第133話 貴方のためにできること、或いはシンデレラ・グレイマンとハシバミの枝


 寒々しい虚空の海か、それとも騒々しい満天の空か。

 全周モニターの先に映り込むのはあまりにも遠き星星の明かりであり、コックピットシートだけがその中で孤独に浮遊しているように見える。

 第二の皮膚とも言うように体表に張り付いた駆動者リンカースーツに包まれた指先が動き、金糸の髪を揺らした少女はロザリオを握り締めた。


「大尉……」


 シンシア・ガブリエラ・グレイマンは、猫のような輝くその琥珀色の瞳を閉じて――――。

 一人、祈る。

 無線の音も、駆動の音も聞こえない。

 宇宙の完全なる静寂の中で、一人、祈る。


「わたしの声は、聞こえますか?」


 それはヘルメットの中でだけ、反響する。


「わたしの言葉は、届きますか?」


 その声に、返される言葉はない。

 きゅっとスーツを纏った二つの手のひらが、銀のチェーンに繋がれたドッグタグと十字架を強く包むだけだ。

 祈りだ。

 彼は祈らないかもしれないが――彼女は祈る。


「……わたしは、貴方にいつか、心から、笑ってほしいと思っています」


 祈りのための、答えそのものにもなれず。

 まだ穢れなき乙女は、いつか感じた名残のような気配へと祈る。

 届くことと、告げることは別であるように。

 応えられることと、祈ることは別のものだ。


「こんな世界だけど、いつか、貴方が、ちゃんと笑える日が来てほしいです」


 静かに。

 星の乙女は、ただ祈る。


「……そのときにわたしが隣に居られたらなって、思うけど……でも、貴方が笑えるならそれが一番いいです。わたしは、それがいいです」


 生きてその日、隣にいれるとは限らない。

 それともまた身体のどこかを失うとか、奪われるとか、そうなってしまうかもしれない。

 それは、怖い。

 怖いけど、だけど――――……


「……わたしは、貴方に、何をしてあげられますか?」


 問いかける。

 彼女は答えそのものではない。

 彼女は問いかけであり、祈りなのだ。


「大尉」


 きっと届かないだろうけど、伝わらないだろうけど。

 それでも届いてほしいと――――が、祈りなのだ。

 だから、


「聞こえますか――……?」


 瞳を閉じて、思い描く。

 それだけが、互いの間にある遥かなる距離を縮められることだと信じて。

 シンシア・ガブリエラ・グレイマンは、祈る。



 ◇ ◆ ◇



 暗礁海域と呼べるそこは、ある私企業の宙間機動試験場として登録をされている。

 宇宙方面第一艦隊が甚大な損害を受けた【フィッチャーの鳥】はすぐさまの行動もできず、今のところは彼ら【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】も立ち入られる心配なく、装備や艦隊の修繕を行えていた。


 組織としての乾坤一擲であった【雪衣の白肌リヒルディス】の奪取を阻まれた【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】には、確かな疲労があった。

 しかし、元より【雪衣の白肌リヒルディス】の位置を事前に特定した上で綿密に企図された決戦――物資も人員も注ぎ込んだもの――ではなく、半ば遭遇戦じみていたものであったこと。

 何よりも大軍とはいえない組織での二面作戦にはそも無理があった状況の中で、その所属艦に大きな被害を出さなかったことは僥倖と呼んでいいだろう。


 今、組織の面々にあるのは、次の手をどうするか――であった。


 当初の戦略目標の通りに【雪衣の白肌リヒルディス】の奪取を行う――そのためにも【蜜蜂の女王ビーシーズ】への対処をするのか。

 それとも、あくまでも対【フィッチャーの鳥】の路線を崩さずに向かうのか。

 そんな、組織としての決定的な方向性を定めることに繋がる舵取りの行方だった。



 機動艦内の兵器格納庫内に設けられた壇上に、癖のある灰色髪の男が登壇する。


 艦内にあっても天井が高いそこは、さながらオペラハウスめいていた。

 区画されたボックス席とバルコニー席じみてホログラムウィンドウが階層を作り、電脳の遺影じみたウィンドウが幾重にも宙に投影される。

 格納庫の床には桟敷席じみて兵たちが整列しており、それらの視線を一手に受けながら――マクシミリアン・ウルヴス・グレイコートはやおら口を開いた。


「手隙の者には集まって貰えたようだな。ここにいない作業中の人員には、後ほど情報の共有を行う。……さて、では今後についての話を行っていく」


 早速とばかりに手を翳して作戦図を宙に投射させたマクシミリアンへ向けられる兵たちの視線は、熱い。

 かつて単身にて【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】の三番艦を葬ったヘンリー・アイアンリング特務中尉との戦闘の影響か、今、マクシミリアンの指揮を疑おうとする兵は少なくなっていた。

 マクシミリアンとしては、あれだけの火力を用いても敵を仕留められなかった戦いの結果であるため些か本意ではないところでもあるが……それを飲み込みながら、前線指揮官としての仮面を被り直す。

 投影されたヴィジョンに映るのは、北米大陸――光点が示すのは、保護高地都市ハイランドの主要地の一つだ。


「情報部からの緊急回線を通じた連絡だ。ブリンディッジ市に対して、【蜜蜂の女王ビーシーズ】とは異なる衛星軌道都市サテライトの残党による攻撃が仕掛けられたそうだ」


 僅かに、兵がざわつく。

 構成員の中には、衛星軌道都市サテライトからの帰化市民もいる。


「騒乱自体は既に鎮圧されているが、三つの問題がある。一つはブリンディッジ市という大規模集積場への攻撃が、保護高地都市ハイランドそのものに対して少なくない影響を与えたということ――――つまり、市民たちの間には、我々と彼ら【フィッチャーの鳥】の生産性のない争いが故に防備が手薄となり、この事態が引き起こされたと見る者も増えていることだ」


 元より直接の利害関係のない市民たちからは、内乱の片勢力ということであまり好意的な目は向けられていなかった。だが――……


「なお、この騒乱において、解決に寄与した彼ら【フィッチャーの鳥】の支持は大きく回復しているそうだ。……おそらくこうして我々が介入できぬその間に、彼らは足場を固めるつもりなのだろう。……そこで或いはあの衛星兵器の存在を明かしたところで、それでも差し引きで民衆からの支持を得られるように。広報面でも、彼らも戦い方を変えてきた……かつての大戦を思わせる存在を利用することで、人々の中に強攻策の芽を育てようとしている」


 また、どよめきが起こる。

 私的な制裁や過剰な鎮圧、利己的な徴収や摘発、取り調べに託つけた性的暴行などの悪しき面を持つ【フィッチャーの鳥】の問題行動への異議――――。

 そんな面も持つ【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】への参加は、少なからず彼ら兵たちの正義感も満たしていただろう。表向きに支持は集められずとも、方向性や危機感への理解はされていると。

 その観念の、民衆との乖離。

 或いは現に暴力を受ける衛星軌道都市サテライト海上遊弋都市フロートとの保護高地都市ハイランドの価値観の相違。

 そんな分断の体感が、まさに分断を避けるべしと組織された【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】にこそ広がるようなこの反応に、マクシミリアンは内心で苦い顔をせざるを得なかった。

 しかしそれでも冷静に表情を保ちながら、続ける。


「……なお、当の【雪衣の白肌リヒルディス】については現在も捜索中だが、行き先は依然として解っていない。反体制派の中でも比較的穏健派である衛星軌道都市サテライト民族自由議会などに探りを入れているが、【蜜蜂の女王ビーシーズ】から彼らの方に接触したという話も入っていない。……こちらは依然として捜索を続けていくつもりだ」


 これに関してはざわつきというより、不可解さが目立っただろう。

 あの【蜜蜂の女王ビーシーズ】の戦死した指揮官――戦時中からタカ派の言動が目立ったアンドレアス・シューメーカー大佐は、代々衛星軌道都市サテライトの高級軍事将校を排出した家名であったが故に、彼に対する協力者の存在はまだ頷けるところであった。

 だが、当のその本人が【フィッチャーの鳥】の手によって討ち取られた上に、その後を継いだのはウィルへルミナ・テーラー――元保護高地都市ハイランド貴族の傍流の家系出身の令嬢とはいえ、何より技術者の娘である。


 それが、あんな鮮烈なる戦いぶりで大量破壊兵器を横から掠めとったこと。

 そしてそれでも、【蜜蜂の女王ビーシーズ】は二分した兵の片方を完全に失う被害を出したこと。

 というのに、戦力の補充に繋がる宣伝や声明の発表がされないこと。

 更に言ってしまえば――……彼女がここからどんな勝利を目指そうとしているかさえも、不明と言えた。


 ともあれ、


「そしてこの【雪衣の白肌リヒルディス】についてだが――……」


 この集会の本題は、そして兵たちや支援者たちが聞きたいのは、まさにその一点であろう。


「まず一つ……。当該兵器は、ウィルへルミナ・テーラーないしは彼女と呼応した【フィッチャーの鳥】によって地表めがけて使用された。……それが明確な戦略なのか、苦し紛れの行動なのかは不明だ」


 これまでで最大のざわめきだった。

 立ち並ぶ兵たちも、ホログラムウィンドウの向こうの支援者たちも声を上げている。

 【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】としての戦略目的の失敗――――……誰しもがそんな感想を抱いても当然だろうと、マクシミリアンは思う。

 だが……。

 皆の喧騒が落ち着くのを見計らって、告げた。


「今のところ、この衛星爆撃による被害情報は入っていない。……どころか、現場に居合わせたハンス・グリム・グッドフェロー大尉によって【雪衣の白肌リヒルディス】は少なくない損害を受けたらしい」


 上がる、声にならない驚きの声。


「……彼が敵兵装と誤認して攻撃に及んだのか、それとも何か明確な企図の下にアーク・フォートレスの破壊を試みたのかは不明だ。しかしながら分析により、少なくとも当該アーク・フォートレスがすぐさまに完全稼働できないほどの損害を負わせたのは事実と見える。……不幸中の幸いだろう」


 浮かぶ望遠での戦闘映像に、集団が息を呑むのが伝わってきた。

 それは戦略目標があわや撃墜させられかねなかったことへの衝撃であり、同時に最悪の悲劇が未然に防がれたことへの安堵でもある。

 中でも若い兵たちは、行ける伝説の新たな一幕を目の当たりにしたような表情だった。己たちが伝え聞かされた寝物語が現実だったと――その衝撃を共有するかのように、互いに顔を見合わせている。


 元衛星軌道都市サテライト海上遊弋都市フロート出身の兵士は畏怖を――保護高地都市ハイランド出身の兵士は敬意を。


 そんなものがマクシミリアンからは確認できた。

 その中には、シンデレラ・グレイマンも含まれる。

 目を輝かせてその活躍を噛み締めているふうに見えた。


(……こんなものが、向けられているなど)


 保護高地都市ハイランドの鬼札。

 焼け落ちる街で立ち上がりし不屈の英雄。

 秩序の番犬。国家の番人。連盟旗の守護者。


 一個人の肩にかけられたそんな無数の修飾を――兵たちの反応を通して今まさに実感を持って目の当たりにしているのだと、マクシミリアンは遠い気持ちになった。


「何にせよ……我々のすべきことは決まっている。相手が【フィッチャーの鳥】にしろ、【蜜蜂の女王ビーシーズ】にしろ、我々はあの兵器が生み出す悲劇を防がねばならない。なんとしてもこの宇宙で捕捉しなければならない」


