ネヴラ商店街はあいているか

kgin

第1話 ようこそ商店街へ

 霧の深い夜のことでした。


 くまの着ぐるみを着た一人の男が、街はずれにある古ぼけたビルにやってきました。ビルと言っても2階建てほどであるその建物は、シャッターの横に開いた狭い通路が向こう側まで筒抜けになっていて、まるであなぐらのようでした。いわゆる昭和レトロというのでしょうか。入り口の錆びた看板には「ネヴラ商店街」の文字がかろうじて読み取れます。



「さて、入るか」



 少しくたびれた着ぐるみのくまは、数回逡巡しゅんじゅんしたのち、商店街の入り口をくぐりました。あなぐらの中はそれでも電球のおかげで幾分明るく、通路の両側に風変わりな店が軒を連ねています。



 占い屋、洗濯屋、醫院いいん、顔屋、子供屋、など



 寂びた雰囲気に反して、それぞれの店の中からはざわめきが聞こえます。何となく人いきれのする空気、地面に散らばる腐った板切れを蹴飛ばしながら、くまは進みます。どの店を覘くわけでも入るわけでもなく、脇目もふらずに商店街を抜けると、あなぐらを抜けた先にぽっかりと夜空が顔を見せました。霧にかすむ月が辺りを仄明ほのあかるく照らす中に、一軒の店。一見すると廃墟のような白い木の壁の小屋、ここがくまの目的地なのでした。換気のためか入り口が開けられているのをこれ幸いと、くまは店内に忍び込みます。白いペンキの剥げかけた床がギイイと音を立てました。



 埃とカビの不潔な臭いが充満する店内は、裸電球の光が白い壁に反射して不健康に明るいです。朽ちかけた棚や机に、細々と商品らしきものが置かれています。奥に細長い10畳ちょっとの部屋を見渡しても、人影は見えません。くまは、耳が痛くなるほどの静寂に身震いしました。そっと踵を返すと、店を後にしようとしました。



「帰るのか?」



 耳障りのいい男声に呼び止められてくまがはっと振り返ると、確かに1ヶ月前に会ったこの店の店長が、店の奥からめ回すようにこちらを見ているのでした。元は白かったであろう、黄ばんで破れたレースのドレスを引きずりながら、こちらに近づいてきます。優に180cmを超える体軀たいくに見下ろされて、くまは、ごくりと息を飲みました。



「……誰もいないかと」


「ここは、よくよく眼を凝らさないと見えないものばかりなんでね。俺も含めて」



 くまは、意を決したように店長に向き直ります。



「あんた、一見さんじゃないな。こないだ、サガワさんと来たろう」


「え、ええ、今日は、僕も商品を紹介してもらおうと」


「へえ。何が欲しい?」


「……動物と、仲良くなれる夢を、買いたいんだけど」



 歯切れの悪いくまの作り物の眼をじっと見て、店長は長い黒髪をかき上げながらにんまりと笑いました。歯列矯正の金具が、赤黒い唇の隙間から覗きます。くまは、再び身震いをしました。店長は、のそりと棚に近づいて、その辺りの珍妙な品々を漁ります。



「いろいろあるぞ。猫の糞尿の香、手軽な1回使い切り。犬の胃のプレパラート、これは枕に入れて使うが割れやすいのが難点だ。マニアックなところだと、蛇のホルマリン漬け汁。……だが、あんたが欲しいのはこういうのだな、多分」



 そう言うと、店長は黒く塗った長細い爪で丸いものを摘まみ上げてくまに見せました。



「動物の骨で作った義眼だ。繰り返し使えて現実感も抜群。これはキまるぜ」



 その義眼は相当古いものと見えて、白目の部分は少し色褪せていたけれど、何でできているのでしょう、光彩の部分は怪しげに艶めき輝いているのでした。吸い込まれるように見つめると、まるで義眼の方もこちらを見つめ返してくるような、蠱惑的こわくてきな色をしています。



「わかった。これをもらおう」



 数分悩んだのち、くまは掠れた声で言いました。それで御代は、と財布を取り出したくまを嘲るように、店長はクククと笑います。



「キャッシュはいただけないな」


「カードもあるけど」


「……この商品は、あんたの眼球が御代だ。表に醫院いいんがあるから、そこに置いていってくれればいい。そうすれば、加工してウチに届くことになってる」



 まぁ、ゆっくり考えればいいさ、と店長は壁際の古びた椅子にどっかと腰掛けました。ギシギシと椅子を揺らしながら、図体に不釣り合いなほど可愛らしい水煙草を吸い始めました。白い煙が吐き出される度、胸がムカムカするような不快な甘い臭いが部屋いっぱいに漂います。嘔吐しそうな静寂の中、規則的な椅子の軋みを聞きながら、くまは理性と欲望を天秤にかけるのでした。







 妻子が寝静まった家に帰り着いたくまは、待ちきれない様子で書斎に鍵をかけて引きこもりました。着ぐるみの頭を放り捨て、震える手で紙袋から例の義眼を取り出します。ぬるいぬくもりのある義眼に愛おしそうに口づけると、ガーゼを外したての眼窩にそれをはめ込みました。



 瞬きをした途端、目の前に見渡す限りの草原と青い空が広がりました。青臭い匂いと身体をなぜる風が途方もないリアリティでくまの頭を脱いだ男を襲います。ふと、頬に生暖かいしめりけを感じて振り返ると、一頭の美しい牝馬が男の顔を舐めているではありませんか。男は飛び上がって喜び、自分も牝馬の顔を舐め返しました。顔を擦り付けてくる仕草から、牝馬の好意が伝わってくるようで、男はもうたまりません。残りの着ぐるみも全て脱ぎ捨て、一匹の人間の姿になりました。抱きしめると、肌に牝馬の艶やかな毛並みが触れる感触が心地よいです。そうして、男はその艶めかしい牝馬に乗って草原を駆け回わりました。一緒に草を食んだり、木陰で交尾をしたりして楽しく過ごしました。最後、男が果てるとき、「ああ、もうこれで邪な欲望を隠して妻に接する必要もなくなる」と安堵し、限りない解放感を得るのでした。



 


 一度はめた義眼が、二度と外れないと男が知ることはありませんでした。



めでたし めでたし

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