第五陣 (3)
もしもこのまま銃太郎が目を覚まさなかったら、一生恨まれ続けるかもしれない。
身分違いの恋など、馬鹿馬鹿しいとは思う。
そんなものを応援するつもりもないし、万が一にも瑠璃が道を誤りかけることがあれば、その時は命を賭してでも止める覚悟だ。
だが。
「…………」
銃太郎の想いが解せないわけでもない。
湧き上がる感情を抑制し、己が理性を以て打ち克つことが想像以上に難しいということも――。
理性と感情とは、常に背を合わせて鬩ぎ合っているものだ。
「若造め」
吐き捨てるように呟き、鳴海は先導する若党の掲げる提燈一つを頼りに道を急いだ。
家中屋敷を抜け、もう殆ど町人街という界隈に入ると、周囲とは様子の違う一軒の屋敷の前へ出る。
藩医・小此木
名医として名高い先代侍医・小此木天然の長子である利弦もまた、その腕は確かなものとして名の知れた人物だ。
「先触れもなく訪ねて申し訳ない。是非とも小此木殿のお力をお借りしたい一件がございます」
「これは大谷殿。直々に如何なされた? 急病人ですかな?」
齢五十を超えた小此木は、鳴海直々の来訪に目を丸くした。
医師にしては少々強面だが、言葉を交わしてみれば、温厚そのものの人柄が覗ける。
鳴海の様子を窺って首を傾げ、小此木は慮るように鳴海の肩を叩く。
「今、患者の容態は?」
「もう丸二日、目を覚ましておりません」
「は?」
「私がうっかりこの手を滑らせ、この大刀で、奴の頭部に一撃を喰らわせてしまってから……」
「…………」
倒置法で容態を解説する鳴海の肩を掴んだまま、小此木は絶句した。
戸口の奥から漏れる灯りが逆光となり、小此木の表情はよく見えない。
だが、医師を頼る以上、詰まらぬ隠し事などすべきではないだろう。
「不慮の事故、と言えなくもないが、事実手を下したのは他ならぬ私――」
「おっおお大谷殿、まさか……!」
「しかし外傷と呼べるようなものはなく、瘤すら見当たりません。深い眠りについているようで全く気が付く気配がないのです」
その目が覚めぬことを、瑠璃がひどく嘆いている。
そう加えると、小此木はほうっと息を吐いて、肩を掴んでいた手を下げた。
「少々強めの気付け薬でもあれば、奴も目を覚ますかと思い、小此木殿を訪ねた次第です」
「その昏睡しているというのは、もしや近頃城でもよく話題に上る木村殿か?」
「ぎくっ!? 今の説明だけで、患者が誰であるかまで見通されるとは……!」
この名医、なかなかやりおる。
どうやら小此木も、何となく経緯を理解したらしい。
「大谷殿と姫君と、そして木村銃太郎と言えば、近頃の我が藩の名物のようなもの。その大谷殿がこうして日暮れにこそこそ現れたことを鑑みれば、事態は何となく察せられますぞ」
実を言えば、とうとう私怨で成敗しちゃったのかと思った。などと言って、小此木は軽く笑った。
「平素から、寧ろ鎮静剤を処方してやりたいと思っておりましたからな、大谷殿には」
「鎮静剤!? わ、私の何を鎮静化させようと目論んでおいでか、小此木殿! それは寧ろ銃太郎にこそ――」
「とりあえず、大谷殿が手を汚していないようで何より。とはいえ、銃太郎の容態も気になりますからな。患者の許へご案内願いましょう」
***
たにが燈してくれた燭台の灯りに照らされ、室内には今も昏睡状態の銃太郎が横たわる。
「ね、姫様。試しにこれ飲ませてみません?」
そう言ってたにが差し出したのは、ぐちゃぐちゃに擦り潰された
小皿に盛られたそれを凝視し、瑠璃はごくりと唾を呑み込んだ。
「た、たに殿……これは、まさか……?」
もう聞くまでもない気がしたが、瑠璃の問いに、たには真剣な面持ちで頷いた。
「そう、山岡印の特効薬よ!」
「すごく胡散臭いな!」
「でも物は試し! これで目覚めれば儲け物だわ!」
暢気に構えていたたにも、愈々手段を選ばなくなってきたらしい。
たには無残に変わり果てた大福を、ぐいと瑠璃の手に押し付けた。
「えっ!? ちょっと待ってくれ、たに殿! わ、私がこれを飲ませるのか!?」
「当然! 兄を看て下さるって仰ったのは姫様でしょ?」
「ででででも、こんなでろでろの大福――」
どうやって意識のない銃太郎に飲ませれば良いのか。
