優しい香り 03

 閉架書庫の棚はスライド式。ハンドルを回した方向に何百キロもある本棚が移動できる。俺はこうした本棚が一般家庭に置かれていることに、大層驚いた。だが、調べてみれば、少々値段は張るが普通にネット通販で買えるようだ。この家の元持ち主は、本当に本が好きだったのだなと尊敬する。

 左に移動させようとハンドルを握るが、弥生さんの脚が棚と棚の間にある。

「弥生さん。轢いちゃうから避けて」

 本棚には自動的にスライドしないようロック機能がついている。彼の脚がどけられたら解除しようと思っているのに、弥生さんは本の題を見ては「ああ、これはまた懐かしいな」なんて言うばかりだ。

「弥生さん」

「轢かれても死なないよ」

 轢いてみたら。さらりと笑顔で告げるその姿に、むっと口が尖る。

「俺が居心地悪いの」

 そう言っても動いてくれない。ロックを解除して容赦なくハンドルを回せば、彼の左足は本棚の間に挟まれ消えた。

 はああ……と深い溜息を吐けば、にゅっと効果音が付きそうな感じで、弥生さんが本棚から出てきた。比喩などではない。本当に、本棚から彼は現れたのだ。

「だから言ったじゃん」

「それでも、見目が悪いだろ。潰したのかと思う」

「ごめんごめん。お前は本当に優しいねえ」

 どうやら彼は、この世界中で仕事を頑張っているようだ。仕事熱心な人である。案内人としての仕事は、序盤に軽くだけれど説明してもらった。だが、キチンとした仕事内容って何だろうか、という疑問と興味はあるけれど、聞く勇気が無い。

 俺の他の住民の案内も兼ねているのだろうか。それとも、俺専属なのか。その割には、一緒に行動をしていないけれど大丈夫なのだろうか。

 背は高いので、女性からすれば何割か増でイケメンに見えるだろう。まあ、元々好感を持たれそうな顔ではあるが。街中を歩いていたら、少し目で追ってしまうかもしれない。色恋沙汰は、全くにおわせないけれど。

「そうだ、弥生さん聞きたいことがあるんだ」

 本日も弥生さんが家を留守にする、彼が出掛ける時間だ。

 記憶の無い俺を心配して、彼は何度も申し訳なさそうな顔をする。そんな顔をさせるのが申し訳なくて、余計な心配をかけたくなくて、俺は家に居るようにと心がけている。

 大丈夫だよ、心配しなくたって勝手にどこかに行ったりしないさと笑えば、彼は苦笑いを浮かべるのだけれど。

 出て行ってしまう前に聞いといてしまおう、と疑問を問うてみる。

「この世界って、俺達以外の人はどれくらい居る?」

「この街にはそこまで多くないよ。探してみてもいいんじゃないか?」

「誰か来たら、家に招き入れても?」

「何も問題無いよ?」

「どこかに出かけても?」

「お前の好きにしていいんだよ」

 だって、自由な世界だから。結局、その結論に辿り着くのだ。

「……知り合いは、居る?」

「え? 誰か居た?」

「えっと、杏哉くんっていう……」

 俺と同年代くらいで、金髪で、顔が整っていて……。

 彼の容姿の特徴を2、3個ほど述べた所で、ああ、と彼は思い当たったらしい。思い出すために少しだけ斜めを向いていた視線は真っ直ぐにこっちを見て、少しだけ驚いたような、目を丸くしている。

「杏哉くんに会ったんだ?」

「なんか、初めて会ったような気がしないって言うか……」

「成程ね。まあ、彼は少し特別だね」

 ふむふむ、と何かに納得するようなそぶりを見せてから、にこりと笑みを浮かべた。

「まあ、この世界に居る限り大丈夫でしょ」

「そっか、良かった。それじゃあ……少し、一緒に散歩とかも、してみようかな」

「まあ、ここら辺には何も無いけどな」

 確かに、この屋敷が町中から離れた位置にある、というのも大きいのだろうけれど、他人の家が全然見えない。元々田舎町なのに、更に外れた場所にあるんだ。

 

