チェロ女子は電車ホームズにだまされない

柴田 恭太朗

第1話 賭けをしませんか?

「ではこうしましょう。『賭け』をしませんか? 僕と」


 茶髪の若者イケメンは、電車のシートからわたしを見あげた。提案をもちかけてきた彼の瞳はキラキラ輝いている。まるで面白い遊びを発見した子どものように。賭けなんていうアヤしいイメージからほど遠い無邪気な瞳に、わたしはうっかり引き込まれそうになる。ゴトゴトン。線路を走る車輪の音が、近く、遠く、リズミカルに響く。


――これは何? ナンパ? それとも新手の詐欺?


 賭けという誘い文句トークは、危険な香りがする。ごくありふれた言葉だけど、わたしの人生には縁がなかった単語だ。できることならこれからも、そっと遠巻きに眺めるだけにしておきたい。ましてや、見知らぬ若者イケメンとの賭けなんて、モロに怪しいフラグでしょ。


 しかもそのとき、わたしはすっかり気が動転していた。原因は、ついさっきの事件ハプニング。人がだまされるときって、たいていこんなときだよね。自分のペースを見失ってるときは、特に気をつけないと。


 でも……。

 わたしは何より退屈が苦手。苦手というか好きじゃない。はっきり言えば大キライ。もし彼の誘いがヒマつぶしになるなら、ちょっと話を聞くだけなら……って気分になりつつある。どうせなら賭けの中身を聞いてみて、断ったっていいじゃない。興味をひかれると歯止めがきかないのが、わたしの悪いクセ。一度めばえた興味は、ぐんぐん膨らんで止まらない。好奇心のバブルガムが熱をおびて、パチンとはじけた。


「賭けって、どんな賭けですか?」


 そうしてわたしは、まんまと男の話術にちていった。


 ◇


 その事件ハプニングはこんなことから始まった。


 十月初めの日曜日。朝十時を回ったところ。

 駅のホームで電車を待つわたしの横には、チェロケース。大学でチェロを始めてからの二年間を一緒に過ごしてきた愛用品。


 近ごろ、おうち時間が増えたせいか習う人が増えたみたい。街や電車でたまに見かけるでしょ、大きなケースを背負った人。ギターよりも大きくて、倍ぐらいの厚みがあってヌメッとしたツルツルの。あれですよ、あれ。あれがチェロケース。電車の中で邪魔モノあつかいされるヤツね。


 背負えばズッシリ重くて、ことあるごとに立ち振る舞いを邪魔してくる厄介者。でも隣で控えているときは、ちっちゃなカオナシみたいで、ちょっと可愛い。わたしの白いケースには目立つところに『星マル丸ほしまるまる』シールが貼ってある。人間でいえばおヘソのあたりかな。


 あれ? 星マル丸ほしまるまるをご存じない? 星マル丸っていうのはね、黄色くて愛らしい顔をしたキャラクタ。若い世代に大ヒット中のコミックですよ。作者は新進気鋭の女性マンガ家「ゆめチサト」。わたしの名前、千里ちさとと読みが同じだから特に好き。自分と名前が同じだと、なんか親近感おぼえない? そんなことない?


 大学生にもなって子どもっぽい、というなかれ。シールには、ちゃんと意味があるんだから。他人のケースと見わける目印マスコットになってるの。星マル丸は目だつし可愛いし、マスコットには最適でしょ。このシールは懸賞で当てた非売品、しかもなんとチサト女史の直筆サイン入り! それはもう特別スペシャルな一枚なのだ。


 今日はうれしいことがもう一つ。それは人気ナンバーワンの『ピエポリ グランデ』のスイーツ。朝イチで並んだ甲斐あって、ようやくゲットできた。わたしたちは甘いもの好きぞろいの女子カルテットだから、メンバーの喜ぶ顔が目に浮かぶなぁ。


 でもユーウツなのが電車。

 今日ははるか遠い『泉山せんざん』で弦楽カルテットの練習があって、東京を端から端まで横断しないとならないのね。ガタゴト揺られての二時間は退屈。特に今日は傘と楽譜と『ピエポリ グランデ』が両手をふさいでいるから、スマホをいじったり、本を読んだりして時間をつぶすことはムリっぽい。


 期待とユーウツを交互に噛みしめていると、電車がホームにすべり込んできた。リュックみたいにして、よいしょとチェロケースを背負う。硬くてずっしり重い。若い乙女が喜び勇んでかつぐモノじゃないよね、これ。


 止まった車両の中にチラリと空席が見えた。今日はラッキーかも。わたしは乗客の列の一番前だし、ひょっとしたら座れるかな? なにしろこれから長い距離を移動しないとだから。うら若き乙女だって、座りたいときは座りたいじゃない?


 降車客が降りきったのを見はからって、電車のステップに足をかける。ケーキを気づかいながら、ゆっくり、そろそろとね。


 ――あっ!


 わたしは小さな叫び声をあげた。体が車内に入りきる手前で、背中のチェロケースが思い切り突き飛ばされたから。新品のレインシューズがドアレールの上でキュッとすべって、左手に握りしめていた『ピエポリ グランデ』の紙袋が宙を舞い……かけるところを危うくキャッチ。でも、体が反射的に動いたのはそこまで。濡れたタイルの上で滑ったらもうムリなのと一緒で、一度バランスを崩した体勢はもとに戻らない。


 ――転ぶ!


 私は観念した。

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