優しい香り 01

 白くて何もない空間に立っていた。

 濃いミルクのような白い世界。靄がかかって、それはどこか霧のようにも見える。霧に覆われているのなら、この白い空間というのも納得だ。けれど、その霧の中に居てもふしぎと寒さは感じなかった。白くて濃い霧に覆われて、一粒一粒が小さいそれらの水の粒が、まるで体に吸い込まれていくかのような。しっとりと体に染み込んでいくようなさまを、俺は立ち尽くしたまま、しばらくの間じっとながめていた。

 乳白色を掻きこむようにして腕を回せば、それらは俺の身体にまとわりつく。動かしている自身の手を眺めれば、白くてぽちゃぽちゃとした柔らかそうな紅葉のような手。はて、俺はこんな見た目だったか。そう思って腰を捻れば、タータンチェックのスラックスを履いていた。ちらりと見えた手は、もう白くてぽちゃぽちゃとしていなかった。うーん? と首を傾げてから、腕を天に伸ばし、ぐっと身体を伸ばせば、身体の節々がパキパキと音を鳴らす。急に身体がだるく重くなった気分がする。一つ一つの動作をやるたびに姿が変わるので、俺は己の正体を見定める試みをやめ、顔をあげた。

 空間は静かで、人の声も、風の音もなく、生き物さえ見当たらない。本当に何もない世界に俺は一人だった。

 己が何者か、俺には分からなかった。何故此処にいるのか、どうやって此処まできたのか、己の名前さえなにも覚えていなかった。

 ゆくあてもなく、戻る場所もないので、俺はそこにじっと立っていた。乳白色の霧しかない空間は大層つまらない。だって本当に何もないのだから。出来ることと言えば、ただこの自分の周りにまとっている霧を、ぐるぐると混ぜるだけ。混ぜても、色は白いままだけれど。

 どれほどそうしていたものか。霧を混ぜるのも飽きていたとき、やがて、人がたずねてきた。

「やあ、遠野知唐とおの ちから

 己が分からない俺には、かけられた言葉が名前だと判断することはできない。だが、何も無いこの空間に存在しているのは俺だけなので、自然と俺のことなのではないか、という考えに行きついた。

 呼んでも振り返らなかったからだろう。とんとん、と後ろから肩を軽く叩かれる。そこで漸く後ろに目を向ければ、一人の男性が笑みを浮かべながら手を振っていた。

「こんにちは。調子はどうだ?」

 垂れ気味の目尻は人がよさそうでもあり、抜け目がなさそうでもある。

 見た年齢は俺と同い年くらい。気さくな性格なようで、第一印象を悪くとらえる人の方が少ないんじゃないか、という好青年……に見える。

「俺は案内人の弥生やよい。よろしくな」

「案内人?」

「そう、この世界で、お前を手助けして、道に迷わない様にするのが、俺の仕事」

「待って待って……なに?」

 ストップ、ストップを掛けたいです。つまり、えーっと……何?

「この世界……? なんだ、じゃあこの真っ白な空間は、異世界? みたいな感じなのか?」

「異世界……まあそんなところ。『境界』ってわかる?」

「……知らない」

「簡単に言うと、あの世とこの世の狭間」

「あの世!?」

 突然の爆弾発言に、思った以上の大きな声が出た。

 彼の言う『あの世』とは、俺の想像する『あの世』と同じだと考えれば、要は死後の世界になってしまうだろう。

「大丈夫、まだあの世じゃないからさ。安心してくれよ」

「安心できる要素が一つも無い……」

「まあまあ。期間限定の夢だとでも思ってくれよ」

 あまりにも簡単に、あっけらかんと言うもんだから拍子抜けしてしまう。

 『まだあの世じゃない』という表現が恐ろしすぎる。現実の俺の身に、一体何が起こってしまったのか……。

 俺としては、非現実的な言葉とこの世界に、彼の言う夢とう表現が一番しっくりと来る。狭間、と言われても、どうもしっくりとは来ないのだ。

「あとは……あ、ゲームって分かる? RPGゲームの一つの村のような世界に、お前は住んでもらうんだ」

 言いたいことは分かった。つまり俺は、境界という名の一つの街の中の住民になれ、ということだな。

「そんな世界を、君は案内してくれるんだ?」

「そうだ。まあ期間はあるけど」

「なんで」

「そりゃあ、ずっとこの世界に居続けるわけにはいかないから」

 当然のことを聞くなよ、と言わんばかりの表情だ。思わずムッと口を尖らせてしまう。

 そりゃあ言わんとしてることは分かる。夢というものは覚めるものだ。どうしてこんな世界にいるのかは分からないけれど、夢というものは突拍子のない物だから。考えようとしたって無駄なのだろう。

