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「よし、それじゃ走るぞ。準備運動な」

 校庭に集まった生徒の出席も取らずに、三十代くらいの男性教師が宣言した。先週末のオリエンテーションを思い出せば、清水という名前だった気がする。

 生徒の唇から次々に漏れ出す文句のような溜め息をホイッスルひとつでかき消すと、清水先生は右手を大きく掲げて走り出した。重い足取りの集団から抜け出したのは相原と、彼女に遅れまいと反射的に走り出した俺くらいのものだった。

「なんだ、お前達やる気あるな」

「いやー、動いてないとヒマなので! 授業前にも浦原君と遊んでいました!」

「そうか。スポーツ大好きっ子って奴か。部活動はやる予定あるのか?」

「どこにも入らないッスよ。俺も相原も、帰宅部の予定なんで」

「えぇ、そりゃ勿体ないな。浦島だっけ? 背も高いし運動も得意そうだな。水球部はいつでも新人を歓迎しているぞ」

 清水先生が力こぶを作ると、まるでボディビルダーのごとく筋肉が隆起する。

 なるほど、放課後のプールサイドに筋肉ムキムキの集団がいるのは知っていたが、水球部の奴らだったのか。泳ぐのも球技も好きだけど、噂じゃ練習量が半端じゃないらしいからな。遠慮しておこう。

 あまり家に帰るのが遅いと、家事をやる時間がとれなくなる。母親に家事を任せると洗濯機から泡が噴出したり、鍋が火を噴いたりするのだった。

「ちょっとペースあげるぞ。ついて来いよ」

 清水先生を追いかけて、校庭の外周を走る。何を考える必要もない一本道で、割と足の速い先生についていくために少し本気を出す。他の生徒たちはやる気がないのか、いつの間にか後続集団と距離が空いていた。

 薄っすらと舞い上がる砂煙に、少し眉が上がる。

「一ノ瀬は? 香奈城は運動音痴だし、後ろの方にいるんだろうけど」

「美鶴ちゃん、体育は嫌いだから後ろの方にいるって」

「ふーん。それじゃ、後で会いに行くか」

 防球ネットの裏側を抜けて、部活用の倉庫群、自転車置き場の脇も通る。噴水を横目にテニスコートの横手を走り終えると、スタート地点のグラウンド入り口に戻ってきた。思っていたより距離があって、走り甲斐がありそうだ。

「このまま、あと一周な。お前らが引っ張れー」

「うっす」

「あんまり飛ばすなよ。後ろの奴が困るからさ」

 振り返ると、後続はテニスコートの角を曲がったところだった。

 清水先生は、俺達を前に走らせて自分はその場に立ち止まる。あと一周、と大声で叫ぶと自分は備品倉庫へと走っていった。後ろにいる奴らを待つか少しだけ迷ったけれど、特に足を緩めずに走る。相原もついてきた。

 そして、脈絡なくぶつかってくる。

「えーい」

「おま、タックルするなって。転んだら危ないだろ」

「それもそうか。でも、暇じゃん?」

 暇ならぶつかるのか? とか思っていたら手を繋いできた。

 マジで分からんな、コイツ。

 一年もの間、同じ店に通って彼女の姿を見ていたのだ。もう少し理解が深いと思っていたが、慣れないことの方が多い。彼女の人当たりがいい性格もあって、顔見知りから友人になるのは簡単だった。けれど、そこから親友までの道程が彼女と俺とでは違うような気がする。なにせ、距離感がバグみたいに近いからな。

「競争しようぜ。おうりゃ!」

「手を引っ張って減速をかけるとか、セコすぎるだろ……ちょっと、待て」

「待たないもん。あたしが勝ったら駅前のたこ焼きおごってね」

「いや、誰も了解は、おい、この」

 ぐんぐん加速していく相原に負けまいと足の回転を早める。あっという間に最後尾の集団に追いついて、金髪と高身長の両方で目立つ香奈城の脇を通り抜けた。

「あ、浦島」

「香奈城! 後でな!」

 少しでもスピードを緩めたら追いていかれる気がして必死に走る。同時にスタートしていればまず負けないだろうけど、一瞬の隙を突かれた格好だ。ようやく追いついた後も、短距離走ほどに全力で走り続ける。

 集団を追い抜くために謝罪と命令の言葉を使い分けて、相原を引きちぎるために必死に走る。理由なんてないけれど、ともかく負けたくなかった。たこ焼きをおごるのが嫌なんじゃなくて、なんというか、簡単に負けるのが悔しくて。

 三十人ほどを周回遅れにしたところで、テニスコートの角を曲がった。本気を出せば校庭の外周なんて一瞬で終わってしまうのだ。体力が尽きる可能性はあるけどな。

 残るは数十メートルの直線だけ。

 清水先生が手を振り上げて俺達のことを待っていた。

「いいぞ! 競争してんのか? よっしゃぁ、来い!」

「うおおおお! うーらーしまー!」

 真後ろから気合の入った声が聞こえて、心臓を縮ませながら走る。

 周囲の生徒なんて気にしている余裕もない。手を前に伸ばして、俺よりも背の低い清水先生とのハイタッチをなんとか成功させる。と同時に背中から押し出されて、グラウンドに倒れこんだ。ゴロゴロと転がって、背中からぶつかってきた突発課題提示系女子に苦言を呈する。

「お、おま、マジで何なんだよ。タックルは禁止だって言っただろ」

「はっ、はひっ、ふいーっ!」

 俺の上にのしかかったまま、相原は息を切らせている。

 重たくはないけれど、しっかりと人間ひとり分の体重がある。中距離を全力疾走した後に同い年の少女を押しのけるだけの体力は残っていなくて、ぞろぞろと戻ってきたクラスメイト達に醜態を晒してしまった。清水先生が戻って来る生徒全員にハイタッチを求めているおかげで少しは和らいでいるようだけど、彼らの視線は俺と、その上に転がっている相原に向いている。

 また、変な目立ち方をしてしまったようだ。

 駆け寄ってきた一ノ瀬に手を借りて、彼女はようやく起き上がる。

 どうにか身体を動かせるようになった俺に、なぜか相原は喧嘩腰だ。

「勝負だ、浦島君! あたしはキミに負けない!」

「どうして相原は俺との勝負にこだわるんだよ。店でも、俺に突っかかってくるし」

「退屈は人類の敵! そしてあたしと勝負しないなら、キミは好敵手から格下げだ! さぁ浦新君、どうするよ!」

「……分かったよ。気が済むまで付き合ってやるさ」

 急にライバル認定してきた相原から差し出された手を握り返す。周回遅れの香奈城たちもグラウンドに戻ってきて、握手したままの俺達をいぶかしげに眺めていた。

「どうしたの。友情を深めあっている、的な?」

「相原が離してくれないんだよ」

「はぁー? 違うけど、あたしは浦島君の手を握り潰そうとしているだけですけど」

「こわっ、え、浦島と相原さん仲良くなりすぎじゃない?」

 怯える香奈城を捕まえて、準備運動に協力させる。

 相原にスイッチが入った理由は分からないけれど、ともかく退屈はしそうにない。

 それはとても素敵なことだ。

「なんか燃えてきたぜ。香奈城、お前も付き合えよ」

「え。うらしまー。せめて運動以外で頼むよー」

 おぉ香奈城よ。準備運動でバテるとは情けない。

 俺達の体育は、まだ始まったばかりだった。

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