7-3 没落
◆
失礼します、と部屋に入って、嗅ぎ慣れない匂いに気づいた。
何の匂いだろう。錆のような匂いだ。
奥へ入る前に客はサニラットン公爵だと見て取れた。
しかし普段と様子がまるで違う。
服装が仕立てのいい高級品で、白蔦館に来る時の平民を装ったそれではない。今の姿を見れば、誰が見ても高貴な人物とわかっただろう。
しずしずと進み出るとサニラットン公爵は落ち着かない様子で、「酒をもらえるかな」と言った。これも珍しい。彼は店に来るとまず肌を合わせ、その後に酒になる。
「いつものものでよろしいですか?」
何も気にしていない風を装って、私は訊ねた。
公爵は少しの沈黙の後、「強いものを頼む」というではないか。さすがの私も、平然としているのは逆に不自然だと判断して、酒の並ぶ棚へ向かいかけたのを、ゆっくりと振り返った。
「公爵様、何かありましたか?」
「まずは酒だ、ネイネ」
すぐには話せない、まだ落ち着かない、といったところか。
棚の方へ行き、私は酒を選んだ。強い酒と言ってもいろいろある。辛い酒ということだろうけど、あまり辛いものは飲みづらいだろうか。酒精が強い酒なら、甘い酒にもある。
結局、サニラットン公爵がよく飲む葡萄酒に近い味のものを選んだ。
グラスを手に戻るが、いつもなら寝台の上で寝そべりながら酒を飲むのに、この日はサニラットン公爵は椅子から立ち上がろうとしなかった。
丈の低い卓の上に瓶を置いて、グラスを置こうとした時、さっと公爵の手が伸びて酒瓶を掴んだ。そのまま彼は瓶の口から直接、酒をあおる。唇の端から赤い雫が落ち、彼の着物の胸を汚していく。
今まで、長くこの公爵の相手をしてきたけど、こんな粗雑な行動をとったのは初めてだった。
動揺したけど、それはどうにか抑え込んだ。さりげない様子で私は小さな絹の手ぬぐいで、そっと公爵の胸元を押さえた。
瞬間、背筋が冷えたのは、冷ややかな視線が私を射抜いたからだ。
「何も聞かんのか、ネイネ」
言葉を選ぶ時間が必要だ。しかしいつまでも黙ってはいられない。
「何も聞かんのか?」
もう一度、言葉が向けられる。
「いえ、余計なことを口にしてはならないかと、そう思いました」
サニラットン公爵は冷え冷えとした視線で私を見ている。外の空気の寒さをそのまま、いや、より凍てついた寒さを封じ込めたような、そんな瞳をしていた。
「不愉快な女め」
吐き捨てるようにそういうと、再び酒瓶を煽り、公爵は深く息を吐いた。
私はもう彼の着物が汚れるのには構わないことにした。今の公爵は明らかに気が立っており、冷静ではないのだから、下手に世話を焼けば火に油を注ぐことになる。
しかし間合いを取っていても、それはそれで不愉快だろう。
それにしても、この公爵はなぜこんな時間に、唐突に白蔦館へ来たのだろう。
「普段とご様子が違いますが、何かございましたか」
私はそっと立ち上がり、新しい酒を選んでいるふりをしながら、背後の公爵に声をかけた。
喉を鳴らすの音の後、酒瓶が卓に叩きつけられる大きな音が響いた。肩が震えそうになった。
脳裏で、見たことのない母が酒瓶で頭を砕かれる場面が浮かび上がった。
最大限の自制心で混乱を抑え込みんだけど、危うくこちらが恐慌状態になりそうだ。
フゥっと、さりげなく息を吐く。
「いえ、お話しできないのなら、それで構いませんわ」
新しい酒瓶を手に振り返ると、椅子にもたれかかったサニラットン公爵がこちらを睥睨した。
「私はもう公爵ではない」
なんだって?
公爵ではない?
私の中の疑問が表情に出たのだろう、サニラットン公爵は皮肉げな顔に変わった。
「私は追い落とされた。二人の息子と、二人の娘のその夫にな」
訳のわからない理屈のようで、筋は通っている気もする。
つまり公爵領軍の実権を息子に奪われ、二人の娘が嫁いだ商人が経済にまつわる部分を奪い取った、ということだろうか。
私は「それは、いったい」などと時間を稼ぎながら、彼の前に新しい酒瓶を置いた。先ほどの瓶の中身は空になっていて、それは今、床に転がっている。
私が差し出した酒瓶の栓を弾き飛ばし、またも公爵があおる。今度は透明な液体がぼたぼたと落ち、床に染みを生み出した。もう公爵は何にも気を留めていないようだ。グラスを使う気もないし、服を汚すことも、酔って正体を失くすだろうことも、気にしないという態度だ。
「まだお飲みになりますか」
そう確認すると今日までには微塵も見せなかった粗野そのものの態度で、横柄にサニラットン公爵は頷き、敵意剥き出しの笑みを見せた。
「どうせ銭は払えんが、それで構わなければいくらでも飲む」
「わかりました」
私は礼儀正しく、数本の酒瓶を彼の前へ運んだ。初老の男は次々と酒瓶を開けていく。
元から酒精に強いという風な男性だったが、ここまで強いとは知らなかった。いくら飲んでも正体をなくしそうもないほど、堂々とした飲みっぷりだった。
「私ももう、ここに来ることはないだろう」
酒瓶片手に、サニラットン公爵は唇を歪める。
「これから先は、私はただの逃亡者だ。公爵領を出て、行くあてもない。どうせどこかで死ぬだろう」
「そのように悲観的なことをお考えになっても」
そうは言ったが、私が彼に今、何かしらの明るい夢を見せることができるかといえば、不可能なのは明白だった。
現実はときに重すぎるほど重く、どんな夢を思い描いたところで、どうしようもなことがある。
今のサニラットン公爵の立場がまさにそれだった。
私は更に何本かの酒の瓶を運び、公爵は飲み続け、日が暮れる頃になってやっと意識を朦朧とさせ、最後には椅子にもたれかかるようにして眠ってしまった。白蔦館へ来て三時間ほどが過ぎている。
このまま宿泊するのか、本人が料金を払えないと言っているのをどうするのか、女将に確認しないといけない。そのことを伝える店のものを呼ぼうとした時だった。
いきなり扉が叩かれた。乱暴ではなく、控えめで、ほんの小さな音がしただけなのに、私は腰が抜けるほど驚いた。
廊下に何の気配もなかったからだ。
「サニラットン公爵はおられますか」
静かな口調だった。
男性ではなく、女性の声。
澄んでいて、高い音だ。
しかし聞いたことがない声。店のものではないのか。
ゆっくりと席を離れ、そっと扉を開けた。
廊下に立っているのは、小柄な少女だった。服装は平凡で、それが逆に職業を判別させないようだった。どこかの食堂で給仕をしてるようにも、それこそ公爵家にいる下女にも見えた。
見えたが、それは服装だけのことだ。
顔つき、目つきはそんな優しいものじゃない。
真っ黒で、底が見えないような、奈落を連想させる瞳が私を見ていた。
「ネイネと申します。どうぞ」
そうこちらから声を発し、場所を空けたのは、私が一瞬で圧倒されているからだった。自分から主導権が奪われるのを防ごうとした、浅はかな行動だった。
この少女が現れた時には、主導権なんて私の手にはなかったのだから。
少女は頷くと、失礼、と短く声にして部屋に入った。
私は扉を静かに閉めた。
(続く)
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