1-3 王者の気質
◆
明け方、サリーンが私のそばへやってきて腰を下ろした。
「昨日はすまなかったね。許してちょうだい」
女性なのに男性みたいな喋り方をするのは、恥じていると感じさせる響きがあった。サリーンの声はよく響く低音の声をしていて、そこは傭兵というより歌手のほうが合いそうである、となんとなく思った。
それよりも今は、彼女の言葉だった。
「別に気にはしていません」
「じゃあ、なんで眠ろうとしなかったの?」
「私自身が、その、不甲斐なくて」
正直な言葉だったけど、サリーンは小さく噴き出すと、声を上げて笑い始めた。
「あははは、あなた、結構、面白いね」
「どこが面白いんですか」
ムッとして問いを向ける私に、サリーンは目元を指で拭ったりしている。涙が出るほど面白いだろうか。
「人にはそれぞれ、できることがある一方、できないこともある。例えば、あなたは一人きりじゃ荷車を押せないし、あなたは盗賊を撃退できない。馬にも乗れないし、剣を取ることもできない」
サリーンの指摘に、今度こそ私は黙るしかなかった。沈黙した私の横で、サリーンは淀みなく続ける。
「つまりあなたには自分自身が不甲斐ないかもしれないけど、それは不相応なことを考えているだけ、ってことになるね」
「私が無力ってことですか」
「人はみんな無力から始まる、ってことだね」
すっくとサリーンが立ち上がったので、自然と私は彼女の長身を見上げていた。
彼女の視線は遠くを見ている。私もそちらを見た。
朝日が遠い稜線から上がっていくのを背景に、小柄な影が剣を構えている。
しかし動こうとしない。
動こうとしないのに、見る者を圧倒する何かがある。
セラの小さな体から放射される力は、獅子を前にした時に感じるものと近いかもしれない。
あの小柄な女性が、生まれた時から獅子なわけはない、か。
サリーンのいうことがちょっとだけ分かった気がした。
その予感のようなものを確かめるために、私はじっとセラに視線を注ぎ続け、セラはその間、全く動かなかった。
体も剣も、微動だにしない。
ついに朝日が周囲の光景に彩りを与え始める。眠っていたものも目を覚まし始める。
不意にセラから気配が消えた。
次には剣が振り下ろされ、翻り、鞘に戻っていた。
すごい、と思わず声が漏れたのは、素人から見てもただの一振りに込められた覇気に打たれたからだ。
「あの人は」
思わずサリーンに問いかけていた。
「あの人は、どういう方ですか?」
「ただの傭兵、フーティ騎馬隊の隊長だよ。それ以上でも以下でもない」
傭兵。
彼女の言葉に含まれていることを考えて、ちょっとだけ昨夜のサリーンの言葉への理解が深まった気がした。
クエリスタ王国の崩壊以降に限らず、統一以前にも様々な国、領地が存在した。そのうちのいくつかは完全に消滅し、血筋が絶えた家柄も多い。もっとも、血筋が意味を持つ時代でもないが。
とにかく、この世界には、かつての有力者の思想のようなものを継承する人がいるはずだ。それは王者の心得、王者の気質を持っているもので、つまり、セラもそんな人々の一人なのではないか。
全くの空想だし、妄想だけど、現実であってもおかしくない。
あの剣に込められた力を見れば、彼女がただの傭兵とは思えない。
でも今の世界では、彼女はただ傭兵、ということか。
湯が沸かされ始めるが、朝食は保存食で済ませると聞いている。ここにセラたちフーティ騎馬隊がいるのは偶然で、彼女たちは仕事に帰り道に寄り道したに過ぎないという。私たちを助ける義理もなければ、私たちが銭を持っていない以上、助ける理由もないのだ。
傭兵とは、銭で動く組織であって、義理や人情で危険を冒す組織ではない。
フーティ騎馬隊の男たちが戻ってくる。皆総じて小柄で、若い。気配は溌剌として暗いところは微塵もなかった。その明るさに引っ張られるように、私たち避難民の集団にも笑顔が見られる。
保存食だという炊いた米を固めて、乾燥させて塩気をつけたものが配られた。だいぶ硬いが、口に含んでいれば柔らかくなるという。
サリーンが私のところへ戻ってきて、地面に地図を広げた。地図と言っても様々な目印が無数に書き込まれているものである。騎馬隊は街道を駆けるだけではなく、原野を突っ切ることも、丘を乗り越えること、もしくは丘を迂回していくこともあるからだろう。
「イユーヴ伯爵領は、あの山を正面に見て進み、川にぶつかったら下流の方へ向かって進めばいいだけだ。おそらく五日ほどだろう」
感情のこもらないサリーンに、私はなかなか声を返すことができず、危うく何も言えないままになるところだった。
「様々なご助力、感謝します。ありがとうございました」
頭を下げる私にサリーンは無言だった。この先の道のりの困難を彼女が考えないわけがない。
その彼女はゆっくりと立ち上がり「無事を祈る」とだけ言葉を残した。私が視線を送る先で、部下のところへ行った彼女が何かセラと話をして、頷いたセラの指示ですぐに三騎が駆け出していくのが見えた。
避難民たちはすでに移動の用意を終えていた。傭兵たちの騎馬隊もだ。
別れの時だ。
私たちが誰からともなく頭を下げる。騎馬隊の男たちはセラの号令のもと、駆け出していった。
馬蹄の音があっという間に小さくなり、後には風が草を揺らす音だけになった。
途端、避難民の間に流れる空気が暗くなるけれど、「先を急ごう!」と私が声を張り上げると、みんなが気を引き締めた。今は緊張、気力、それだけが頼りだ。
荷車を協力して曳いて、押していく。一晩の安心の中の休息が大きかったようで、どの女も力を回復していた。
原野を進む。
日差しは心地いいはずが、それを味わう余地もない。
汗にまみれて、それでも動き続ける。
とにかく先へ進む。
昼を過ぎ、夜になり、休息。昨夜と違って食事は形ばかりだ。水で薄く薄く伸ばした、重湯とも呼べないものだった。
男二人が歩哨に立ち、夜は更け、やがて明けた。
再びの移動。
丘の一つに上がった時、ついに川が見えた。
あれを下っていけば、イユーヴ侯爵領に入れる!
あと少しだよ!
私はそう声をかけようとして、それに気づいた。
後方、三つほど離れた丘の上に騎馬の集団が見えた。すでに斜面を駆け下りている。
間違いようもなく、私たちに向かってくるだろう。
しかし、何故。
セラたちに撃退された仕返しだろうか。
私達を襲ったところで、何も手に入らないのに。
それなのになんで?
悔しかった。
恨めしかった。
しかし出来ることは何もない。
あるとすれば先へ進むことだ。
急ごう、と私は荷車を押した。
ゆっくりゆっくりと十人の塊が進んでいく。
今や、蹄が地面を蹴立てる音は、聞かない方が無理というものだった。
斜面を下り、先へ。川はすぐそこだ。
でも川が目的地ではない。そこを下っていって、それも数日をかけなければ、私たちは一時の安息もない。
遠い。
世界の果てほど遠い場所に思えた。
その時、喚声が背後で爆発した。
(続く)
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