第122話 この感情を何と呼べば、或いは乙女ロボゲーの非攻略対象と女主人公


 暗き帳に覆われた無限遠の空間。


 天の光だった筈のものは己を取り巻く光に変わり、しかしそれすらも、身近というにはあまりに遠く寒々しい。

 暗黒と呼ぶには眩しすぎて、空虚というには賑やかだ。

 しかしそれでも、ここには、何もない。

 人の身には、人の手には、その彼方まで何もない。決して掴めぬ蜃気楼的なほどの実在しか持っていない。


 真空というのは、そういうものだ。

 宇宙というのは、そういうものだ。


 虚無的集合と、接続的拡散に満ちた果ての空。

 瞬く星同士の友情は、星の規模でなければ知り得ない。人にとっては、あまりにも遥か隔たってしまっている。

 それは永久までの隔絶を感じさせて、虚空の内の真空的孤独を覚えさせた。


 その中に――遥か星辰が蠢く遠黒の、その中に漂う純白の聖なる機械騎士。


 その内に、背が、見えた。

 金髪の少女の、小さな背だ。

 俯きがちに背中を丸めて、彼女が、そこにいる。


 悲しみと苦しみを抱え込むように、堪らない寒さの中で一人佇むように、あの少女が、そこで身を縮めている。


 自分のよく知る――――実によく知る、あの、痛みを堪え続ける彼女が。


「シンシア」

「っ、大尉――――!?」


 こちらの呼びかけに驚きながら振り向いたその頬へと、ふと、手を伸ばしていた。


「え、あの……たっ、大尉!?」


 不意を突かれる形になったのだろう。

 振り払うことも身動みじろぎすることもできなかった彼女は、頬に手を添えられてしまったことに、遅れながら目を白黒させていた。

 ひんやりと、冷たくなってしまったその頬。

 戦場の風に、乾いた残酷な死の風に、晒されてしまったその頬。


「……また君は、泣いていたのか」


 憔悴を表すようにその琥珀色の目の下に浮かんだ隈と、泣き晴らしたように赤く熱を持った目尻。

 僅かに残るその涙の跡を親指で拭いながら、僅かに指先を擽る癖のある金糸の髪の感触を噛み締める。

 驚きに満ちてこちらを見上げてくるその姿は年若い少女のもので、とうに自分が追い越してしまった少女のもので、どこにでもいるはずの少女のもので。

 ああ――……と。

 腹の底から、低く、声が漏れた。


「どうして……どうして君たちが傷付かなければいけない? どうして、報われない? 何故、傷付けられる? 何が、君たちを、傷付けるんだ?」

「た、大尉……?」

「……俺に代われるなら、代わりたい。俺はそう備えている……備えているんだ。ずっと……ずっと前から……」


 君は、知らぬだろうが。

 君はそれを知り得ぬだろうが。


「俺は、そう、備えているというのに……」

「大尉……」


 こちらの慮外の悔恨を受け止めながら……柔らかに、その頬に伸ばした己の手へと重ねられる彼女の小さな手。


「大丈夫ですよ、大尉」


 呼びかけも柔らかに。

 添えられたその手が、こちらの指先を包み込む。

 己のように鍛錬でふしくれ立っていない、白い手。

 それを認識すると、余計に、身の内の行き場のない悔恨が膨れ上がる。


 何故――何故、己のようにそのために磨いている者が、そう備えている者だけが、そんな人間だけが戦うことで済ませられない。

 どうして――どうして、そうする必要のない者たちまでが巻き込まれなければならない。

 彼らは、彼女らは、何も関係がないというのに。この争いの歴史に何一つの責任なく、そこで暮らしていたというだけなのに。ただの善良なる人々だというのに。

 どうして己のように容易く人を殺せるようになっただけで、終わらないのだ。金を貰って人を殺せる契約をする人間だけで、終わらないのだ。

 この戦いと、いうものは。


「大丈夫なんです、大尉」


 だというのに彼女は、静かに笑った。

 容赦のない鉄火の乾いた嵐に晒されながらもまだ温もりを保っているようなその手でこちらへと握り返しながら、彼女は、穏やかな微笑を浮かべた。


「わたし、決めたんです。……守らなきゃいけないって。やらなきゃいけないって。大尉が教えてくれたことは、もう、それとは別に……わたしの中に確かにあるんです。それは、わたしが戦う理由なんです」


 だから心配しないで――と。

 傷付いているのは彼女の方だというのに、こちらを慮ったように笑いかけてくるシンデレラ。


「わたし、強くなったんですよ? 大尉が教えてくれたみたいに――だから、」


 真っ直ぐな光を宿した、その瞳。

 こちらの心を落ち着けようとした、波立たせないようにしようとしたその儚げで僅かに勇ましい微笑み。

 かつての人生では眺めることなく、或いは覚えもなく、しかし、きっとそう笑っていた筈のあの日の歳上であった彼女の笑み。

 酷く胸が掻き乱される。

 だからこそ、言ってしまっていた。


「君がそうする必要が、どこにある?」

「え――」


 ふわりと、金髪が舞う。

 思わず、抱き締めていた。

 胸の内に彼女の頭が収まる。戦闘者と呼ぶには弱々しい背中と、兵士になるにはあまりにも幼いと思える肉体が、布一枚の向こうにある。

 その華奢な身体を己の腕の内に掻き抱いて、彼女へと問いかけていた。


「シンシア。……君が傷付かなければならない必要が、一体、どこにあるんだ?」

「たっ、た、た、大尉……!?」


 その少女の柔らかな肢体を抱きしめたことで、己の内でどうしようもなく湧き上がるものがあった。

 甘い情動――


「あの、大尉……その……少し、痛いです……」


 控えめに、腕の内からこちらを見上げてくる少女の顔。

 彼女のどこか力ない声を聞けば、その非力でか細い身体の感触を否応なく知ってしまえば、容易く首まで圧し折れそうな感触を知れば、湧いてくる。

 腹の底から――湧いてくる。

 どうしようもない憤怒が、湧いてくる。

 こんな身に――――こんなどこにでもいるような少女の身に、

 


「……全て、焼き尽くしてしまいたい」

「え……?」

「君を――君たちを傷付けるものを、何もかも焼き尽くしてしまいたい。全て殺してしまいたい。何もかもの首を刎ね、踏みにじり、焼き払い、打ち捨ててしまいたい。全てを斬り殺して、噛み千切って、地の底に埋めてやりたい」


 一度口にしてしまえば、それは、止まらない。

 腕の中に彼女を捉えながら、己の口は醜い憎悪を止めようとしなかった。

 残響する――あの戦争で踏みにじられた人々の姿が。

 後ろ手に縛られて撃ち殺され、捨てられた人々。野犬の餌になった服を剥ぎ取られた人々。道端で折り重なった親子の死体。バラバラに混ぜられた老夫婦の死体。吹き飛び、ビルの側面から垂れ下がった死体。スコップを突き立てられた四肢のない死体。

 人が人でなくなって終わった数多の死体。


 先日もそうだ。


 こちらへの盾に使われ、銃座の如く扱われる船。

 不可視の砲撃に船外へと投げ出されかかる人々。

 その営みを踏みにじられ、助けを求める多くの人々。


 


「……憎い。許せない。殺したい。滅ぼしたい。何故、そんなもののために君たちが傷付く必要がある? 何故、そんな奴らがほくそ笑む? 何故、それが罷り通る? 事情がある? 立場がある? 環境がある? 信念? 覚悟? 人権? ……知ったことか。


 泥が溢れる。怒りの泥が。汚泥が。焦げ付いて降り積もったものが。ドス黒い衝動が。己の顔を染め上げる。

 ああ――――ああ、そうだ。

 お前たちが憎い。醜い。疎ましい。

 腹立たしい。

 何故生きている? 何故動いている? 何故、彼らが死んで、彼女らが死んで、お前たちが生きている? お前たちのような悪徳が栄える? 何故のうのうとまだ息を吸っている?