「大丈夫ですって! 私が兄の口をこじ開けますから、姫様はその隙にそれをダバダバっと!」
言うが早いか、たには銃太郎の口に手をかけると、ぎりぎりと抉じ開け始めた。
出会って以来、銃太郎のこんな可哀想な形相は初めて見たかもしれない。
「姫様、さあ!!」
「さ、さあっ、て……」
有無を言わさぬたにに促され、瑠璃の手は自ずと銃太郎の口許へ小皿を近付ける。
無理矢理にこじ開けられ、歯ぐき剥き出しで開いた銃太郎の口。
瑠璃はごくりと固唾を呑んだ。
「だ、っ……だばだばー……」
「そうそう姫様、だばだばっと!」
どろんどろんの擦り大福を慎重に流し込む。
「あっ」
慎重になる余りに手許が震え、照準が狂った。
「…………」
「…………」
「すごく、斬新な感じになったな」
「ええ、若い男のお歯黒ってなかなか見ませんものね」
「特にこの、鼻の下に跳んだ小豆なんて、でかいハナク――」
「お姫様がそれ以上言っちゃいけません」
暫し、二人の視線は銃太郎の顔に釘付けとなった。
***
「――っ!!?」
ぞくり、と背筋に悪寒が走り、銃太郎は思わず身を竦めた。
「な、なに、どーしたんだよ急に」
その動作に、隣で胡坐を掻いていた亮助もぎょっと目を瞠る。
「いや、何でもない。ただ少し寒気がしただけだ」
「何だよ驚かすなよー」
春先の日暮れはまだ早い。
外はすっかり夜の帳が降り、銃太郎は老女の家の借り部屋へ戻ってきていた。
但し、話があると言って聞かない瑠衣と亮助の姉弟を伴って。
「銃太郎さんさー、マジな話、元の時代で今頃失踪扱いとかになってんじゃねーの?」
「亮助、そんな言い方をしたら可哀想じゃない。失踪と言うよりは脱藩よ!」
「ふーん、ダッパン? なにそれアハハ」
「だっ!? だだ脱藩なんかするわけないだろう!?」
藩からは、砲術師範として役目を与えられたばかり。
そして、二本松は何より大切に想う人がいる国。
その二本松を出奔するなど、あってはならない。
いや、出来るはずのないことだ。
「けど銃太郎さん急に消えたわけだろ? お姫様だって今頃、あいつダッパンしやがったー、とか思ってるんじゃね?」
亮助の一言に、ぎくりと胸が縮む。
確かに、どうやら未来の二本松に居る自分は、あの時代にはいなくなっているはず。
だとすれば、脱藩を疑われてもおかしくはない。
もしも瑠璃にまで脱藩したものと思われていたら――。
自分がいなくなったことを、瑠璃は寂しがってくれるのだろうか。
それなら、少し嬉しい気もする。
(大谷殿は諸手を挙げて喜びそうだがな……)
そして気落ちする瑠璃をべたべたに甘やかして慰めそうだ。
そう考えると泣きたくなった。
「ちょっと亮助、繊細な武士を虐めたら駄目じゃない。べこんべこんに凹んでるわよ、ほら!」
「え、でもほら、どうせ叶わぬ恋だって銃太郎さんも自分で言ってたじゃん! この際もうすっぱり諦めてさ、この時代で第二の人生やり直せよー」
「大体さあ、意外よね~。普通は二十二歳って言えば、もう許婚くらいいてもおかしくないのに、木村銃太郎のその辺の情報、さっぱり分からなかったのよね」
「へー。まあ奥手っぽいもんな、銃太郎さん」
大して興味はなさそうなものの、亮助は一応の相槌を打つ。
その身のない返事は瑠衣には些か物足りなかったのだろう。
徐に銃太郎に詰め寄った。
「る、瑠衣殿?」
「色気のある話も、ちゃんとあったのねぇ?」
にやりと意味深な含み笑いを見せる瑠衣に、些か身を退く。
「えっ、いや、瑠璃とはそういう深い仲ではなくて、だな」
「でも好きは好きなんでしょ?」
下から覗き込むようににじり寄る瑠衣。
その顔は、瑠璃によく似ている。
だが、やはり違う――。
「……」
返答に窮して押し黙ると、瑠衣の面持ちが一変した。
「あのねぇ。あなたが真面目で、自分の立場や役目に忠実なことは、一応知ってるつもりよ。それを全うしようとする責任感も、あなたにはある。だからこそ悩んで、苦しんでる」
けどね、と瑠衣は柳眉を逆立て、銃太郎の胸に人差し指を突き付けた。
「身分を超えて誰かを想うことは、決して罪悪じゃない」
真剣な眼差しで言い切った瑠衣を、銃太郎はぽかんと見返した。
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