第120話 それぞれの思惑、或いは泣き女の真理
赤絨毯が敷かれた格調高い部屋の中、
「ふざけるなッ!」
男の怒号と机を叩く音が木霊する。
黒い軍服の内に頑健な体を隠した、片目に海賊傷を負った火傷顔の壮年――コルベス・シュヴァーベン特務大佐。
その隣で騒音に肩を竦めたのは、優男がそのまま歳をとったようなどこか俳優じみた深い焦げ茶髪のキャスパー・ロックウェル特務大佐。
「第二艦隊の連中は何をやっていたんだ……
「いやいや、まあ、落ち着きましょうよ。話に聞いただけでもあの攻撃は出鱈目だ。そのために敵の手を借りるというのも……ない話ではないのでは?」
「そんな軟弱な連中など、【フィッチャーの鳥】の誇りある地球衛星軌道艦隊には必要ないッ! クソ宇宙人共をヤギ穴代わりにして喜ぶ僻地の部署にでも飛ばしてやれ!」
激高するシュヴァーベン特務大佐を諌めるロックウェルだったが、いつも以上に酷いなと内心で手を上げる。
まあ、理由は分かっている。
彼も、逃げ帰ってきたからだ。誰一人脱落者を出さずに撤退し、その後も最攻撃可能に整えたのは流石の手腕であるが――巡洋母艦を二隻と、手塩にかけて育てた虎の子のコマンド・レイヴンとコマンド・リンクスの部隊を喪失。
それも終始優勢だったところに、アーク・フォートレスなどというあの常軌を逸した乱入者によって戦線を乱されたとあっては穏やかで済む訳がない。
そして、シュヴァーベン特務大佐はかつて戦時中に、アーク・フォートレスによって指揮を引き継いだ自分の方面艦隊に大きな被害を出されていた。
そのための対アーク・フォートレス戦術なども用意しており――……それを可能とする装備を今回搭載していなかったこと、考え抜いた戦術を発揮できずに逃げ去らざるを得なかったのも大きいだろう。
……その戦術装備の輸送が予定より遅れた部隊長に、その場で殴りかかって部下たちに取り押さえられる程度には、だ。五人を引き摺りながら軍服を引きちぎられつつドアを蹴破るシュヴァーベンはさながら悪のプロレスラー重機関車だったろう。
「……ハンス・グリム・グッドフェロー大尉が起きれば、細かな話も聞けたものだが」
対して自分たちのボス――老年の名俳優の如き老獅子ヴェレル・クノイスト・ゾイスト特務大将は、相変わらず落ち着いており、そしてどこか悲痛さが背に滲み出ている。
このガランとした部屋を見れば、ロックウェルにもそれは頷けた。他にはあと、メイドぐらいだ。
ある種の優先順位付けのようなものだ。ヴェレル・クノイスト・ゾイストは、コルベス・シュヴァーベンの所業を呑み込むつもりだ。どんな手段だろうとも
彼は彼自身の責任においてコルベス・シュヴァーベンの作戦や提案を有用ならば全て通してやるつもりで、そして、その結末や批難をその身に受けようとしている。もし問題になった際の道連れは少ない方がいいだろうと、他の方面隊の指揮官たちは巻き込まずに済ませているのだ。
(……まあ、そこで私まで共犯者としてそのリスクを背負わされてるのは困りものなんですがね。これまで上手くやってきたのに、どうしてこうなるやら)
やれやれ、とロックウェルは顎髭を弄った。
もみあげから一体化したそれらは、おかげで俳優に間違われるキャスパー・ロックウェルにまだ辛うじて軍人的な野卑さを出すのに一役買っていた。
「そいつも問題だ!」
そして、再び机を叩く音が響く。
「聞けば奴は【
そのまま拳を握る彼は、怒声を続けた。力の籠もった前腕に、黒軍服がミチミチと音を立てる。
「あれさえあれば、地上でどんな兵器を開発されようとも確実に破壊できる! テロリスト共がどこに蔓延ろうともだ! つまりは我々が宇宙にだけ注力できる力だというのに――――それを奴は! むざむざ前線の兵士を殺さずに済むような盾を、自らの手で壊しおった!」
青筋を浮かべながら――帽子を被ってなかったら彼の禿頭はさながら充血した男性器みたいになっているだろうな、なんて考えながらロックウェルは口を開く。
「ええと、まあ、その理論でいうと……【
「ロックウェル! 貴様は誰の味方だ!」
「え、勿論私自身ですが。それと他ならぬ特務大将閣下と、
「剃っているだけだ! ハゲとは違う、ハゲとは! 私は髪を捨てただけであり、髪に捨てられてはいない! スキンヘッドだ! そして貴様は今、全国百万人の中年ハゲを敵に回したのだぞ!」
青筋が余計に浮き立った。さっきよりも凄い。ガッチガチだ。