「分かった、分かったよ。ここは期限付きの世界ってことだな」

 まあ、期限付きでも、こんな何もないところ、早く立ち去りたいんだけど。現実ではないのならもうどうでも良いや。だって夢で何をしても、結局現実には関係ないのだから。現実の俺など、記憶にはございませんけど。

 己のことも分からないまま、こんなに何もないところに居続けたら、気でも狂ってしまう。まあ、分かっていても居たくないけれど。

「話が早くて助かる!」

 それだけ言うと、彼はゆっくりと右腕を伸ばす。手のひらを広げると、その手のひらに向かって光が集まる。綺麗な光の粒子はどんどんと形を表す。時間は一瞬だったかもしれない。光の粒子が集まってできたシルエットを彼は力強く握り、それを身軽に振り回した。するとまとっていた光の粒は消え去り、彼の手元には大きな杖が握られていた。

 何が起こっているのかは分からない。だが、己の記憶が無い俺でもわかる。こんなことは、現実ではありないと。魔法のような、この世の理から離れたような物が存在しているなど。まさしく、異世界、夢のような出来事だ。

 目を開いて出来事を見ていれば、彼はしてやったりと言わんばかりに小さく笑みを浮かべた。

「これから始まるのは、お前の物語。お前の好きな物でも教えてもらおう」

 コォン、と音を立てながら、大きな杖を地面に突いた。

 突かれた先から、水の波紋のような物がどんどんと広がっていく。俺達の周りを覆っていた白くて濃い霧も、ぶわりと拡散していく。

 そして広がっていく波紋の先が、きらりきらりと、先程のような光の粒子が舞い始めた。

 身体を捻ったり、その場で足踏みをするようにして周囲を見渡していくと、段々と世界が明るく、輪郭を表していき、色付いてくる。

 どれほどその光景を眺めていただろう。呆けていれば、一瞬眩く世界が光り輝く。まるでフラッシュをたかれたような眩しさに、一瞬目を瞑った。

 閃光により瞼の裏はまだ白い。じわじわ、と白さがひいていく頃、ふっと、鼻に甘く、しかしどこか優美さを含んだ匂いが掠める。次いで、これから日の陽気を吸収するような、ほんの少しだけ冷たいそよ風がびゅう、と頬を凪いだ感触を理解する。

 白から黒へ移り変わった瞼をゆっくりと開けば、其処は先程までの真っ白な空間ではなかった。

 春の花独特の、服に染み込むような甘い香りに覆われ、しかしそれでも清廉な凛とした空気のある不思議な空間、そんな場所に俺はいた。

 まず、御簾垣みすがきを巡らせた大きな屋敷が目に留まった。奥に重厚な玄関が見えていた。庭も存在してるようで、ひらり、と庭から何かの花びらが舞ってきた。思わず両手を伸ばし、ぱちんと音を立てて、花びらを両手で挟み込む。確認のためにゆっくりと手のひらを開けば、そのタイミングで吹いた風で、ふわりと花びらが飛んで行ってしまった。キャッチは成功していたらしい。庭には、杏の木が植えられているのが分かる。キャッチした花びらは、あの杏の花からだったのだろう。がたんがたん、とどこからか電車の音もする。

 それ以外にめぼしいものは見当たらない。けれど、どこか落ち着くような、けれど少し心がざわつくような、難しい居心地を味わっていた。

「この世界へようこそ」

 隣に立っていた彼は、優しく微笑んだ。

 また、柔らかい風が吹いた。現実世界ではないというのに、頬を撫でる風はやけにリアルだ。

 頬を指先で少し掻くように撫でながら、少しだけ引きつったような笑みがこぼれたのが、自分でもわかる。

 どんなに科学が進歩しようとも、『不思議』はまだまだ生きている。

 それは、俺達のすぐ傍に潜んで、絶えずこちらを覗いているのだ。

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