 改めての、言葉だった。

 ハンス・グリム・グッドフェローという秩序の体現のような男の行動を通して聴衆の中のそれが火勢を増したのに合わせて、告げる言葉。

 己の無二の友であり、無二の敵となった者の影響力を利用した――宣誓。


「当初と方針の展開はない。我々の目的は【雪衣の白肌リヒルディス】の確保であり、そして【フィッチャーの鳥】への糾弾だ。【蜜蜂の女王ビーシーズ】は交渉による対処が可能であるならそのように……そうでないなら、我々も相応の強制力を発揮しなければならない」


 動く口とは裏腹に、感情は冷めていく。

 これが――この光景が。

 彼という男が軍人という身分と、法治という枷を背負ってまで人々に見せようとしている祈りの景色というのか。


「くれぐれも【フィッチャーの鳥】を追い詰めるそのために、彼ら【蜜蜂の女王ビーシーズ】に与することはあってはならない。彼らは、あの兵器を使用した者たちなのだ」


 それに強く頷く兵たちや、異論を口にしなかった支援者たちを眺めながら――――思う。

 

 


 静かに――しかし強く握ってしまった拳の力を抜きながら、息を整えた。

 ここから先は、マクシミリアンの犯してしまったミスについての話なのだ。


「そして、三点目……先のブリンディッジ市の騒乱においての最後の問題だ。この戦闘において【角笛帽子ホーニィハット】による残党への襲撃援護が行われたようだが――……我々はこの戦闘に介入していない。この件は【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】の知らぬところで行われたものである。だが――……」


 何が起きたかなど、明らかだ。


「先の戦いにおいて、アーネスト・ヒルデブランド・ギャスコニーが【蜜蜂の女王ビーシーズ】に居るのが確認された。……あの男を引き込む要因となった私に言えたことではないが、今回の我々にかかった市民からの評判の件はそれにも端を発しているだろう。……本当にすまない。私のミスだ」


 頭を下げれば、それを補うように別の声が上がった。

 壇上に浮かんだ青いホログラムのヴィジョン。

 深い黒衣に身を包んだ長身のサングラスの老人。敬虔なる牧師でありながらも静寂なる拳銃使いガンスリンガーであることを示す、揺るぎない老巨木めいた気配を持つスティーブン・スパロウ中将。

 【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】の事実上の指導者だ。


『仕方ないさ。あのヘイゼル・ホーリーホック特務大尉とハンス・グリム・グッドフェロー大尉を相手にしていたら、ここまで来るよりも先に僕らは壊滅していただろうからね。……そう思えばやむを得なかったことだと言ってもいいさ。そうだろう?』


 異論は、上がらなかった。

 或いはそこには先に示されたあのハンス・グリム・グッドフェローの戦いの件が少なからず影響していることもあるのかと思えば、マクシミリアンは腹の底から忸怩たる想いに駆られる。

 彼を利用している。その一員になっている。他ならぬ己が。彼を利用している。

 そう――……髪を掻き毟りたくなるほどの感情が、ささくれ立つ。


 それを知ってか、ホログラムヴィジョンのスパロウ中将が柔らかな瞳を向けてくる。

 応じるように内心で頭を振って、締め括るような声を上げる。


「総括すれば今回の一件は、地上での【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】と【フィッチャーの鳥】の支持に強い影響を及ぼす結果になった。……そして、同時に、ある情報が入手された。これが今回の本題だ」


 終わりかと――そう思っていた兵や支持者たちは、ほんの少しざわついた。

 マクシミリアンが手を翳す。

 それに合わせて宙に浮かぶ資料。数多の報告書。証拠。

 すなわち――


「今回のブリンディッジ市の騒乱。驚くべきことに、これは――【フィッチャーの鳥】による自作自演的な騒動である」


 これこそが、最大のどよめきであった。


「【蜜蜂の女王ビーシーズ】と呼応し、彼女らは直接の指揮下にない残党を唆すことで危機を起こし、それを【フィッチャーの鳥】に解消させた。そして今度は見返りに、彼女らは一定の補給資源を受け取ろうとしている」


 その会合点やルートを示す光点が、宙の宇宙図に灯されていく。


「恐るべきことに、彼女らは【雪衣の白肌リヒルディス】を奪った張本人ながら――……紳士的な取引相手として、【フィッチャーの鳥】との共同戦線の構築の余地さえ残しているようだ。そこにどのような力学があるかは不明にしろ、現に排除されず……彼女らはあの騒動から二十日近く経過してなお、指名手配の一つすらされていない」


 再度顔を見合わせた兵たちの困惑。

 あれほどまでに明確に弓を引きながら、明らかに残党と呼ばれるにも相応しい立ち位置ながら、滅ぼされぬ集団。

 そしてそれこそは――【フィッチャーの鳥】の背任と自己矛盾だと、彼らに思わせるには十分だろうか。

 事実は、不明だ。

 自分はハンス・グリム・グッドフェローのように、現実と行動だけに重きを置いた人間ではない。使えるものは全て使って統率してこその、狼の主だ。群れを誤った方向に導かぬのならば、不確定要素すらも手札にしよう。


 この集会にて、兵や支持者たちにはさらなる動儀付けが為された。


 疑いなく、群れの一つとして動けるように。

 敵意の匂いを擽るこの行為は――……或いは己たちが防ごうとしている分断の文脈に、まさに沿ったものであろうか。

 自嘲する。

 それを為せる自分にも。それを疑わぬ兵にも。

 ああ――何たる証左か。自己矛盾か。まさにこの光景こそが分断という怪物が滅びぬ理由であり、駆逐できぬ証明である。

 自家中毒の果てに滅んだ衛星軌道都市サテライトのように。

 物語というものを与えられた人は、こうも容易く組み込まれる。――――何たる愚かしく、恥ずべき光景か。


(だが……それでも我々は、やらねばならない)


 そのためには悪なるものも呑みこもうと、マクシミリアンは瞳を閉じた。

 いつか。

 いつかもし、己が理念を失ったら――それが霞んで遠ざかったなら。

 この光景は、一体、どんなものに変わってしまうのだろうか。或いは開拓の理念が腐敗した、己の祖国のように。


「取引が行われるのは、エーデンゲートだ。知っての通り、ここは地球と月を繋ぐ輸送の要所だ。その大規模な輸送網の片隅で、彼らは取引を実行する」


 話す口は、次の行き先を告げる。


「我々の次の作戦は、この取引の現場を抑えること。……【フィッチャーの鳥】の新たなる背任の証となる。心して作戦に挑んで欲しい」


 情熱の中に囲まれた冷静さのまま、マクシミリアン・ウルヴス・グレイコートはそう告げた。

 正気を祈る。祈らなければ正気で居られない。

 或いはその祈りという行為すらをも失ってしまったその日にこそ、正気なるものは全て遠ざかってしまうのだろうか。



 ◇ ◆ ◇



 駆動者リンカーの待機室に着くなり、ホログラムのスパロウ中将の隣に立つマクシミリアンへ、波打つ金糸の髪の少女が問いかけた。


「そんなに都合よく、取引が行われるんですか?」

「……私も半信半疑だ。それを餌にこちらを誘き出そうとしているのか、それとも【蜜蜂の女王ビーシーズ】を釣り上げて拿捕を行おうとしている方がよほど自然に思える」

「なら……」

「罠を仕掛けるならば、少なくとも罠にかかった相手を仕留められる兵力を集めるということだろう。……正直なところ、今いたずらに【フィッチャーの鳥】に打撃を与えるのは控えたいところではあるが、逆にここで彼らの勢力を削ぐことで【蜜蜂の女王ビーシーズ】が次なる手を打つかもしれない」


 つまりは、罠と想定した上で動くという話だ。

 結局のところ、今最も注意を払うべき相手は【フィッチャーの鳥】ではなく――現に【雪衣の白肌リヒルディス】を有し、その出方が一切伺えない【蜜蜂の女王ビーシーズ】であった。


「我々の利は、兵と装備の質だ。撃墜数上位陣ダブルオーナンバーズに比す戦力を最も抱えているのは我々だ。つまり、強襲戦に関して我々は最大の勢力である」

「……ヘンリー中尉たちはどうなるんですか?」

「私には、彼らが撃墜数上位陣ダブルオーナンバーズと同等とは思えなかったし――……そして、仮にどちらでも問題ない。アーセナル・コマンドという装備が故に、如何な撃墜数上位陣ダブルオーナンバーズ相当といえども防衛戦は不向きなのだ」


 それは紛れもない事実だ。

 せいぜいが、ロビン・ダンスフィードとリーゼ・バーウッドほどしか防衛戦への適性があるものがいない。

 でなければ、あの戦争はもっと早期に収束していたであろう。あくまでも、強襲機動兵器の域は出ないのだ。


 そう返せばシンデレラは頷き納得しながら――……何か考え事をするような間をおいて、改めてマクシミリアンへと琥珀色の瞳を向ける。

 色が、違う。

 静かに覚悟をしながら、彼女を眺める。


「……その、ひとつ、お願いがあるんですけど」

「何かな?」

「えっと……」


 躊躇いがちに。

 しかし――意を決した眼差しで。


「大尉……ハンス・グリム・グッドフェロー大尉のことです」


 シンデレラ・グレイマンの口からその名前が出たとき、マクシミリアンは内心で吐息と共に瞳を閉じた。

 続く言葉など、決まっている。


「お願いします。もし、あの人と戦うことがあっても……あの人のことを、すぐに撃たないでくれませんか? わたしにどうか、説得の機会をください……!」

「それは……」

「わかってますよ、無理を言ってるって……! でも……もし戦いで大尉を傷付けてしまうなら、なんのためにわたしがここに来たのか判らなくなってしまうじゃないですか!」


 声を強めたシンデレラに、マクシミリアンはここがあまり人の居ない場所で良かったと胸を撫で下ろしていた。


「嫌なんです。……わたしは戦うつもりだけど。戦わなきゃって決めたけど……それはもう大尉だけが理由じゃないけど。でも、それとは別に! それでもその先に、大尉がいない世界なんてのは嫌なんですよ! そんなの、考えたくもないんです……!」


 首を振る彼女の表情は、切実だ。


「だから……その分、役にだって立ちます! できないと思えることもやってみせます! どんな相手にだって勝ちます! だから、せめて大尉をすぐに殺そうとしないでください! わたしに大尉を説得する機会をください!」


 その小さな拳を握り締めながら、必死に振り絞ったような彼女の言葉へと――僅かに吐息を零した。


「……彼を傷付けられる人間がいるとは、思えんがね」

「そういう話をしてるんじゃないんです! 本当に傷付くかと、傷付けようとするかはまた別の話でしょう!?」


 それは確かにそうだろうな、と思う。

 幾ら死ぬとは思えない者とは言え、それに刃を向けるかは別の話だ。それが親しいものならなおさらだろう。

 それが、人として当然の感情だ――……だが、


「君が加わってからは、彼との交戦はないが……既に彼はこちらの陣営に被害を出している。それでも彼を殺すなとは、虫がいい話ではないかな?」

「いけませんか、虫がいい話をしたら!? だって少なくとも……少なくともわたしは、その程度の役には立ってるでしょう!? それに、もっとやってみせるって言ってるんです!」