「まあほら、この通り私はしがない人間なんでね……使えるものは何でも使いたいんですよ。お役御免になるまでは使い倒す方がいいでしょう? ほら、せっかくだし――婚約者の死を背負ってなお戦う英雄、的に。カミュも喜ぶ反抗の美談では? いっそ映画でも作ります?」
「ええい、それをやってヤツのおかしなシンパを増やしてどうするッ! ただでさえ私は姪からヤツのサインを持ってこいとか不当な扱いを受けているんだぞ!」
「え? シンパごとうちのところに丸ごと引き込めばいいじゃないですか。グッドフェロー大尉も従順ですし」
「アレが従順である訳がないだろうッ! 法が法を裏切るなら、法をも殺す手合いだぞ! アレの本質は
その巨体を奮わせて、演説の如くシュヴァーベン特務大佐は吠え上げる。
「ああいう手前の奴は、前線ではなく憲兵にでも突っ込んで置くのが正解だったような奴だ……だが奴は前線でも生き残り、そのまま
不機嫌そのものの多弁さを振るうシュヴァーベンに、誰も言葉を返さない。
しかし、
「何を笑っている、女中!」
「……申し訳ありません。ですが、こういう顔ですので」
「何が貌だ! 無貌の女が!」
「あら。……ふふ、ふふふ。これは大変失礼致しましたわ、シュヴァーベン特務大佐。もう少し、もてなしの笑顔を磨くことに致しましょう」
大の大人、それも軍人でさえも震え上がる睨み付けを前にその女中は微笑を保っていた。
どこかで見覚えがあるような――しかしこんな美人なら忘れもしないだろうな――と思いつつ、浮き名を流すロックウェルでも何故だか食指が全くが動かない白髪のメイドは、一礼と共に壁へと下がる。
そんなやり取りを見兼ねたのだろうか。
「……【
ゾイスト特務大将がおもむろに口を開くのに合わせて、シュヴァーベン特務大佐が手を翳せば青いホログラフィック・イメージが浮かび上がった。
地球を模した球体の外周上に、赤い被撃墜マークが灯っている。
「行きがけの駄賃とばかりに、こちらの監視衛星を破壊していきましたとも。……グッドフェローが仕留めてさえいれば」
「おや、先程と言っていることが違いません?」
「あの破壊性だけは評価している! クソ忌々しいが! 一日に二度も違う場所でアーク・フォートレスと戦える奴は、ヤツしかいない! 戦略級の持続馬鹿め! かつてアイツの僚機から泣きつかれたわ! あのときもわざわざウチまで航空支援に……それもクソほどにバカみたいに早く……すぐに来おって……」
何を思い出したのか、拳を握ったままシュヴァーベンは禿頭を震わせていた。ゴリラみたいにゴツい身体のハゲおじさんが中年特有の残尿感に震えているみたいで気持ち悪い。
嫌ってるのか好んでいるのか判らないな、とキャスパー・ロックウェル特務大佐は肩を竦めた。
まあ、そういうものだ。
使えてしまうなら多少なりとも不都合さがある人格に目を瞑ってもいい――というのが兵隊の本音だろう。そこは同感だった。
「しかも奴は私に何と言ったと思う? “コルベス・シュヴァーベン特務大佐……兵から聞き及んでいる。俺などが貴官の作戦に加われたのなら幸いだ。微力ながら必要なだけの行動をしよう。どうか貴官の勝利に俺を役立ててくれ。全力を尽くす”――などと抜かしおった!」
「喋り方を似せないでくださいよ。……で、そこから何かあったんですか?」
「ない! こちらの言うとおりに敵を蹴散らして分断して、返す刀で後ろを突いてめちゃくちゃにした! びっくりするほどの切れ味でだ!」
「じゃあ別にいいじゃないですか」
飲み屋じゃないんだし、愚痴なんて言っても。
しかし、ふるふると体を揺らしたシュヴァーベンは、
「どこか上から……いや遠くから言われたら癪だろう! 奴の階級は下で……せめて隣に降りてこい! 隣でいい! 隣で私と会話をしろ! 私の隣に来い!」
「やめましょうよ、おじさんの惚気話は。気色悪いですよ」
「惚気てなどいない! 奴の問題点はまだあるのだ!」
「はいはい。……自分が嫌いなものを同じだけ好きって気付いてないんですかねぇ」
「知っておるわ! だから許せん!」
「……いやそれ本当に惚気話じゃないですか」
「惚気てなどいない! 奴は私が直々に声をかけてやったというのに、あのラッド・マウスの下働きなどをな――」
「………………まだ続くんです?」
仮にも会議なんだから、というロックウェルの目線に気付く様子もない。
アットホームな職場なのだろうか。
いやおじさんとおじいさんとメイドしかいないアットホーム、もうすぐに老老介護を迎える限界集落では?
