Gather Rats
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梅雨の季節に相応しく、雨が降っていた。
今週末には前期の中間考査が始まって、一週間はテスト漬けの毎日になる。先生方は生徒を追い込むように課題の山を積み上げてくるし、同級生達は、どんなルートで手に入れてくるのか過去の中間考査の試験問題を広げて勉強会を開催していた。
友達と一緒に勉強をしている相原は余程の自信があるのか、テストの点数で勝負しろなどと言ってくる始末だ。誰も彼もが勉強好きな奴ばかりで、机に座るのが苦手な俺は窮屈な思いをしている。競争するのは好きだから、意地だけで勉強はしているけれど。
午前授業だと言うのに遊びに行く気にもなれなくて、一ノ瀬に課題の解き方を教えてくれないかと声をかけてみる。ダメ元だったが、意外と素直に受けてくれた。
「ありがとな。俺、一人じゃ勉強が進まなくて」
「いいよ。私も家じゃ勉強してないもん」
「そうなのか。すごく賢いイメージだったけど」
「これは伊達眼鏡ですから」
くいっ、と持ち上げて見せた一ノ瀬の眼鏡がフレーム端を光らせる。素直に格好良かった。配られたプリントでテスト範囲を確認しながら、ひとつ、大きな欠伸を漏らす。
梅雨時期の教室は湿気てカビの匂いがした。
丁寧な清掃が行き届いた校舎でも、高い湿度による不快感までは防げない。各教室に設置されたクーラーはまだフィルター類を清掃していないし、仮に使えたとしてももう少し気温が上がるまでは動かしてもらえない。除湿して下がった気温によって体調を崩す生徒が出ては困る、というのが学校の言い分だった。確かにその通りで、勉強に集中できないことを除けば完璧なロジックだった。
「それじゃ何から教えてもらおうかな。英語、数学、物理だとなぁ」
「……あっ」
一ノ瀬の声に顔を上げる。
教室の入り口に、墨で染めたように真っ黒な髪をした少女がいた。
小柄でやや俯き加減な姿勢の彼女は、雰囲気だけなら日本人形みたいにも見える。よく目を凝らせば俺をにらんでいるようで、視線には確かな敵意が感じられた。
いや怖いが。
「なぁ、そこの……あ、あれ?」
声を掛けようとしたら煙のように消えていってしまう。
教室に残っていた他の生徒たちは誰もいない出入口と、急に立ち上がったまま動かなくなった俺を見比べて首を傾げている。立ち去った彼女は根津で、一ノ瀬と古くからの友人だという情報だけは知っていた。
だけど俺、彼女に嫌われるようなことをしただろうか。
「気にしないで。みーこは大柄な人が苦手だから」
「本当にそれだけか? 睨まれていた気がするんだけど」
「んー、まぁ私にちょっと執着しているってのもあるかもね」
ひょっとしなくてもそれが原因じゃないのか、と言いたいのをぐっとこらえる。
彼女の好意でこれから勉強を教えてもらおうというのに言いがかりをつけて、文句の矛先を一ノ瀬に向けるなんてありえない。お喋りしながら数学の課題を進めていたら、クラスの雰囲気が僅かに華やいだ気がして振り返る。
運動部を捕まえて、居残りで体育の続きをやっていた男が仁王立ちしていた。
「シャワー最高! バレーボールはクソ!」
「香奈城、お前荒れすぎだろ」
「だって何も出来ないんだよ。僕はカカシか? この高身長は飾りなのか?」
「まぁ注目の的にはなっていたけどよ。落ち込むなって」
今日の最後の授業は体育だった。
基礎練習をやっているときは平和だったんだけどなぁ。女子がステージ側、男子が反対の壁側の二か所にコートを作って試合をやり始めたあたりで香奈城が壊れ始めた。レシーブを失敗するのは割と普通で、たまに成功すると観戦している女子連中から拍手が巻き起こる。パスをミスしてトスまでやる余裕がないときもチームメイトが頑張って拾って返したのだが、それで香奈城は満足しなかった。
向き不向きを乗り越えて、なんでもできるスーパーマンにでもなりたいようだ。
「で、どうして香奈城はここへ?」
「浦島に慰めてもらいに。ぐすん」
「恥ずかしくないんですかバカヤロー」
衆目を気にせず抱き着いてきた親友に肘打ちをした。
バレーボールで活躍できなかった、どころかチームの足を引っ張っていたのを心苦しく思っているようだ。中学生の頃から何も成長していないな、と抱き着く香奈城をはがすのは仕方なく待ってやることにした。
なんでもできる人間なんて存在しないんだから、適当に仲間を頼ればいいのに。
そういえば、体育館の後ろの壁にある梯子状の木製器具、肋木という名前で筋トレとかに使えるものらしい。休憩を兼ねた他チームの観戦中に相原から教えてもらった。相原の奴、隙あらば俺に話しかけてくるからな。
「やー、お熱いですな」
「あのふたり、進学先を選ぶときも一緒に選んだらしいよ。仲いいよね」