 どこに貴様らの許される余地がある? 何故今も笑う? 何故今も生きる? 何故それが許される? 何故その不条理が罷り通る?

 いいや――


。ああ――……そんな奴らを何もかも殺し尽くして、滅ぼして、全てを消し炭に変えてやりたい。喰い千切ってしまいたい。君たちを傷付ける何もかもの命を、奪ってしまいたい」


 彼女の背に強く回した腕は今や、突き立てる牙にも似ていた。

 噛み砕いてしまいたい。呑み込んでしまいたい。

 傷付けたくない。傷付いてほしくない。それなのに――それだからこそ、彼女を喰らい、貪り、己の内側深くまでどうしようもないほどに呑み込んでしまいたい。

 そうすれば、護れるのか?

 どうしたら、護れるんだ?

 どうしたら、伝わるんだ?

 どうしたら、傷付いて欲しくないと――ああ、壊れるほどに伝えたいのに。


「君を攫って、誰も来ないどこかの塔の中に隠してしまえば……そうすれば、こんな俺でも君たちを守れるのか?」


 どうしたら、伝わるだろう。傷付いて欲しくなくて、泣いてほしくなくて、笑っていてほしくて、それを伝えるために傷付けようとすらしてしまうほどに想ってしまうなどと。

 そんな矛盾的な感情と衝動を抱えた想いが、どうしたら伝わるというのだ。どうして人に伝わると思えるのだ。

 如何なる言葉を尽くしても、この想いが、伝わるとは思えない。

 腕という名の牙でしか、そこに力を込めることでしか、己は、語る言葉を持てない。己はもう、そんな生き物に成り果てた。


「た、大尉……? どうしたんですか……? そんなの、大尉らしく――」

「これが俺だ」


 こちらを見上げながらも胸板を僅かに押し返して身体を離そうとするその手を抑えて、より強くその腰を抱き寄せた。

 覗き込む――ふわついた金髪の下の見開かれた彼女の瞳を。困惑する瞳を。金色に輝き、何よりも美しい明かりが宿る琥珀色の瞳を。

 己にはない――僅かでも至ることのできない、一欠片も届くこともできない、生涯決して隣に並び立つことも叶わないその輝かしい人間性を映した二つの宝石を。

 純真にして無謬なる宝石の如き金の瞳。

 鏡のようにそこに己を写し――醜い己の怒りを写し、その美しい目を穢しながら、絞り出すように言っていた。


「これが、俺だ。この怒りが俺だ。……どれだけ抱き締めたら、俺の想いは君に伝わる? 壊れるほどに君を抱けば、俺の気持ちは伝わるのか? ……こんな俺の、穢れた想いが。美しい君の心にも、伝わるのか?」

「た、大尉……あのっ……ど、どうしたんですか……!? 何が――」

「……」


 胸の内の少女が、恐れるように、助けを求めるように、理解し難いと言うような動転と戸惑いの視線でこちらを見詰める。

 目の当たりにした獣性や暴性を飲み込めずに、こちらにそう訴えかける。

 ……そうだ。こんなものへの困惑も、拒絶も、然るべきだろう。

 だから、


(ああ――……そうだ。そうだろう)


 内から、安堵の吐息が漏れていた。

 彼女は、正しい。

 このような怒りは人の持つ善とは最も遠いところにあるものだ。善なる献身とはあまりに隔たり、忌避され、嫌悪され、拒否されて然るべきおぞましい憤怒と獣性だ。

 それは、理解などされるべきではない。

 断じて、理解されてはならない。伝播してはならない。


(……そのことに、安心する)


 彼女からのその拒絶を以って、ある意味では逆説的に己の理性の正しさも証明される。己は確かに、同時、己自身のこんな怒りに対しての怒りも抱いているのだから。

 そして何よりも――……そう、そんな己のことよりも何よりも。

 彼女が未だにこれに共感してしまうだけの現実を目の当たりにしていないことに、何よりの安堵があった。そこまで傷付けられていないことへの、何よりの深い安堵があった。


(ああ、シンシア。シンシア――……俺には君の無事が、ただ、喜ばしい)


 強く力を込めてしまっていた腕から力を抜き、柔らかにその頬を寄せるようにもう一度抱き締めた。


(それとも君は、仮に俺と同じものを見てしまったとしても……こうはならないのかもしれないな。きっと、それが、君なんだ)


 そんな、善良さ。美しさ。心優しさ。

 光、のようなものだ――――その性根は。その精神は。

 腕の内に抱えたそれに照らされるように、己の佇まいというものも正されていく気がした。

 身に籠もっていた力が霧散する。

 心底――頬が緩むほどに、どこか、そのことが嬉しくなった。

 それが名残惜しさのように、腕の中の彼女をむしろ余計に抱き寄せたい気持ちとして湧き上がってきたが……内心で首を振った。


「……すまない、シンデレラ。実に、その、見苦しいものを見せた。ああ――そうだ。言う通りだ。これは、きっと、俺ではない。俺の一部であって、俺の全てではない。……ありがとう。君は疑いなく正しい」

「っ、あ、違――……」


 衝動的にその背に回してしまっていた腕が力を失う。不躾にも彼女に寄せてしまっていた身体を戻す。

 そして腹からの吐息と共に、何とも申し訳なさすら感じ始めた。


(訓練が足りないな……こんな自分を、抑えられないとは)


 確実に見せるべきではなかった。こんな醜いものを、その瞳に映すべきではなかった。彼女はその優しさから、あまりにも多く、抱えてしまうというのに。

 それを知っている筈なのに、己は、堪らずそうしてしまった。衝動を留めることもできずに。

 そのことに、何ともただ忸怩たる後悔が湧いてくる。

 傷付いたようにその美しい目を見開いた――まるで何かを傷付けてしまったからこそ彼女も傷付いたのだと言いたげな――彼女を前に、酷く激しい後悔が湧いてきていた。


「……本当に、すまなかった。ただ……その……君を傷付けたくないというのは、俺の本心だ。すまない」

「い、いえ……あの、でも……その、わたし……あの、そうじゃなくて……ま、待って!」


 戸惑いのまま、こちらから距離を開いた筈の彼女が、逆に僅かに身を乗り出しながら見上げてきた。

 その目には――……これだけのことをしてしまったというのに、何か、こちらを慮る色がある。

 何たる優しさか。

 何たる美しさか。

 そう思えば思うだけ――何故だか先程沈めたはずの獣の牙が、再び、己の両腕に疼いてくるとさえ思えた。

 深く息を殺すことで、そんな場違いな衝動をねじ伏せる。


「何か……何か、大尉にあったんですよね……?」

「……あんなことを言ったすぐに言われたところで信じ難いとは思うが、俺への心配は無用だ。惑わせたことに、心から謝罪する。本当にすまなかった」

「で、でも……!」

「本当に、すまない。だが……こんなものになど、俺は未来永劫呑まれはしない――……ここで、改めてそう君に約束する。そうだな……これは、いわば、契約だ」


 だからこそ、首を振って、しっかりと頷き返す。

 これ以上、彼女に醜さを見せたくなかった。負担になるそれを与えたくなかった――――だが本当に、あるのはそれだけだろうか。或いはそこに自己保身のような気持ちまで混じっている気もして、僅かな後ろめたさすら覚えた。