「聞いてるのか! あれは三回目のときだ! 戦いのときもあんな感じで兵を鼓舞しくさって……しかも奴は終わってから何と言ったと思う? あのお決まりの念仏口調でこう言ったのだ! “残念だが、中佐。ここは痛み分けだろう”――と。いいか? 奴の痛み分けとはこうだ! 『俺はお前を殺そうとしたが半殺しにしかできなかった』『お前は逃げようとしたが半殺しにされた』『互いに目標を達成できてない。つまり“痛み分け”だ』」
「……」
「勝利と呼べと言っておるのに! 一人で『フッ流石は鉄の男だな』と喜んだ私が馬鹿みたいではないか! わかるか? いいか、ヤツは他にもだな――――」
「………………ええ、はい、あの、そういう態度と話は美少女になって出直してください」
「このレイシストめ! ジェンダーだなんだとうるさい玉無しのクソ共に炎上させられるぞ! おじさんがこれをやって何が悪い! 美少女の特権と言いたいのか! ルッキズム主義者め!」
「ははは、キモいハゲの火傷顔おじさんは彼らの保護対象外ですよ」
「傷病者差別だ!」
ぎゃあぎゃあと声を上げる火傷顔の大男へ、
「ご歓談も盛り上がられているので、紅茶でもお淹れしますか?」
「ええい、近寄るな! お前のような腹の底では何を考えているか判らん――いや、皮の下に何が詰まっているか判らん女は好かん!」
「……ふ、ふ。ええ、では失礼致しました。女中風情が殿方の話に入ってしまって申し訳ありません」
その熱意に水をかけるように白髪のメイドが割り込んだ。そしてロックウェルへと目線を一つ。どうやら、思ったより上手なメイドらしい。
それを機に、脱線した――というより完全に爆破で脱線事故を起こされるように明後日にブッ飛んでいた――話を戻す。
「……まあ、だいぶアレも手酷くやられたようですがね。確認された限りの衛星の破壊は、相当の至近距離かららしく……つまりは修理やガンジリウムの補充なくして、その本来の機能の使用は不可能と見て間違いありません」
「そうか。……彼は、次なる【
「そして、如何に今隠蔽をしていたとしても……その補給や補修部隊を動かせばこちらでも如何様にも見付けられる。実にいい仕事をしましたよ、あの猟犬は。あの場で最低限の――そして最大限の仕事はやり遂げた」
そう肩を上げれば、心労顔のゾイスト特務大将の眉間の皺も少しは和らいだ。
なお隣を見れば腕を組んだままブツブツと、「奴ならば本当は撃ち落とせた筈だ」とか「どうせお前が戦うなら確実に破壊しろ」とか「そんな程度の筈がない。体調が悪かったに違いない」とか呟いている禿がいる。
そしてその禿は、そこから幾度か言葉を交わして議論が進む後に――また噴火した。ハゲーテル火山大噴火。
「まず、あの【
「……いや、勿体ないからもう少し活かしましょうよ。命は無駄遣いしちゃいけないんですよ」
「比喩だ! 貴様などよりよほど分かっているわ!」
「本当ですか? 私、こう見えても人材の使用には定評があるんですがね」
肩を竦めるロックウェルに、拳を握るシュヴーベン。
しばらく、喧々諤々と議論が続く。
二人ともここで噛み合わないのは、完全に不自然であるからだ。ロックウェルの視点でも、シュヴーベンの視点でも。
そんなテロリスト連中に手を貸すとは思えない隊員たちであるのだ――――或いはだからこそ身内を人質に取られたり、別の利益を提供されたりすることも考えたが不可解すぎる。
その後も話は纏まらず、
「卿らの言葉はわかった。いずれにせよ、グッドフェロー大尉が目を覚ましたら事情の確認と……それと、簡易でいいから招喚すべきであろうな。彼のあの場の選択が正しかったのか――……それだけは明らかにする必要がある」
「ヤツは此度の戦役で散々自軍にも被害を出しましたからな。罪がどうなるにせよ、少なくともそれをやれば軍事法廷に呼ばれるとは他の兵に示すべきでしょう」
「まあ、その案件も難しいとは思いますがねえ……秘匿衛星の防衛任務中だ、なんてなると。国の開示は何年後かだと言う話ですし――……そこで良くも悪くも有名なグッドフェロー大尉だと、メディア絡みもねぇ?」
顎髭を撫で付けるロックウェルを前に、皆の言葉が途切れた。
結局のところ、大まかな指針について定まったのはその程度だ。定まったというより、示したと言おうか。細かく詰めていくのは、また別の段階となる。
やれやれ、とロックウェルは鼻から溜め息を漏らした。
そこまで言葉を交わしながら――結局のところ、皆、一番踏み込んだ話はしていない。それを避けている。言葉にしてしまえばそれに力が宿ってしまうかのように、避けている。
いや、或いはそれはロックウェルの考えすぎで、また改めてより多くの幹部を交えた上で議題に挙げようとしているのだろうか。そうしない訳がない。ただそれも彼には、一種の逃避に思えた。――或いは彼らにわざわざ言う必要もないと信頼あってのことかもしれないが。
それはあまりにも、【フィッチャーの鳥】には致命的すぎる事態だった。
戦略的な兵器としてではなく、その存在の公表が不可逆の打撃となる。奪われた後に壊せるか、見付けられるかではなく、奪われたというそのことがもう爆弾だ。
最早この基盤も、完全に吹き飛んでしまうと言えるほどに。
「ところでだが……閣下!」
