さないわよ。私は貴方のことを愛しているんだから」
「……?」
「だから、あの人なんかに貴方は渡さない」
そう言っていつものように優しく微笑んだ早和は、アベの下腹部に肉切り包丁を突き立てました。猛烈な熱さと痛みが体に走ったところで、夢はふうっと覚めていきました。
「貴方?」
アベが不穏な記憶の夢から目を覚ますと、寝室のドアが開いて早和が顔を見せました。いまだ夢うつつのアベは、早和の顔を見るなり小さく悲鳴を上げました。
「酷くうなされている様子だったけど大丈夫?」
心配そうな表情で枕元に近づいて来た早和は、枕元の南京錠を
「そうそう、今夜の夜食は私が作ったの。貴方に元気を出してほしいと思って」
「食べてくれるわよね?」と言っていつものように微笑んだ早和は、銀色に輝くクロッシュをサッと取りました。白い皿の上に乗せられていたのは、腸詰めのようでした。フランクフルトほどのそれは黒ずんだ赤色をしていて、恐怖のあまりアベは何の腸詰めなのか聞くことができませんでした。フォークでそれをつきさして「あーん」と近づけてくる早和の笑っていない瞳に飲み込まれそうになったところで、アベは意識を手放しました。
こうしてアベは夫婦で二人ゆゆしく暮らしました。
めでたし めでたし
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