優しい香り 02

「知唐、そっちの本棚から取ってくれるか」

「うん、良いよ」

 姿は見えないけれども、棚の向こうから、俺に向けて頼みごとが届いた。

 何段目でタイトルは何だと問えば、相手はつらつらと、8段目の赤い背表紙のと、見てもいないのに答える。それほどまでに熟知していることに感心した。

 この屋敷には、どこかの市立図書館レベルじゃないか、と言わんばかりの量の本が置いてある。目的の一冊を探すのにも一苦労だ。

 8段目の赤い背表紙、と指を添えながら口にして目的のモノを探せば、赤い背表紙のハードカバーの本を見つける。これだろうと指先で触れて、そのまま取り出そうとするも、どうもぎゅうぎゅうに本が詰まっていて中々に取り出せない。

 眉間に皺が寄るのが分かりつつ、力を込めて引っ張ればゆるゆると此方に向かって出てくる。もう一息、というところで、ふんっ! と気合を込めた声を零しながら引っ張り出せば、周りの本もなだれ込むようにして一緒に飛び出して来てしまった。

「うわっ、やばっ!」

 ドサドサ、と音を立てながら、8段目に入っている半分くらいの本がこぼれ落ちてしまった。

 赤い本を手に取りながら、突然の事にハンズアップの体勢になり、落ちてしまった本を眺める。

 とっさに受け止められなかったことに自己嫌悪。きゅ、と目を閉じて、口も同じ様に結ばれた。

「知唐大丈夫か?」

「んー……なんとか。ごめん、本、沢山落としちゃった」

 声を掛けてくれた彼に謝りながら、床にばら撒いてしまった本を拾い上げていく。

 ごめんなさい、と本にも謝りながら。せめて拾うのだけは丁寧に優しくやろうと、一冊一冊を手に取っていく。植物図鑑に動物図鑑、星座図鑑などの数多くの図鑑シリーズも揃っていた。この家には、本当に何でもある。

 結局、本をばら撒いてしまい、埃も舞ってしまったので、ついでにと周囲の掃除をしてしまえば、俺に頼みごとをしていた彼は、にぱっと笑みを浮かべる。

「いやー掃除までしてくれてありがとな! 助かったよ!」

「いや……うん……」

 カウンター席の向こう側に腰かけ、にこにこと笑みを浮かべながら、彼は礼を述べた。

 笑みを浮かべている彼の目の前で、椅子の上で膝を抱えるような体勢で座る。普通に座れば? と言われたけれど、それに曖昧に返事をした。

 植物図鑑を元の位置に戻してから、ふと、家に生えている杏の木を思い出していた。

 杏の開花時期は3月下旬辺りから4月上旬辺りが平均だ。桜より、少しだけ早く咲く。そして杏の花は開花期間が短い。その割には、家に生えている杏の花は、ず~っと咲いている。風が吹いて花びらがハラハラと散っても、何事も無かったかのように、ずっと綺麗な薄いピンク色の花を咲かせている。

「ねえ弥生さん。家にある杏の木ってさ……」

「ああ、あれ? お前が大切にしていた木だよ」

「そう、なんだ……。いや、ずっと咲いてるから気になって」

「お前が大切にしてたから、咲いてあげてるんじゃない」

 そういうもんなの。そういうもんだよ。

 どうやらこの屋敷は、本来の俺の家と同じ構図らしい。夢なんだから、もっと大きな殿様のような屋敷でも可能なんじゃないか、とも思ったけれど、住むとなればこんなに立派であれば十分すぎるかもしれない。というか、一人暮らしにこの家の広さも、十分すぎると言うか、手に余る。ワンルームくらいで満足しそうなんだけど。

 まだまだ知らない事実や、知らない人などが沢山あると思っていたけれど、中々に驚いた。

 彼からすれば大した話題ではないのかもしれない。まあ、この世界だし、何でも有りか。そう、自分に言い聞かせる事で、事を済まそうと考えた。

 

「それより、そろそろ出かけるんだろう?」

 笑顔を横目に、壁掛けの時計に目を向けて告げれば、彼もつられて時間を確かめる。

「うん? そうだね、そろそろ時間だ」

 この俺の夢の世界に来て早数日が立っている……だろう。正しい日数や時間は、どうも有耶無耶だ。今日が何月何日なのかも分からない。けれど、それらが全て『この世界だから』で済まされている辺り、便利でもあるなと思う。

 この世界を受け入れ、ハッキリとしてきた意識の中で、彼の体の一部が透けて見える事に気付いて、俺は悲鳴を上げた。ホラー系統が苦手な、ビビリな情けない三十路だ。

 だが、先程から話しているように、彼はとても優しくて、更には案内人として俺を見守りをかねて一緒に暮らしている。同居人として、うまくやっている。住み心地に関してだけなら同居人、物件、すべて満足だ。