「……」


 それは、若さなのだろうか。

 それとも、別の感情なのだろうか。

 子を庇う親猫が毛を逆立てるような少女へと、マクシミリアンはやんわりと告げた。


「役に立っているから無理を通せ、というのは危険な思考だ。……それを続けた先にあるのがあの【フィッチャーの鳥】というのは、君にも判るのではないかな?」

「それは……。……判ります。判りますよ、でも――」

「聡明で何よりだ。……なので、誤魔化さずに私も答えよう」


 一度、区切り、


「感情を抜きにして語るとすれば、残念ではあるが――君がこちらに齎してくれた利益と、彼が生きていればこちらに齎すだろう不利益は比べ物にはならない。君には確かにあのアーク・フォートレス撃破という実績があるが、グッドフェロー大尉が積み上げた実績には遠く及ばない。……君は、あの男が何機のアーク・フォートレスを葬ったか知っているかね?」

「それは……」

「十一隻だ。共同撃破を含めれば、三十八隻――……理解できるだろうか? 彼は、保護高地都市ハイランドの全アーセナル・コマンドに比して、――と試算されたアーク・フォートレスをそれだけの数滅ぼした。そしてスコアは全て、共同で撃破を行なった友軍に渡している」


 滅びを滅ぼす者と、そう呼ばれた。

 あらゆる戦闘で。

 あらゆる戦場で。

 あらゆる手段を用いて、そこにある滅びを駆逐する。実体化した死の概念。殺戮の化身。


「戦場で彼を撃つなというのは、無理難題だよ」

「……ッ」

「人類史上最大、最強の九人の内の一人だ。……比べるのも難しいと言える。都市一つを容易く滅ぼせるこのアーセナル・コマンドという兵器が広がった世において、


 第九位の破壊者ダブルオーナインという名は、伊達でも酔狂でもない。

 毎秒数十Gの加速度に耐えながら宇宙を縦断してあそこまで戦闘を続ける存在が――果たして一体、どこにいる?


「今や君もその山嶺いただきに手をかけたからこそ、知れるだろう? 史上初めてアーク・フォートレスという兵器に直面し、それでもそのまま滅ぼしたというのがどういうことか……初めて相見えるアーク・フォートレスという新種の存在と戦闘を行い、打ち砕き、更にはその足で別のアーク・フォートレスを撃墜しに行くのがどういうことか」

「っ……」

「《仮想装甲ゴーテル》なしで敵中隊の半数を滅ぼすのがどういうことか。一昼夜に及ぶ激戦の中で、被弾らしい被弾をしないというのがどういうことか。大隊規模のアーセナル・コマンドに囲まれた中で、近接兵装しか持たぬというのに撃ち落とされぬどころか、あまつさえ殺し尽くすのがどういうことか……」


 常人では、そんな領域に到達しない。

 或いは数多の研鑽の果てには到れるだろう。いずれは辿り着けるだろう。

 だが――数十年ではなく、兵器の登場からすぐに、たった数年で?


「アレらは、人の身のまま神域に至った踏破者たちだ。軍上層部が、極めて大真面目に、――と評価を下したのだ」


 彼のそれは他の上位陣と異なり再現可能な技だ。

 しかし、だからこそ特異なのだ。

 まるで人生や経験を加速しているとしか、言えなかった。


「説得が叶わなかったときにどうするか――」

「っ、」

「……その分では、君も想定の内かな。だが、それができる相手だと……本当に思っているのかね?」

「それ、は……」


 兵装と戦闘能力だけを奪い、撃墜する。

 それもまたある種の神業に近いものだが、シンデレラ・グレイマンは現にそれまでこれを為していた。そのことに疑いはなく、彼女の自認も自負も過ちではない。

 しかし――言葉を詰まらせた少女も、知るだろう。

 彼のような技量の持ち主を相手にそうしようとすることが、一体どれほどの技術を求められる困難であるか。


 何より、――と。


「……っ」


 口惜しそうに唇を噛み締めたシンデレラを眺めながら、マクシミリアンは内心で同情していた。

 自分も考えた。

 殺さずとも、無力化はできないか。友軍にできずとも、不戦にはできないか。


 無理なのだ。

 そんな論理が通じる相手ではないのだ、ハンス・グリム・グッドフェローという男は。

 あれは足がなくなれば腕で這い、腕もなくなれば歯を使って、歯がなくなっても意思だけでも前に進ませる男だ。

 苛酷な訓練を乗り越えた兵士たちが持つ不屈さを、訓練のその通りに鍛えられた男だ。


 故に、止まらない。

 強度の訓練を受けた特殊部隊の兵士が拷問にあって尚も口を割らぬように。

 殺して止める以外の方法は、ない。


(……君がそんな男でさえなければ、私と君にも別の道はあっただろうに。だが――そんな男だからこそ、友誼を結びたいと思ったのだ)


 にわかに湧いた口惜しさを誤魔化すように、俯いてしまったシンデレラへと告げた。


「……それと、あまりそのようなことは言わない方がいいと言っておこう。ここには君たちとの交戦で死亡した者の縁者もいるのだ」

「判りましたけど……でも、仕掛けてきた側なのにまるで仕掛けられた側のような、被害者みたいな態度をするのはおかしいですよ。まるで大尉の方が悪いみたいに」


 平然と咎めるような、その口調。


「……君は、どちらの味方なのかな」


 思わずマクシミリアンも、不穏な響きで問いかけた。

 だが――


「聞かれるまでもないでしょう? わたしは今、ここにいるんです」

「なら――」

「でも、それとこれとは別じゃないですか。……今の枠組みで何とかできないことがあるから、わたしも貴方たちも今の枠組みを飛び出した。そのことに疑いがないとしても――今の世界で人を守ろうとしてて、正しいことをしているのは大尉の側なんじゃないですか? あの砲撃を防いだのは、一体、誰なんですか?」

「……」

「何か、違いますか? おかしいことを言ってるなら言ってください。直しますから」


 あまりにも率直で、そして疑いない物言い。


「わたしたちは飛び出してまでやらなきゃいけないと思ったけど――……そうしなきゃ駄目だと思ったけど。でも、そうじゃない人たちにとっては、わたしたちはなんですよ。それなのにどうして、まるでわたしたち側だけが正義って顔をするんですか?」


 静かに、場に沈黙が満ちた。

 隣のスパロウ中将は、ただ無言で見守っている。

 若さ故の正しさかと――言葉を選びながら、マクシミリアンは口を開いた。


「……君は、自分が正しいことをしていないと思っているのかな?」

「わたしなりに正しいことをしようと思ってますよ。でなければここにいませんから。でも、他の人がどう思うかは別でしょう? 世間的には、テロリストと違いないんだから……そこで被害者面をするのはおかしな話じゃないですか。……何か違いますか?」

「……」


 それは、あまりに、尖すぎる正義感。

 疑いなく――本当にただどこまでも正論で。

 ああ、だからこそ、恐ろしくなる。


「そんなことをいつも普通にしてたら、いつか頭にまで毒が回っても気付けないことになる。【フィッチャーの鳥】だけじゃなくて……この【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】が道を踏み外さないなんて、どうして言えるんですか?」

「それは……」

「……わかってますよ。殺された人たちは、そういう理屈じゃないって。理屈じゃなくて――……悲しくて悔しいんだって。それは、わたしにも判りますよ……」

「……」


 カリュード・カインハースト。

 ライオネル・フォックス。


 【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】でも有数のエースであった彼らの死については、まさに小隊長を努めていたシンデレラの憔悴が一番酷いものだったと、マクシミリアンも記憶している。

 人の死を、部下の死を、戦友の死を味わった。

 決して、現実を知らない向こう見ずな意見ではない。

 だけども――


「でも、理屈も忘れないでください。……わたしは、ここが【フィッチャーの鳥】やあの残党みたいになるのを見たくなんてないんです」


 彼女は、そう唱えるのだ。

 喪失を背負ってなお。

 現実に打ちひしがれて涙を流しても、なお。


(……そうなったら君はどうする気なのだ、シンデレラ・グレイマン。いや――この少女なら、或いは……)


 善を掲げた旗が善に悖るならば――。

 法が法を裏切るならば、或いはその法を討つ。

 そんな場面を、想像してしまう。マクシミリアンも疑いなく持ってしまう。きっと【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】が道を踏み外したそのときには、彼女は行き先を違えて切っ先を向けるだろう――とも。

 何にせよ、既に一度、彼女は【フィッチャーの鳥】と袂を分っているのだから。


 その在り方は、或いは――――。


(ハンスのような……いや、また違う。彼にもそんな面はあったが、だが今を見るにまずはあくまで軍人であろうとしている。この娘はもっと――――)


 それは夜にあって潰えることのない不滅の光。

 白夜の極光。

 普遍的に人の善に寄り添い、死する内でも灯り続ける疑いなく正しき灯台の明かり。


(……或いはハンスから、軍人という身分さえ外したらこうなるという先なのか? ……何故、こんな少女が? これは偶然なのか?)


 或いはそれが、彼が目指す先の強く輝ける星のような――――暗黒の中でも輝き続ける星のような。

 そんな眩ささえも、幻視してしまう。


 不意に、共に大学に通う日が思い出された。

 苦境の中にあって手を差し伸べようとするもの。士官候補生、軍人という外付けの外殻に覆われてなおもその内にあった本来の優しさというもの。

 まさか彼は、遥かに輝くそんな星を目指していたというのか。それとも偶然、そのまま辿り着く先が同じであるというそれだけか。

 或いは彼のそれは純度で劣り――彼女の方こそが、より純粋にそうだとでも言いたげに。


 言葉を発せられなくなったマクシミリアンに変わって、穏やかにスパロウ中将が口を開いた。


『なるほどね。うん……ああ、なるほど。君は本当に聖剣使いなんだね』

「えっと……」

と言える人……希望の担い手。絶望の泥の中だから、理想では語れない世界だから、だからこそ――それでも理想を語り、、と人の最期の瞬間に安らぎを与える白き旗……』


 コツコツと、ホログラムウィンドウ越しにスパロウ中将のステッキが床を叩く。


『前に、そんな目をした人に会ったことがあるよ。ただ、彼女は天の星になった――――……流星に姿を変えた』

「それは……」

『うん、だから、君にもあまり張り詰めないで貰いたいかな。そうだね……そのためには、できる限り力になってあげたいところなんだけど――』


 それは、合図だ。

 人心掌握という面では年齢も階級も経験も、スパロウ中将はマクシミリアンよりも遥かに上だ。穏やかさも違いすぎる。

 マクシミリアンが悪い警官を努め、スパロウ中将が良い警官を務める――――いざというときのために。そう、言い含めてあった。

 だが、しかし、扉のエアロックが解除される音と共に、


「僕からも、お願いしたいな」

「アシュレイさん! 身体は大丈夫なんですか!?」

「ああ、うん、僕は特に怪我はしてないからね。……筋肉痛は酷いけど。いや、久しぶりの戦いは辛いね……」


 身体中に湿布を張り付けて、その長身を歪めて松葉杖をついた白く色褪せた銀髪の男が三人の下へと足を運んだ。


「そうだね。シンデレラくんの言っているのは、無理難題だ。どうあれ指揮官は自軍を優先しなきゃいけない。……敵軍の兵を気にして自軍に損害を出すのは、どんな理由があっても兵にとっては悪だよ」

「でも、アシュレイさんは誰も殺さずに――」

。僕は、敵の命も奪いたくなかった……だから、敵によって奪われる味方の命を一番に気にした。まずそこは、兵として、最低限のラインなんだ。そこを満たさない限りはどんな理論もどんな約束も意味がない――……


