5-4 去るもの
◆
セラはある朝、急に尼僧服ではなく私服に着替えており、朝食の席で教会を離れることが、ユリアス司教の口から説明があった。もちろん、朝の食事の前にも長い祈祷があるのだが、僧侶も尼僧もセラのことを気にしているのが聖句を唱える調子でわかった。
私にも彼女は何も伝えなかった。
彼女は朝食の後、この一ヶ月半を経てもたいして増えなかった身の回りの品を荷造りしていたが、その雰囲気はいつになく嬉しそうだった。教会を出ることが嬉しいということか。
「あなた、司教さまの護衛か何か?」
仕事へ出る前にさりげなさを装って、私はそう問いを向けてみた。
手元から視線を動かさず、両手で荷物をまとめながら、「そうよ」と簡単にセラは答えたものだ。
そういうことなのだ。
クリスタリー教会は、僧兵を養うことで知られている。それも僧兵とは形だけで、短い時間だけをこの教会で過ごし、すぐに外へ出て行って調練に励む。だから僧侶の出入りが激しいのである。彼らの顔を覚える頃には、その顔ぶれは揃って出て行ってしまう。
乱世と言っていい世になった時、どこでも兵士が求められた。それもできるだけ強い兵士が求められる。
一方で、素性の知れないものを雇うのを避ける傾向にある。例えば何らかの犯罪者などを下手に囲い込むと、揉め事になるし、その手の人格の持ち主は集団の中で問題を起こすことが多い。
クリスタリー教会は、いわば兵士の初等教育を行う場所のようなものだ。
僧侶としてやってきて、心構えと初歩的な調練を受け、出て行く。
これはクリスタリー教会としても旨味がある話で、武勲をあげて有力者に育てば、その僧兵は教会へ何からの便宜を図る布石となる。この一点で、クリスタリー教会は、素性の怪しいものは決して僧侶にはしないし、むしろ、教会に恩義を感じるようなものを進んで迎える。
これはユリアス司教の方針で、軍に影響力を持つことで、十字教の中での発言権の強化を狙っているわけだ。それに少ないながら、手元に有能な僧兵の集団を私兵のように置いてもいる。
今の世は力が全てなのだと、ここにいると私でも思い知らされる。
どこの集落でも用心棒が必要だし、国としても軍隊がなければ隣国に領地を切り取られてしまう。どれだけ銭があっても、剣や槍を実際に使うものがいなければ、銭の力は空回りする。
それは宗教にも言える。神がいようと、信仰があろうと、その神のためとか信仰のために剣を取るものがいなければ、神も信仰も精神的な救いではあるかもしれないが、実際的には無力だ。
教会が武装することは決して珍しくはないのも、現実を示している。
ユリアス司教はやや過激な武装主義者で、暗殺者に頻繁に狙われているという噂は根強くあった。
あの例の二つの首吊り死体が見つかった時も、あれはユリアス司教を狙った暗殺者だ、ということを本気で口にする尼僧もいたのである。ただ、切りつけられた傷跡も、殴られた痕跡もなしにどうやって殺したのか、という問いかけに答えられる尼僧はいなかった。
しかしまさか、セラがやったのだろうか。
小さな荷を背負って、セラがこちらを振り返る。
「仕事の一つが、護衛」
そんなことを言って、かすかに、本当にちょっとだけ、セラが口元を緩めた。
笑みだけど、どこか自虐的な笑みに見えたのは、気のせいか。
セラが「さよなら」と部屋を出て行こうとするのを、私は「送るよ」とついていった。セラは嫌がるでもなく、無言だった。
二人で寮を出て、教会の敷地を歩く。すでに周囲の山々に緑はなく、紅葉した葉が自然に模様を作り、赤や黄色が目に鮮やかだった。
「ああ、セラくん」
礼拝堂の方から誰かが歩いてきたと思うと、ユリアス司教だった。セラが足を止め、ユリアス司教に深く頭を下げた。ユリアス司教がこちらを見たので、頭を下げ、一歩、二歩と距離をとった。しかし声は聞こえる。
「何かあれば、支援させてもらうよ」
そんなことを司教は口にした。セラは何か答えたようだけど、私は頭を下げているのでわからない。ユリアス司教が急に声を上げて笑ったので、驚いた私は危うく頭を上げかけた。
ちらりと視界の端で、満面の笑みのユリアス司教が見えた。
「わかったよ、話を聞こう。ついておいで」
