すろーうぃー・らいふ

田舎の鳩

すろーうぃー・らいふ




「ミチ、ゆっくり食べなさい。」       




 食事の度に、俺はいつも言われていた。


 見上げるような高さにある母さんの顔は今はもう、ほとんどかげってしまってよく見えない。


 穏やかだけど、強さのある母さんの声だけが、録音されたかのように俺の耳に残ってる。




「ちゃんとよく噛んで。ね?美味しいでしょう。」




 うんうんと頷きながら器を傾ける、幼い俺。


 きっとこいつの耳には今、どんな言葉も届かないんだろう。


 ご飯粒を顔一杯に貼り付けて、ひたすらなにかに急かされるかのように、俺は食べ進めている。







 小学校でも遠足でも友達の家でも、俺はいつも一番に食べ終えた。それが当たり前だった。


 別におかわりがしたいわけでも、誰かと競争をしているわけでもないのに。


 正面では母さんが、少し困ったように綺麗な眉を寄せている。




「ごちそーさまっ!!」




 カチャン、と箸を置き、俺は皿という皿が空になったのを確認して嬉しそうに笑った。


 とても無邪気に、前歯の一本無い口を開けて。顔中にご飯粒を付けたまま。


 満足感。


 それが、その時の俺を支配していた。満たしていた。


 達成感。充足感。


 終えた。食べ終えた。そして初めて、俺は食べた気になっている。


 母さんが作ってくれた料理の「入った」皿を「空っぽ」にすることが、「食べる」ことだと思って。


 そうしてやっぱり、俺は言われるんだ。




「よく食べたね、ミチ。でもね、次はもっとゆっくり食べるのよ?」




 もう聞くことのできない、大好きな母さんの声で。


 穏やかだけど強さのある、俺に残った母さんの言葉が。





 


ひやりと冷たいドアノブに手をかけて回せば、ギィ……と歌うにして扉が開く。


 まず、真っ白な光が俺の視界を塗りつぶして、風が暗い階段を吹き抜けていった。


 俺は温かな屋上に腰かけて、空を仰いだ。






 白い部屋、白いベッド。白いカーテンが俺の身体をすりと撫でる。


 ベッドに凭れ、うずくまるせっかちな少年は、この時間の終わりを望んでいた。


「母さん、いつ?」


⁻――退院できるの。


 もう何度となく繰り返している言葉を、中学生になった俺は、ベッドに横たわる母さんへと投げかけている。


 母さんは困ったように「ごめんね。」と言って。


 何の匂いもしない場所で、母さんの最後の言葉が紡がれてゆく。


「……大切なのは、『結果』じゃなくて、『過程』なの。


 『終わること』じゃなくて、『終わるまで』なの。」


 真っ白な部屋の中で、ぼんやりとした母さんの顔がゆっくりと、かすんでいく。


 ―――その時。


 初めて俺は、『終わること』を恐いと感じた。


 無くなることを、哀しいと思った。


 終りまでの『過程』が、なによりも愛おしかった。


 一秒たりとも逃したくない。


 噛みしめたい。味わいたい。


 駆け抜けるように過ぎていった何百回もの母さんとの食事は、時間は、温もりは―――大切なもののはずなのに。


 俺はどれだけ、取り零してきたんだろう。


 ちゃんと噛まずに、味わわずに。




 いくつもの美味しい『母さんとのご飯』を。




           *




 青い空は、かきたま汁のような薄い雲を浮かべている。


 花の香りのしなくなった風からは、新しい緑の匂いがした。


 灰色のコンクリートに藍色の風呂敷を広げて、丁寧に弁当箱を開いていく。


 母さんの好きだった色に栄えて、今日のおかずたちがキラキラと輝いて見えた。


 そっと目を閉じて、「いただきます。」母さんに伝える。




 静かな屋上で一人、母さんに近づいた気がしながら。




           *




「途(ミチ)」




 全身全霊をかけて感じている母さんの声は、か細いけれど。いつもと変わらず、いつもの調子で。


 俺はその時を精一杯で在ることしかできなかった。


 生きてきた中で一番長く、一番速く過ぎていく、寂しい時を。


 母さんはやっぱり、穏やかだけど強さのある声で、確かに俺に言ったんだ。




















ミチ。ゆっくり生きてきてね」

















 俺は今日もゆっくりと、ごはんを食べよう。



















《おわり》

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すろーうぃー・らいふ 田舎の鳩 @hatohatono

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