「くぁー、シュン君にはライバルが多すぎるだろ」
よよよ、と泣き崩れる香奈城をあやしていたら一ノ瀬含む周囲の女子からの生温い視線が向けられる。香奈城は格好いいし性格も頭もいいけれど、スポーツが苦手という弱点がある。それもまた、女性陣にとってはツボなのだろう。
一ノ瀬もニヤついていた。
「ふたりともさー。噂で聞いたことあるけど、同じ中学校だったの?」
「そうだよ。言ってなかったっけ? 香奈城もなぁ、知り合った頃はもっとイケメンだったんだけどなぁ」
「えー、今でも十分格好良くない?」
「連続十二失点程度でへこたれて親友の胸を借りる奴が?」
「いや、それはへこむでしょ……」
「スコンクじゃなければいいじゃん」
香奈城は負けた悔しさをバネに練習をするいい奴なんだけど、どうにも運動の才能にだけは恵まれなかったようだ。昔はコイツの方がデカかったし、雰囲気だけならすべてを余裕たっぷりにこなしてしまいそうだった。もしかすると、才能の方が香奈城についてこられなかった可能性もあるな。
平静を取り戻した香奈城も加えて、三人で勉強を進める。先生よりも分かりやすい説明をしてくれる同級生ふたりに頭を下げながら、なんとか数学の課題を終わらせた。物理を半分ほど進めたところで気分が悪くなって降参の白旗を上げる。
一旦、休憩だ。学校近くのコンビニで三人揃って弁当を買い、教室に戻って食べ始めたところで一ノ瀬に話し掛けられた。
「ところで、私から相談したいことがあるんだよね」
「勉強のことは聞かれても分からんぞ」
「スポーツのことは僕じゃなくて浦島に聞いてね」
「どっちもハズレ。にーちゃんが恋をしているっぽいから、ちょっとね」
「にーちゃんと言えば、一ノ瀬の姉貴のことか」
一ノ瀬の姉貴は、女性だけどにーちゃんと呼ばれている。二乃という名前だから、と聞いたけれどややこしくて脳が焼き切れるかと思った。尖ったナイフみたいな印象と、爬虫類みたいに感情の薄そうな顔立ちが特徴的な美人だ。
しかし、恋人は。
「俺はまったく分からんな。香奈城にパス」
「ふふ、任せたまえ。この恋愛大明神のシュン様に」
「それじゃ香奈城君。キミに聞きます」
一ノ瀬が尋ねてきたのは恋人と行くデートスポットについてだった。香奈城はどこで手に入れたのか随分と知見があるらしく、俺に勉強を教えているときよりもよほど熱心に語り続けていた。
動物園や水族館、遊園地を余すことなく楽しむ方法に始まって、映画館や劇場で最高の時間を過ごす方法からショップ巡りで疲れずに色んなところを回る方法など、メモを取りながらじゃないと覚えられないほどの情報量だった。いや、俺は覚える気はない。だって恋人がいないのだから。
気付けばクラスに居残っていた数名の女子も香奈城を囲って話を聞いていた。
すげーな、こいつの人気は。
「それで、香奈城君の考える最高のデートプランって?」
「好きな子の家で、お泊まりで映画を見る!」
「意外とフツー」
「だからいいんだよ。お互いに相手の視点や感性を知ることが出来て、普段は見えない深いところまで相手を知ることが出来るんだ」
引く手数多の香奈城なら、そういう相手もいたのだろう。
俺には特定の相手がいなかったから、映画やドラマで得た知識の他には思い浮かぶ情景がない。相手が恋人ではなく友人であったなら想像するのも容易だった。香奈城と映画館やゲーセンに行った回数は数知れないし、この前は相原とカラオケに行って遊んだ。
あれを恋人と一緒にやるのがデートなのだろうか。
むぅ、難しい話だな。
「香奈城君、恋人とかいたことあるの? 現在進行形でいる感じ?」
「ってか、これまでに何人と付き合ったん」
「教えて、教えて!」
梅雨の湿気を跳ね飛ばす女性陣の元気な声に気圧されたのか、香奈城がこちらに目配せをしてくる。助け船を出そうにも、不得意なジャンルと苦手なシチュエーションが被っている以上は手の出しようがなかった。
頑張れ香奈城。俺も一応は応援しているぞ。
「僕は誰とも付き合ったことがないし、今も、いい人が振り向いてくれるように神頼み中だよ」
「それじゃ私と付き合ってみる?」
「あ、こら。抜け駆けはダメだぞ」
和気あいあいとした話し声を聞きながら、俺と一ノ瀬は最初の話題に戻ることにした。
「デートって奥深いんだな」
「そうだよ。浦島君、頑張らないとモテないぞ?」
「モテなくていいよ。誰か一人に愛されていれば」
一ノ瀬からのありがたい助言を軽く受け流して、香奈城のデートプランを反芻する。香奈城と遊びに行った経験は沢山あるのだ。ひょっとすると、あれは香奈城にとってのデートかもしれないと、ぼんやり考えた。
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