7-4 夢の中の夢

     ◆


 少女は部屋に入ると、少し気配を揺らめかせた。

 私には背中しか見えなかったがその気配は苛立ち、だろうか。

 彼女が立ち尽くした後、椅子に座る気にもなれないようで、壁際へ行って背中を預けたので、私は私で居場所を考える必要があった。

 椅子ではまだサニラットン公爵が眠っている。彼の体は大きく、寝台に運ぶことは私一人ではできない。例の少女は小柄で、あるいは二人で協力すれば公爵を運べるかもしれない。

 でもあまりにも気持ちよさそうに眠っているので、起こすようなことをするのも気が引けた。

 彼は今、夢を見ている。本当に夢だ。眠っている間だけは、人間は本当に現実を忘れることができる。

「何か頼みましょうか、飲み物、食べ物でも」

 私は結局、立ったまま少女に問いかけてみた。

 彼女の顔には感情というものがほとんどない。虚ろとは違うのは、凛々しい顔立ちだからだろうか。でもやっぱり感情は見えない。

 答えるかと思ったが、彼女は緩慢に首を左右に振った。

 参った。飲み物も食べ物もいらない、というのでは、彼女は何をしに来たのか。公爵を迎えに来たとしても、そういうそぶりではない。まさか公爵が自然と目覚めるまで、待つのだろうか。あの飲みっぷりでは仮に目が覚めたとしても、ふらついていてもおかしくない。

 少女に目的を問うことは許されるのか。

「公爵様には、何かご事情があったようですが」

 話し始めてみたが、返事はない。いきなり黙るのもおかしいかと、言葉を続ける。

「お代を払えないというようなことをおっしゃってましたが、どうなのでしょう」

 ここに至って銭の話をする自分も可笑しかった。でも笑えるわけもない。

 銭なのだ。公爵がこの店で見ていた夢は、銭と引き換えだったのだ。

 というより、この店で夢を見れるのは銭を持っているものだけだ。本当に貧しいものは、この店に入ることもできない。

 あまり暗いことも考えたくない。そう思った私は自分の言葉の可笑しさに堪えきれなくなり、口元を緩めてしまった。さりげなくそっと着物の袖で隠したが、少女は全くの無頓着だった。表情一つ変えず、こちらを見ている。やはり言葉もない。

「あの、お嬢様のお名前は?」

 お嬢様、という部分で少女の目元が少しひくつく。

「セラ」

 短い返事だが、返事は返事だ。

「セラ様は、公爵様とはどのようなご関係で?」

「契約だけ」

 契約ときた。

 つまり用心棒だろうか。

「まさかここへどなたかが、やってくるのですか。その、刃物などを持って?」

 冗談めかしてみたが、意味はなかったようで今度は返事はない。首を左右に振るだけだ。

「セラ様は……」

 そこまで言って、少女がただの平民の服装で、武器の一つも携行していないのに思い至った。その様子からして素性を隠していて、まさか「護衛ですか」と聞くのは、あまりにも間抜けだ。

 護衛であろうと武器を預かるのが、この店のやり方だった。

 サニラットン公爵の護衛といえども規則は破れなくなっていたはずだ。

 この地での最高権力者であるサニラットン公爵その人の護衛に、規則を押し付けることができるほど白蔦館は強くない。強くないはずなのに、いつの間にか白蔦館の意思を権力者に押し付けていた。

 ただ、こうして身元の不明の少女が入り込んでいる。

 規則は破られた。あるいは、意味を失った。

 本当にサニラットン公爵は失脚したのだ。そう思うよりない。

 少女は黙り込み、視線はじっと酔いつぶれているサニラットン公爵へ向けたまま、動かなくなった。私は宙に浮いた形で、まるでいないも同然だった。

 沈黙の時間が過ぎていく。夜は深くなる。

 外は静かだった。まるでこの部屋だけが切り取られて、ポツンと別世界にあるような。いや、部屋というより、館かもしれない。不思議と別の部屋からも嬌声の余韻一つ聞こえてこない。