身を翻す気配がしたので、私は頭を上げた。ユリアス司教が礼拝堂の方へ戻っていくのに、セラがついていくじゃないか。私もついて行こうとしたけど、セラがこちらを一瞥して、それを見た途端、足を止めていた。
変な瞳の光り方だった。
射すくめられる、というのはこういうことを言うのだろうか。
足が地面に張り付いたようだった。
二人の姿が礼拝堂に消える。
どうしようかな。仕事へ行ってしまえば、セラを見送ることはできない。でもここで待っていれば、仕事はできない。
どちらかを選ぶ必要があった。
私は決めた。
セラを待つ。
どうせすぐに出てくるだろう。
立ち尽くしたまま、私は山の彩りを眺めた。すぐに冬が来る。
どれくらい待ったか、礼拝堂からセラが平然と出てきた。しかし気配はどこか、張り詰めている。急ぐでもなく、それでも彼女は私の前まで来た。
「行くから」
ぼそりと彼女はそう言って、麓へ降りる道の方へ進んでいく。私は何気なく、横に並んだ。
「司教さまとはどんな話を?」
私の問いかけは、つまり、護衛の仕事に関して話があったのか、というつもりだったけど、セラはすぐに答えなかった。
「護衛の仕事は誰かに引き継ぐの?」
問いを重ねる私にセラはやっぱり無言。
別れの時だっていうのに、気持ちよく別れようという気持ちがないような態度だ。
どうして私はこの女の子を見送りに出ようと思ったのか、それも仕事を放り出してまで見送ろうと思ったか、それが不思議だった。不愉快だった、といってもいい気持ちもあるけれど、私が勝手に見送ると決めたんだから、自分の責任かとも考えた。
「懺悔をした」
教会の敷地と外を隔てる場所へ来た時に、セラが低い声で言った。
教会の礼拝堂へ通じる道の石畳は、敷地を出ると模様が変わるのだ。柵などは何もないけれど、この道の境目だけで、どこからが聖域か理解できるのだから不思議だ。
「懺悔って、まさか男を二人殺した、ってこと?」
私も怒りに突き動かされたか、二度と会うはずがないという相手を甘く見たか、直線的な質問をぶつけていた。セラは教会の敷地を出たところで振り返った。
やっぱり仮面のように無表情だ。
感情というものを失ったように、目元も口元も、作り物のようだ。
こうして顔を付き合わせると、彼女はなかなか美しいとわかるけど、女性らしい美しさではなく、作り物のような美しさである。それも例えば洗練された輪郭の焼き物を見た時に感じる、心の震え方に似たものが、セラの顔を見ると心に浮かぶのだ。
「怖い?」
セラの口が開き、突き放すような言葉が出た。
怖いに決まっている。正直、怖い。
目の前の少女が男二人を簡単に始末するような技量を持っているとすれば、その技量は平凡の域ではない。超一流と言ってもいい。
しかも殺人の専門家。
それが二ヶ月近い間、隣の寝台に寝ていたことを思い出すと、背筋が冷えた。
そうか、いつか、干し肉を盗んできた夜があったじゃないか。あれは干し肉を持っていたのは、初歩的な欺瞞だ。彼女は干し肉を盗みに行ったわけじゃなく、何かしらの仕事をしたのだ。
夜にしかできない、隠れてするしかない仕事を。
自然、冷や汗が流れた。
「元気で」
聞き取れるか取れないかという声を残し、セラは今度こそ私に背中を向けて歩み去った。
元気で? そう言ったのか?
心が波打ち、鎮まり、波打ち、繰り返し混乱の中で翻弄された。
セラに気遣いができるとは、思えなかった。
甲高い悲鳴が聞こえたのは、セラがもう見えなくなって、落ち着きを取り戻した私が仕事に合流しようとしたところだった。
悲鳴に足が止まり、思わず私はセラが去って行った方を見たが、もう見えないのだ。
悲鳴が続くので、私は尼僧服を裾を少し持ち上げて、その方向へ走った。どうやら礼拝堂らしい。
私は血の匂いに気づいた。漂う生臭さは、礼拝堂に近づくほど濃くなっていく。
目の前で礼拝堂から転がり出てきた中年の尼僧が、腰を抜かして四つん這いになりながら、声の限りに叫んだ。
「司教さまが! 司教さまが、懺悔室で! あぁ……!」
私は足を止めて、もう一度、麓へ降りる道を見た。
セラはもう、見えない。
(第五部 了)
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