 故に、強く心から思う。

 彼女を傷付けたくないという正しい感情で、正しい己の理性で、己自身を研磨しろと。


 契約だ。


 疑いなき取り決めこそが、己の理性を鎖とさせる。

 いいや、否――それは縛り付けるものではなく。

 だ。ただそうあらせられる。疑い一つなく、無理一つなく、全く以って純粋に。

 契約とは、そんなものだ。己とは、そんなものだ。


 


 故に、


「……大丈夫だ、シンシア。この理性と感情が続く限り、俺は、この怒りを行いなどしない。そう、君に誓おう」


 ゆっくりと頷けば――逆に彼女は、何故だか酷く傷付いた目をしていた。

 怪訝に思い身体を離そうとすれば、逆に一歩、踏み出された。


「大尉……! 一体、何があったんですか……!」

「いや、今一度――どうか会いたいと心から願った君を前にしたことによる、取るに足らない気の迷いだ。……本当にすまなかった。とても失礼なことをした」

「でもっ……! だから、そうじゃなくて――」

「本当にそれだけなんだ。二度と会えぬと思った君を前に、自分を抑えられなかった。……恥ずかしいことだが」


 詰め寄ろうとする彼女に、首を振り返す。

 巻き込んでおいて勝手なものだが、彼女のおかげで、もう自分の中での感情の整理はついていた。

 本当に――……何とも愚かしい隙を見せたものだ。

 これで理知的であると気取るなど、実に愚かしい自認だろう。己にまだ衝動的に振る舞ってしまう部分が残されていたところに驚愕しつつ、今後はこんなことがないように深く自省する必要があると戒める。

 その上で、


「ただ――……シンシア。君を大切に思っているのは本当だ。それだけは本当なんだ。俺は君に、生きてほしいと、そう願っている。君の幸福を心から願っている。……俺にできる全てを、君に捧げたいほどに」


 改めて、そう宣言した。

 何かを言おうとした金髪の少女の頬に、もう一度手を伸ばした。


「シンシア――……生き残ってくれ。何を犠牲にしても。何が犠牲になろうとも。君は、どうか、生き残ってくれ。俺は君の、ただ理由のない生を望む」


 冷たい肌。冷えた指先。

 これからどれだけ、彼女は、涙を流さねばならないのだろう。その優しき善良な心を、傷付けなければならないのだろう。

 それを今すぐにでも止められないことが、そんな力を持たないことが、ただ、心苦しい。


 だからせめて――本当にせめて――――。


 ここに一人でも、直接は力になれずともそんな彼女のことを思いやっているのだと。

 何者になれなくても、何者でなくても、ただその生存を望んでいるのだと。

 君が特別な誰かではなくて、特別な何かや誰かになる必要もなくて、ただ、シンシア・ガブリエラ・グレイマンという少女というだけで幸福になっていいのだと。


 その言葉だけは、伝えたかった。


「シンシア。俺は、君の――――」

「だから、待ってって言ってるでしょう!」


 言い切るより先に、声を荒げた彼女が更に一歩を踏み出していた。

 その剣幕に、やや気圧された。

 何か――何か覚えがある気がするが、彼女にも何かある種の、強い輝きのような力強さが芽生えていた。


「話を纏めようとしないでください! わたしが――わたしが大尉のことを避けたみたいにしないでください!」

「……シンシア?」

「大尉が……怒ってるなんて知ってます! わたしが、どうして大尉のそばを離れたと思ってるんですか! 貴方が怒ってることを、嫌ったからなんかじゃない! 知ってます! 知ってるんです! それは、もう!」

「……」


 確かに。

 あのマウント・ゴッケールリの騒動で、己が怒りのままに振る舞ったことは彼女のみならず艦内の全員に知れていた。

 特に優れた汎拡張的人間イグゼンプトである彼女だったら、それより深くに気付いていたとしても不思議ではない。


「いや……その……怒らせて申し訳ないが、俺の中では、十分に整理がついた。非常に迷惑をかけたと反省しているが――」

「ッ、そうじゃなくて!」


 怒声と共に、


「そうじゃなくて……言ってくださいよ。貴方に何があったのかを――今まで、何があったのか。わたしに話してくださいよ……!」

「シンシア……」

「もし伝わらなくても……せめて伝えようと、してくださいよ……そう、何回も言ってるのに……わたし、貴方に伝えてるのに……」


 感極まったのか、怒りが限界に達したのか。

 彼女は、ぽろぽろと泣き出していた。


「その、な、泣かないでくれ……そんなつもりじゃ……」

「泣いてませんっ!」

「いや、だが、どう見ても……」


 次から次へと袖口で必死に目尻を拭っているその様は、明らかに滂沱と称しても良いだろう。

 感情の昂ぶりが過ぎると、彼女は泣き出してしまうタイプなのだろうか。

 そんな――逆にこちらは変に落ち着いたまま、変に落ち着いたがやはり何だか立つ瀬がない気持ちのまま、袖で目を擦る彼女を前に何もできずに手を動かすしかなかった。


「大尉が心配するんだったら、わたしは泣きません! だから、泣いてなんていません!」

「それは、屁理屈では……」

「大尉もそうでしょう! 心配するなって――大尉なら大丈夫なのかもしれないけど! 本当にそうなのかもしれないけど! でも、心配したくなっちゃうんです! それが人間なんです! 当たり前じゃないですか! それと同じなんです! 人って、そういうものでしょう!?」

