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 根津だった。

 教室の戸口に一瞬だけ顔を覗かせた彼女は、錯覚だったのではと疑念を抱かせるほどの素早い動きで顔を引っ込めた。毎度のことながら、変わったことをするやつだ。

 今日は顔を見ないと思っていたが、用事でもあったのだろうか。午前授業で早く終わった分、補講の予定が入っていたし、そっちに参加していた可能性もある。根津の成績は芳しくないのか、それとも香奈城みたいに頭脳明晰なのか。聞いたことがないから、俺は知らないのだ。

「五分くれ。用事を思い出した」

 友人達に声をかけて教室を飛び出していく。驚くほど素早い身のこなしの根津を追いかけて、どうにか階段を駆け下りる手前で捕まえた。彼女が階段を降り始めたら手を出せなくなるから、意外と危ないところだった。万が一にも突き落とすことになると骨折とかしそうだし。いやぁ、捕まって良かった。

「ちょっと待てよ、根津。逃げるなって」

「ひぐっ、や、やめてください。わ、わた、私は」

「頼むから人前でその怯え方やめてくれない? 俺、悪人かよ」

「不良は大体悪人ですよ」

「偏見……とも言い難いような……」

 それはそれとして俺は不良ではない。絶対的な正義のミカタってわけでもないけど同級生がむやみに怯えるような相手でもないはずだ。

 震えて動けない根津を見下ろして、どうしたものかと腕を組む。幸いにも廊下には他の生徒がいなかった。部活に行ったか帰ったか、それとも補講に行っているかは定かじゃないが。肩をすくめたままの根津とはやや話しづらくて、教室まで連れていくかどうか迷う。だけど教室に戻ったら一ノ瀬がいるからな。悪巧みをするなら彼女がいないところの方がいい。

 背の低い根津と視線を合わせるように、少し屈んで話し掛けた。

「夏休み、一ノ瀬と遊びに行くんだ」

「……自慢ですか」

「違うよ。根津も行こうぜ、一緒に」

 相原への反省を生かして早めに誘い文句を繰り出した。彼女は俺から距離を取って、思いっきり警戒していた。その目には不信感と諸々が詰め込まれていて、猛禽類の足みたいな形に構えた手からはとても友好的な感情を読み取れない。まぁ、壁が厚くてもしょうがないか。

 根津とはあまり喋ったことがないし、彼女が人と親しくするのを苦手にしている可能性もある。それが根津という少女なのだとしたら、素直に受け止めるより他にないのだ。

「バーベキューをやる予定なんだが、根津って肉好きか?」

「……どっちでもないですけど。どうしてそんなこと聞くんですか」

「そりゃ根津にも遊びに来てほしいからだよ」

「…………私もですか?」

「絶対楽しいから来てくれないか。きっと一ノ瀬も喜ぶだろうし」

 香奈城と俺が準備を済ませるから、参加者は食べ物や飲み物だけ持ってきてくれればいい。人手不足だからと手伝いを強要することもない。とかく一緒に遊んでほしいだけなのだと熱弁してみる。話すにつれて、鉤爪のようにして構えていた根津の腕も少しずつ下がっていく。

 しばらくして、彼女の肩から力が抜けた。

「私、置物ですよ。手伝いとかも、そんなに出来ないと思います」

「大丈夫だって。来てくれるだけで俺は嬉しいんだ」

 だから頼む、と頭を下げた。ついでのように両手をすり合わせて拝んでみる。

 俺は一緒に騒ぐ相手が増えるし、根津も一ノ瀬との距離が縮められるなら一挙両得だろう。根津自身が楽しんでくれるのが大前提だから、まずは彼女のことをもっと知る必要がありそうだけど。

 必死の説得が功を奏したのか、下唇を噛んだまま動かなかった根津が顔を上げる。

「あのこと、一ノ瀬君には秘密ですよ。て、手伝ってくれるのはいいですけど」

「分かっているよ。俺ほどの善人はいねーからな。で、来てくれるんだよな」

「……まぁ、一ノ瀬君が来るなら」

「ありがと。んで、今から一ノ瀬と飯食べに行くんだけど」

 それじゃ私も行きます、みたいな言葉が帰ってくるのを待ってみた。根津は「自慢ですか?」とでも言いたげな視線を俺に向けてくるばかりで何も言おうとしない。黙ったまま動かずにいたら根津が帰ろうとしたので、慌てて行く手を遮った。

 やっぱり、言葉は相手が余分なことを考える前に伝えるべきだ。

「来い、根津も行くぞ。みんな待っているんだ」

「み、みんなって誰ですか。一ノ瀬君だけじゃないんですか」

「怯えるなよ。香奈城とウチのクラスの女子だ」

「えっ。あの陽キャのヤベー人ですか。遠巻きに見るのが一番楽しいタイプですよアレ。関わったこともないし向こうにも迷惑だと思うんですが」

「いいから来いって。というか、なんで相原って分かるんだよ」

 教室に根津を連れ帰って、グループで唯一初対面だろう相原への紹介を済ませた。一ノ瀬の友人ということで相原は彼女を快く迎えてくれた。根津の方は笑顔がぎこちなかったけれど、人付き合いが苦手ならしょうがないかな。

