第2話 ただの恩人

通津つづの奴、また赤点ギリギリか」

 誰かのひそひそ話が聞こえる。

 自分が他人より勉強が苦手であることは分かっている。でも最低限の成績は取って高卒資格を得ようと、大して進学校じゃないここ、登戸のぼりと学園に来た。それでも学校はどこも同じで、いの一番に成績の話をされる。

「はいはい、皆聞いて。まだ一年生だけどね、大学受験への道程はもう始まってるんだからね。特に指定校推薦を取りたい人は……」

 先生の話なんか退屈だ。苦手と分かっているものを、改めて「お前は苦手なんだ」とテストで見せつけてくる。授業もあまり分からない。

 けれど、出席しないと単位が取れなくなり進級が怪しくなる。

 通津由宇ゆうが学校へ毎日来ているのは、そうした消極的選択の表れなのだった。


 ただ、美術の時間だけは別だ。絵画も造形も、由宇は気に入っている。元来絵を描くのが好きだから、毎週1回、2時間だけある美術の授業は、由宇にとって救いでもあった。

 それと、本も好きだった。由宇は漫画、小説、雑誌、何でも読み漁るタイプだから、それらが豊富にある図書室はまさにオアシスだった。

(今日も今日とて、読書なのですよ)

 そう思いながら、図書室のカウンターで先週借りた図書の返却をし、そのあと検索用のパソコンをいじり始めた。

(『夏の夜に咲く花』5巻があるはずですよ)

「新着図書」の欄に題名が入っており、「在架」と入っている。由宇はルンルン気分で棚を見に行った。

 しかし、いくら探しても見つからない。

(おかしいのですね。あるはずなのに)

 ふと隣の棚に目をやると、人がいる。その人物は今まさに『夏の夜に咲く花』5巻を持っていこうとしていた。

 しかし、由宇がそれ以上に驚いたことがあった。

 彼女の顔に見覚えがある。この前、新宿駅で迷っていた時に助けてくれた人物とそっくりだった。

 一応言うと「そっくり」なだけで、その人自身であるという確証はない。ただのそっくりさんの可能性もある。が、由宇は迷うことなく声をかけた。

「あっ、あなたは、もしかして!」

「へ? ……あ」

 そして、相手の反応を見て確信した。この間の恩人だ。


「まさか同じ学校だったなんて思わなかったですよ」

「何年生ですか?」

「一年生です」

「へえっ、ワタクシもなんですよ!」

「じゃあ、お互いタメ口にしますか? ……あ、でも名前聞いてないな」

「ワタクシは通津由宇と申しますです! そちらは?」

「重岡直見です」

「おおっ、なんかカッコいい名前です!」

「そう? なんか戦国武将みたいじゃない?」

 直見はこの名前が嫌いという訳ではないが、それほど気に入っている訳でもない。父の宗太郎から聞いたところによると「真っ直ぐ物事を見て生きてほしい」だそうだが、「(いくらなんでも直球すぎるじゃん)」と、直見は聞いた時に思った。

「あっ、そーだ!」

「な、なに?」

 由宇が突然大きな声を上げたので、直見はびっくりした。それから由宇の口を塞いで周りを見た。ここは図書室である。

「ば、場所を変えようか」


 *****


「いいの? 今日知り合ったばかりで」

「構わないのだな。足早に通り過ぎてゆく人ばかりだった新宿駅で、私を助けてくれた恩人なのだから!」

(それはちょっと大げさすぎないか?)

 直見の心情とは裏腹に、由宇は滔々と感謝の言葉を口にする。

「でも、親御さんも予定とかあるんじゃないの? いきなり家に行って大丈夫かな」

「だいじょーぶ。ワタクシのお母さんは専業主婦だから時間はあるのだな」

 直見は「お礼をしたい」という由宇たっての希望で、これから由宇の家へ行くことになろうとしている。直見は、確かに人助けではあるけれども、それほど大したことはしていないと思っているので、むしろ恐縮している。

 だが相手の好意を無下にするのにも抵抗があったので、おとなしく呼ばれることにしたのだった。


 自転車で一旦自宅に戻り、電車で生田駅に着いたのは17時ごろだった。

「重岡さん、こっちなのだな!」

 見ると由宇が迎えに来ている。隣には付き添いの女性がいて、おそらく由宇の母だろう。

「あなたが重岡直見さんね。こんにちは、由宇の母の藤生ふじおです」

「はじめまして、重岡直見です。今日はよろしくお願いします。これ、つまらないものですが」

 そう言ってプリンを渡してきた直見に、藤生は「あらー、そんなに気を使わなくていいのに」と返した。だが、後ろでよだれを垂らしながら見つめている由宇の反応を見るに、差し入れは正解だったようだ。


 そしてどういう訳か、直見は流れで、通津家の夕食を一緒に食べることになった。

「……え? あの。本当にお構いなく」

 友達も少なく、相手の家でご飯を食べるなんていう青春イベントを体験したことがない直見は、混乱してそう言うのがやっとだった。

「遠慮しなくていいのよ。由宇がこうして、学校の友達を連れてくることなんてめったにないんだから」

(まあ、そういうことならいいか。……いや、いいのか?)

 だが、ここで「帰ります」と言うと、居心地が悪かったのかもと解釈される可能性がある。直見はおとなしく藤生の声に従い、給美に夕食を友人宅で済ませると連絡した。

 給美が家で一人、少しがっかりしていることは想像に難くない。


 *****


「今日は、ありがとうございました」

「いえいえ。こちらこそありがとう、直見さん」

「ワタクシからも礼を言うのだな! ありがとう!」

 夕食を食べ終わり、3人は再び生田駅に来ていた。直見は「一人で帰れますから」と言ったのだが、夜道を心配する由宇と藤生は、生田駅まで一緒に行くことを決めていたようだ。

(夕飯、美味しかったなぁ)

 そう思いながらバイバイをし、生田駅の改札に入った。

 そして、やって来た各駅停車新宿行きに乗った――その時だった。

「直見様」

「わっ」

 そこに立っていたのは、私服姿の給美だった。普段はメイド服だが、外出時は私服に着替えている。

「ご友人様のお宅はどうでしたか?」

「んー、まあまあ快適、でした」

「そうでございましたか」

 少し給美が暗い顔をしたのを、直見は見逃さなかった。

「まあでも、やっぱり自分の家の方が快適ですね」

「そうでございますか」

 明日は土曜日だから、学校は半日で終わる。

(今日のお詫びに、次の旅行はお土産買って飛田さんにあげよう)

 給美は意外と寂しがり屋なのだ。

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