「不足した卿の艦隊についての再編の提言は行った。部隊員については、多少強引になろうと地上からでも海からでも空からでも引き抜けるように私の方で調整を行うとしよう。閣僚への根回しは終え、今から参謀本部に緊急性を訴えに向かうところだ」
「お力添えに感謝します、ゾイスト閣下。その御期待に添えるように力を尽くしましょうとも」
恭しく一礼をして、ロックウェルとシュヴーベンはその部屋を後にする。
地球衛星軌道方面艦隊の一番艦の艦長にして方面艦隊司令のコルベス・シュヴーベン特務大佐と、B7R方面艦隊の三番艦艦長であるキャスパー・ロックウェル特務大佐。
特にシュヴーベンは、ルイス・グース社への立ち入り検査のままにアーク・フォートレスとの戦闘となり、その足のままこうして【フィッチャーの鳥】の宇宙方面隊司令部まで赴いた。
そうとしてまで顔を合わせたのは、訳がある。
「さて。……で、如何します? 【
「それはもっと上の連中のする話だろう、ロックウェル。それよりも、言いたいことがあるのだろう?」
「ええ――……まあ」
片眉を上げて、ロックウェルは軽く手のひらを広げた。
「うちも【
自分は誇りある軍人というよりは官僚気質で、理想家というよりはある種の寄生虫である自覚もあるロックウェルであったが――だからこそ、宿主の異変には敏感だった。
そしてそれは、その人柄とは裏腹に神経質で失った片目の代わりの慧眼を持つシュヴァーベンとて同じだったらしい。
「フン。……ヘンリー・アイアンリングだったか? 【フィッチャーの鳥】を捨てて、得意げに【
「ああ、居ましたねえ……間男ヘンリーでしたっけ。アレは確か、グッドフェロー大尉やグレイマン准尉の部隊長をしていた筈ですが――」
「白々しいぞ、キャスパー・ロックウェル。そう口にするなら、とっくに準備はできているのだろう?」
ジロリと圧を高めたシュヴーベンの前で、彼は軽く顎髭を弄りながら肩を竦めた。
「ふふ、言いがかりは止してくださいよ。私、逃げるしか能がないものでして。……ま、彼には一応【
【フィッチャーの鳥】の地球衛星軌道方面艦隊の第二艦隊及び選抜部隊【
奇しくもシュヴーベンの第一艦隊が半壊したという連絡と、第二艦隊自体が大打撃を被ったという事実にアイアンリング特務中尉などへの通信は置き去りにされたが――任務自体は、当初に示されていた。
無論、状況の変化に伴い破壊に移行したことに対して法的な処罰は難しいだろう。状況を鑑みれば、破壊もやむ無しという判断を下したことへも無理はない。
しかし、処罰が難しいことと、判断に最終的に瑕疵がないと見做されるということと、札として使えるかはまた別の話だ。
「この男を、先に法廷に引き摺り出せ。グッドフェローはああ見えて口が立つ。……この新人なら、追い込むのも難しくはないだろう」
つまりは――スケープゴートだ。
ヘンリー・アイアンリングを通じて、その背後の存在へとハラスメントを行う。
その程度には、使いみちがあるという札なのだ。
「ラッド・マウス――貴様の思い通りになど、させんぞ」
意気込むコルベス・シュヴーベンの瞳には、嫌悪だけに留まらない排除の感情が覗いている。
ただロックウェルの場合は、もっと単純な話だ。
神経質の割には自分や組織に大きな被害がかからなければ細かいことは気にしないシュヴァーベンや、汚れ役も担わなければならない組織であるというのに思ったよりも理想家なゾイストと異なり、ラッド・マウス大佐はやりにくい――。
自分が細かく利益を得られないような上に、来てもらうつもりはない。
遠ざけたい。居なくなって欲しい。排除したい。
ただ、それだけでしかない。
単なる打算。自己保身。権力争い。
それだけの詰まらない諍いで、そしてでもそちらにも利があるからいいでしょう?――と笑うのが、キャスパー・ロックウェルという男だった。
(……とは言っても、虎の子の【
シュヴーベンと別れたのちに、可搬型通信端末を立ち上げ、コールを行う。
ホログラムに浮かび上がるのは、鼻を大きく横切るようなサンマ傷をつけた赤髪の男。
葉巻を咥えた男が、不機嫌そうに片眉を上げた。
『あァ――? アンタか、ロックウェル特務大佐。おれに何か用か? くだらねェ話なら、後にしろ』
「いえいえ、ちょっとお伺いしたいことがありましてね。月方面はどうです? お手隙なら少々、お話がありまして――」
ヴェレル・クノイスト・ゾイストは、【フィッチャーの鳥】の行いが人道的に批難されるもの――そして紛れもなく
いずれその組織が解体される際、或いは敗北する際、少しでも【フィッチャーの鳥】の悪行に関連する者を――糾弾される者を減らそうとしている。
或いは、単に、身内であってもその権力争いのために、こちらの行いを秘密裏に余所へと流して水を挿すであろう者たちの関与を減らしたがっているのか。
だが、ロックウェルは考える。
それが組織を余計に瓦解に向かわせるのだ。
地球衛星軌道艦隊の二個艦隊、B7R方面艦隊の二個艦隊、月方面艦隊の二個艦隊に、地球方面艦隊――――。
少なくとも、最低でもシュヴーベンを除いて方面艦隊司令官が三人。艦隊司令官が四人。更にその副官とその次席の人間もおり、それぞれまた別に軍艦ごとに艦長もいる。
それらを差し置いて、たかが大佐風情が組織のトップに重用されているなんてのは、彼らからすれば耐え難い侮辱にもなろう。そんなくだらぬ見栄や権威の絡みで、風見鶏が風向きを変えかねない。