 弥生さんはそのまま家を出ていってしまった。

 そろそろ、あの子もやって来るだろう。弥生さんの反応を見るかぎり、やっぱり知り合いだったみたいだし。彼は、俺の記憶の中では、どんな存在だったのだろうか。

「こんにちは。今日も来てくれたんですね」

「ああ……うん」

 掃除をしていた俺の元にやってきたのは杏哉くんだ。彼を見て、小さく笑みを浮かべながらあいさつと礼を述べる。

 ふ、と彼の腰元に目線を寄越せば、一人の少女が立っている。じっ、と俺を眺めていた。

「あれ」

 思わず裏返った疑問符を浮かべた。

「ああ、娘だよ」

「娘」

 娘だと紹介された彼女は、まだ小学校低学年くらいに見えた。思わず瞬きをし、単語を復唱してしまった。そうなんだ、この人、子供いるのか……。

 綺麗な黒色で少し癖のある髪質。髪色という違いはあるが、二人はよく似ている。青年の緩くうねった髪は、パーマではなく髪質だったようだ。少し親近感が沸く。俺も癖っ毛のようだし。毛先のうねりは、どうも真っ直ぐにならない。

 少女は、裾が淡い桃色でふわりと軽そうなワンピースで、襟元をリボンで飾り付けている。そんな彼女は胸元に本をぎゅうと大事そうに抱えており、抱えている本も相まって、本が大好きな文学少女というイメージが沸く。

 金髪の美青年と、黒髪の文学美少女。ちぐはぐだけれど、可愛らしい組み合わせだと思った。

「ほら」

 杏哉くんに促され、少し背中を押されて、俺の前に少女がやってくる。じっとりとした目が、一瞬だけ俺を捉えていた。すぐにそらされるけれど。

「本が好きですか?」

「はい。好きです」

 なんとも大人びた物言いだ。青年は「大好きだよな~」と頬もくるくる撫でる。少女はくちびるを歪ませて、笑顔に近い表情だった。父親がにこにこしているのをひとしきり確認したあと、ふいにこちらに目玉だけ向ける。自分よりも大きな存在を見つめる、猫のようにも見えた。