 私はそっと歩を進めて、寝台に腰を下ろした。着物を着たまま寝台に腰掛けているのも、違和感を伴う。

 んがっ、という奇妙な声を発して、サニラットン公爵が目を覚ましたのは深夜だった。それまで私も少女も、無言のままで、この数時間は数日どころか、数ヶ月にも感じられた。

 私とセラが見ている前で、よだれを拭ったサニラットン公爵の顔に差したのは、諦念と絶望の混合物である。

「支度を」

 セラの短い言葉に、初老の男は苦渋の表情になり、緩慢に椅子から立ち上がったが、よろめき、卓に倒れこんでそれを弾き飛ばした。置いたままになっていたグラスが宙を飛び、床に転がる。

「公爵様!」

 私は思わず彼に駆け寄り、立ち上がるのに手を貸していた。

「ネイネ、これまでだ、今日が最後だ」

 うわ言のように公爵が言葉を発する。唸り声に近く、聞き取るのに苦労した。

「もう終わりだ。私は逃げなくてはならん。どこまでも。ああ、どこにも、安全な場所などないのに」

「公爵様、お気を確かに」

「もう私は、お前に会えない。それが、悲しい」

「私はここにおりますから」

 反射的な言葉だったが、サニラットン公爵はついに精神の均衡が崩壊し、泣き始めた。立ちかけていたのがへたり込み、床を叩きながら、むせび泣く。まるで赤子のようだが、錯乱しているのは酒のせいではないだろう。

 身も世もなく、わが身の不幸を嘆いているのだ。

 多くのものを手に入れたものが、全てを失った成れの果てだった。

 私がその様子を見て考えたのは、私の未来だった。

 どれだけ成功しても、最後に残るものは少しのものだろう。そうでなければ、全てを失うかもしれない。

 例えば美しさが私から奪い去られたら、何が残るのか。

 妓女として客を取れず、どこでどう生きていくのか。

 すぐそばに人が立ったと思うと、セラだった。

 無感情の眼差しを初老の男性の頭に向けると、彼女の足がいきなりその頭部を蹴りつけた。鈍い悲鳴と打撃音の後、サニラットン公爵は転倒し、動かなくなった。

「ちょっと! あなた、なんてことを……!」

「みっともない」

 軽蔑しきった声でそう言うと、セラはサニラットン公爵の脱力した腕を引っ張り、見た目にそぐわない力を発揮して体を背負いあげた。確かな足取りで彼女は扉の方へ向かうが、私は突然のことに、何の反応もできなかった。

「銭はいずれ」

 まるで公爵の背中が声を発しているようだが、もちろん、しゃべっているのはセラだ。

 彼女はそのまま公爵を背負って部屋を出て行ってしまった。

 まるで私が変な夢を見たかのようだった。

 ここにはいろんな人が夢を見に来るが、もしかしたら現実もまた、ある種の夢なのかもしれない。

 いつか覚めるときがくる。

 夢の中の夢も覚める。

 夢の中に夢があり、また夢があり、幾重にも夢が織り成されている。

 私は扉が閉まったのをじっと見てから、視線が床に向けられた。

 サニラットン公爵がここにいた痕跡は、床に転がる酒瓶、倒れている卓、ヒビが入って床にあるグラス、それだけだった。

 悪夢か。

 でも悪夢とは、何か。

 現実が夢なら、現実とは悪夢なのではないか。

 私は店のものを呼び、部屋を片付けさせ、私室へ下がった。

 翌朝、サニラタの街に触れが出され、ロベル・フォン・サニラットンは追放とされ、合議によってサニラットン公爵領は統治されると知らされた。

 名称もサニラットン公爵領ではなく、サニラットン独立領、と変わった。

 しかし私にも、白蔦館には何も変化はない。

 夢を売る。

 夢を見させる。

 ここは夢の中の夢なのだ。




(第七部 了)

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