なら、巻き込んでしまえばいい。
ジャマナー・リンクランクのようなどうしようもない小心者で小物の無能などを使わねばならなくなったのも、要するに、トップがいるというのにこちらの派閥が力ないものだからだ。正直その点で言えば、ゾイスト特務大将に重用されているというのもマイナスになりかねない。
明確に主流派ではあるが、最大派閥ではない。いや、それもまた正確な評価とは言えない。
下級の兵たちからの信頼はシュヴァーベン特務大佐が厚く、ゾイスト特務大将は議員や官僚に顔が効く。リンクランクの無能も、よほどそれらの太鼓持ちに回っていたのかゾイスト特務大将のカバーできないような――つまり理想家ではなく献身的でもない政治屋や立場に託けて利益を貪る官僚連中――にまで繋がりがあった。
しかしながら、どうも前線に出る範囲の高級将校たちに対しては、イマイチ弱い。
その実力が故に【フィッチャーの鳥】に引き抜かれたような者たちにとっては、憲兵紛いの仕事まで押し付けられているという状況が既に気に入らないのであろう。彼らは己が戦闘者であり、ゴミ箱を嗅ぎ回る警察犬とは思っていないのだ。
そしてそんな自負が故に、正面戦闘の覇者ながらも弾圧や検挙などの治安業務にも力を注ぐシュヴァーベンが重用されることがあまり面白くはない。
それはきっと妬みだけでなく、彼らこそが一目置いているシュヴァーベンが前線軍人としての権限外に見えることまで手を出し始めていることへの、何とも言えない苛立ちだろう。
(あのおじさん、グッドフェロー大尉なんかをそう呼ぶわりに自分も他人からそう見られてることには疎いんですよねえ……
少なくともあれだけの数のアーセナル・コマンドに一糸乱れぬ連携をさせ、中佐時点で方面艦隊を任されてそれをやり遂げてしまった男などロックウェルの知る限り他にはいないのだから。
ともあれ、
『んで、わざわざ連絡を寄越して何をさせたいんだ?』
「せっかくの機会ですし、
『……この状況で? 今はもう、ほぼ有事じゃねェか? 訓練にしても作戦前の必要分だけで、大規模な合同演習なんてしてらんねェだろ? ンなのが認められると思ってんのか?』
「いえいえ、だからこそですよ。海軍はともかく、空軍は無重力には不慣れでしょう? 一方のこっちは数が少ないですし――」
彼は彼で、静かにその手を広げる。
寄生虫は何も、その母体と共に死にたがっている訳ではないのだ――と。
彼はそう、自認して。
◇ ◆ ◇
シェルターじみた扉を抜けた先の、寒々しいまでに設備と技術の整った病室。
抗菌使用の白壁を横にして進み、装飾された杖をついた――しかしそれが不要に見えるほどに長身で頑健なる大樹じみた老人が向かっていく先は、正しく言えば病室ではなく研究所すらも思わせる施設だ。
リノリウムの床に靴と杖とが音を立てる。
そうして向かい合った先は、一面がガラス張りになったような部屋だった。
「……どうした、ものかな」
厚手の黒衣に身を包み、サングラスに瞳を隠した白髪の老人の視線の先には――無数のチューブに絆がれた黒髪の少女が眠るベッド。
その周囲を大仰な機械が抱え込み、さながらそれは現代童話や近未来映画における眠り姫を思わせる。
或いは彼女が起きていたときも、そんなふうに周囲を機械が覆っていたかもしれないが――
「今や、君からも声がかからなくなってしまったね」
物静かな老人の言葉に、返される声はない。
少女――エリザベート・バーウッドの意識は、あの終戦から取り戻されたことはない。
脳死のようなものだ。
幹細胞リプログラミング治療を受けた後も、彼女は意識を何一つ取り戻さなかった。公式には、そうなっている。
「これは、託されたと見ていいのかな。それとも英雄である君が、全力で立ち向かわなければならない問題が現れたのかな」
老人の言葉に、やはり、声は返らない。
規則的な機械音だけが響いている。
それを前にする老人は、腰の曲がった好々爺でもなければ穏やかな紳士でもない。
恰幅がよい――とは呼べぬほどに長身であり鍛えられた肉体。それは風雪に揺るがぬ千年の大樹を連想させ、柔和な言葉から漂う雰囲気は羊じみた牧師であるが――その身体付きは歴戦の悪魔祓いにすら見える。
例えるなら、素朴で敬虔なる
腰に下げられたのは、護身用の大型――それも老人どころか成人男性も容易く扱えるとは思えない――大型のリボルバー拳銃。
その名を、スティーブン・スパロウ空軍中将――かつてレッドフードと共に戦ったサイファー・“ロード”・スパロウを甥に持つ
それは、或いは表向きの名か。
【
もっとも彼は、そうとは自認していない。
自分はあくまでも伝道師であり、代行者だという意識しか持たない。彼をその椅子まで運んだのは、ひとえに、目の前の眠れる少女であるのだから。
「さてね。実のところ、あまり良くない方向に物事が動いている。……グレイコートくんからの報告によるならば、君の持つ力を人に向けて用いるような
その少女――ウィルへルミナ・テーラーが掲げたのは、太古の絶対王政や帝政のような一極支配。
或いは、それすらも生ぬるい。
彼女の力を持って人民を監視し、支配し、そして采配するという在り方だ。この世の権力者の誰もが試みて、しかし実行は叶わなかったそんな支配の形態を起こせるだけの力を持ってしまった。
故にこそ――彼は思った。
かねてよりの懸念を。
いつしか、