 医者でありながら軍人。

 軍人でありながら医者。

 その経歴の持ち主は、今は、軍人として真摯に語っていた。あの大戦を生き延びた――生き残りとして。


「だから僕は、殺すこと以外ならどんなことも視野に入れた。……まず、味方を守らなければいけなかったから」

「アシュレイさん……」

「だから――そう、だから。そんな僕だから提案できることがある」


 思わぬ援護だと思っていたマクシミリアンへ、長い吐息で区切ったアシュレイが改めて向かい合う。


「もし彼と誰かが戦うことになったら――……なんとしても時間を稼いで、僕に繋いで欲しい。死ぬくらいなら、投降して欲しい。一度投降したとしても……機体が無事ならほら、また復帰できるだろう? それに投降した兵の収容や移送はアーセナル・コマンドなら特に手間になる。それだけで、単に彼と戦うよりも時間を稼げる筈だ」


 それはやはり軍人らしく、大人らしく、現実への妥協点を提示するものだった。


「あまり褒められたことじゃあないけど……彼による被害を気にするなら、味方を死なせない選択肢として、これも間違っていないんじゃないかな」

「……」

「そして、彼とは僕が戦うよ。……きっとそれなら、まだ上手く収められるから。それがどんな結果になるとしてもね」

「アシュレイさん……!」


 言われずとも、アシュレイ・アイアンストーブをハンス・グリム・グッドフェローにぶつけるのは既定路線だった。というより、それ以外の方法はない。

 あの鉄の鉄鎚作戦スレッジハンマーの物量を以っても碌な傷一つつけられなかった男に、正規軍ではない組織の如何なる数の兵を差し向けたところで撃ち落とせるとは思えない。

 そしてジェネレーターを最大に稼働させた機動を主体とするハンス・グリム・グッドフェローと、光速で攻撃を命中させ機体温度の上昇をさせるアシュレイ・アイアンストーブの戦法は、最高に相性が良い。

 止めるならば、アシュレイ以外はいないだろう。

 そうとまでは考えており、しかし己へと向けられる、何ら疑いはないのだと言いたげに陰ることのないアシュレイのその銀色の瞳へ――


「……私には、そうとは思えんがね」

「……?」

「かつての友誼があろうとも――……あの男は、切り捨てるだろう。あの男は、敵対すれば婚約者でさえも殺そうとする。……ましてや友情などが、なんの遮りになるだろうか」


 思わず、マクシミリアンは言っていた。


「グレイコートくん、君は……」

「婚約者!?」

「ああうん、それは僕も初耳だけど」

「こ、婚約者!?」


 風呂のシャワーの水をかけられて恐慌状態になった猫のように目を白黒とさせるシンデレラを宥めつつ、不意にその瞳を鋭くしたアシュレイが――首を緩やかにマクシミリアンへと傾けながら、穏やかながらに冷たい声で言った。


「ただ、あまり、僕たちを舐めないで欲しいかな。……僕らは、その道を違えたそのときにはお互いを撃つ覚悟ができてる。こんな形とは思わなかったけど――……そこに過ちが生まれたなら、正すのが他ならない黒衣の七人ブラックパレードの役目で……僕ら同士は、とうに殺し合いの覚悟を済ませているんだ」

「……」

「だけど……だから、それでも、言うんだ。――――僕と彼との戦いなら、その決着がシンデレラくんを悲しませる方向には向かわないってね」


 全ては覚悟の上だというアシュレイの視線に、マクシミリアンは苦く顔を背けた。

 ハンスと知らない友との絆を見せられることも、それがアシュレイとの間に築かれているということも、あまり向き合いたくないものに思える。


「婚、約者……? 婚……約者……?」

「え、あ、うん。……とりあえず落ち着こうか。ほら、ココアでも飲んで……クッキーも焼くから……ゾウさんとかキリンさんの。ね?」

「こ、婚約者……こんやくしゃ……なんで……?」

「え、あ、うん。そうか、参ったな……僕も初耳なんだけどな……誰だろう。ヘイゼルくんあたりかなあ……? アレ、同性婚ってどうなってたっけな。あとは他に誰かいたっけな……マーガレットくんかな? メイジーくんは接点が欠片もないし……ああ、リーゼくんかなぁ。でも敵対はしてないし……ロビンくんかな」


 メイジーだ。そのメイジー・ブランシェットだ。

 接点はある。すごくある。

 マクシミリアンは声を大にして叫びたくなった。


 十年以上に渡って文通をしている上に、真剣に妹を思いやって浮気などしてない。本気と思っていい。一度も浮気などしてない。全て女からの誘いを断るぐらいだった。むしろマクシミリアンの方がそこまでするのかと思うぐらいに女を遠ざけていた。

 つまり婚約には本気だった筈だ。

 婚約者がいる。予約済みでそこに余地はない――思い切ってそう言い放ってやりたい気分にもなるが、何とも言えずにマクシミリアンは拳を握る。


「婚約……た、大尉……婚約……?」

「ん、ああ、まあ。戦争が近かったし、そういう風潮だったからだと思うよ。そういう例はよくあったし、僕も婚約者はいたから――ほら、それに本気だったら彼みたいな人はもう結婚してるだろう?」

「け……結婚……? 結婚するんですか……? わたし以外と……? なんで……? やだ……」

「しまったな……どうしよう……」


 アシュレイの目配せに、マクシミリアンは頷いた。とてもではないが話が続けられる空気ではない。

 吐息を漏らす。

 判ってはいたが、まさか、彼女もそうなっていたとは。


(メイジーというものがありながら、お前は……)


 思えばこれまでのとはまた系統が別の怒りも湧く。

 十二年に渡って妹の初恋をほしいままにし、臆病で控えめな彼女が勇気を絞って戦場に立つだけの理由となり、そのくせ終戦後も迎えにもいかずにそのまま軍人を続けて、挙げ句にこうして職務上で出会った年端もいかない少女を誑かす。

 自分に刃を向けたことよりも、ある意味ではそれがもっとも許せないことだった。


 あんな人見知りの妹の初恋を奪ったのだからその後も一生涯を捧げるべきだろう。

 そうだ。

 間違いない。

 命ある限り彼女と添い遂げ、メイジーが死んだならどんな女とも交流を絶ち、残る日々を彼女を想って過ごすべきである。そうしなければならない。許されない。



 ◇ ◆ ◇



 シンデレラたちが去った作戦室で、マクシミリアンは黙する。


(……一体、何故そうも少女ばかり。いや……思えば昔からか)


 それなりに女性から言い寄られることも多かった自分が言えた義理ではないが、完全に彼のそれは悪癖であると言えた。苦しみには等しく手が差し伸べられるべきだ――と本来以上に親身で誠実になり過ぎるから、それが相手に無駄な勘違いを引き起こさせる。

 その点は、ローズマリー・モーリエとも議論した。

 彼はそのためだけに自分の全神経を集中させていると言うほどであり、怒りと悲しみの匂いに関してだけは一際に敏感だ。それが普段の察しの悪い態度と混ざり合って、無用に異性の好感を呼ぶ。冷淡で不器用そうに見える男が自分だけに普段以上に親身になってくれていたら、そこには文脈が生まれてしまうのは仕方ないものだろう。異性に限った話ではないが。


 ――〈多分、そちらが本来の彼なのではないかな〉〈共感性が高いんだよ、きっと。感受性と想像力も〉〈だからそれを意図的に……そして何よりも無意識に閉じられるようにしているんだ。……ほら、が入ってしまうだろう?〉


 そう、太腿をソフトタッチで撫で回されながら彼女から言われたことを思い出す。

 余計な――とは何か、そのときは理解できなかったが今なら判る。殺すための機能性の邪魔を、彼は全て閉じているのだ。

 暗きものを暴きたいという科学者の心理というものからか、そんなこともあって彼女は度々彼へとハラスメントを行っていた。その頑ななベールを剥ぎ取ろうとしていた。

 ……いや、マクシミリアンにも執拗にやっていたのでただの彼女の趣味かもしれない。三人組は、セクハラ加害者一人とセクハラ被害者二人という構図が出来上がっていたのだ。数々の殺人事件や難事件の中でさえも。訴えたら勝てると思う。完全に重セクハラだった。


 そしてそんなことが数度ありながらも、彼が誰か特定の女性に手を伸ばすことはなかった。全て、婚約者のために断っていたのだ。マクシミリアンとしても禁欲的に思えるほどハンス・グリム・グッドフェローは女性関係については誠実だったし、ある意味で非常に平等で残酷だった。


(……そうだ。それほどまでにメイジーとの婚約に真剣だった。そう見えた。だからこそ――……君はそれすらも、そんなものすらも殺人のために捨てられてしまう。そんな男と、言えると)


 間近でそれを見ていたからこそ余計に信じ難く、だからこそ、理解せざるを得なかった。

 そして、


『グレイコートくん。君は、どう思う?』

「は。……私からは特には」

『そう? でも、私からは聞きたいかな。グレイマンくんはあんなふうに言っていたけど――生憎と彼はこちらの派閥に縁がなかったものでね。本当にそんな人物なのかな、と。仮のリーダーとしても知りたいところさ』


 穏やかな笑みを向けるホログラムの向こうの老紳士を前に、マクシミリアンは怪訝そうに片眉を上げた。


「……何故、それを私に?」

『うん? いや、君が――かの分析に優れた灰色狼グレイウルフと思ったからだが、不味かったかな?』

「……」


 読めない笑顔。

 温和な牧師じみた面にも、静寂な拳銃使いガンスリンガーの面にも、どちらにも己の内心を読み取らせない力があった。

 やがて、吐息を一つ。


「彼女の言葉は、ある種の正しさがあるでしょう。……アーセナル・コマンドなどという鎧に身を包んだとしても、それは、万全ではありません。如何に《仮想装甲ゴーテル》と言えども喰いかかられたら、いずれは喰い千切られて死ぬ……そんな中で彼以外にあそこまで投降勧告を行う者はまずこの世に他に居ないのです。……私ですらも見たことはありません。少なくとも、人道的ではある」

『流石は、サーの称号を持つだけはあるということかな』

「ですが……」


 思う。

 きっと彼が近接戦闘兵装を用いていることには、そんな意味もあると。殺傷に移動や手間が必要な兵器を用いることで、相手の降伏の機会を増やす面もあると。

 だが、


「ハンスは……彼は……あの男は、そんな自分さえも殺してしまう。怒りを飲み下してそれでも投降を呼びかける慈悲は――同時に、先ほどまで投降を呼びかけた自分を捨ててまで殺す力を持つことを意味します。……あの男の人格や私情と、その行動は全くの別物なのです。戦場のあの男にあるのは、ただ、合理性と必要性だけです」

『……』

「殺すために殺す……あの男には、それしかない」


 そう言い切れた。

 これまで幾度と見誤っていた彼の本質。

 そう、本質だ。マクシミリアンが共に過ごした日々で眺めた彼の一面も本質だが、これも本質なのだ。

 どちらも正しい。

 単に彼の言葉通りになだけだ。

 その上で、


「あの男にあるのは、。それを諦めもしなければ、決して道を譲ることもない。……ぶつかったものを踏み均して進むか、それともあの男が砕けるかの結論しか存在しない」


 待ち受けるのは、そんな未来としか思えなかった。

 全ては一点に目掛けて収束する――極めてシンプルに。

 あらゆる複雑なものをするための機構が、彼と言えた。


『……では、先ほどのグレイマンくんのは』

「彼女には残酷な話になりますが、最悪の場合は考えるべきかと。……むしろ、最悪しか考えるべきではない。にわかな覚悟で踏み入った者をことごとく殺し尽くすための存在です。あの言動も、きっとそんなものだ。……全てを殺戮に指向している」


