1-2 戦争と平和

      ◆


 本当にセラの仲間たちは水を運んできた。大きな甕が下されると、ささやかな水音が嫌が応にも私を興奮させた。

「一晩だけですまないね」

 水が沸かされ、同時に簡単な糧食の調理が始まるのを眺めながら、私の横でサリーンが言う。セラは馬のそばにいることが多いと私は観察していた。

「ありがとうございます、それだけでも十分です」

 私が答えるのに、何度かサリーンが頷き返した。

 すでに日が暮れかかり、四つの焚き火の揺らめく光が、原野を部分的に照らしている。

 サリーンは、この集団の指導者は誰かと真っ先に聞いたのだけど、私だ、と答えた時、さすがに困惑していた。

 それから私は彼女の質問に答えていった。話すうちに彼女も親身になってくれた。

 元はウライヴ侯爵領の外れにある集落にいたのだが、盗賊に襲われて大勢が殺された。金目のものはおおよそが奪われ、奴隷になりそうなものは連れ去られた。家々には火が放たれた。

 それが十日前のこと。

 生き残ったもの、難を逃れたものは、決断するしかなかった。

 このままここにいてものたれ死んでしまう。大勢が怪我を負っているか、病である。高齢のものも多い。

 誰が言い出したか、ウライヴ侯爵領と境界を接するイユーヴ伯爵家が統治する領地では、食料が豊富にあり、仕事も多いということがわかった。またイユーヴ伯爵は義の人という噂もあるようだった。

 こうして集落にいたものはイユーヴ伯爵領へ移動を始めた。

 出発した時には総勢で十八名だった。二日後には二名が死んだ。さらに二日後には一人が歩けなくなり、一人が付き添うと言ってその場に残った。七日目、三人が死んだ。そして昨日、もう一人が死んでいる。

 一行はほとんど半減した形だが、ついに盗賊に狙われて全滅か、という時、セラたちが現れた形だった。

 私はできるだけ淡々と、感情を込めずに話したけれど、どうしようもなく涙が出た。

 誰もが静かに、心穏やかに生きたいはずだ。

 それなのに、どうしてかそれを破壊するものがいる。

 他人の幸せが、安寧が、そんなに妬ましいのだろうか。

「昔のことだけど」

 声を殺して泣いている私の横で、サリーンが静かな口調で話し始めた。

「この大陸には、いくつかの国があって、争っていた。それぞれの国が、それぞれに平和な生活を民に与え、また同時に、他の国の民であるところの兵士を殺戮した」

 私が黙っている横で、サリーンの声は平板なものに変わっていった。やがてそこには、何の感情もなくなった。

「そういう平和と騒乱の間で、結局、クエリスタ王国が大陸を統一したわけだけど、結局それは他の国を滅ぼしたということだよ。何も悪いことをしていないものでも、殺されただろう」

「でも私たちは」

「私たちは王族でもなく、貴族でもなく、兵士でもない、か? そういう言い訳が通用するかしらね」

 何を言われたか、わからなかった。

 まるで私たちに非があるかのような内容だった。

 涙が止まり、次には頭の中で怒りが渦巻いた。言葉を、叫びを口から出したいのに、あまりに憤怒に言葉が追いつかなかった。

「誰もが損をするものさ」

 投げやりなサリーンの言葉に、私は耐え切れなかった。

 手が翻る。

 でも彼女の頬を打つことはできなかった。

 まるで予想していたように、彼女の手が私の手を掴み止めたからだ。

「不満かい?」

「あなたは、私たちが何を見たか、想像できないのっ?」

 叫ぶ私の声で、周囲はしんと静まり返った。

「みんな殺された! それを、損なんて表現して、許されると思っているのっ?」

「みんな殺された、か」

 ぎらりと瞳が光った気がした。

 サリーンの顔から血の気が引き、薄明かりの中でまるで死人のように見えた。

「私たちも一族を皆殺しにされた。恨もうが、憎もうが、相手を殺したとしても、死んだものは蘇らない。そして私が誰かを刃にかければ、そのものに縁故のあるものが付け狙ってくる。わかる? この地獄は無限なんだよ」

 私が何も言えずにいるのに、ぐっと私の手を掴み止めたままのサリーンの手に力がこもる。

「いいかい、お嬢ちゃん、この世の中に親切をしてくれる奴なんていないんだ。国を建てる、民を豊かにする、なるほど、聞こえはいい。しかし国を建てるために兵士は犠牲になり、農夫は作物を奪われ土地を荒らされる。税は重くなり、飢えに苦しみ、賊徒や盗賊が横行して血が流れる。そういう仕組みなんだよ」

 今やサリーンの目の中には、鬼気迫るものがあった。

 私が見てきた光景とはまるで違う、本当の闇を見たような、そんな眼差しだった。

「サリーン」

 いきなり横で声がして、ハッとした時にはそこにセラが立っていた。

 彼女の手がサリーンの手に触れた。柔らかく、慰めるように。

 サリーンの細い指から力が抜け、私の手は解放されたけど、しばらくは痺れが抜けなかった。

 食事が始まり、私は久しぶりにまともな食料にありつけた。ここまでは重湯のようなものと野の草で食べられるものを煮たもので、飢えをしのいでいたのだ。

 雰囲気は急に明るいものになったけど、私の心は晴れなかった。

 サリーンにぶつけられた言葉を、ずっと考えていた。

 平和の礎といえば聞こえはいいけれど、それは血に塗れ、数え切れないほどの屍体の上にあるとすれば、平和というものが手放しで素晴らしいとはとても言えない。

 これまでも、きっとこれからも、大勢が犠牲になるだろう。

 大勢が犠牲になって、いつか、もしかしたら、平和がやってくる。

 平和がやってきても、倒れた人、飲み込まれた人は、その平和を見ることは叶わない。

 不公平だ。不条理だ。

 でもそれは覆すことのできない真理だった。

 私は自分の手元の粥を見た。米が入っていて、重湯と違って粒が多いのが嬉しい。嬉しいはずなのに、うまく口へ運べなかった。結局、冷め切ってから、ぐっと一息に飲み干したのは、もしかして後ろめたさだろうか。

 この粥の米さえも、誰かが必死に地を耕し、世話をして育った稲から作られたもので、しかし二束三文で買い叩かれ、あるいは暴力によって奪われたものかもしれない。

 私は自分が少しも汚れていない、正しい人間のように思っていたけど、違うのだろうか。

 あの今はない集落で過ごした日々は、この世の中の一角の、何もかもから無視された、小さな楽園での日々だったのか。

 夜になり、焚き火は燠火となり、セラの仲間たちが歩哨に出て行く。私たち女と老人の十名はじっと身を寄せ合い、しばしの安全の中でぐっすりと眠った。

 私だけが燠火のそばで、眠ることができずに時間を潰した。

 どうしてか、眠るのが裏切りに思えた。

 私自身を裏切る行為に。



(続く)

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