「――――」

「そのことを忘れないでくださいよ! 大尉がどれだけ大丈夫だって言ったって……本当にそうだとしたって……それでも貴方のことを心配しちゃ、いけないんですか!?」

「――――」


 こちらを真剣に見詰めてくる少女の瞳を、何度も見た。

 なんと返せばいいのだろうか。

 思い付かず――考えも上手く纏まらず。

 しばし黙し、


「……言ったところで、伝わるかどうか判らない」

「それはわたしが決めます! 前にも言いました!」

「……。……上手く伝えられるか、判らない。いつからか、仕事上以外の必要性において喋るのが、手間に思ってきている」

「じゃあ――……わたしは、そんな手間の一つなんですか? わたしと喋るのは、大尉の中で迷惑なことだったんですか?」

「……いや」


 それは、ズルい問いかけだ。


「……そう思ったことは、一度もない。本心から――君と話すことを厭ったことなど、ないんだ。……そこだけは、君に誤解されたくない」

「じゃあ……」

「……ただ、あまりに、長くなる」


 口に出す言葉の数倍は考えている。或いは、話しながら考えが生まれて幾らでも長くなってしまう。

 そも、無口というには自分は随分と饒舌な方だと思っていた。軽々と他人に己の内面を話すことへの恥ずかしさや後ろめたさというのも、ある。

 あまり男らしくないとも思っているし、正直なところ情けないと思っている。それにあの幼馴染に幼少期から散々その悪癖について戒められた。死んだ妹たちからもそうだ。

 だが、


「いいですよ。わたし、ちゃんと、聞きますから」

「……」

「わたしは、ここに居ますから。ずっと、傍にいますから……だから、話してください。大尉のこと」


 涙目を拭いながらこちらを見竦めてくる琥珀色の瞳に、どうにも何故だか堪らず視線を反らした。

 その間も、彼女はこちらを見ている。見詰めている。

 それが何とも居心地が悪く――どうしてだか何だか居心地が悪く、ならば仕方ないだろうと結論付けて――――いや本当にそうか?――一度、頭を掻く。


「……貴方のこと、ぜんぶ、教えてください。……知りたいと思っちゃ、駄目ですか?」


 彼女の表情を伺えないまま、涙に潤んだその言葉を受け止める。

 手のひらを、何度か開いた。

 なんとなく、口元を抑える。

 変に口の中が乾く。


 求められたのに応じないのは、己の在り方に反する。

 それだけだ。

 それだけでしかないから仕方ない。そうだろう。それだけだ。それしかない。きっとそう。そうなだけ。それ以上ではない。

 そうである――ともう一度結論付けて、


「ああ、俺は――……その……上手く例えられるか判らないが、仮にあえて言うなれば……例えば、取り替え子チェンジリングとは判るだろうか?」

「え……?」

「無論、若干異なっている。だが、俺という男は――」


 その先を言い出すよりも先に。

 彼女の表情を見るよりも先に。

 全てが暗転し――――そして、光に包まれた。



「……む」


 頭を起こした自分がいるのは、格納庫の中の、機体のコックピットの中だった。


 三角帽子を被った狩人めいた頭部を持つ最新鋭の第三・五世代型アーセナル・コマンド――【コマンド・リンクス】。

 自分という男に合わせるような、整備班の人員入れ替えも伴う部隊への先行量産配備。

 格納庫に膝をついた機体のその内部に掻き抱かれる形で、自分は脊椎接続アーセナルリンクを行っていた。


 僅かに眉間に皺を寄せ、すぐに記憶を取り戻す。

 あの潜入任務及びアーク・フォートレスの破壊から実に一週間以上が経過した。

 その間に様々な出来事があったものの、その中で自分は、原隊――保護高地都市ハイランド・第五十一空軍“空中浮游都市ステーション駐留部隊”第五五五大隊――に復帰し、宙間戦闘についての急速練成訓練の教導任務に従事していた。


 訴追についてはその後の音沙汰もなく、どうやら、まだ、こちらの扱いについては決めかねているらしい。

 少なくとも確かなのは、様々な事情から【狩人連盟ハンターリメインズ】の前線指揮官となることは憚りがあると見做されたぐらいか。


 そして今や自分には不必要になった昼食の時間を、休息に当てたのだ。

 悪化した戦況に応じて求められる急速訓練中の僅かな隙を割り当てるつもりで目を閉じ――どうも寝入っていたらしい。時間にして五分ほどか。これまでの従軍経験から、その程度なら目覚ましも必要とせずに熟睡して目覚められるようになっていた。

 だが、驚いたのは、そこではない。


(……夢、か。まさか俺が、夢を見るとは……)


 久方ぶりに見る夢がいくら少女とはいえ、女のものとは……よほど欲求不満なのだろうか。

 それにしても、我ながら大胆なことを言ったものだ。

 夢だから自制が効かなかったのか。いずれも確かな本心であるが、理性ある一社会人としては随分と他人に向けて言うには憚られる言葉を口にしたと思う。それも年下の少女に。今では自分の方が年上で成人しているのに。困った。恥ずかしい。困った。


 知り合いの女の子の夢を見るというのも困った。何だか無性に恥ずかしい。困った。こんなことなかったのに。

 ……まあいい。

 第一、後から考えれば疑問点も多い。


(……仮に攫って閉じ込めたところで食料などはどうするのだろうか。都度運ぶのだろうか。内部で栽培するのだろうか。動物性蛋白質については? 畜産するのか。育成するのか。その飼料や肥料はどうするのか? スペースを考えたら昆虫類で用意するのか? 美味しくないのに?)


 文明が存続するならまだ外部から調達可能だろうが、そうでないなら到底個人が行うには非効率的かつ困難と呼ぶ他ない。そもそれが容易いものなら、人類は社会を発達させずに個々人単位の規模のまま存続しただろう。

 或いはその塔とやらごと大量破壊兵器で焼き払われたら?

 そも、略取監禁は罪だ。犬や猫ではないのだし、彼女も強い恐怖を抱くだろう。それは断じて望むところではない。つまりその理論は根本から破綻している。

 口にするには奇妙すぎるものだ。夢で良かったと言わざるを得ない。


 こうして思考を巡らせると、徐々に己が切り替わっていくのを感じる。


(塔……か。或いは方舟のような形でならあり得るだろうが……)


 かのデウカリオンデューカリオン方舟アークの再現か。

 だが文明の崩壊から逃げられたとしても、それは僅かながらの延命にしかなるまい。方舟アークに載せられる単位の人数では今日の社会を取り戻すまでに時間がかかり、また、その乗せる人間の選別すらも神の目を持たぬ己では行えまい。

 何より、実例がある。【蜜蜂の女王ビーシーズ】――敗北に際してせめてもの希望を詰め込んだはずの方舟アークは、今や災厄を満たした箱と化した。


 結局のところ、自分には、この社会の――文明の存続という形での対応しか思いつかない。

 続く企業支配は、国家というものの権威と権力の低下によって顕在する。そもなのだ。企業からしたら、そこには殆ど旨味がない。

 支配者となると同時に軍事力や警察力の確保が求められ、そしてその市場や流通の安全性や信頼性も己で確保しなければならず、かつ市民という人的資源を成り立たせるために教育を行わねばならないコストまで背負う。


 実際のところ、彼らが名実ともに支配者として名乗りを上げるというのは、全て、必要性によるものにすぎない。


 国家支配が終わらざるを得ない状況がために、その玉座を引き継ぐのだ――――文明の火を継ぐために。


 国家主導では文明の存続が不可能であると判断したからこその、企業による支配権の簒奪。

 他のフィクションのように、企業が人民の支配を奪い取れば優位や利益があるから国家に戦いを挑むのではない。

 その座に座らなければ全てが終わってしまうと判断されたが故に、彼らは、その火を継ぐのだ。


(しかし……それも長くは……)


 それでも続く戦乱や事件によって企業支配も疲弊しきり――それすらも立ち行かなくなった先が学閥支配だ。

 あたかも古代ローマ帝国の崩壊後にその学識や技能を引き継いだ教会が覇権を握ったかのように、国家や企業の名残を持つ研究機関や学術機関が辛うじてプロメテウスから続く人類の火を継ぐ。

 ノウハウと知識は、滅びゆく人類史において何よりも貴重な資源であり権威として彼らの権力の裏付けになった。

 学閥を通じた縦と横の繋がり合いが、そんなが、その後の人類における新たなる関係性の構造を作り出す世界だ。


 だが――……無論ながら、これらの台頭と支配は、世界の縮小を意味していた。

 国家という強大なる獣が息絶えた先にある世界は、その全てが狭く切り取られている。人類が存続可能な限度まで手足が詰められて、ただ延命しているにすぎない。

 そこで切り捨てられた人々の命は、何からすらも取り戻せないものだろう。幸福も、人権も、平等も、全てが御伽話の向こうとなる。


 そして最後には、その学閥支配体制すらも崩壊する。

 かの古代ローマ帝国の崩壊後に、フランク王国が成立せずに戦乱が訪れるも同然の世だ。

 分裂母体たるフランク王国すら失い、暗黒期と呼ばれた中世にすらも到達しない人類史など、その後がどうなるかは知れているだろう。


(……そうなってしまっては、人の世は、もう、終わったも同然となる。については、俺も知らない。それだけは……その未来だけは、防がなければ)