 相手の激昂を誘う言動は、そうなるべくして組み立てられた無意識の弁舌。

 人の死に余計な観念を交えず、戦闘上の脅威の喪失とだけ扱って忘却の箱に放り込む記憶方法。

 あらゆる角度においての、最適な殺傷効率。

 善良さも、冷静さも、慈悲も、公平さも、勇敢さも――ああ、それを持ちながらに容易く捨てるからこそ、最高に虚を突く刃となる。


 ――――。


 人を殺すという機能と意思が人間の形をとったような代物だ。殺し尽くすためだけに鍛えられた剣なのだ。


「……そしてもう一つ。なんと言われようと、特定個人のために敵への攻撃を控えるなど、軍事的にはありえない事象だ」

『うん、でもそれは本当にそうかな? 特定対象を、可能な限り生け捕りにする作戦――――当然そうするにあたって被害が出てしまった作戦も、あることはあるよ』

「……は。ですがそれは、軍事的な視点からのみ許されたことで……」


 そう唱えるマクシミリアンへと、


『グレイマンくんは今やこちらの持つ最強の戦力で、つまり軍事的にはその最大効率の稼働に気を払う必要がある。もし、あの第九位がこちらに加わってくれたなら、更に喜ばしい。……彼女をまさに軍事的に有効に使うなら、その望みを叶えるというのは「」なんじゃないかな?』


 そう眉を上げたスティーブンへ、マクシミリアンは反射的に叫んでいた。


「……それでは人治政治ではないですか! 特別であれば許される――強ければ許される! 優れていれば許される! そして! その思想の行き着く先は、国家という法治の獣の死すべき未来でしかない!」


 見た。マクシミリアンが、それを、一番見た。

 かつての祖国。

 開拓者の精神のままに支配者として堕落して行った人々の果て。当然に法治主義が歪み、かつて己に言い聞かせていた自己責任と努力の必要性を――他者への支配の鎖に用い始めた、あの。


 だが――志を同じくしていると思っていたスティーブン・スパロウ中将は、穏やかな……そしてどこか悲しげな笑みをマクシミリアンに向けていた。


『グレイコートくん。わかっているだろう? 軍隊はある意味でそんな場所だよ。例えばある指揮官がいる……激昂すれば部下さえ怒鳴りつけて、人格否定の言葉も吐く。これは本来なら許されるべきではない。違うかい?』

「は……」

『でもその指揮官は非常に有能で、彼がいればその部下たちの生存や占領地域の民衆のとても速やかなる解放が見込める。犠牲は圧倒的に少なくなる。……さて、ここでその指揮官がある部下からハラスメントで訴えられた。彼は口だけで全く役に立たず、極めて穀潰しに近い能無しだ』

「……」

『君は更に上級の士官として、彼を軍法会議にかけるかい? 処分を告げるかい?』

「それ、は――……」

『そのときに優先すべきは理念か、実益か。理念を優先させれば理念のままに多くの人が死ぬことになり、かと言ってそれを見逃せば君の言うように全てが終わりきった人治主義の罠に陥る。……さて、上級の士官として呑み込むべき道はどちらだろう?』


 まさしく上級の士官である中将という立場からされる法の適用と、理念と実益の話。

 より軍という組織の運用に関わる話。

 マクシミリアンは、僅かに拳を握った。


「……私を、咎められているのですか?」

『いいや。君ならとっくのとうに判っている話をしたくてね。君はその視点の持ち主だ。違うかな?』

「……」

『じゃあ、極めて軍事的に判断してみようか。さっきのグレイマンくんとの話について――……あらゆる余分を抜きにその要素だけで考えたら、最もいい落としどころはなんだろう?』


 やんわりと諭すようなスパロウ中将の言葉に、マクシミリアンは僅かに思案した。


「……対象の可能な限りの生け捕りや説得を交戦規定に定めつつ、その上で交戦規定の第一義には自衛のための撃墜を許可する」

『そうだね。そうすれば全てに対しての落としどころになる。……グレイマンくんには最大限の努力をしたと言えるし、兵たちには君たちよりも敵の命を重んじてないと言える。上手く回って最大の戦力がこちらに付けば願ったり。軍とは司法組織ではなく、政治形態の一つなんだから』

「……」

『ただね、私が言いたいのはそんな話じゃないよ。君を咎めようとしている訳ではないんだ……最初からね。君という優れた戦術眼の持ち主が、とそう頑なに見做している――その根拠を今のうちに確かめねば、と思ってね』


 穏やかな老牧師の表情のまま、肩に置かれる分厚い手。

 ホログラム越しだというのに質感を感じさせる厚い指。


『グレイコートくん。直感は、馬鹿にはできない。……特に君の直感は、だ。そこまで危険視するからには、きっとまだ明確に言語化できていない方程式があるんじゃないかな? それを紐解くことは、我々の未来にとって大切ではないかな?』

「スパロウ中将……」


 そうとまで買われて、話を続けずにいることが果たしてできるだろうか。

 スティーブンが、教師めいて緩やかに口を開いた。


『グレイコートくん。……軍はね、あくまでも、先の場合でも基本的には理念を優先させる。表向きは、その指揮官へと多少の戒告は行うだろう。……それは何故だかわかるかい?』

「……士気に関わるから、でしょうか。そこに公正さがないことや不公平であることに、人は反感を懐きます」

『そうだね。法治というのが最も受け入れられる理由も、結局はある種の人治なんだ。すべての人間が一定の我慢をして、であるという幻想が共有されるから法治は支持される。……君や私のように法や理念そのものを重んじる人間というのは少ない。多くの人は、自分の役に立たない法に対して反感を抱くし――それが自分にも益になるなら受け入れる』


 それは避けられないことだと、彼は言う。

 そしてそこに、何よりも――……と付け加えた。

 それこそが本題とでも、言いたげに。


『ただ――世界は変わった。いいかい? アーセナル・コマンドという存在によって、最も変わってしまったのはそこなんだ。これまで人間は、その程度の差があれ、絶対的に優れていることはなかった。例えば、どれだけの歴史的な傑物で優秀な指揮官と言えども――――最大で彼が活かせる戦力、つまり彼の命の価値は数万が上限だ』

「……」

『その数と軍に関わる全ての人員を見比べたら――彼は下だ。問題ある彼のそれを咎めぬことで、彼以外の、そして彼ほどの戦略的価値のない人間が彼の真似する危険があるなら――そしてそれが要らぬ軋轢を生むなら。多くの人員の士気を下げてまでそんな彼を優先させるのは、全く道理に合わない。……それを不公平や不公正と感じる多くの人々と、そんな不正を行う彼の命は釣り合わない。だから、法というものは重んじられた。……これまでは』


 その目の先を読むように、マクシミリアンは言葉を続けた。


「……つまり、今の世では、もう人治は避けられぬと?」

『【フィッチャーの鳥】がいい例だね。彼らは、自分たちが世界を焼く火を止める力を持ってやっているのだから、これぐらいやっていいだろう――と考えている。まさに人治主義の主張そのものになるし、事実、それでも彼らが台頭しなければ防ぎきれない面もあった』

「……」

『世が乱れれば乱れるだけ、法への信頼が失われれば失われるだけ、この人治主義が蔓延る面はある――……だけれども』


 コツ、と。

 通信の向こうでステッキの先が床を叩いた。


『アーセナル・コマンド。……物語の中でしか有り得ないはずの一騎当千は、これまでの人類史には決して存在しなかったものだ。近現代は、少なくともある理論に基づいている――人命の平等さ。それは、理念としてではない。人は人一人分の戦力にしかならない。

「法の平等を担保する筈の……平等性が、崩された」

『だから、遠からず、さ……世界は変わったし、変わっていくんだよ。そうならざるを得ないんだ。きっと、この争いが原因でなくとも。……では、?』

「それは――――……」


 途中で言葉を失ったマクシミリアンへ、更にスパロウ中将は続けた。

 全て理解しているように。

 或いは、マクシミリアンとてそうであろうとでも言いたげに。


『何故、頑なすぎるほどに……君の語るハンス・グリム・グッドフェローが規範に重きを置いているか――その答えというのは、そんなところにあるのではないかな?』

「……法治を体現しようと?」

『人治、という面でも彼は文句の付けようがないほどの人材だろう? 俺はそれをやっても許される――と彼ほどの功績なら間違いなく言える。?』

「……」

『逆に言うなら、そんな遵法精神の彼が我々の味方になるとは思えないし――……どうだろう。これが君の懸念の一端ではないかな? 法に寄り添うが故に、決して法を外れた者とは相容れない――と』


 スティーブンのその見解は正しいだろう。

 マクシミリアンよりも多くの人間を見てきた彼の言葉であれば、それは疑いないと思える。

 だけれども――……だけれども、それでも、


「……違います。理屈は説明できません……だが、それは違うとしか申し上げられない」


 マクシミリアンの直感は、その答えを拒絶した。


「そんな変わっていく世界においても、変わらぬがあの男です。……それが、民へと己を規範にさせようとしているとは思えない。彼はまず、そんな夢見がちではない。他人の意思に頼らない。そこを誰かに投げ渡さない。決定的なところは――……絶対に人に任せない。彼はもっと、機能的で

『……』

「今なら判るのです。あの男は――――決して祈らない」


 そうだ。

 幾千幾万の屍の上だろうと剣を携えてただ一人立つ男。

 絶対に摩耗せず、絶対に毀損しない。

 極光の下で、無限に等しい敵の屍の上に立ち続ける終焉の騎士。


「あらゆる問いかけを、ただ一つの結論に目掛けて収束させる――――……アレはきっと、もう、そんな者だ。いや、おそらく……初めから……」


 思うのは、何故、そうなってしまったのか。

 そして何故、それを打ち明けてくれなかったのかということだ。

 理解している。

 徹底的に外部を廃して自己完結している――いいや、のだ。そこに異なる要素を持ち込んでしまえば、それは不毀なる刃を意味しないから。

 だが、果たして、本当にそんな刃は必要なのだろうか。

 そうでなければ辿り着けない場所などあるのだろうか。


 いいや――……そんな苦難に臨むというなら、何故、友としてそれを案じることさえ許してくれないのか。

 何故、そんな苦難に挑まなくてはならないのか。

 どこにそんな苦難があるというのか。


 それを何一つも――――……何一つで、すらも、


『ふふ』

「……何か?」

『何、昔、そういう知人がいただけさ。私と友人と、そこにもう一人。……日常では鷹揚で気さくで洒脱な人だったけど、戦場では全く違ったんだ。完全に狩人そのものだったよ』