そして、リーゼ・バーウッドの理想に手を貸すと決めた理由を。
「……如何に頑なに扉を閉ざしても、ジェリコの壁は角笛の音に崩れ去る」
それは、警句。
「そんな力さえも現れてしまうということは、やはり、もうきっと止められないのだろうな。ここから、ある方向に目掛けて――……いいや、きっと力は問題ではないんだ。時代と環境が、そんな力の指向性を定めてしまった。それは、世を焼く炎として現れてしまうことになった……既に火がついてしまったから、そうならざる得なくなった」
或いはその少女――ウィルへルミナが。
敗戦した国の出身ではなく、敗戦に際して生き延びようと祖国を離れた船団の一員ではなく、ともすれば環境異変でここまで世界が狭められていなければ、その力は破壊を齎さずに済んだかもしれない。
しかし、目の前であの戦争が繰り広げられた。
そうなってしまえばその力の使いみちは――……彼女の目に、彼女の周囲の人々の心に、その骨身に焼き付いた暴力というものとしてしか現れようがなくなるのだ。
彼の懸念は、ウィルへルミナだけではない。
リーゼ・バーウッドが生まれ、ウィルへルミナ・テーラーが生まれたならば――――その次や先もあるかもしれないことだ。
そしてこの環境が、そんな力の行き先を定めてしまうこと。
それより何より、その果てに待ち受けるものは……
「企業が力を持つのは止められないと思うんだよ、私は。この国は、世界は、あまりにも死にすぎた」
あれほどの絶滅戦争によって、
古き世の小さな王国ではなく、巨大化した民族国家を操縦する頭脳持つ手足である官僚たち。それがあまりにも失われ過ぎた。
それらの持っていた実務能力を補おうと集められたのが、軍の高級将校たちに由来する議員【
『後の世の話ですか。……ならば中将は、その後の舵取りを如何にお考えで?』
浮かび上がるホログラムの主は、僅かに茶色が残った灰色髪に狼じみた金眼の男――マクシミリアン・ウルヴス・グレイコート。
豊かとは言えない【
かつて
「……私は、こう思っているよ。完全に国家に取って代わられる前に、彼らをこちらに引き込むしかない――と」
『というと?』
「自由市場の信奉者たちは、国家からの締め付けを嫌う――それでも国が規制を呼びかけたら従うし、国益にそぐわないものの輸出も控える。それは、彼らの愛国心だろうか? いいや、違うんだよ。もっと至極単純なことだ」
コツコツと杖をついたサングラスの老紳士は、穏やかな口調のまま先を紡いだ。
「麦の穂は、水なき大地には宿らない。収穫者は水を追い求め、故に為政者は川を削る」
『……需要と供給、或いは支持ということですか』
そうだ、と説話を説く牧師の如くスパロウは首肯する。
「彼らの客が、それを嫌うからだ。ましてやあんな戦争があって、人は愛国心を強く持った。己の故郷が焼かれる悪夢を前に、それに連なる全てを嫌うようになった。私の見立てだと、この潮流はもうしばらくは――十年ほどは続くだろうね」
『……』
「その間に根ざさせることだ。この地に。社会に。彼らは世界に属していても、社会を確かに担う腕の一つだとしても、世界そのものの血肉ある一員である意識はない。その意識がどうにも薄い。言い方は悪いけれど、そんな彼ら共生相手に魅力的な宿主であると示すことで初めて、我々は存続し得るだろうね」
現時点で、企業は国家を切り捨てはしない。
本来ならば彼らは支配者となることを望まない。なるにしても、国家ほど矢面に立とうとは思わない。
だがそうせざるを得なくなってしまったそのときに――彼らは損切りとして、それを実行する。ならば切れないだけの得にする他ないと、スパロウ中将は思っていた。
「遠からず、どこかで、国家は衰退する。そうなったときに、次の火を継ぐのは企業だ。実力からして、彼らが文明の火を手にするしかないんだ。そんな彼らが長く火を保ち続けられるように養分を、そしていつの日か、また大きな支配者が生まれるために養分を」
それはある種の、生前贈与のようなものだ。
「分断を避ける――――理想だけじゃない。また国家が取り戻されるだけの融和と共生の土台。リーゼくんが掲げる夢のような優しさとは別に、私はそれを願っているよ」
『……』
「軍が勝つか、企業が勝つか――……できれば古い人間の私としても国家の存続に賭けたいが、ああも分断を煽れば遠からずまた滅びの火は生まれるだろう。【フィッチャーの鳥】はそれを早めてしまう……そうなる前に、小火の内に終わらせるしかない」
それが、新たな火が生まれる前に可燃物を取り除こうとする行いから来るとスパロウも知っている。今まさに燻ぶる火種と爆発物を前に、ヴェレル・クノイスト・ゾイストが必死にそうしようとしているとは。
しかし、それは、拙速が過ぎた。
国の官僚機構が足りないから軍へと引き抜きをかけるような人員の状況で、六軍の外に更に軍を作ろうとするのはあまりにも無理があるのだ。それがたとえ、暫定的な措置だとしても。
そうして、本来なら基準にも満たない者たちを集めた結果が――……
だが、スパロウの考えはまた違った。
彼の中では――もう、この国家がいずれ解体されるのは避けられない事象と思えていた。あの絶滅戦争のその日に、引き金は引かれてしまったのだ。
ならば、可能な限り傷がないままに次の支配者に王冠を渡す。そしてその支配者が然る後に、王冠を返そうと思わせる。