 静かに拳を握る。

 そこまで考えを巡らせてようやく――今しがたまで夢の名残のように腕に残っていた少女の体温が、手の内から消えていく気がした。

 奇妙な感覚だった。

 当然ながら今まで、シンデレラを抱き締めたことなどない。ある筈がない。いい筈がない。なのにその柔らかな金髪の手触りすら指先に残っている気がして、後ろめたさと同時に何とも首を捻らざるを得なかった。

 いや、


(まさか、? ……ありえない。。だが、或いは半ばにて終わったアレが――)


 己の首の後ろから伸びた、駆動者リンカースーツに一体化した延長脊椎を見やる。

 そこだけ外骨格の金属標本めいてスーツに浮き出た背骨。

 そのまま野獣の尾のように下方まで伸びたそれは、己が未だに機体との接続状態にあることを示していた。


 ……吐息を一つ。


 彼女がこの戦いを生き残れば、その半生において、三度の支配構造の変革に直面する。

 それは、どれほどの困難だろうか。

 そこに、どれほどの苦難が生まれるだろうか。


 彼女だけでなく――自分が知る限りのも皆、そんな、継いだ文明の火が勢いを失っていくだけの世界で生きることとなる。

 己の役割は、それを防ぐことだ。

 そして自分がそう思うように、他の誰かも、自分の大切な人たちにはそんな苦難なく生きてほしいと願うだろう。

 その気持ちが痛いほど判るが故に、己は、内心はどうあれ行動としてそれを裏切れない。


 そのためにも、


(一つずつ、積み重ねなくてはならない。……全てを一つずつ、研ぎ澄まして行かなくては)


 そう決意する。

 知る限りの歴史において――最後の支配体制の崩壊時が当初の通り到達してしまうなら、その時、己の年齢は八十歳近い。

 そうなってしまっては、如何に技量を磨こうとも無駄だろう。或いは科学技術の進歩とアーセナル・コマンドという鋼の肉体によって戦闘は可能であるかもしれないが、最早、間違いなく黒衣の七人ブラックパレードのような大それた役割を担うことはできやしないだろう。

 だからこそ――それよりも先に、確実に、


(……君に知られたら、叱られるだろうか)


 目を閉じて、手のひらの名残を握り締める。

 夢とはいえ、己の手の内に収まったあの華奢な少女の身体に――震えるような、噛み締めるような想いを抱いた。

 本当に……ただ、生きて欲しい。

 どうか、幸福に、生きて欲しい。

 内から内から、湧き出てくる。

 一度でもそう願おうとしてしまえば己の背を丸めてうずくまってしまい、そこから嗚咽すらま滲みそうなほどであり――……だからこそ、一体どう名前を付けていいのかも判らないそんな感情を噛み殺す。


 祈らない。

 ハンス・グリム・グッドフェローは、祈らない。


 ただ研ぎ澄ますだけだ。

 神なきこの世で、神すらも殺せるように。

 研ぎ澄ますそれだけだ。

 人間性を――――一振りの剣として。


(或いは……全てを捨てて、今からただ君の下に向かうことも、できるかもしれないが……)


 視線の先の鋼の四肢と、そして、コックピットに置かれた角張った怪物じみた大型リボルバー拳銃。

 可能だ。

 実行しようと思えば、自分にそれは、容易く可能だ。

 だが、


「大尉ー! お待たせしたっス! 午後からもご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします!」


 全周モニターの向こう側の格納庫に繋がる廊下から、大きく手を振ってくるフェレナンドたちを認める。

 機体を降りて、彼らの元へと向かう。

 

「おやおやー? んー……どうかしました、先輩?」

「……何でもない。彼女は?」


 そう問いかければ、エルゼが後方へと視線を投げた。

 ある理由から、その原隊から遠ざけられることになってしまった少女。戦闘後の疲労と手術で意識を失っていたこちらの看病を懸命に行い、今は同居人として過ごしている少女。

 透明感のある容姿を、あまりにも無骨で頑丈な重装コートに包んだ――


「おーぐりー、何かあったの?」


 ひょこりと姿を表した無重力の気配を持つライラック・ラモーナ・ラビット准尉。

 通例ならば下士官の内の相当な叩き上げである先任が進む先の准尉という階級を与えることで、翻ってそれが民間人からの登用であるということと、優れた駆動者リンカーであるということを示すもの。

 今彼女はその原隊である【狩人連盟ハンターリメインズ】を離れ、第五十一空軍“空中浮游都市ステーション駐留部隊”第五五五大隊に出向し、一時的に自分の部下となっていた。


 あの戦いの日からすれば、随分とその笑顔も回復したものだと思う。

 病院で目覚めてあの審問を経た直後、憔悴しきった彼女はこちらの側を離れようともせず、そしてどんな言葉をかけても彼女自身を責めるばかりで会話に応じようとはしなかった。

 彼女が気に病むようなことは一つたりともないというのに――優しい少女だと思う。

 それはそうと、


「ラモーナ。繰り返すが、俺はハンス・グリム・グッドフェローだ。今は、オーグリー・ロウドックスではない」


 いい加減呼び名は直して貰いたいところではある。

 潜入任務は終わったのだし……。

 あとその言葉の響きは、実のところ前世の名前に近いために呼ばれるとどうにも落ち着かない心地にもなる。


「でも、わたしが初めて会ったのは……おーぐりーだった、よ?」

「いや、だが……」

「……だめ?」

「いや……だが……」

「どうしても、だめ?」

「いや……そう呼びたいなら、君の自由だが……」

「えへへ。……うん。おーぐりー……おーぐりー? えへへ……おーぐりー」


 思ったより頑固なのは、こう、少し困る。

 こちらの名前を呼んでは楽しそうに、はにかんでいる。

 潜入任務の当初、背中から銃を突きつけられていたことを思えば随分と打ち解けられて良かったと思うが――しかし、同居には困ったこともいくつかあった。

 具体的にはついうっかり彼女のいるところで服を脱いだら、すごく怒られたこととかだ。あの潜入のときは気にした様子もなかったというのに……やはり彼女も自分と同様、任務と私生活は別なタイプなのだろうか?