「ごめん。大人を観察するのが好きな子で」

 彼が手を止めて苦笑する。

 俺はこちらを見つめる目に目線を合わせようと少しかがんだ。

「そうですか。それは怖い。変なことできない」

 聡明そうな光を見つめ返す。

「こんにちは」

 撫でられてさらにくしゃくしゃになった癖っ毛を直しもせず、少女は俺を見つめている。ぎゅっと焦点を合わせているようでむずがゆい。

「ほら、挨拶できるかな」

「……こんにちは。苺音もねです」

 きれいな名前だ。少女は恥ずかしくなってきたのか、抱いていた本で口元を覆った。こちらも見つめすぎてしまっただろうか。

「あの、おじさん」

「お……おじ……」

 幼い女の子からの言葉は威力がある。俺は確か30歳だと弥生さんが言っていたけれど、おじ……おじさんか……。幼い子からすれば、俺はおじさんなのか。

「お、お兄さんはどうです?」

「でも、おじさん、ですよね?」

「ぐあ~、キッツ……」

 思わず声に出た。案内人の口調が移ってしまったかもしれない。

 顔を手で覆いながら頭を垂れていると、ふっ、と上から笑う声がする。杏哉くんだ。

「あの、俺はおじさんなんでしょうか?」

「ん? まあ、そうだよね」

「マジか……まだお兄さんだと思っていたのに……。ていうか、俺がおじさんなら君も同じじゃないですか?」

「俺はまだ若いので。29歳だけれどまだ20代なので」

「1歳差じゃないですか」

 もー、なんて少しだけ呆れた声を零せば、20代と30代の土台の違いは大きい、と彼はまた笑うのだけれど。

 彼から目線を戻して、少女の方へ目を向ける。

「その本は君の?」

 問いかければ、こくりと首を縦に振った。そのまま、彼女はぽそぽそと小声で説明してくれる。

「もらった、本」

「アンタに会いたい? って聞いたら、会いたいって言うもんだから。ほら、人手は多い方が良いかと思って」

 そっか、彼は俺の記憶を思い出す手助けもしてくれるらしい。知り合いに彼女が含まれているとしたら、確かに接していったら何か思い出すこともあるかもしれない。現実でも、本の貸し借りでもしているのかもしれない。それなら、書庫に案内してあげなければ。

 案内をしようと声を掛ければ、少女はぴたりと俺の後ろをついてくる。

「この家、好き?」

「はい。ここ、難しい本沢山あるので」

 ちょっと自慢げ。俺はふっくらとした頬が赤くなっているのを見ていた。

 扉を開けば、そこには沢山の本棚がずらりと並ぶ。この間弥生さんに頼まれて掃除したばかりだったけれど、このためだったのかもしれない。

 少女は目を輝かせながらきょろきょろと周りを見渡す。興奮しているのが見て分かって、小さく笑みがこぼれた。

 沢山の選択肢があると、やっぱり悩んでしまうらしい。

 うんうんと声を零しながら、丁寧に一冊一冊を手に取っていく。数冊を抱えて、部屋の隅に置かれたテーブルに置いて、備え付けの椅子に腰かけて本を捲り始めた。

 苺音ちゃんは真剣に、目を輝かせて、自身が開いている本を食い入るような目つきで眺めていた。本の虫、という言葉が脳裏に浮かぶ。いや、文学少女に留めておこうか。

「本が本当にお好きなんですね」

「ああ……俺は本をあまり読まないからビックリで……妻もそこまでだったし。誰に似たんだろう。兄貴とか叔母かな」

「杏哉くんお兄さんが居るんですか?」

「居るよ。俺は本を読む行為が苦手だったけど、兄は読書家だったと思う」

「へえ……」

「母さんと叔母の姉妹間もそんな感じだったらしくて、叔母が読書家で母が苦手。叔母の方の血が強いのかな」

 ふ、と浮かべた笑みが少しだけ寂しそうで、けれど優しい。そんな複雑な表情を浮かべて、思わずそっと視線を逸らした。

「……確かに、君は文系ではなさそうですね」

「どういう意味だ」

「ふふふ……」

 今度は俺が笑う番だ。まあ、俺の場合、寂しさはないのだけれど。

 杏哉くんは、文系科目があまり得意ではなさそう。理系男子、という感じがするな。あくまでイメージに留まってしまうのだが。

「……ねえ、」

「あの、おじさん」

 杏哉くんと被る様にして、ふ、と聞こえた高い声。そちらに目を向ければ、苺音ちゃんがゆっくりと俺の元にやって来る。目的の本は読み終えたのかもしれない。

 杏哉くんに目を向けてみれば、彼は首を横に振って、気にしないでと、顎で彼女を指し示した。彼女と話してから、彼の話を聞こうか。

 ていうか、やっぱりおじさんのままだ。

 まあでも嫌われてはいないのだろう。気に入られたかもしれない。うん? と返事をすれば、内緒話をするように口元に手を添えて、そのまま小さな声で問われた。

「オムライス好きですか?」

 首をかしげる。彼女は顔を赤くし、意を決したように言葉を紡ぐ。

「ご馳走するから、よかったら。私とどうですか」

 ナンパされてしまった。杏哉くんも最初は驚きつつも、ぶはっ、と吹きだした。「おっと? ナンパですか苺音さん」と笑っている。少女は真剣な顔だ。

 少女は自分と同い年くらいの男の子より、大人の男のほうが好みなおませちゃんなのだろうか。笑ってしまう。不釣り合いな感じが、何だか愛らしい。悪い気はしないが、申し訳ないことに今は家から離れられない。

