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六月も半ばに差し掛かって、徐々に気温も上がってきた。家からアルバイト先まで自転車をこぐだけで微かに汗をかいて、今日から持ち歩くことにしたタオルが役に立つ。熱中症のリスクを考えると飲み物も必要で、否応なく荷物が増えていく。身軽でいたいのに、と文句が漏れた。湿気も手伝って過ごしにくい季節だ。
今日は、いつも飯を食べに来ていた紅やでアルバイトをしている。意外と綺麗に掃除された厨房は銀色に輝いていて、相原の親父さんが忙しそうに鍋を振るっている。世界を裏側から覗くようで、不思議な感覚だった。
「はじめ君! たまねぎよろしく!」
「うっす、任せてください」
店長兼相原の親父さんの指示で玉ねぎを切る。
相原がとってきた注文を見ながら切れそうな野菜を補充して、店長が火元から離れなくても仕事が出来るように準備を整える。そして、少しでも手が空いた時間に洗い物を進めた。
あぁ、なんだろう、この気持ち。
「めちゃくちゃ楽しいんだけど、何これ」
「はじめ君、本当にアルバイト初めてなのかい。オレの弟より働けているんだけど」
厨房から抜けた人というのが、相原の叔父さんだった。相原から聞いた話では今週から抜ける予定だったが、二週間前の時点で既に何処かへ消えていたらしい。
放浪癖があって、定職に就いても一年経たずに辞めて日本全国行脚の旅に出てしまうそうだ。どうにか居場所を作ろうと紅やで働いていたらしいが、今回は半年で限界が来たと聞く。
「書き置きだけ残して、煙みたいに消えたからなぁ」
「俺のところにも似たような奴がいます。定期的に帰って来ますけど」
了のことだ。消えるときはいつの間にかいなくなるからな。週末になると家にいて、泰子といちゃついているから心配もしていないんだけど。
学校での娘について、あれやこれやと話を聞かれた。家族仲は良好だが、それでも聞きずらいことも多いようだ。ちょっと変わったところもあるが基本的に良い子だと相原への感想を口にする。店長は嬉しそうな、心底ほっとしたような表情を浮かべていた。
「店長、ホントに大変そうですね」
「ん? あぁ、このくらい慣れたものだよ」
「ひょっとして、皿洗いとかも全部一人でやっていたんですか?」
「まぁねー。たまに妻が手伝ってくれるけど」
「ひぇっ……」
「だから、はじめ君が来てくれて本当に助かるよ」
ありがとう、と背中越しに店長の謝意を受け取る。
こうして話をしている間も店長は手を止めなかった。以前、相原が俺の料理の手際を褒めてくれたけど、店長の動きを見た後じゃお世辞だったとしか思えないな。
聞けば、三時間早く起きて仕込む量を増やし、一時間帰る時間を遅くして片づけをこなすことで人数の少なさをカバーしているそうだ。それで回しているのもすごいけれど、いいのだろうか。
なんというか、よくも悪くも個人経営のお店だった。
「はじめくん、麺とってきて。冷蔵庫の下段」
「はーい」
店長の指示を受けて材料を取りに行く。
製麺所から仕入れているものも多いけど、ほとんどが手製の料理だ。アルバイト初日の少年に仕込みを手伝わせるレベルで忙しく、手間が掛かっている。チェーン店でもないから、ある程度の下拵えを別店舗や工場に任せるという芸当も出来ない。業務用にカットされた野菜もあるはずだけど、それを使うと値上げをしなくちゃいけないとか、色々な理由もあるのだろう。
餃子だけは姉妹店の方で作っているようで、これは唯一この店で仕込みをしない料理になっていた。野菜たっぷりなのに肉のうまみが口いっぱいに広がる、すごく美味しい餃子だ。隠し味に何かが入っているのだけは分かるけれど、それが何かまでは分からない。本当に隠してある味なのだった。
「元弟子なんだけどな。俺にも教えてくれないのよ」
「すごいっすね、そのお弟子さん」
「やー。キミも大概な方だよ。初日なのに、俺がやってほしいこと全部やってくれているんだもん。ていうか野菜のカットサイズが完璧。小紅はいい子を見つけてきたなぁ」