「……」

『ただ、戦場でだけだ。……つまり上手に切り分けができていたんだ。


 慮るようなスティーブンの瞳に、思わず言っていた。


「……何が言いたいのですか?」

『いや、そんなに難しくも考えなくていいのだとも思ってね。つまりは彼は軍人ということさ。割り切りが上手いのは、いい軍人の素質ではないかな?』

「……ふ。でしたら、困るでしょう? ……彼は敵なのです。そして、こちらに与するとは思えないのですから」

『ははっ、それはそうだ。そうだったね』


 そんな彼の柔和な笑みで、僅かに張り詰めていた糸が弛んだ。

 それが中将まで登った彼の素質なのだろう。

 穏やかに人を説けるというのは、どんな能力よりも組織にとって大切に思えた。


 そして――その上で、一度、マクシミリアンは瞳を閉じた。

 その上で、言わねばならないことがある。


「理念や在り方などは抜きにしてお考えください。単に、ヤツは何よりも――脅威なのです。ヤツ一人のために【フィッチャーの鳥】というものに注力できない……いつ横合いから殴りつけられるかが、全く判らない。あの男がいる限り、我々は常に滅ぼされるリスクを背負っている。他の黒衣の七人ブラックパレードとはまた違う戦略的な価値を有している」

『……』

――……私から言えるとしたら、それだけです」


 向けられた組織からの気遣いに、前線指揮官として返せる言葉はそれだけだった。



 ◇ ◆ ◇



 一つの核シェルターじみた厳重な施設の扉が開く。

 徹底的に清掃をされた穢なき白磁の廊下に囲まれた一室の中に、光に包まれるように黒髪の少女が眠っている。

 光の内にあり、そして挿管チューブの繭の中にいる。

 さながらそれは、機械的な蜘蛛の巣に囚われた妖精か――それともその巣の主か。

 機械人類が標本を作ればこうもなろうかというほどに、いくつもの装置に取り囲まれていた。


 コツ、と足音が響く。


 喪服の如き黒スーツと僅かに光沢ある黒ネクタイ。

 老いた銀獅子めいた白髪の男性、ヴェレル・クノイスト・ゾイスト特務大将が足を進める。

 ガラス張りの向こうの、あたかも水槽の中に横たわるような昏睡状態の少女へと静かに目を向け、そして――


「おや、珍しい。アンタがまさか、ここに来るなんてね」

「……この国のために戦い尽くした果ての少女といえば、敬意は必要と考えるべきだろう」


 いつからそこに居たのか。

 瀟洒に壁へと背を寄りかからせている鴉羽の老女は、静寂なる死神めいていた。純白の中に凝縮した闇の如く、その壁の一画を抑えている。

 そんな怪しき意匠ながらも、その背筋の通ったしなやかな立ち振る舞いのせいだろうか。その老女は、一流のドレスを着込んだ淑女じみて洒脱で瀟洒な雰囲気を発しているとさえ見えた。


「卿は、何故ここに?」


 思わぬ知己との遭遇に驚きながらもそれを表情に出さないヴェレルの問いかけに、銀髪の老女が溌剌と笑った。


「うん? ハッ、知人の孫だからね。知らない仲でもなく――まぁ、ちょっとした友人の一人さね。この娘がどう思ってくれてるかは判らないけど」


 鍔の広い尖った帽子を指で押し上げる彼女は、さながらゴシック調の御伽話の登場人物じみている。


「まだアンタは悪巧みをしてるのかい、ヴェレル」

「……前線に向かっていただけの卿に言われる言葉が、あるのかね」


 生命維持の機械音だけが響く沈黙の部屋。

 にわかに一瞥したヴェレルの青い瞳と、黒衣の老女の青い瞳が交錯する。

 そして彼女は、肩を崩した。


「はっ。いい顔じゃないか、老いたと思いきや――アンタは今が全盛期だ。今なら口説かれてやっても良いと思えるよ」

「……」

「アンタが前線の兵士が戦いやすいようにと、手を尽くそうと思うのは悪いことじゃないさ。そんな立場になるまで時間がかかろうと、この国のためにと思い続けていられたのも本当に見上げたもんさ、ヴェレル」

「そうかね」

「そうさ。アンタは立派だ。誰よりも立派だろうさ。……ただ、そこは遠い。その点については考えたほうがいいだろう。アンタの椅子と戦場は、それでもやはり遠いのさ」

「肝に命じよう。ミズ・パースリーワース」


 眉一つ動かさずに発せられた彼のその言葉に――老女はあからさまに顔を顰めた。


「……そっちの名前は捨てたよ、ヴェレル」

「その名でこそ、できる役割があると……卿は思わないのか。パースリーワースの議席は空席だ。セージも去り、その妹婿も空飛ぶ都市で惨死した。勝利の立役者となった公爵の位は今も空のまま残されている。それを――」


 その言葉が続けられるよりも先に、彼女は帽子を目深に被って会話を打ち切った。


「勘当された娘に、出番はないさ。兄が跡を継いだときから、アタシはとうに役目もない。……それもアタシが生まれるより、十何年も前に決まってた。今更、ババアが口を出すこともあるかい?」

「……」

。そうだろう?」


 一転して帽子を押し上げた不敵な笑みが、ヴェレルを見やる。

 彼のその懐を見透かすように――彼の高給スーツの下に隠したものを見咎めるように、老女の瞳だけが細まっていく。

 しばし二人は、顔だけで向かい合ったままに会話が途切れた。


 やがて、ヴェレルがガラス前から踵を返す。


 コツコツと、響く足音。

 黒スーツと黒マント。

 その二つの身体が近付くそのときに、老女――イレーヌ・パースリーワースはむしろ、その緊張を解いていた。


「スティーブンならともかく、アンタじゃ分が悪いさ。少し頭を冷やしてきな。……眠り姫に必要なのは、違うキスだろう?」

「……日を改めよう」

「改めるのは、考えの方さ。短慮だけはアンタには似合わないよ。そうだろう、ヴェレル? 優秀なアンタだけは、深謀の傍に居なければならない」

「……」

「……いい子だグッボーイ


 そのまま、規則的な足音でヴェレルが生命維持室を後にする。

 それを見送って――イレーヌは喉元の冷や汗を拭った。

 実のところ、病室に銃を持ち込めてはいなかったのだ。流石の彼女も無手となると、僅かに肝を冷やしもする。


 彼女自身の言葉通り――むしろ、ヴェレル・クノイスト・ゾイストという男の圧力はかつてより増していた。

 圧力というか、怒りの質量か。

 以前の剃刀のような眼付きも思考の隙のなさも喪われたが、だからこそそれと引き換えに鬱積した立場の中の淀みが、経年の澱のようなものが、ある種の衝動的ながらに計画的な狂気として彼の中に居座っているようだった。


 有り体に言うなら、手段を選ばない狂気がある。


 紳士的な立ち振る舞いも、草臥れた穏やかさも、そのどちらも完全に捨てされるだけの容赦のなさが垣間見えた。

 理想に燃え、高いエリート意識のあった優秀な青年ともまた違う。老獪な態度を表していた頃ともまた違う。

 摩耗しつつも、情に絆されながらも、それでも一度腹を据えてしまったら群れのためならどんな手段も厭わぬほどの気配が覗いていた。


 やれやれと、肩を竦める。


「さて。……眠り姫さん、一体今は何をしてるのかな? 本当に眠っているだけかい? それとも、またを助けようとしているかい?」


 イレーヌは目を細め、しばし、悼むように瞳を閉じた。



 ◇ ◆ ◇



 部屋を移した談話室の中に、あまり人の出入りは見られない。皆、何かしらの作業に当たっているのだろう。

 アシュレイは、久方ぶりの戦闘の影響から。

 シンデレラは、小隊員を亡くした上に苛酷な戦闘を終えたという点から。

 あまり、日常作業には当てられていなかった。それなりの配慮はあるのだろう。


 そして――白い長テーブルに向かったシンデレラが、クッキーとココアを前にポツリと漏らした。


「大尉……お付き合いしてる人はいないって言ってたのに……なのに……」

「あー、うん。……付き合ってる人はいない、婚約者がいるから――ってことじゃないかな」

「なっ、さっ、詐欺じゃないですか! 結婚詐欺です!」

「結婚……詐欺かなぁ……。でも、さっきも言ったけど戦争も近かったから形だけでも婚約――なんてことはよくあったからね。グリムくんのことだし、きっとそういうのじゃないかな? 流石にそうでなければ彼も気を使うと思うよ」

「そっか……それなら――」


 納得してくれるかと思ったが、


「駄目です! 形だけでも名目だけでも婚約者がいるんだったらあんなことをしちゃいけないんですよ! それは良くないんです! わたしにも、相手にも、不誠実じゃないですか! 嫌ですよ、そんなの! 絶対に! そんな軽いものじゃないでしょう!? 婚約って!」

「……そうか。それはそうだね。普通は、確かに」

「いけないんですよ、本当! 浮気とかそういうのとか、絶対に駄目です! 不誠実です! そんな……家族が駄目になっちゃうじゃないですか! そういうことはしちゃいけないんですよ! それは一番しちゃいけないんです!」


 やはり、まあ、到底納得できることではなかったらしい。当然だろう。

 逆の立場なら――と考えて、アシュレイは口を噤んだ。

 多分、自分は逆の立場でも「そうだったのか」と思って止めてしまう。そこでシンデレラの心情に共感を示そうと思ってもただ偽善的な物言いにしかならないだろうと、余計なことは口にしないことにした。


「騙してるじゃないですか! わたしのことも! その人のことも! その人がどうなのかは知りませんけど! ちゃんとアピールすべきです! 女性とそういう空気になるんだったら、ちゃんと!」

「……あぁ、うん。そうだね。あー、うん、多分女性とそういう空気になったとは思ってなかったんだろうね……」

「なっ……そっ、それはそれで失礼じゃないですか! わたしに! すごい失礼です! あ……あんなことまでしたのに! 女の子として意識してないなんて!」

「……」


 どんなことまでだろう、とアシュレイは考えた。

 まさか手を出すなんてことはないだろうし、口と口のキスもまあないだろうし、あり得るとしたら手をとってその甲にキスをした――ぐらいだろうか。これならまあ、なんの気無しに行い得るもので……かつシンデレラが意識してしまっても仕方ないだろうと彼は思った。

 なお実態は手を握っただけだった。

 キスすらなかった。レベルはもっと全然低かった。そしてシンデレラにとってはそれでもかなり十分有罪だった。


「こ、婚約者がいるって――……そうなんだなって初めから判ってたらわたしだって……」

「諦めたかい?」

「それは――……でも、諦めなきゃ駄目じゃないですか。そんなの絶対にいけないです。そんなことは、一番やっちゃいけないことですよ。騙し討ちです!」


 憤慨するシンデレラを眺めつつ、アシュレイは内心で苦笑する。


(どちらかと言うと婚約者がいたことよりも、婚約者を殺そうとしたことの方が問題だと思うけど――……)


 それぐらいの関係であっても、彼の前には歯止めにならないというのは一般的に恐れるべきことだろう。

 だが、


(……うん、でも、名目上の婚約者が何かよほどのことをしてしまったからと言うなら……グリムくんならまあ、頷けるかな。多分、僕も似たりよったりのことをするだろうし……僕らは、かな)


 黒衣の七人ブラックパレード自体、元より無二の戦友ながら最悪の場合には互いで互いの息の根を止めることを視野に入れている集団だった。

 そういう意味では、何ら不思議はない。

 そんな私情と役割の分離――むしろ、という意識さえあった。

 そんなアシュレイの思案はさておき、


「大体、最初から距離が近すぎるんです! 大尉は! 女の子にあんなに気軽に距離を詰めて――そうされたら相手がどうなるかとか考えてないんです! それは、すごく、いけないことですよ! よくないんです!」