「ごめんね。お兄さん、御留守番頼まれているから」

「へえ」

 丁寧に断りはしたものの反応が気になった。初対面とは言え、女の子にご機嫌を損ねられては困ってしまう。

 しかし彼女は駄々をこねなかった。反応が薄い。真顔で数秒ぼんやりしたあと、ちょっとむっとした雰囲気で問うてきた。

「次いつ会えますか」

 次を所望されている。目の前の小学生女子に戸惑う。

 何が彼の琴線に触れたのかわからない。杏哉くんはもう大笑いしているだけだ。

「いつでもここに居るから。来たいときに来ると良いよ」

 この少女は間違いなく、青年の息子だと確信した。彼女の瞳は青年と同じ瞳で、同じような熱がこもっていた。

「ていうか、娘に先を越されてしまった」

「え?」

 笑い過ぎて浮かんでしまったらしい涙を指でぬぐいながら、彼は俺の方を見て笑みを浮かべる。

「近くに、良さげな店があるんだよ。一緒に行こうよ」

 親子が並んで、同じ瞳で俺の顔を見てくる。何だか少しだけムズ痒い気がしつつも、こうして友好的にされれば悪い気もしない。

 許可を得てみるよ、と親指を立てて返した。


 *

 

 その日の晩、弥生さんに出来事を話せば、大層驚かれた。

「その子凄いぞ。俺、ナンパされてしまった」

 最初は彼も驚いたようで、話をしたのかとか、急にナンパされたのかとか質問攻めされたが、結局は大爆笑というオチに落ちついた。いや、落ち着かれてたまるか。

「大人びた子だよな」

「そうなんだ……。それが、んふ、ナンパされたんだ? あっはっは! まじ? 幻覚じゃない?」

 失礼な。笑って応えた。

「それで? その子はまた来るって?」

「うん。来ますって言ってたよ」

 親子揃って、真っ直ぐと、少し熱っぽい目で見てくる。変なひと。可愛いひと。そんな気持ちが声に出た。

「だいたい真顔なんだけど、見てたらわかってきたんだ。表に出ないだけで表情豊かだ」

 それは少女だけの話じゃない。杏哉くんにも言える事だ。

 うしろに寝転がれば、少しだけ小汚い天井が見える。記憶を失った俺の前に現れた、不思議な親子。困ったコンビだが、それ以上に可愛いのだ。

 明日また会える。一人でふふふと笑っていると、弥生さんも俺を見下ろして笑っていた。

「魅了しちゃったんだね」

「罪を作ってしまったかもしれない」

 好意を持たれるという感覚が、こうも嬉しいとは。記憶が無くて、あまり気付かないようにしていた寂しさとかが緩和されていくような気がする。麻薬のような、ちょっとした中毒性を感じてしまう。これはマズいかも。

「罪というか、知唐が大変かもな」

 部屋を照らす蛍光灯が眩しい。目を閉じる。夢見心地で彼の言葉を聞いていた。

「そうだ、今度一緒に出掛けてきてもいいかな?」

「良いって言っただろ? この世界は自由に動き回っても。あ、でも……」

「ん?」

「乗り物には乗らない方が良い」

 最後の言葉には、どこか真剣さを帯びていた。身体を反動をつけながら起き上がらせて、彼の方を見てみれば、彼は真っ直ぐと俺のことを見ていた。

 まるで射貫くかのような、どこか鋭さも感じる視線。本気の忠告のように感じた。

「この世界は乗り物に乗ると行き先があやふやになって危険になる。行き先がハッキリと分かっている案内人である俺が居れば大丈夫だけど」

「成程……分かった」

 電車やバスに乗ると、土地から離れてしまう可能性があるという事だ。考えるのも恐ろしい。

 彼の忠告に頷けば、彼は元の明るくて眩しい笑みを浮かべて、楽しんで来いよと、俺の背中を押してくれた。

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