手の中の答え
しんと静まり返ったテーブルで、貴子は思い切り鼻をかんだ。こんなに泣いたのは以前飼っていたハムスターが死んだとき以来だ。あのときは涙の理由がはっきりしていた。しかし今は、なぜ自分が泣いているのかよくわからない。悔しかったのは確かだ。でもそれだけじゃない。
「あたしだって……」
あのとき、私は何て言いたかったんだろう。
「あたしだって忙しい」
「あたしだって頑張ってる」
「あたしだってやればできる」
どれも正解のようであり、的外れのようにも思える。間違いなく言えるのは、浩司の指摘が的確過ぎるくらい的確だということだ。反論の余地が全く無くて笑えるくらいに。恐らく長いこと不満を抱いていたのだろう。
だったら言ってくれたらいいのに。
果たしてそうだろうか。貴子は自問自答する。浩司が不満を口にしたことはあった。それに対して自分も不満で返していたのではなかったか。それこそ「私だって忙しい」だの「私だって疲れてる」だのと言っていた気がする。「だったら自分で作れば?」とまで言われて夫は口をつぐんだのだろう。何を言ってもムダだと諦めて。
だからって何もあんな言い方しなくてもいいのにね。
確かにさっきの浩司の言い方はモラハラ夫のそれだ。どこかに投稿したらたちまち大炎上するに違いない。けれど、文句を言われないのをいいことに、貴子が長い年月手抜きをし続けてきたことは紛れもない事実だ。浩司は酒も煙草もギャンブルも一切嗜まない。その分、食べることに思い入れがあるのを知っていたのに。
貴子だとてもっとちゃんと料理をしていた時期はあった。そもそも昔は今ほど多くの料理の素はなかったし、美味しくもなかった。だから新聞の料理コーナーを切り抜いて参考にしたし、料理本を見ながら新しいメニューにも挑戦した。誕生日やクリスマスにはケーキを焼いたし、梅干しやジャムを作ったことだってある。出来のいいものばかりではなかったけれど、その頃の食卓には笑顔が溢れていた。
今どき、料理が女の仕事だとは思わない。貴子はパートとはいえ働いてもいるのだ。忙しいのは嘘じゃない。ただ、誠也に手がかからなくなってきた今、時間がないという言い訳は甘えでしかないと貴子自身わかっていた。だからこそ浩司の指摘が胸をえぐったのだ。
貴子はもう一度鼻をかんだ。それからエプロンのポケットからスマホを取り出すと人気の料理動画サイトを初めて開いてみた。検索窓にシュクメルリと打ち込むと、たくさんの画像が現れる。その中から誠也が見せてくれたものに近い画像を選んでタップすると、すぐに動画が再生され始めた。一口大に鶏肉を切り、フライパンでソテーする。大量のにんにくに仕上げは生クリーム。貴子が作ったクリーム煮よりもずっと手数が少なくて簡単だ。
「なんだ、最初からこれを見れば良かった」
貴子は手当り次第に料理名を入力してみた。いつも市販の素を使って作る麻婆豆腐やカレーはもちろんのこと、名前しか知らないアクアパッツァやアヒージョも全然難しくないことに唖然とした。
なんのことはない、解決策は手の中にあったのだ。無視し続けたのはつまらないプライドか、単なる怠慢か、今となってはどうでもいい。貴子は強力な武器を手に入れたことに興奮していた。
貴子は立ち上がった。冷蔵庫には鶏肉が残っている。生クリームは牛乳で代用できるだろう。にんにくはチューブで十分だ。
「見てなさい。伊達に二十年も主婦やってないんだから」
間もなくキッチンにはバターのいい香りが漂い始めた。貴子は料理が出来上がったら浩司にメールしようと思っている。まずはこれまでのことを素直に謝ろう。これからはもう少し料理に手間を掛けると約束しよう。そしたらきっと浩司も反省してくれるだろう。彼だって言い過ぎたことを悔やんでいるはずだもの。彼はそういう人だから。
と、その前に……
貴子はドアを開け、二階に向かって叫んだ。
「せいく〜ん、いいものあるから今すぐ来てー!」
階段を駆け下りる息子の足音を聞きながら、貴子は久しぶりに料理が楽しいと感じていた。
家族の食卓 いとうみこと @Ito-Mikoto
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