「マーシュさんになんて説明すればいいんですかねー、これ」

「え、いや、何がっスか?」

「え?」

「え?」

「………………うわあ」

「えっ、いや、何がなんスか!?」


 一方、エルゼとフェレナンドは顔を見合わせていた。

 何とも懐かしいやり取りだ。

 彼らとそう離れてはいなかったというのに。


「……馬鹿がもう一人いる。真っ当な人間寄越してくださいよぉ、本当ぉ……」


 エルゼがそう嘆けば、彼女よりも少しだけ身長の高いラモーナはその頭を撫でつけていた。


「エルゼさん、偉いね。エルゼさん、頑張ってて……すごいなぁ、って。だから、エルゼさんは、偉いね」


 部隊に出向になってから数日はラモーナは常にこちらの後を追ってきて誰と話すのも背後に隠れて人見知りを発揮していたが、どうもある程度は小隊員には慣れたらしい。

 それもフェレナンドやエルゼの善良さ故だろうか。

 それとも、ラモーナの性格なのか。

 ……その割に潜入時に同じぐらいの期間では、こちらに気を許してくれなかったというのはちょっと引っかかる。いやちょっとだが。ほんのちょっとだけ。そんなにも打ち解けにくい人間だと思われたのだろうか。いや本当にちょっとだけ思うだけだが。本当にちょっとだけ。別に気にしてはいないが。自分は非友好的人物ではないし。気にしてはいないが。


「ラモーナちゃん、わたしのママになりません?」

「え、やだ。……ごめんね」

「嫌かぁ……」

「うん……」

「そっかぁ……」


 そうなると自分はエルゼの何になるのだろうか。お祖父ちゃんかな。凄いな。

 奥さんもいないのにお祖父ちゃんかあ。単為生殖かな。凄いな。

 部下たちが打ち解けたようで何よりである。なんだか疎外感を少し感じると思うが、気のせいである。きっと疎外とかされてない。上司を交えずに同僚同士の方が話が盛り上がるとか多分そういうやつだ。それだけだろう。

 ……まあ、それはさておき。


「ところでエルゼ……これは知人の話なんだが」

「はい?」

「胸の内を打ち明けろ、と幾度と言われても素直に打ち明けられないのは――……どんな感情だと思う?」


 談笑の一環で、ちょっと聞いてみた。

 彼女は一瞬だけ首を傾げるように考えて、


「性根が腐ってるんじゃないですか、その人?」

「………………そうか」


 そうなの……?


「恥ずかしい、ってことじゃないの? おーぐりー」

「そうか……?」


 そうなのかな……。


「格好つけたいんじゃないッスか、その人の前で」

「……というと?」

を知られたくないんじゃないっスかね、なんか。失望されたくない――とか、嫌われたくない――とか。好きでいてほしい、的な」

「………………」


 ………………嘘だぁ。嘘だよ。


「意外でしたねー? まさかブービー後輩にそんな恥の概念があったなんて」

「いやローズレッド先輩にだけは恥とかどうこう言われたくねーっスけど。まさか休日はあんな格好して――」

「へー、どういう意味ですー? へー? ちょっとトイレの裏で詳しく教えて下さいねー? へー? 何を見たのかどこで見たのかそれを誰にまで広めたのかちょーっと詳しく教えて下さいねー?」

「顔怖えっす、先輩……」


 笑顔で壁に追い詰めるエルゼと、おもいっきり顔を反らして冷や汗を流すフェレナンド。そんなやり取りを嬉しそうに眺めるラモーナ。

 いい小隊だ。

 戦いは佳境と言ってもいいのにこんなふうに笑い合える図太さを持っているのは、兵士としてもある種の美徳とも言えよう。そして最も大切な素質だ。


 拳を握り、小さく頷く。


 だからこそ――彼らが死なぬだけの、努力を。


「さて、では、午後からの訓練に移る。――知ってもいると思うが、アーセナル・コマンドとは元来が強襲用の兵器だ。至短時間における敵の索敵範囲外からの急速接近こそ本義である――……宙間戦闘となると、戦略的な役割も重力下とは変化する。その点を改めて確認しよう……オネスト少尉?」

「えっと、はい! 無重力の範囲だと、地上に比べて増速しやすいのとそれのおかげで力学エネルギー弾の威力が増すから……どこまで遠くから敵に殴りかかれるかが大事になるっス!」

「……ローズレッド少尉は、他にあるか?」

「んー……今のに付け加えて、殴りかかる人たちが行き先を間違えないようにちゃんと索敵することが大切で――それをする先遣隊とか、電波の中継隊の役割も大事だってことですか?」

「結構だ。二人ともよく勉強しているな。……ラモーナからは何かあるか?」

「えっと……そういう人たちの邪魔をしたり、逆にそういう人たちを守ったりすること……?」

「そうだ。流石だな」


 保護高地都市ハイランド空軍も、これからの任務では宇宙戦闘に駆り出されることになるのは確定している。

 残念ながら、無重力そのものの体験はここでは難しいが――それを行うよりも先に、十分な知識を身に着けさせることはできる。


「それに加えて、もう一つある。……アーセナル・コマンドが単身で都市一つを破壊する兵器というのは今や遠い話となってしまったが、宇宙空間ならばそれが未だに健在だと言う点だ。つまり――居住区ボウルや宇宙要塞などに対しては単機で破滅的な被害を齎せられる。座標が大きく変わることのない固定目標に対しては、完全にその強襲力を発揮するという点だ」

「なるほどっス。だから宇宙要塞【大聖堂カテドラル】の近くにはやたらとデカイ壁が作られてるって言うんスねー」

「ああ、【聖骸壁シュラウド】のような流体ガンジリウムを循環させた巨大遮断防壁を用いるというのも防御の方法の一つだ。……ただしこれは、居住区ボウル等においては建造コスト的にあまりにも現実的ではない。……では、そのことを念頭において、午後からのシミュレーションを実行していこう」


 彼らを見回してからコックピットに乗り込み、改めて機体との脊椎接続アーセナルリンクを行う。

 起動し、周囲に映し出される光学センサーの映像。

 シートの外側を取り囲んだ全周モニターが格納庫を映し出すのに合わせて、ホログラムコンソールに触れて機体の出撃前確認を行っていく。


 自分たち軍人に大切なのは、訓練だ。

 事前にどれほどの努力を積み重ねられたかが全てを決する。勝つために、生き残るために、重要になるのは全てがそこだ。

 故に可能な限り、次の出番までに部下たちを鍛え上げるしかない。幸いにして自分たちはまだ、前線への配置となっていないのだから。


(……だが、おそらくそれも遠からずだ。ついに軍も【フィッチャーの鳥】と【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】の内紛への日和見を決め込むだけ……とは行かなくなったようだな)


 宙間戦闘訓練とは、そういうことだ。

 作戦に対しての統合任務部隊の結成という形ならばまだいいが、それだけでは済まないとも見ていた。


(【音楽隊ブレーメン】とアシュレイによって、【フィッチャーの鳥】も大打撃を被ったと聞く。……衛星軌道上に展開した二番艦隊は保有するアーセナル・コマンドの全機を撃墜され、シュヴァーベン特務大佐の一番艦隊も巡洋母艦二隻が轟沈する被害。組織の再編は必須だ)


 宇宙方面の六個艦隊の内の二つが――それも、どちらも地球衛星軌道方面の防衛を担う方面艦隊を形成するものが大打撃を受けたとなっては到底穏やかには終わるまい。

 予算配分の関係で、各軍への装備の充実の代わりに作られた特務部隊。

 そこについての恨みつらみやは未だに残っており、それも此度の内紛的な騒動においての保護高地都市ハイランド連盟軍全体の非介入というものに一役買ってはいたのだろう。

 しかし、そこにどのような政治的判断とやらがあったのかは知らないが、ついにこの内紛のような戦闘についての旗印を定めようとしている。それともいい加減に【フィッチャーの鳥】からの要請に応える他なくなったのか。


 とは言っても、それは、頷けるものであった。

 