 シンデレラはヒートアップしていた。

 椅子にちょこんと腰掛けながらも腕を組んで、とくとくとハンス・グリム・グッドフェローへの批難を口にしている。

 それはむしろ、ただ怒りというより――


「……自分のようにそれで惚れてしまう人が出るかも、ってことかな?」

「み゜」

「うん? あれ、違うのかい?」

「ぇゃ」

「……なんて?」


 凄い声が出た。


「そっ……そんなことは言ってません! だ、第一わたしが大尉に惚れているなんて今まで一言も言ってないじゃないですか! むしろ今、腹が立ってるくらいなんですよ! 信じられないことをする人だって! それなのに……不謹慎です! 不躾です! 不調法です! ハラスメントです! 変な想像をしないでください! そんなこと、わたしは一言も言っていません! べっ、別に大尉がどうだなんて……そんなこと一言もっ!」


 顔を真っ赤に金髪を振り乱す彼女をアシュレイは柔らかな笑みでしばし眺め、


「……本音は?」

「ほ、本音なんて……! だって……婚約してる方だっているんでしょう!? それに、わたしだって思うところがあるんですよ!」

「うん、本音は?」

「え……いや、だから……だって……あの……」

「本音は?」

「えっと、えっと、その……」


 無言で見守る。

 髪を逆立てんばかりに怒っていた彼女は口を噤み、キョロキョロと辺りを見回し始めた。

 琥珀色の視線が泳ぎ、泳ぐのも限界で溺れ、助けを求めるように散々ばたつき、さまよい、地面目掛けて沈んでいき――目線さんはもうトリアージブラックだろう――そして、地面に穴が開くほど見詰めながら、


「………………………………………………好き、です。好きですよ、それは。初めてですよ、こんな気持ちになったのは。すごく。とっても。……会いたいんです。シンシアって、優しく呼んでほしいです。わたしの、一番近くで」


 言った。

 指で丸まった金色の髪先を捏ねくり回しながら。赤面して。ものすごく俯きがちに。言った。

 良かったなぁと、アシュレイは頷いた。


「でっ……でもわたしは、別にどうにかなりたいとか! どうなってほしいとかは言ってないですよ! そんなことは! 一言も! 別にここから大尉とどうしたいとかどうなりたいとかナニをしたいとか、一言も言ってないんです! 第一、それより前に聞かなきゃいけないこともできちゃいましたし! 問い詰めて、そこからの話じゃないですか! だから――」

「うん、本音は?」

「…………………………なりたいです」

「そっか。うん、素直なのがいいと思う。じゃないと絶対彼には伝わらないからね。言った言葉以外は極力考えないようにしてるからね、彼は。気を付けた方がいいよ」


 近くでよく見たから、アシュレイにはそう言えた。

 別にお前のためじゃない――と言われたら「そうかそういうものか」と見做すどころか、「ほんの少し意識してたのも失礼だったかな……もう二度と意識しないように強く戒めよう。そう、二度と」とか考えるタイプだ。それを積もり積もらせていくタイプだ。多分。きっと。

 その上で、もう一つアドバイスを付け加えた。


「あとはまあ、多分、これはシンデレラくんも判ってると思うけど……グレイコートくんの言葉が本当だとしても、多分、グリムくんなりのちゃんとした理由はあったと思うから……そこは聞いてあげた方がいいと思う。聞くだけは、しっかりね」

「は、はい……そうですよね。大尉が、意味もなくそんなことは……しないですよね……」


 意味があればする、という裏返しなのだがそこはシンデレラにとって気にする点ではないのか。

 二人とも、それなりに価値観は近いのかもしれない――とアシュレイはどこか冷静に思った。

 それとも単にシンデレラは、そうやって彼を信じようとしているのかもしれないが。


「そう……ですよね。まず話して、それから……ちゃんと言葉にして伝えないと。受け取って貰えないですよね。言葉にしないと……」


 そう頷くシンデレラへ、


「……なるほど。今貴方は、執事バトラー道を馬鹿にされたと。言葉にされずとも受け取り、言葉にされずとも伝える執事バトラー道を侮辱したと」

「えっいやなんですか? いやバカじゃないんですか? なんですか執事バトラー道って。聞いたこともありませんけど」


 影からスッと現れた燕尾服めいた軍服の青年。

 艷やかな黒髪に片目を隠すような彼――ローランド・オーマインは、居丈高に済まし顔を向けた。


「……フッ、ミス・グレイマン。貴女にはわかりませんか。この領域の話は」

「なんなんですかいきなり。なんなんですかいきなり」

「見ての通り執事ですよ」

「……それで意味が判らないから聞いてるんです」

「ふ。……なるほど執事とは影の者。見て分かれ、というのはそれ自体が矛盾的でしたね。貴女には難しすぎましたか」

「なんなんですかこの人」


 そう聞かれてもアシュレイにもわからない。

 二番艦『アークティカ』の艦長――兼、整備班長――兼、補給班長――兼、調達班長――兼、広報隊長――兼、戦闘管制班長――兼、給与班長ということぐらいしか知らない。

 あとはマクシミリアンの衛星軌道都市サテライト時代の部下、どころかそれ以前からの付き合いがあったということしか。

 怜悧な容貌の彼は、椅子に腰かけもせずに冷たく笑う。


「執事の領域もわからぬような貴女が、婚約者だの何だのと悩んでも無駄ということですよ」

「なんなんですかこの人。なんでいきなりこんな失礼なんですか。なんなんですかこの人」

「……いえ。私はただ、婚約者がいる方に告白して玉砕する貴女が見たい――という、ただそれだけなのです」

「なんて顔でなんてこと言うんですかこの人」

「兄の仇ですので。フフ、復讐の分割払いです」


 外野からではイマイチ口を挟みにくい言葉を言われてしまうと、アシュレイからは何も言えない。シンデレラも何か言いたげだったが、結局何も言わなかった。

 まあ、逆に、そうして彼なりに折り合いをつけようとしているのかもしれない。そうなると、やはりどうにも何も言えない。すごい小姑みたいだけど。

 あまりに目に余るようならその時はどうにかするべきかな――……とまで、考えたときだった。


 談話室の扉が開き、そこに入室する賑やかな金髪。

 如何にも絵本や童話の中の白馬の王子様然としたその青年は、


「うん? なんの話だい? 新しいレーションの話かなぁー? それともまたアシュレイくんがおやつを作ってくれたってことかな? 僕のここはいつでも空いてるよ!」

「餌付けしてたんですかアシュレイさん」

「いや……いつの間にか……」


 アーサー・レン。

 かつてレッドフード――メイジー・ブランシェットと肩を並べてあの【星の銀貨シュテルンターラー】戦争をくぐり抜けた歴戦の艦長。

 飄々と無責任で無秩序で無思慮に見えて、それは半分ぐらい当たっていて、というか九割ぐらい当たっていて、それでもやはり実力は歴戦という青年だ。あと、常にキラキラしている。


 そして当然のように椅子に腰掛け、一通りの話を聞いた彼は、


「婚約者? ははっ…………うわ思い出してきた。帰っていいかい?」

「なんなんですか艦長」

「いや……こう……婚約者がいるって断られたことを……思い出してしまってね。若気の至り、悲しい失敗さ」

「わ……」


 泣いちゃった。


「でもほら、そこは僕はタフだからね! 第二婚約したとも!」

「だいにこんやく」

「もし何らかの理由でその婚約が駄目になったら僕と結婚しよう!――って感じかな。めちゃくちゃしつこく食い下がったら呆れながら『絶対ありえないでしょうけど』ってオーケー貰えたぞぅ!」

「……同情を返してください。さっきまでの」

「ハッハッハ、見ての通り諦めないハートの持ち主さ! 逆にそれでもオーケーを貰えるぐらいの僕の好感度の高さに喜びしかなかったとも! ははは! 雑な口約束だけど! でも言質はとったからこれはもう婚約だろうね! 婚約さ! ははは、やっぱりこう、吊り橋効果ならぬ捨て艦効果かな! はははははは!」

「なんですかこの人たち」


 そう言われても困る。

 思ったが、口には出さずに苦笑するだけの良識はアシュレイにもあった。


「ハッハッハ! あとはまあ、それぐらいというか――戦時中の保護高地都市ハイランドの婚約ってそんな感じだったからね。あんまり難しく考えなくてもいいと思う、という先達たる僕からのアドバイスさ!」

「参考になるような、ならないような……」

「ある程度の家柄だと、戦争を機に名目上というのもまあなくはなかったという話さ。……あと正直、僕のリベンジをして貰いたい気持ちとフラレて僕の仲間入りしてほしい気持ちかな! いつでも仲間入り待ちさ! どっちでもおいしいね!」

「帰って下さい!!!!」

「うん帰ろう!!!! アデュー! さらば戦場!」


 机の上のクッキーを二三枚まとめて手にとったスイーツ王子様アーサーは踵を返し――影からスッと現れた執事じみた黒髪の青年に、肩を掴まれる。


「駄目です」

「なっ……べ、別に逃げるわけじゃないさ! 単にメイジーくんに会えないな――とか! それを名目に僕のことを釣ったのに不誠実だなとか! そうじゃなきゃやっぱり戦いなんてやりたくないなとか! もう帰っていいんじゃないかなとか! そ、そんなことは微塵も思ってないとも! こんなに長くなるとは思わなかったから家に残してきたサボテンが心配なだけなんだぞう!?」

「そう言われると思って既に用意しています」

「なんだい君は!? 逃げ出す口実がなくなったじゃないか!?」

「逃がすな、とマクシミリアン様から命ぜられておりますので。……さあ、次の作戦の打ち合わせをしましょうか」


 そのままズルズルと、アーサーは引きずられていった。白馬の王子様どころか豚に跨った王子どころか豚箱行きの囚人同然である。それか、明日の朝には出荷されてしまう豚さん。

 何なんだアレは――と言いたげにシンデレラが目を見開きながら顔を向けてきていたが、何とも言えずにアシュレイも頬を掻くしかなかった。

 そして、嵐のような闖入者二名が去った後に、


「……とりあえず、この国の婚約というのがよくわからないってことはわかりました」

「ああうん、そうだろうね……。いや真面目な話、戦後の人だと……なんていうか戦争直前とか、戦時中とか……多分今とは少し感覚が違ったんだ。あんなふうに……本当にいつ戦争が起こるかわからない、いつ死ぬかわからない感じだったからね」

「……」

「だから――……グリムくんを庇うわけじゃないけど、多分、シンデレラくんに対して隠そうとか悪意があったわけじゃないと思うんだ。きっとね。……それに本当は婚約自体ももっとずっと前のことで、戦争中に――……その、終わってしまったのかもしれないし……」

「そう……なのかな」


 終わってしまったというのは、アシュレイもその一人だった。

 アシュレイの場合は名目上ではなかったが――……それでも、終わった。敵部隊から急襲をかけられたその時に、アーセナル・コマンドに初めて乗り込むその時より前に、婚約者は死んだ。

 トリアージの下に、助かる見込みのなかった彼女を見捨てたのはアシュレイだ。彼にそう促して背中を押した婚約者には鎮痛剤だけが処方され、それが最後まで効いていたのかすら分からない。戻ってきたそのときには、彼女は事切れていたのだから。


 だから、ハンスが明かさないのも無理がないことなのではないかと、アシュレイはどこか思っている。

 少なくとも、アシュレイ自身は誰かにその話をする気がない。だから、シンデレラの味方になるつもりながらもグリム・グッドフェローの肩を持った物言いになってしまうのは、そういうこともあった。

