第2話 イケメンが話しかけてくる
わたしがすべてを諦めかけた瞬間、背中のチェロケースを力強くガッシリと支えてくれた者がいた――正確にいえば人間じゃなかったけど。
転ばなかったのは、閉まりかけたドアとドアの間にチェロケースがドンと音を立てて、はさまれたから。とっさに床へ突いた右手の雨傘も、いい仕事をしてくれた。
そこでわたしは車内の異様な空気に気がつく。乗客たちが驚いたようにこちらを見つめている。乗車口で起こったドタバタで皆の注目を集めちゃったみたい。
――ちょっとやめてよ、恥ずかしい。わたしが喜劇の主人公ですか。
わたしは顔を赤らめながら、背後から押した犯人の姿を目で探す。
――それよりスイーツよ、スイーツ! わたしのピエポリ生きてる?
わたしは、あわてて紙袋をのぞき込んだ。でも、その行動が大失敗。狭い車内で後ろを確認しないで、前かがみになっちゃたのね。そうしたらまるで柔道の一本背負いみたいに背中のチェロケースがフワリと浮き上がって……
ガリッ
ゾッとする耳ざわりな音がした。わたしは急いでケースを降ろして、被害状況をチェックする。あちゃ~、ボディに貼った『星マル丸』のシールが破れてるじゃない。ドア横の座席を見ると、銀色の手すりに黒い雨傘が一本ぶら下がっていた。わたしのチェロ一本背負いで、傘の先とケースがぶつかっちゃったみたい。
「大丈夫ですか?」
雨傘の持ちぬしだろうか、シートに座っていた若い男が心配そうな声をかけてきた。彼は中腰になって、ケースをのぞき込んでくる。
「あらら。見事に破れましたね、星マル丸」
シートから腰を浮かせただけで、立っているわたしと同じぐらい。彼の背が高いのか、わたしの背が低いせいか。びっくりするほど顔と顔とが近かった。柑橘系の爽やかな香りさえただよってくる。
わたしはドキッとする。なんだろう、この瞳のきれいな
「ええ。でも、わたしのせいだから」
イケメンが気にかけてくれるのは嬉しいけど、星マル丸のシールはもう手に入らないだろうなぁ。眉根を寄せて、困り顔をするわたしを見かねたのか、若い男はこんな申し出をしてきた。
「悪いのは僕のほうです、手すりに傘をかけたらダメですよね。うっかりしちゃったなぁ。弁償させてください」
「いいです、いいです。ホントに」
わたしは小さく手を振る。
「困った顔してましたけど」
「大丈夫ですから」
「んー、それではね……」
若者はしばし考えるようにアゴに手を当てていたけど、やがて顔をパッと輝かせこんなことを言いだした。
「なら、こうしましょう、僕と賭けをしましょう。僕が勝ったら弁償する、あなたが勝ったら弁償しない」
すばらしいことを思いついたとでも言いたげに、瞳をキラキラさせる。
ちょっと待って。何を言っているの、このヒト。そうまでして自分の言いぶんをとおしたいのか、あるいは頭が少々異次元タイプなのか。
「その条件おかしくないですか? 逆でしょ、普通は」
「そう。だからどちらに転んでも、あなたに損はない。ね?」
「ま、まぁ、そうかも……」
これは何だろう。趣向を変えたナンパか、それとも新手の詐欺か。でも退屈しのぎにはなりそう。危ないと思ったらチェロかついで、ササッと逃げちゃえばいいし。
「賭けって、どんな賭けですか?」
「簡単ですよ。あなたが降りる駅を当てたら、僕の勝ち。というのはいかがです?」
この人、降りる駅って簡単に言うけど、わたしはホントに遠くまで行くんだけどいいのかな? そこは東京の西のはずれで、ちょっとやそっとでは想像がつかない
「そんなに自信があるなら当ててみてください」、わたしはすっかり興味の
「賭けは成立ですね」
「で? どこで降りると思います?」
挑戦的に詰め寄ってみる。どうせ当たるわけないから。
「まあまあ、あわてないで。僕の隣に座っているスーツの男性が次の大京駅で降ります。それからゆっくり話しましょう」
彼は端正な顔に余裕の笑みを浮かべた。
まもなく窓から見える景色が高層ビル一色になった。都心の大京駅に到着したみたい。電車がゆるやかに止まると、若者が予言したとおりスーツの男性があっさりと降りていく。わたしは手際のよいマジックを見せられているような気分で、男性の後ろ姿を見送った。
「ほら、席が空きました」
若者は空いた席へと体を移し、今度はわたしに隣へ座るよう目でうながす。
わたしはちょっととまどう。なんだかこれって彼のペースで進みすぎじゃない? だまされてない? でも
「あなたは『
若者はいたずらっぽく瞳の星をきらめかせて話しかけてくる。
――ちょ、ちょっと待って。
わたしの顔からサァッと血の気がひいた。
自分でもわかるぐらいに瞳孔が開く。
どうしてこのヒトは、わたしが
ショックで凍りついたわたしを見て、若い予言者は満足そうに言葉を続けた。
「正解でしょ? こんな具合に、僕は乗客がどこで降りるかわかるんです」
なぜわかったんだろ? 考えても考えてもわからない。こうなったら、これはもう読みかけのミステリー。ちゃんと答えを解き明かしてほしい。
我慢できなくなってわたしは口を開いた。
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