 予算を奪われた各軍からの恨み節もあるが、また同時、少なくともそこにはがあることを意味している。

 そんな勢力からの要求。それともある種の、それに対する貸し借りのような一面もあったかもしれない。

 それかもう、事態を静観するだけでは到底済まない――と判断されたか。


(……少なからず、あのアーク・フォートレスがウィルへルミナに奪われたことも関係しているか)


 軍の中での急戦派とそれに対する反発派の争いというよりも、新たなる行政機構の一員として取り入れられた企業出身官僚の【新貴族デファクタ】と軍部出身官僚の【新騎士コンダクタ】の代理戦争的な意味の強い内紛。

 しかしそれもあくまでも勢力争い――……つまりは、まずは保護高地都市ハイランドの安全が確保されている上でというのが前提になってのもの。

 保護高地都市ハイランドの安全保障を脅かされる事態を前には、そんな内紛も捨て置かざるを得ないのだろう。


(……いいや、きっと、そこまで見ている有力者はそう多くはない。外敵を前に団結するのは御伽話であり、むしろ、外敵による擾乱を前に――と見做すのは、歴史的にも往々にして有り得る話だ)


 ともすれば、あの【蜜蜂の女王ビーシーズ】と手を結ぼうとすることさえ有り得るだろう。

 所詮は敗残兵や敗国の集まりであり、主流派となって軍を動かせば鎮圧は難しいことではない――――、と。

 そんな政治的な判断というのも、十分に、有り得る話なのだ。


(……あの場で討ち取れなかったことが、今後の世においてどんな影響を齎すのか。もし――彼女が仮にあの『サテライト・ネクスト』を名乗る人間だとするならば、それは明確にこの地を滅びに加速させる要因となるだろう。……彼女への好悪はともかく、何においてもあの場で確実に殺すべきだった。重ね重ね、己の非才と無力が悔やまれる)


 『サテライト・ネクスト』――第三作目『アーセナル・コマンド・アドバンスドライン 〜愛の彼方は星の夢〜』にて敵対勢力を努めた一派。

 戦争廃棄品のレストアを行うジャンク屋の主人公の少女にとっての新たなる大口の顧客であり、彼女が修繕したアーセナル・コマンドを買い上げることによってその少女が騒動の渦中に飛び込んでいくことになった原因。

 修繕したアーセナル・コマンドやモッド・トルーパーに自己の作品としてステッカーを貼ることだけを唯一の楽しみとしていた内向的な技師の少女は、故郷を襲った機体の内部にあったそのステッカーによって、己の友人や知人たちを吹き飛ばした機体が己のかつての修復品であったと知り――その罪を拭うために戦火に身を投じることになる。


 【フィッチャーの鳥】と【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】の戦いの先。

 シンシアの、次の、主人公。

 度重なる殺し合いによって深く消耗した彼女の代役を務めるように――呪い火の戦場へと身を投げ込む新たなる主人公と、その敵。


 彼女の腕前にかねてより嫉妬していた同業者によって齎された襲撃犯の機体に関するリークは、彼女の唯一の肉親への、故郷の民衆からの私刑という形で現れる。

 機械いじりが好きなだけの、他に身寄りもない少女に襲いかかる――その無自覚であった罪との直面。

 生きたまま嬲られ引き裂かれ、真空の宇宙に投じられる彼女の肉親の苦痛と慟哭。


 そんな悲劇を、この世界に数多生まれる悲劇を喰い止められる機会の内の一つに、己は、今度は立ち会えたのだ。立ち会えていたのだ。ようやく――ようやく。

 為さねばならなかった。

 成さねばならなかった。

 なのにできなかった。またしても……何一つ。為すべきことを、己は何もできなかった。やらねばならぬことを、できなかった。

 

(……役立たずとは、判っている。判っていた。……どこまでも悔やまれる。それを改めて自覚させられることにも、思うところがある――だが、そうだとしても)


 ――

 止まる理由はない。歩まぬ理由はない。ここで折れる理由はない。

 いつの日か、その機会を逃さぬためにも。

 己は、確実なる殺傷性を手にしなければならないのだ。殺すべき機会に、殺しそびれることのなきように。

 己は、一振りの剣とならねばならぬのだ。

 そのためなら、己の人間性の何をも差し出そう――それしか施せるものが、ないと言うのであれば。


『……どうしたの、おーぐりー?』

「特に何もないが……何か不安はあるのか、ラモーナ?」

『わたしは……。えっと……ね? わたしじゃなくて、おーぐりーのことだよ……?』

「俺ならば問題はない。常に性能を発揮できるように努めている。貴官も知るところだろう」

『……えっと』


 不安そうな声のラモーナは、彼女の専用機体ではなく敵軍からの鹵獲品の【狩人狼ワーウルフ】に搭乗している。

 彼ら【蜜蜂の女王ビーシーズ】には、おそらく【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】経由か――それともそこからの漏洩リークという形で、第四世代型【ホワイトスワン】の力場制御プログラムが流出している。

 それがあれほどまでに、旧式の機体たちが戦場で食い下がった理由だ。軍部はそう推測していた。


 その仮想敵機としてのラモーナ。


 あのウィルへルミナからの精神へのクラッキングについての安全の確認が取れぬがために、彼女は高度な軍事機密の塊である【狩人連盟ハンターリメインズ】を一時的に離れ、こちらへの合流を果たしている。

 その検査と、調査と、最悪の場合の処分。

 それは自分に一任されている。そして仮にラモーナを通じて情報が漏洩したとしてもあまり問題はない戦力――として自分が選ばれ、彼女の監督を努めるように頼まれた。


『……あのね、おーぐりー?』

「何か? ……もしや、機体間の生体データ共有に示されない体調不良があるのか? だとしたら午後からの訓練は休養した方がいい。……訓練も戦いもまだ続く。君の身が第一だ、ラモーナ」

『そうじゃなくて、あの……おーぐりーの身も、第一なんだよ……? おーぐりーは、どこに行こうとしてるの?』

「……」


 またもや、行き先に関する問いかけ。

 既にここまで何度も聞いたようなそれに対する答えは、決まっている。


「俺はどこにも行く気はないし、常にに立ち続けるだけだ。……そして俺の目指す先と俺の任務には関わりがない。これで納得貰えるだろうか?」


 義務を果たす――兵士であるということの義務を。

 それが己の持つ唯一の真理であり、唯一の解法だ。


 そう告げてから――……ふと、思う。

 先程の夢にて、あの少女に言われた言葉が。それが、戒めのように口の中に残って存在感を示していた。

 だからもう一言、続けた。


「……俺のことを心配してくれるのは、判らないが判る。そうしてくれることが嬉しいとも思う。俺がどう言おうと、君たちのそれがなくならないことも判る。……優しい君たちにとってはそうなのだと」

『……』

「だが――だからこそやはり、案ずるなとしか俺には言えない。そう心配されぬように、俺は俺を鍛えようとしている。きっと、そのとやらも俺にとってはその一環であるのだろう」