 やがて、シンデレラは結論を出していた。


「やっぱり……聞いてみなきゃ、ですよね。そうですよね……」

「うん、それがいいよ。仮にどんな結論になるとしても、その時は僕はシンデレラくんの味方をするよ」

「アシュレイさん……」

「何か揉めたとしたら、それはまあ間違いなくグリムくんが悪いと思う。大人として言うとね、どうあっても誑かした側が悪いからね。そこは幾ら黒衣の七人ブラックパレードの仲間だとしてもちゃんと言うよ」

「誑かした……って言うと、なんかちょっと、ヤです」

「え、あ……そっか、ごめんね」


 確かに、恋心をそんな過ちや汚点のように扱われるのは年頃の少女には些か耐え難いものかもしれない。

 言葉の選択を誤ってしまったかな、と思えば……それでもシンデレラは小さく頭を下げた。


「でも……ありがとうございます。そうですよね。……うん、決めました」

「どうするんだい?」

「話を聞いて、こう、酷かったら――わたしをこんなにしたのは大尉なんだから――ちゃんと責任を取ってもらいます。慰謝料です。精神的苦痛です。責任問題です。ハラスメントです。どうなっても大尉はちゃんと清算しなきゃ駄目です。まだ婚約してるなら、絶対にどっちかからビンタされるべきです!」

「あー、うん、それはそうだね」


 言いながら、彼が反射的に防ぎにかかる場面を想像してしまって何とも言えない気持ちになった。

 いやまさか。流石に。流石にその時ぐらいは黙って受け止めると信じたい。流石に。思わずガードするとか思いたくない。完全に人の心とかない。なさすぎる。


「正直、まだ怒ってますよ! 信じられないって! なんてことするんだって! わたしに対しても、相手に対しても不誠実です! そんな人だなんて! そんな大事なことを言ってくれないなんて!」


 どちらかと言えば彼女の怒りは、その最後のものの批准が一番重いかもしれない。


「だから……その辺は言わないと! 大尉は一度誰かにちゃんと怒られるべきなんです! 酷いじゃないですか、あんな……あんなふうに! あんなふうなことを言って! 期待させて! 想像させて! 妄想させて! なのに婚約してるとか! 詐欺です! 不倫です! 不貞です! ハラスメントです! 大尉に婚約者がいるって知ってたら、わたしだってきっとこんなにはなってませんよ!」

「……」

「……なんでそんな生暖かい目を向けるんですか?」

「え、あ、ごめん」

「なんですか。何か言いたいことがあったら言ってくださいよ」

「ははは……」


 苦笑で済ませる。

 そういう社交性が、アシュレイにはあった。

 そして、そうして受け流すと話題が変わると何となく経験的に知っていた。


「それにしても……どんな人なんだろう。大尉と婚約してた、って人。大尉に攻撃されたってことは……敵国になっちゃったのかな……」

「まあ、味方でも場合によってはだろうけど……。いや、待てよ……まさか……」

「どうしたんですか、アシュレイさん」

「そう考えれば、筋が通ると思って……いや、僕も少し違和感を覚えていたんだ。だけどあの口ぶりなら――それも全て理屈が通る気がしてきた」


 脳裏をよぎる閃き。

 談話室の周囲を見渡して確認して――おもむろにアシュレイは口を開く。


「もしかして婚約者って……グレイコートくんなんじゃないかい?」

「………………」

「やけに頑なで当てつけのようなあの態度を考えると、その、彼がグリムくんの婚約者で……そして刃を向けられたから怒ってるって考えたら自然じゃないかな? そう考えると筋が通ると思わないかい?」

「アシュレイさん」

「なんだい?」

「糖分、とりましょう? わたしのために悩んでくれてるのは判りましたから、わたしのために壊れないでくださいね」

「……うん?」

「壊れないでくださいね」

「うん……」


 壊れちゃったと思われたのかな。悲しい。



 ◇ ◆ ◇



 結局のところその後は、相談というより殆ど愚痴のような惚気のようなものだった。おおよそ。

 怒ったかと思うと急にシュンと消沈し、不貞腐れたかと思うと赤面してしどろもどろになる。要するに、まあ、明らかに恋する少女の顔だ。

 若さだなあ、とアシュレイは思った。

 なんだか懐かしいような眩しいような――果たして自分はどうだっただろうかと思い返すも、思い出せなかった。恋だとか、好意だとか、この歳になると純粋なその感覚は途方もなく遠い出来事に思える。


 何にせよ言えるのは、ふさぎ込みがちだったシンデレラが持ち直して来たようで何よりだということだ。


 そんなふうに、戦闘以外のことを考えられるようになったのは――本当にいいことだろう。

 自分の身体がバラバラに弾け飛んだ感覚を思い出して、吐き戻してパニックになるシンデレラ。

 砲撃の音に身を竦めて、涙と呼吸で溺れるシンデレラ。

 或いはつい近頃――カリュードたちのことを思い返してか、ふと遠くを眺めながら佇んでいるシンデレラ。

 そのいずれとも違う顔になったのは、それだけで本当に喜ばしいことだった。


 ふと、小柄な彼女が口を開く。


「アシュレイ先生は、どうしてこんなに相談に乗ってくれるんですか?」

「うん?」

「ずっと最初からわたしを助けてくれて……さっきも。今も。それに、こんなところまで一緒に戦いに……」


 じっと見詰めて問いかけるその声に、返せる言葉など決まっていた。


「何か変かい? 出会ったあの日から、僕はただ君の幸せを祈ってるだけだよ、シンデレラくん」

「――――」

「? どうかしたかい?」


 琥珀色の目を見開いた彼女は、小さく首を振った。


「……いえ。アシュレイさんは、本当に優しいなって思って」

「まさか。……僕は優しくはないよ」

「そういうところ、大尉に少し似てます。……アシュレイさんも。……ズルい大人です」


 カップを小さな両手で抱えながら、こくこくとココアを啜る彼女を眺め――思いついたアシュレイは一言。


「……ああ。もしかして、今のでグリムくんを思い出しちゃったかい? 怒ってたのに好意が勝っちゃったとか」

「そういう一言余計なのも大尉に似てます!!! やめてください!!!!!」

「えっ……ああ、うん、ごめんね……。似て……似てるかなあ……? 似てるかなぁ……? 似てる……? 僕はグリムくんほどじゃないと思うんだけどな……」

「似てます。そういう急に天然さんが入るところとか」

「天然……、…………えっ僕が?」

「そういうところもです。二人ともそっくりです」

「えぇ……」


 流石にそれは名誉毀損ではないかな。訴えるところに訴えたら勝てる奴じゃないかな。

 大切な戦友ではあるが、それはそれとしてアシュレイはそう思った。

 流石にあんなふうに――……前提を共有しないまま言葉を投げつけてみたり、例えがよりにもよって過ぎるもので角が立ったり、純粋に褒めてるのか嫌味なのか判らなかったり、本気なのか惚けているのか不明なのはアシュレイとてない。それはない。戦友だけど。


「会ったら……まず、そういうのは良くないんだって言わなくっちゃ……それとあと、それでも生きて会えて嬉しいんだって素直に……それから……」


 ともあれ、彼女の中で一件は落ち着きを見せたらしい。

 思うところはあるけど、それでもまだ好意が勝る状況というものなのだろうか。

 何にせよ、それが誰にとってもいい形で終わればいいと――そう思っていたその時だった。


 浮かぶホログラムウィンドウ。

 シンデレラ・グレイマンの個人向け端末に対して発信されたその通信の主は――ロビン・ダンスフィード。

 地上にて別働隊を努めていた黒衣の戦友だ。

 

「生きてたんですか!? あの街に向かった人は、全員、連絡が取れなくなったって――」

『てめえみたいなガキに心配されるほど、落ちぶれちゃいねえよ』

「ガ、ガキ――」


 パクパクと口を動かすシンデレラを眺め、それから、何かを思い出したようにウィンドウの中のロビンは一度眉間を抑えた。

 その銀フレームの鋭い眼鏡が、鈍く光る。


『……いや、違うか。そうだな、オレなんざにそんなことは言えねえか。オマエは、あの、クソバカの機械を落としたそうじゃねえか』

「それは――……」

『グダグダ言うな。……オメーは、確かに、吐いた啖呵の分はやり遂げたってことだ。


 重い沈黙の後に、一度閉じられる目。

 それからまた赤き瞳を開いた彼は、中指で眼鏡を押し上げつつも口を開く。


『……オイ、。グレイコートの奴はどうしてる?』

「別に、普段通りというか……そもそもわたし、そんなに話したことありませんし……。……強いていうと少し張り詰めてる感じですけど」

『……そうか』


 僅かな思案の後に、ロビン・ダンスフィードは端的に言い切った。


『こっちに機体を寄越すように伝えてくれ。無理ってんならそこらの基地からブン取るが……脱出のときにブラックボックスを吹き飛ばした。まだ向こうに回収されてねえなら、やりようがある筈だ』

「……ブラックボックス?」

『オレの戦闘記録が残ってる。


 それが一体何を意味するのか。

 隣で聞くアシュレイにも分からぬ中、


「それが――」

『メイジー・ブランシェットが死んだ』

「――――!?」


 それは、アシュレイだけではない。シンデレラにとっても、誰しもにとっても衝撃的なことだ。

 あの【星の銀貨シュテルンターラー】戦争においての最大勲功の英雄――それが死んだという事実に驚愕しない者などいない。

 だが、


『死んじまった。だけど、それは別にいい』

「いい訳が――」

。オレらはそういうもんだ。……アイツ自身がなんて言うかは知らねえがな。今となっちゃ聞きようもねえ』


 苦虫を噛み潰すように顔を歪めつつ、怜悧な眼鏡の銀フレームを押し上げたロビンは強く言い放つ。

 その目に感傷や、諦めはない。

 彼に沈殿していた憤懣すらも、色を失った――そんな鋭い炎を宿した赤い瞳だ。


『【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】とは直接は無関係だからな……宇宙で潜伏中のオメーらにどれだけ情報が行ってるかは知らねえが、こっちじゃアイツの死は英雄的な死ってことになってやがる』

「それが……」

『だからだ。アイツはきっと、ここまで読んでた。だから――』


 一度区切り、



 彼は、ただそう言い切った。



 ◇ ◆ ◇



 そして、事態は急展開する。


 保護高地都市ハイランドのみならず、衛星軌道都市サテライト海上遊弋都市フロート――中立都市たる空中浮游都市ステーションをも巻き込んだ騒動に関わる全勢力に対しての和平交渉の呼びかけ。

 各勢力の指導者に対する同じテーブルでの交渉。

 会談の設定。


 和平交渉というより、それはもう、逆賊の指定と同義であろう。

 出席を行わないということは、それが保護高地都市ハイランドのみならず四圏全ての人民に対する敵対行動であると――そう断言するような強い口調での声明。

 強制的に膠着した場を動かす一手。


 それを呼びかけたのは、パースリーワース。

 あの大戦の中で人々の反抗の火を担ったパースリーワースの、正当なる後継者によるものだった。


 マーシェリーナ・ジュヌヴィエーヴ・パースリーワース・ド・ランピオネールという少女の名は、今、歴史に帰還する。


 アナトリア――レヴェリア・シティ。


 それが、会談の、場所だった。

 そしてこれを機に、【ホワイトスノウ戦役】は終局へと向かう――――。

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