毎週のように通っていました、とは言わないでおこう。通っていたからこそ野菜のサイズも大体把握している。物心ついた頃から料理していることもあって、料理に必要な下拵えも分かっている。だから手間取らずに出来るのだけど、説明するのが面倒だ。彼はずっと厨房に立っていただけで、俺が客として長いこと通っていたのも知らないようだし。
十四時を過ぎて、客足も徐々に落ち着いてきた。
一年ぶりの昼休憩を手に入れた親父さんを椅子に休ませながら、野菜の仕込みを終わらせていく。スープに使う分や、夕方から提供する分の仕込みがまだ終わっていなかった。
「もっとアルバイト増やしませんか」
「ん? ……こだわりがあるからなぁ」
「でも俺は雇ってくれたじゃないですか」
「小紅の推薦だからね。働き如何によっては、今日で切るつもりだったよ」
爽やかな笑顔で怖いことをいう親父さんだ。
店の味にこだわりがあるからアルバイトもなかなか増やせなくて、結果としてワンオペの時間が増え続けているようだ。俺がアルバイトとして雇われたのも、愛娘からの推薦があってこそのものだろう。家族仲は良好――から溺愛へと認識が変わりそうだ。
それにしても、と包丁についた野菜の端切れを落としながら物思いに耽る。熱心だから耐えられるのかもしれないが、キツい仕事だ。俺が美味しくいただいていた料理は、彼の犠牲の上になりたっていたようだ。
あらかた片付け終わった頃、フロアから厨房へと相原がやってきた。
「どうよ、浦島君の調子は」
「完璧だよ。採用! このまま一生ウチにいてほしい」
「そこまで高評価なの? 浦島君、あたしよりパパと仲良くなってんじゃん」
肘で小突いてくるのを頑張ってかわした。
毎回だな、こいつ。俺の方も避け方がうまくなってきたぜ。
「あいは……同じ苗字だと呼びづらいな」
「小紅ちゃんでいいぞっ。なんてね」
「それじゃ店では小紅って呼ぶわ。俺のことも”はじめ”でいいから」
「…………おう」
珍しく、相原からの反応が悪かった。じめじめ、と妙なあだなを呟いてくる。梅雨時期だからって、そんな名前じゃ返事もしたくないぜ。もごもごと、一向に俺のことをはじめと呼んでくれない相原の顔を覗き込む。
「嫌だったか?」
「別に、そんなことないけどさ」
「ふーん。そう」
友人の下の名前を呼ぶのはどうにも気恥ずかしいから、アルバイトをしている間だけと制限を設けてみた。付き合いの長い香奈城のこともシュンと呼べていないのに、相原のことを小紅と自然に呼べるまでにはどれだけ掛かることなのやら。
彼女はぺちん、と俺の背中を叩くとそのまま肩に触れてきた。
「休憩した? お昼食べてないでしょ。何か食べなよ、あたしもご飯にするから」
「麻婆飯かなぁ」
「……ん、セットじゃないの? 普段は大盛なのに」
「食べたら動けなくなるからな。約束の時間まではしっかり働くよ」
「はじめ君、本当に働き者で感動しそう。小紅、はじめ君をお父さんに頂戴?」
「え、やだよ。パパにはあげないから」
相原の冗談と本気の境が曖昧なのは父親譲りだったようだ。面倒な話になる前に、お手洗いと言って厨房を抜け出した。エプロンを置いてフロアへ向かうと、いつもと同じ店内の印象が変わっている。立場の違いで、景色も変わって見えるようだ。
用を足して戻ろうとしたら、遅い昼食を取っていた家族連れが一組帰ろうとしているところだった。父親が会計を済ませる脇を通り抜けていった娘に見覚えがあって、もしやと思って追いかける。
「根津か?」
「ひえっ、ど、どちら様で……」
驚愕に飛びのいた根津は、その場に根が生えたように固まってしまった。
「あ、あば、なんで浦島太郎がここに」
「俺はそんな主人公みたいな名前じゃないの。それで、君は根津だよな」
「違います、人違いですやめてください、ぶたないでひぃぃい」
「落ち着けよ。……ほら、座ってくれ。古いベンチだけど」
「な、殴ったりしないですよね? 押し倒して酷いことをしようとか?」
「ここは店先、天下の往来だぞ。あんたは俺を何だと思っているの」
「不良」
どストレートな言葉が飛んできたが無視することにした。
店を出てきた根津の家族には、彼女の口から「知り合いだから、ちょっと待って」と言わせることに成功した。俺は何も強要していないのだけど、なぜか彼女が自発的にやってくれた。
