すろーうぃー・らいふ
田舎の鳩
すろーうぃー・らいふ
「ミチ、ゆっくり食べなさい。」
食事の度に、俺はいつも言われていた。
見上げるような高さにある母さんの顔は今はもう、ほとんど
穏やかだけど、強さのある母さんの声だけが、録音されたかのように俺の耳に残ってる。
「ちゃんとよく噛んで。ね?美味しいでしょう。」
うんうんと頷きながら器を傾ける、幼い俺。
きっとこいつの耳には今、どんな言葉も届かないんだろう。
ご飯粒を顔一杯に貼り付けて、ひたすらなにかに急かされるかのように、俺は食べ進めている。
*
小学校でも遠足でも友達の家でも、俺はいつも一番に食べ終えた。それが当たり前だった。
別におかわりがしたいわけでも、誰かと競争をしているわけでもないのに。
正面では母さんが、少し困ったように綺麗な眉を寄せている。
「ごちそーさまっ!!」
カチャン、と箸を置き、俺は皿という皿が空になったのを確認して嬉しそうに笑った。
とても無邪気に、前歯の一本無い口を開けて。顔中にご飯粒を付けたまま。
満足感。
それが、その時の俺を支配していた。満たしていた。
達成感。充足感。
終えた。食べ終えた。そして初めて、俺は食べた気になっている。
母さんが作ってくれた料理の「入った」皿を「空っぽ」にすることが、「食べる」ことだと思って。
そうしてやっぱり、俺は言われるんだ。
「よく食べたね、ミチ。でもね、次はもっとゆっくり食べるのよ?」
もう聞くことのできない、大好きな母さんの声で。
穏やかだけど強さのある、俺に残った母さんの言葉が。
*
ひやりと冷たいドアノブに手をかけて回せば、ギィ……と歌うにして扉が開く。
まず、真っ白な光が俺の視界を塗りつぶして、風が暗い階段を吹き抜けていった。
俺は温かな屋上に腰かけて、空を仰いだ。
*
白い部屋、白いベッド。白いカーテンが俺の身体をすりと撫でる。
ベッドに凭れ、うずくまるせっかちな少年は、この時間の終わりを望んでいた。
「母さん、いつ?」
⁻――退院できるの。
もう何度となく繰り返している言葉を、中学生になった俺は、ベッドに横たわる母さんへと投げかけている。
母さんは困ったように「ごめんね。」と言って。
何の匂いもしない場所で、母さんの最後の言葉が紡がれてゆく。
「……大切なのは、『結果』じゃなくて、『過程』なの。
『終わること』じゃなくて、『終わるまで』なの。」
真っ白な部屋の中で、ぼんやりとした母さんの顔がゆっくりと、
―――その時。
初めて俺は、『終わること』を恐いと感じた。
無くなることを、哀しいと思った。
終りまでの『過程』が、なによりも愛おしかった。
一秒たりとも逃したくない。
噛みしめたい。味わいたい。
駆け抜けるように過ぎていった何百回もの母さんとの食事は、時間は、温もりは―――大切なもののはずなのに。
俺はどれだけ、取り零してきたんだろう。
ちゃんと噛まずに、味わわずに。
*
青い空は、かきたま汁のような薄い雲を浮かべている。
花の香りのしなくなった風からは、新しい緑の匂いがした。
灰色のコンクリートに藍色の風呂敷を広げて、丁寧に弁当箱を開いていく。
母さんの好きだった色に栄えて、今日のおかずたちがキラキラと輝いて見えた。
そっと目を閉じて、「いただきます。」母さんに伝える。
静かな屋上で一人、母さんに近づいた気がしながら。
*
「途(ミチ)」
全身全霊をかけて感じている母さんの声は、か細いけれど。いつもと変わらず、いつもの調子で。
俺はその時を精一杯で在ることしかできなかった。
生きてきた中で一番長く、一番速く過ぎていく、寂しい時を。
母さんはやっぱり、穏やかだけど強さのある声で、確かに俺に言ったんだ。
「
俺は今日もゆっくりと、ごはんを食べよう。
《おわり》
すろーうぃー・らいふ 田舎の鳩 @hatohatono
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