「お前は、何かやりたいことでもないのか?」

「記憶がないんだから、何がやりたいのかも分からないんだよ」

「あー、成程なあ」

 む、と少しだけ眉間に皺を寄せ、顎に指を添えて考えるそぶりを見せる彼。

「この世界には住民もいるよ」

「俺以外にも、人が居るのか」

「そう。皆が寂しくないようにね」

 この世界を示しているのかもしれない、両手を広げながら、彼は言う。

「この世界の住民は皆良い人だからな。安心してくれよ」

 そのまま胸を張って、どこか自慢げ。

「会ってみたりしてみたらどうだ? そうしたら、やりたいことも見つかるかも」


 さて、それならどうしようか。

 弥生さんは、少しだけアドバイスをしてから出かけてしまった。現在、相談できる相手はいない。どうしようかと、頭を悩ませる。大きな屋敷を囲う御簾垣の前で、竹箒を支えにし、柄に顎を乗せてゆらゆらと身体を揺する。記憶の無い俺は、どうも出来る事が少ない。やりたいことも、なかなか見つからない。掃除をやらせてもらっているのだが、どうも掃除には集中できなさそうだ。

 そもそも、この世界には何があるのか。それによっては、行動範囲も広がっていく。

 人が存在しているというのなら、仲良くなれたら万々歳なのだが……折角だし。

「……あれ?」

 ふ、と聞こえた声に、びく、と俺の背が震えた。癖毛も一緒に揺れる。呆けた顔を隠すように、髪を整えながら顔を上げる。そして、そこで、相手は目を開いた。

「アンタ……」

 思わず目を開いた男性はしげしげと眺め、そのまま俺を指さす。そのタイミングと同時に、サラサラと杏の花びらが、俺達の間に入り込んできた。

 その事に驚いたのか、彼は杏の花びらが吹いてきた方に目を向ける。

 俺の前に立つ男性は、整っている容姿だった。何度か色を抜いたらしい髪の毛は金髪だが、少し垂れ気味の優しい目つきのおかげか、厳つい雰囲気には見せない。まるでどこかのアイドルグループに所属していそうな、女性だったら思わず目で追ってしまうかもしれないような、そんな見目の男性だ。

 本当に人が居た。その衝撃は大きく、続けて、まいまじと男性を眺めてしまう。

 ああ、彼が例の住民とやらなのかもしれない。

 そんな彼を眺めていると、最初は心がざわざわとしていたが、次第にゆっくりと心が落ち着いて来た。

 そんなわけがない、と名前もわからない誰かが口にしたのを聞いた気がした。

 互いにぼう、としたままだったが、男性は指していた指を戻し、その手で首の後ろを掻いた。少しだけ、むず痒そうな表情だ。


「……誰?」

 俺はそのまま首を傾げた。

 彼は、俺以上に驚いたように目を開いた。

 記憶を失う前の自分だったら、こんな失礼な態度をとったら怒られていたかもしれない。もしくは、相手は不機嫌丸出しの態度になっていたかもしれない。だってそうだろう? いきなり他人に誰だと問われるのだから。

 見るかぎり、俺と大して歳は違わないだろう。だったら世間的に考えても、彼は社会人と分類されるはずだ。それなら、対人に関するマナーも多少は嗜んでいるだろう。知識があるという事は、自分がされて嫌なことも存在することになると思う。

 不躾な態度を取りやがって! はあ? 何言ってんだコイツ、と青筋を立てていてもおかしくない。怒られてもおかしくないだろう。

「ご、ごめんなさい……。俺はこの家の者です」

 慌てて頭を下げて謝罪。男性は先程よりも驚いたように目を開いた。

 今更ながら冷や汗が沸いた。頭を上げれば視線が泳ぎ、空いている手を忙しなく動かしている。

 謝って弁解しようとした瞬間、彼はと言うと、何かを言いたげに口を少しぱくぱくとしてから、言葉を飲み込んだように、ごくんと喉を上下させた。

 そのまま落ち着かせる為か小さく呼吸を繰り返して、また視線を泳がせて。

 見目が整っていて、金髪に染めているから、堂々とした青年なのかと思えば、どうもそうでもないらしい。それどころか、少しだけ気が小さいようにも思える。それが、なんだろう。そうだ、ギャップというやつだ。可愛らしい人だな、なんて思ってしまった。

 彼の言葉がまとまるのを待っていると、どうやらまとまったようだ。

 ぎゅ、と拳を握って、真っ直ぐと此方を見やる。

「また、来ます」

 たったそれだけだ。拍子抜けした。

 ぽかん、と間の抜けた顔をしてから、小さく吹きだして、再度彼を見る。緊張して発した言葉に笑われて、ちょっと恥ずかしいと思ったらしい。少し顔が赤い。うっすら汗もかいているようだ。むくむくといたずら心が湧く。年下の男の子をからかう女はこんな気持ちなのだろうか。