店先にあったペンキの禿げたベンチに腰掛けて、震える根津に話しかける。視線は頑なに足元へ向けられていて、俺をちらりとも見ようとしない。学校でガンを飛ばしていた子と本当に同一人物なんだろうか。
「それで、どうして俺を避けるんだ。あと、なんか睨まれているような気もする」
「……こ、怖いからです。不良だし」
「そんなに? ちょっとショックなんだけど」
「はい二点ダメージ。私の先制です」
マジで意味が分からないけれど、バカにされた気配がしたのでガチなデコピンの構えを見せる。ヘビどころかメドューサに睨まれた蛙ほどに怯えて動かなくなったので許してやることにした。
しかし、根津に恨みをもたれるようなことをしただろうか。原因が俺自身じゃないとするならば、彼女と俺の両方に接点がある奴が関係しているんだろうけど。
俺の少ない交友関係から鑑みるに、彼女と古くから付き合いのある一ノ瀬か、俺と付き合いがあって根津と同じクラスの香奈城に原因がある。どちらか、あるいは両方か。様々な可能性を考慮しつつ根津が割ろうとしない口をこじ開ける方法を考える。
ひょっとして、と最近身近であった話を思い出す。
「お前、香奈城のことが好きなのか」
「あなたの目は節穴ですか。それとも伽藍洞レベルの木の洞ですか」
「……根津、お前は辛辣なのか臆病なのかどっちなんだよ」
俺に毒を飛ばす時だけ顔をあげるの、なんかムカつく。
けど視線はずっと逸らされていて、難儀な性格をしているようだ。
下唇を噛んだ後、根津はぽつぽつと喋りだした。
「一ノ瀬君のこと、あなたはどう思いますか?」
「んあ? 可愛い奴くらいの印象だけど」
「それだけ、ですか。あんなに格好いいのに。付き合うなら絶対、一ノ瀬君ですよ」
香奈城君なんか目じゃないです、と珍しく否定された友人に合掌。
急に香奈城へ興味を示さなくなった女子を、中学の頃に見たことがある。どうやら他の学校の男子と付き合っているらしいと噂が流れていて、実際にはネットで有名なアイドルにガチ恋をしていたとかだった。詳細は知らない。だって友達いなかったし。
でもまぁ、今の根津を見て分かった。
過去の噂話と比較して、納得する。
「そういうことね」
俺と根津で一ノ瀬に対する解釈の違いはあるようだが、彼女も一ノ瀬に悪意を向けたいわけではないのだろう。ただ、根津にとっての一ノ瀬が俺にとっての一ノ瀬とは違うだけだ。それが彼女にとって嬉しいことであるのかは知らないが。
しかし、恋をしているのか。羨ましいな。
「お前、一ノ瀬と仲いいんだろ? もっと普通に話しかけてくればいいのに」
「それが出来たら苦労しませんよ。今年はクラスも違いますし」
「あぁ、それ。聞いたぜ、九年間も一緒だったんだろ?」
根津が小さく頷いた。クラス替えもあっただろうに、すごい偶然だ。それだけの長い時間を過ごしてきた相手なら、なおさらに根津の臆病は見ていられなかった。
「遠慮もいらないだろ。俺も協力してやろうか?」
「……見返りに何を要求するつもりですか」
「俺は悪魔じゃないんだから。傍で見ているだけでいいよ」
「他人の機微に愉悦を感じるタイプの変態? 気持ち悪いですよ」
善意を毒舌で切り捨てられてがっくりとうなだれる。だというのに、俺は友達に話しかけることすら躊躇ってしまう根津を手伝ってやりたくなった。それなりの時間話し込んでいたようで、彼女の家族が様子を見に来る。
根津は立ち上がって、短い別れの挨拶と共に家族の元へと戻っていった。俺も仕事に戻るかと腰を上げたところで根津がこちらを振り返る。ぷるぷると小刻みに震えながら、初めて彼女が俺と視線を合わせた。
今にも泣きそうな顔だった。
「きょ、協力の件ですが。よ、よろしくお願いします」
「……おう! 学校でな!」
突然頭を下げた娘と、手を振る不良少年とを彼女の母親が不思議そうに見比べている。行く当てのない恋心を正しく結末に導けたなら、俺にも恋が分かるだろうか。たとえその結末が喜ばしいものではなかったとしても、と思ったところで否定する。
どうせならハッピーエンドで終わりたいよな。
臆病者の決心に報いると、根っからの善人は心に誓うのであった。
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