世を焼く炎そのものより、炎をつけてしまうだけの憎しみを減らすことで世が焼けることを防ぐ――――それももう、或いは遅いかもしれないとも思えるが。
「反面教師になって貰うよ。我々人類の、直近の歴史しか覚えて居られない人類の、反面教師に。――――アーセナル・コマンドが、また、世界を変えたのだから」
『個人が世界を焼き尽くすことが可能となってしまったなら、我々はそうするしかないでしょう。世を焼く火を防ぎ止めるのではなく、そも、世を焼こうと思う心の方を減らしていく』
「勿論、難しい話さ。……人は、どうあったって争うようにできている。例えこの世に家が一つとなろうとも、その家族でも争いが起きるだろう」
『……』
訝しむようなマクシミリアンの金色の目を前に、敬虔なる黒衣の
敬虔――神の愛を聞く耳と、銃を持つ指――排除を抱える二律背反的な賢者の如き老人。
「それにもう一つ……ヴェレルの理想も判るけど、彼の目指す先に出来上がるのは他を痩せ細らせた覇権国家だ。臨む敵が居なくなった国家は、泥濘の中で腐敗する。一つの国家の勝利は、望ましくない」
『……それは、分断を避けるという意志とは反するものでは?』
「分断と多様性は別の話だよ。……或いは多様性そのものが、その容認と否認で分断を助長もするものだけれど。ただ、多様性のなきものは環境の変動で滅びる――B7Rの到来がそうしたように。古き竜だけでは、氷の世界を生き抜けない」
『……』
多くの説話がそうであるように、老人の話の中には容易さと難解さが混在していた。
少年のような口調の耳障りの良さからは反するような――抽象的であり、ある種は煙に巻くような姿勢。
或いは、故にこそ村人に聞き守らせる牧師の言葉か。
「覇権国家が一極支配を続けたなら――今度は企業が国家を蝕む。私が今想定しているものとは、また、別の形で」
『……先ほど、傷を少なく企業家たちに引き渡すという話をしていたのに? 彼らを警戒すると?』
「そうだね。渡すべき形と、渡すべきではない形がある……と言うのかな。国が揺らいで滅ぶならば、どうかその王冠の主には十分な力を。しかし、もしも国が死にかけのまま残ってしまうと言うならば――……」
損切りの果ての企業支配とは、また別の企業支配。
もう既に国家中枢に食い込んでしまった企業家たちをそのままに、この争いで他を喰らった
それは――国家は存続しているだろう。しかし、完全に寄生をされた病人も同然であり、直接打ち壊せない内部を蝕む病となって現れる企業支配だ。
そして、その中における分断はあまりにも取り残されている。
「分断は、対立と何より搾取を生む。そして搾取がまた分断を広げていく」
そこでもまた、人は死ぬ。
社会的に吸い上げられて、人は死ぬ。
死んでいく。どこまでも。蝕まれるように死んでいく。
人倫や規範から、それは起こらないと言えるだろうか。
いいや――……違うのだ。
アーセナル・コマンドという技術が暴力の枠組みを広げてしまったように、人々は得てしまった。ガンジリウムというものを。或いは
そんな新たなる宝の前には、必ず騒乱が起こる。
新大陸が発見されたその時のように。或いは、蒸気機関やクローン技術が見付かったときのように。
進む技術に、倫理と規範が追いつかない。
世界の速度に、法や福祉が追いつかない。
その差の間にきっと、何か取り返しのつかない――いいや、大きくなくとも取り戻せぬ筈の人の命というものが失われてしまう。構造が出来上がってしまう。
巨大な肉体に腐敗が生まれるように、
「それはあの――開拓者の精神から作られた
『……』
「そして、今度は生息四圏などなく……この世の全てが一つの
生息四圏のような他への逃げ場がないまま、巨大な大樹が折れるその日まで人はそこで生きていく他ない。
そして今度はその炎は――唯一無二の国家とそこにある企業へ目掛けて放たれるだろう。外への道がない国は、必然、内乱によって潰えるのだ。
そして新たに生まれかねない世界を焼き尽くすだけの力と、どうしようもない分断を抱えたままに――……。
最早、次なる支配者として企業は選ばれない。
それは古き王冠の主の半身として、諸共に世界を焼く狂い火と共に葬られる。
『貴方はある意味ではヴェレル・クノイスト・ゾイスト特務大将がそうするように……軍支配の優勢を望んでいるとも見受けられる。貴方の絵図は、どこにあるのですか? 中将』
呑み込みきれなかったマクシミリアンからの問いかけに、スティーブンは微笑を浮かべた。
「その優勢が立ち行かないと思ったからこそ、だよ」
『は……』
「ウィルへルミナ・テーラーのような反動が現れた。この先、より大きく強く現れるかもしれない。そんな新たなる人たちがその力で世を焼かぬために――力をそう使おうとは思わぬ程度の決定的な分断を避けた土台――……」
『……』
「奴らからならいくらでも奪っていい――と、この国の人々に思わせぬ程度に人倫を保てば……そうしようとする企業の行為は、防げるだろう? 市場主義者は残酷であり、現実的なんだ。そして彼らがあまりに嫌われ恨まれさえしなければ、彼らに目掛けて放たれる世を焼く炎の噴出も少なくできる」
『……なるほど。結局は、分断を避けるという掲げた言葉に立ち返る――と』
「そうとも。同じ話しかしていない。やがての支配者が恨まれる前に、その恨みの根を減らそうというだけさ。彼らは、老いて死にかけの私たちよりも先があるのだからね」