 下駄箱まで一緒に歩いた後、二手に分かれた。根津と一ノ瀬は家が近所らしく学校には徒歩で来ているらしい。だが、他の三人は自転車通学だ。香奈城は西の駐輪場に、俺と相原は東に停めていた。自転車に貼られたダサい通学許可ステッカーに文句を言いながら、再集合場所である東門へと向かう。

「あれ、私達が最後じゃん」

「相原が鍵を失くしたとか騒いだからだな」

「はじめくんが手伝ってくれなかったのが悪いんだよ」

 今日はスカートじゃなくてスラックスを履いてきた相原は、ポケットに鍵をしまっていた。スカートを履いた日はリュックサックの横ポケットに入れているらしくて、しまった場所を思い出すのに苦労していた。俺が「ズボンは?」と聞かなければ、教室まで戻って探すはめになっていただろうな。

 メンバーが集まったところで、昼飯を食べに一ノ瀬が押していた店へと向かう。

「なんか暑くない? 六月ってこんなもんだっけ」

「梅雨だけど、今日は雲一つないからね。よく晴れているよ」

「そーいうもんかな。ま、いっか」

 先頭を行く一ノ瀬と相原に、少し遅れて香奈城が歩く。その後ろに俺と根津が並んでいた。相原と香奈城が高身長だから、平均より少し低い程度の一ノ瀬が随分と小柄に錯覚する。そして根津は更に小柄だった。俺の鳩尾までしか背がないから、真横に立って肘打ちしても空振りしそうだ。いや、そんなシチュエーションは来ないんだけど。

 よく乾いたコンクリートは陽の光で温められて、足元から熱が伝わってくる。ただ歩くだけでもじんわりと汗が滲みそうなほど、今日は気温も高かった。

「あの、ひとつ聞きたいんですけど」

「ん、どうした。一ノ瀬と仲良くなる作戦でも考えるか」

「黙っててください。……いや、そうじゃなくて。どうして私の手助けをしてくれるんですか。あなたには、何のメリットもないじゃないですか」

「いいじゃん、別に。応援したいと思っただけだよ」

 これは本心。そして隠した言葉もある。

 根津が羨ましいのだ。映画やドラマでしか見たことのない、恋という病を患った彼女が羨ましい。俺の親の泰子と了みたいに激甘な恋愛をすることもあれば、根津が一ノ瀬に抱くような苦みと酸味が強くて甘くない恋愛もあるのだろう。どちらの味も知らない俺は、指をくわえてみていることしかできない。垂涎ものだ。

 あまり納得できていないのか、根津の表情は変わらない。ややうつむいたまま、唇を尖らせている。

「もうひとつ、聞いていいですか」

「質問は一個じゃなかったのか。聞くけどさ」

「浦島君は、男の子と女の子、どっちが好きなんですか?」

「えー、考えたこともないな。どっちでもいいし」

 これも本心。隠すような言葉は見当たらない。

 一緒に居て楽しくて、そして他の人には抱けないほどの愛情を持てる相手なら性別も国籍も、なんだったら地球人じゃなくてもいい。だけど、初恋も未経験だってことを正直に教えたら根津に協力相手として認識されなくなってしまいそうだったので、そこは黙っておいた。

「男の子でもいいなら、やっぱり私の敵なのでは」

「どーしてそうなる。俺は応援するって言ったじゃん」

「一ノ瀬君のこと狙ってませんよね? ホントに信頼して大丈夫なんですよね」

「任せろ。鉄で骨組みした泥船に乗った気分でな」

「分かりまし……絶対に沈むじゃないですか、それ」

 ちゃんとツッコミを入れてくれて良かった。無視されたら泣いていたぞ。

 俺は、がははと口を開けて笑う。

 根津は、困ったような顔をしながらも少し頬を緩めた。

 しかし、恋か。俺には縁遠いものだな。

 どうせなら一緒に居て楽しい奴とか、ずっと一緒に居たいと感じられる相手と心を結びたい。性別や年齢や国籍は互いの慣習やアイデンティティを理解する手助けになる程度で、結局は当人同士がどうやって向き合うかが大切なのだろう。

 でも、認識がずれる場合もあるわけで。

「根津はどっちが好きなの? 性別が、男と女でしか分けられないなら」

「……私は、男の子が好きです」

「そっか。難しい立場だな」

 理想の恋人が、何をもって自身の理想であるかは人それぞれだ。だから恋愛の悩みは尽きないし、様々な物語の題材となるほどに面白いのだろうなと思った。

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