第2話 甘美な死骸

 霧の深い黄昏たそがれ時のことでした。


 ネヴラ商店街の店々は日暮れ前にようやく店開きの準備を始めます。表の錆びた戸を開け、すすけた看板の灯りをつけると、いよいよ夕日もビルの向こうに沈んでいきます。夜の間が、商店街の営業時間なのです。商店街の最奥、夢売屋Sweet Dreamsも例外ではありません。開店前にいつもそうするように、店長は店内の灯油ランプに灯りを入れて暗がりにぼんやり浮かび上がる商品を一通り撫ぜ愛でます。滑稽な品々の一番端では、まだ新しい薬瓶に入ったホルマリン漬けの眼球が上目遣いに店長を見上げています。その瓶に一つ口づけを落とすと、にまっと笑って瓶を置き、入り口の戸を開けました。湿り気を含んだ心地悪い夜気が埃臭い店内に満ちていきます。店長は壁の古びた椅子にどっかと腰掛けました。水煙草を吸い付けていると、腐った木の戸を叩く音が聞こえて顔を上げます。



「今日もお洒落ですね、マリー」



 入り口に立っていたのは見慣れた小男で、眼鏡の下の知的な目で店長を見つめてほくそ笑んでいます。



「……今夜は嫌に早えじゃねえか、サガワさん。冷やかしならごめんだぜ」


「まぁ、そう仰らずに。せっかくお客を連れてきてあげたんですから」



 背後を見ると、キョロキョロと不遜ふそんな態度で店内を見回している男がおりました。



「こちら、スギタさん。交流会でこの店の話をしたら、興味を持たれましてね」



 この人が店長ですよ、と紹介を受けた店長その人は水煙草の紫煙を吐き出しながら、横目で客を一瞥しました。なるほど、中国風のかぶり面をつけた首の下は仕立てのいい上等のダブルスーツを着ていて、いかにも物好きな金持ち然とした雰囲気を感じます。サガワさんと懇意にしているくらいですから、どうせろくな趣味ではないのでしょう。店長はスプリットタンで舌なめずりをしました。



「ああ、あんたが店長か。なかなかいかがわしいものを売っているようだな」


「……で、何をご所望なんだ?」


「大抵の面白いことはやり尽くしたからな。今まで味わったことのない快楽というものはないものかな。そうだな……じゃあ、空を飛ぶ夢でももらおうかな。あれば、だけどな」



 そう言ってケタケタといやらしく笑うスギタさんは、懐の長財布から小切手を一枚取り出してひらひらとチラつかせました。店長はスギタさんの恰幅のいいというよりだらしのない肢体には目もくれず、物思いにふけった様子でした。しばらくそうして水煙草の吸い口を舐っていましたが、ふと思いついたように煙草を置くと、立ち上がってスギタさんの元に近寄りました。眉の無い目元がすっと細められたと思うと、



「わかった。俺が直々にあつらえてやろう。高くつくぜ」



と、足早に店の奥へと行ってしまいました。



「スギタさん、よかったですねえ。オーダーメイドなんて、なかなか手に入りませんよ」



 相変わらず落ち着いた物腰でほくそ笑んでいるサガワさんと埃と煙臭い店内で咳の出始めたスギタさんを十数分待たせた後、割れた声で鼻歌を歌いながら店長は戻ってきました。手には粗末な茶封筒、それを爪でつまんでスギタさんに差し出すと、落ち窪んだ真っ黒な眼窩がんかで見つめながら冷笑的にこう言ったのでした。



「トべる煙草だ。空が見えるところで吸うと格別いいぜ」








 空を飛べる夢の煙草を手に入れたスギタさんはかぶり面を脱ぎ捨てて、早速その夜、高級ビルの会員制ルーフトップテラスバーに足を運びました。青い闇に沈む街を眼下に、高層階特有の星屑のような夜景が見られるその店は、スギタさんのお気に入りです。テーブル席では、全裸の男女が酒を飲みながら楽しそうに踊っています。スギタさんがカウンターのいつもの席につくと、ヴェネチアンマスクの女が数人、身体に絡みついてきました。その女たちに適当に飲み物を振る舞って上機嫌のスギタさんは、先程の茶封筒を取り出しました。中から出てきたのは、数本の巻き煙草。紙ではなく皮のようなもので巻いてある手製の煙草です。試しに咥えてみると、柔肌を愛撫したときのような官能的な感触が唇に広がります。女が手にしたジッポライターで火を灯してもらうと、スギタさんは大きく一吸い、焦げ臭い煙を肺いっぱいに吸い込みました。



 途端に、スギタさんは自分の身体が信じられないほど軽くなったのを感じました。ちょうど、飛行機が離陸するときのような、ドキドキするような浮遊感が身体の奥底から湧いてきます。両手を広げてみると思った通り、屋上に吹く気流をうまくつかんだ身体が地面を離れて、一瞬浮かび上がりました。おお、やったぞ、と歓声を上げるスギタさんに、女たちは手を叩いてはやします。試しに鳥のように羽ばたいてみると、都会に吹くビル風に乗って1mほど、ふわっと身体が持ち上がりました。



「おお、飛べる、飛べるぞ!」



 得意げに周りに見せびらかしながら上下していると、向かいのビルの連中も開け放たれた窓からこちらを指さしてやんややんやと騒いでいます。ようし、それならそちらのビルに飛び移ってやろう、とスギタさんはビルの端に立って、一際強く吹いた風に乗って大きく羽ばたきました。



―……ドシャッ



 夢見心地のまま真っ逆さまに落ちて、地面に強く打ち付けられたスギタさんはぐちゃぐちゃになってしまいました。







 深夜の夢売屋の店内には、気だるい様子で新聞を見る店長の姿がありました。傍らには、慎ましやかなラバードレスを召したろうたき女性が一人、店長にしな垂れかかっています。



「こんなやり方で良かったのか?」


「ええ、夫もこれで浮かばれたと思うわ。ところで、どうやってあの男を落としたの?」


「あれは、ヨダカの羽を混ぜ込んだ煙草の葉を、夢遊病者の皮膚をなめしたやつで巻いてるのさ」



 そう言って店長が水煙草をふう、と吐き出すと、妖艶な香りが店内に広がっていきました。



「頭ン中ではトんでても、体は飛べてなかった、って事だな」


「ふぅん、それであんなことができたのね」


「どうだ?復讐の夢は甘美だったか?」


「最高だったわ。サガワさんにもお礼を言っといてね」


「酒でも振る舞っておくよ。『甘美な死骸』は新しい酒を飲めないけどな。……それより俺に礼はないのか?」


「口づけでいいかしら?」



 店長は、白く長い腕で女性をぐっと引き寄せました。悪戯をした子どものように笑む表情を見て、女性は店長の頭を熱く抱きました。そうして店長は思う様、眼球に口づけを浴びたのでした。




めでたし めでたし

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