新技術や素材があり、そして市場があれば成長ができる――それはここから大いなる成長が見込めぬ国家よりも、ある意味ではより強い社会的な生物と言えるだろう。
『……そんな者たちの力に頼ってまで戦う現状が、恐ろしくもなりますな』
「大丈夫、グレイコートくん。何もすぐに支配者が変わる訳でも、そんな争いが起こる訳でもない。今は彼らとも味方なんだ。……そんな頼れる彼らから、必要な分は、必要なだけ借りてくる。前線の君たちに苦労はさせないさ」
『借りる――……というのが何とも恐ろしいものです』
「はは、なに、かのユリウス・カエサルだって借金王だ。知っているかね? ある時点を過ぎたら、債権者と債務者の力関係は裏返るのさ」
そうして不器用に片頬を上げて、サングラスをズラしながらウィンク――というにはやはり不器用で辿々しく両目を閉じてしまうスティーブン・スパロウを前に、ホログラムのマクシミリアンは敬礼で遠ざかる。
残されたスティーブンは、入れ替わりに送られたホログラムデータを眺めつつ、
「……君たちの家族に、不自由はさせない。必ず。その子供にも、孫にも、安心して生きられるだけの時代を――」
それら戦死者の名前を一つ一つ刻みながら、緩やかに十字を切る。
その背に漂う哀愁は、やはりどこか歴戦の悪魔祓いを思わせて――全ての戦没者を眺め終わった年老いた老人は、やがて再び眠り姫に目を向ける。
それはどこか少年のような横顔で――……静かな病室には、規則的な機械音だけが木霊していた。
◇ ◆ ◇
風が吹き荒ぶ。
それはもう、廃墟と呼んでよかった。
いや、真実そこは廃虚で――遠き昔に廃棄された都市だ。それに間違いはない。長い風雨に崩れた構造物は、人が暮らすには頼りない。
だが、そこに人は暮らしていた。その奇妙な温かみはあったのだ。
しかし、もう、廃墟に戻っていた。
「あァ……そうかよ」
足を踏み入れた青髪の男のレンズに反射する、路上に倒れた人々の死体。
つい先日までは、生きていた。
どれも笑顔で――気色が悪いほどの笑顔で、溺れて死んでいる。降り注いだ雨垂れから口を隠すことも叶わず、身動き一つ取れず、そのまま死んだのだ。
それらの死を齎した銀の粉塵は、既にガチョウの雛の如く黄色に染まりきって水溜りに沈んでいる。
片手の銃を下げて、銀フレームを押し上げる。
焼け焦げた革ジャケットの男――ロビン・ダンスフィードの前に、動く影はない。
街が滅んだ。或いは地図にも記されない名も無き街が。
それが既に八つ。彼が通ってきた道で、少なくとも八つはこの光景が起こっていた。
あの戦争で――【
陸軍の砲兵や戦車兵と協働していたからこそ、よく見た有り様だった。
空を飛ぶハンス・グリム・グッドフェローや海に臨むヘイゼル・ホーリーホックでないからこそ、だ。
「死んだ奴らは、どこに行くんだろうな……」
子供の口を布で覆ったまま身体が痙攣し、その子を窒息させてしまった父がいる。
幾人も轢き撥ねた上で、自らもビル壁で焼死体となった簡易医療車がある。
倒れた人々から金品を巻き上げ、しかし、足にまとわりつかれたまま死んだガスマスクの男がいる。
縮図だ。
これは、この世の縮図だ。戦争の縮図だ。
何一つ取り繕えない醜さと、汚さと、歪さ。
それでも生きていた人々が――死んでしまった跡だ。
だが、
「死んだらどこに行くのかって……ひ、ひ、ひ、集められるのさ! 束ねられるのさ! 全ては同一であるが故に! 私達は、大本が一つの力であるが故に! 世も! 渦も! 死も! 全てが!」
倒れ死したと思われていた白衣の老女が声を上げた。
否――老女に見えただけだ。
銀髪に染まりきった髪の毛と、異常すぎるほどに口角を吊り上げられた頬に刻まれた皺。そして栄養失調で痩けた頬が、彼女を老女に思わせたのだ。
彼女が、叫ぶ。
涙を流しながら、叫ぶ。
「ああ、ああ、生と死の主よ! 大いなる者よ! ああ、ああ、降臨者よ! 私はここにいます! 私はここにいます!」
それは、神に呼びかける祈りだった。
動かなくなった足のまま両手を広げ、神に捧げる祈りだった。
その滂沱。
その大声。
心から敬虔に、神へとその信仰心を捧げていた。
「どうかお力に! 私も貴方様の、透明のお力の一部に! ああ、煉獄はここに! 魂の行き場はここに! 囚われるが故に! 使われるが故に! ああ! ああ!」
ああ――――だが、一体。
そのような老女と化した聖女から祈りを受けるのは、どのような涜神だというのか。
冒涜的に。
名状し難く。
それは本来、名をつけられる筈もない外なる神。
「ひひ、ひひ、ひひっ……けひひっ、けひひっ……」
笑いを上げた女は、そのまま上体を倒して伏臥するように果てた。
呼吸器症状。中枢神経系症状。
びくびくと肉体が痙攣して、土下座のまま暴れるように打ち上げられた魚じみて身体を跳ねさせる。
そんな死が続いている。そんな死体が続いている。
はてどなく。
水溜りに溺れ死んだ者たちが、痙攣に頬を釣り上がらせたまま死んでいる。
ああ、どこまでも死んでいる。
「……クソッタレ」
舌打ちを一つ、生き残ってしまったロビン・ダンスフィードは再び歩き出した。
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