「待ってます」

 俺の返事を聞いて、癖毛の頭がぶわっと上がって目線が俺を射抜いた。彼は、ほっと安堵したような表情をする。断られることが、彼の脳内分岐にはあったのかもしれない。

 それが何とも、いじらしい人だなと思ったのだ。


 *


 約束通り、彼はまたやってきた。

 それも一回だけではない。毎日彼はやってきた。

 毎度毎度また来ますと宣言し、今日と同じ時間に、と時間まで言われてしまえば、俺も無下にするには良心が痛む。毎回外で立って待っていれば、約束通りにやってきたのだった。

 彼の名は杏哉きょうやくん。俺より一歳年下の青年だ。

 杏哉くんは決して家には上がらずに、俺と立ち話をして帰っていく。その時間も毎回短くて、ただ挨拶をかわすだけであったり、他愛もない世間話を数分だけする程度。

 彼がやって来るのは毎回午前9時頃。どうしてこの時間なのかと問えば、夜勤明けだからと答えた。

 夜勤明けにわざわざやって来る。それじゃあ近所に住んでいるのかと、また質問をすれば、田舎感覚で言えば近所。都会感覚だとそこまで近所でもないところに住んでいる、らしい。わざわざここまでやって来るのかと思うと、行動力の高さに聊か驚いた。

「毎日夜勤なんです?」

「まあ。その方が給料も良いし」

 その気持ちは分かる。大人というものはお金がかかるものだ。生きるためには金が要る。深夜手当が出て、給料が割り増しされるのなら、多量の無理をしてでも稼ごうという彼の気持ちは、記憶が無いながらも分かるような気がした。

 だが、いくら彼が若いと言っても、連日夜勤は体調を崩さないのだろうか。それに、夜勤明けで毎日わざわざここまでやってくる。

「ここまで来るの、大変じゃないですか?」

「え? ああ、まあ……けど気にならないんで」

 少しだけ居心地が悪そうに口を尖らせて呟く。野暮なことを聞いたかもしれない。

 小さく笑いながら謝れば、彼はさらにいじけたような表情になった。

 何とも不思議な感覚だった。案内人である弥生さんとはまた違う、心地の良さ。話していると、自然と落ち着くような、そんな気分がした。

 わざわざ数分の為だけにやってくる不思議な青年。会うたびに、もう少し話したいだとか、もう少し一緒に居たいなと思う。そんな不思議な青年。

 彼は何をしたいのだろう。俺はどうしたらいいのだろう。いくつかの予想を思いつくが、どうにもその中から選べない。見間違いでなければ青年の目には熱がこもっていた。

 どうしたもんかな。一時的な気持ちかもしれないが、驚いてしまった。

 彼の必死さに困惑はしたものの、ちょっと可愛いなというのが本心だった。


「……その、この間はすみませんでした。突然、誰? とか、失礼な事を言って」

「え? ああ、いや、別に」

「あの、頭がおかしいとか言うかもしれないんですけど、俺、記憶が無くて……」

 この世界だし、記憶が無いことくらい、許してもらえるだろう。そういう安直な思考の中謝ってみれば、彼は「あぁ、通りで」と首を掻いた。

「別に良いよ。アンタ、忘れっぽいし」

「ええ、ごめんなさい」

「はは、良いよ。そっちこそ、俺と会うのは嫌じゃない?」

 少しだけ眉を下げて、寂しそうな、申し訳なさそうな顔をして問う。それは当然のことだ。忘れられた、なんて、寂しいに決まっている。

 ぐ、と拳を握って、彼の目を真っ直ぐと見て。

「嫌じゃないです。君さえ良ければ、会いたいし」

「……分かった。それじゃあ、もう一つ聞いても良いか?」

「ん?」

「アンタは、記憶、思い出したい?」

 おどけた表情は消え、覚悟を決めたよう、顔には、固唾を飲んでいるような真剣な色が表れていた。

「……俺は、」

「前に、聞いたことがある。人間は自己防衛のために忘れることがあるって。だから、もしかしたらアンタもそうなのかもしれない。それでも、思い出したい?」

 この世界に現れる人々は、皆親切なのかもしれない。都合が良いようにされているのかもしれないけれど、それでも、俺が望むことを、彼は許してくれるような気がした。

「……思い出したいです」

「分かった。それじゃあ、俺が協力してあげる」

 少しだけ彼の緊張の糸が解けたように、固まっていた表情が緩んだ。

 あ、花びら。

 青年はそう呟いて、俺の肩に乗っていた花びらを摘まんで取ってくれた。

 彼の反応から、俺の返答は間違っていなかったのだと、安堵した。知らずのうちに自身も緊張していたらしい。張りつめていた緊張のなかに、ちょうど風穴のように不意にゆるみが入った。

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