『……うん。おーぐりーが、柱になろうとしてるって、わたしにも判ってるよ』

「……そうか。……そうだな。俺は、俺などに向けられる心配の一つが不要なように、それを必要とする他の誰かに向けて貰えるようにしたいと思っているし――……」


 なんのためにそうするかの理由の一つには、


「そう案じてくれる優しい君たちの、他ならない君たちの生存の力になりたいんだ。……俺が行きたいのはそんな場所で、俺に大切なのはそれだけなんだ」

『うん……』

「他に行きたい場所は、あることはあるが――……」


 叶うならば。

 あの夢のようにその背に追い付き、二度と傷付くことがないように抱き締めたい背中もある。

 だが、


「……彼女がまた帰って来られる場所を作るためにも、また帰って来てもいいようにするそのためにも、俺はここで踏ん張らないといけないんだ」


 彼女が行ったのは軍紀からしたらあまりにも大きな違反であり、法においてもあまりにも大きな罪となる。

 それが少しでも軽減されるような措置と、弁護と、嘆願が聞き届けられる程度の功績を示す必要が己にはある。

 【フィッチャーの鳥】が勝つにしろ、【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】が勝つにしろ。

 また、どちらが勝者になろうとしても――それが立つべき玉座である保護高地都市ハイランド連盟という存在を、残すために。

 己はここに立ち続けなければならない。保護高地都市ハイランドの理念を、示し続けなければならない。


『そっか……うん、そっか』

「ラモーナ?」

『……ううん。おーぐりーにも、そんな人がいるんだなぁ……って。いたんだなぁって。……そっか。いたんだね、もう。そっか……』

「……?」

『うん、大丈夫だよ。……うん、それでもわたしはおーぐりーの味方だから』

「そうか。……感謝する」


 何か服で顔を擦るような音とともに、通信は切れた。

 話しつつ、こちらは必要な出撃前点検を済ませた。

 あとはフェレナンドやエルゼのその動作の完了を待ってから、訓練空域に向かうだけだ。

 今の己に与えられ、そして己が行うべき仕事なのだ。


 それにしても――……。


 あの夢を思い返そうとすると、何だかそのたびに無性に居心地が悪くて、何故だか少し困った。


 なんだろう。


 恥ずかしい。困った。わかんない。



 ◇ ◆ ◇



 シートの全周を覆うモニターに永久なる宇宙塵と星の明滅、既に廃棄された大型の構造物の残骸と剣じみた宇宙巡洋母艦を映したコックピット内。

 アーセナル・コマンドを元来の人型重機として扱いながら船体偽装を行う友軍たちの様子を眺めつつ、無重力の軽さに金髪を漂わせるシンデレラは頭をあげた。


 出撃の疲労が積み重なる中での掩蔽作業。


 君は従事する必要がない――と遠ざけられたそれに手を貸そうとしつつ、結局また断られ、船内に戻ろうとしたその時に。

 自己の生命維持を成り立たせていた――そして今ではそれでなくとも良くなった――ホワイトスワンの中核部とグラスレオーネのそれ異なるが故の不具合か、単なる接続感触のその違いに対する慣れの問題か、或いは単純に疲れからか不意に意識を失ってしまって友軍の呼びかけで起こされてから。

 ようやく覚醒状態が落ち着いてきたと自分のバイタルデータを眺めつつ、彼女はポツリと呟いた。

 

「……“取り替え子チェンジリング”?」


 それは現世と幽世の交接。

 人の子を羨んだ妖精が、或いはそれに魅せられた妖精が、はたまたただの嫌がらせで、人の子を浚い妖精の子を入れ替わりに置いていくという伝説。

 ときには妖精の元で育った騎士が真なる愛の下に人間として取り戻されるものであり、またときには取り替え子チェンジリングすらも愛した真実の母の愛が子供を取り戻すに至るという話である。


 シンデレラも、いくつか、聞いたことがある。

 親からではなく、自分の理解者となってくれたあの瀟洒なる烏羽の老女から。

 彼女は色々なそんな幻想の話を、その落ち着いた美しい声色と共にまことしやかに語ってくれていた。

 一輪の鈴蘭のランプの元で幻想的に――どれも等しく記憶の中に溶けていく不思議の夢のような御伽話であったが、その単語だけはやけに記憶に残っていた。

 それだけは、他と、違ったのだ。


 ――〈ああ、そうだね〉〈ここは、言わば、狭間の地なのかもしれないね〉〈煉獄――……そうさ、リトルレディ。煉獄と、そう呼ばれてもいいものさ〉。

 ――〈取り替え、呼び寄せられ、集められて……ああ、或いは堕ちてくるとも言えるかもね〉〈何がかって?〉〈ふ、ふ。の話だよ〉。

 ――〈。上位者或いは超越者。収集者。〉。〈うん? ……ああ、ババアの魔法使いの戯言さ〉〈……もっと早く知っていれば、誰も兵隊なんて志さなかったかもしれないね〉。


 それは普段の優しげで愛おしげに思える御伽話とは、毛色が違ったおどろおどろしい言葉。

 遠く冒涜的な何かを。

 名付けることさえ困難な名状しがたい何かについて語るような――……大いなる海原の底の底に沈んでいく深き黒のような背筋が凍りつく恐怖や、果てしなき宇宙の途方もない空虚が広がっていることへと首筋が寒々しくなる恐怖を語るような、そんな言葉だった。

 そのことに言い知れぬ不吉を抱いたシンデレラへ、しかし、老女は片目を瞑って笑いかけた。


 ――〈さて、リトルレディ?〉〈もしアンタの目の前に取り替え子チェンジリングがいたとしたら――〉〈アンタは一体、何をする?〉。


 その時自分は、なんて答えただろうか。

 取り替えられてもそれもまた我が子だとして、虐げることなく育てようとした母親の話みたいにできるのか。

 それとも真実の愛を以って彼のために苦難を乗り越え、妖精の騎士から人の騎士に戻してあげられるのか。

 それは判らないけど――……多分、こう言ったと思う。


(……わたしが、居場所になってあげられないかな)


 人の子が攫われてしまったように。

 その子も、無理矢理連れて来られてしまったというなら。

 本当はその子も、別の場所で暮らしていたかったというのなら。

 誰も自分のことを知らず、誰も同じ人がいない世界に放り出されてしまったというのなら。


(寂しくて、ひとりぼっちなら……わたしがその人の、居場所になってあげられないかな)


 そんな風に言ったような気がする。

 多分――……自分に。親から相手にされない自分に重ねて。

 だから、その苦しさが辛いって判るんだと言おうとした気がする。本当のところはどうだか、判らないけど。


 そんな言葉。

 “取り替え子チェンジリング”。

 あの現実味のある夢の中で、彼は、正確には異なっていると言っていたから違うのだろうけど。


「大尉……そこに、いたんですか?」


 ついさきほどまでの夢の中の邂逅。残り香のような気配が、コックピットに漂っている。

 見回してみても現実的に彼がいる筈がなく、しかし、ただの夢と断じるにはあまりにも現実味があったもの。


「……聞こえますか、大尉?」


 呼びかけに、声は返らない。

 ただ、でも、あの人がそこにいたんだと――――信じたかった。いや、そう、感じられていた。そうとしか思えなかった。


「……大尉。どうしたら貴方は、幸せになれますか?」


 傷付いて折れた翼のまま、飛び続けるようなあの人に。


「わたしじゃ……貴方の幸せに、なってあげられませんか?」


 返答は、ない。

 あれほどまでに近くに感じられた気配が、彼の匂いが、薄れてしまっていた。

 何かもう少し手がかりはないのかと、会話を思い返そうとして――――


「……、ふ、ふーッ」


 ぶり返してきた。

 起き抜けに随分と身悶えしてようやく落ち着けさせた筈のそれが、完全にぶり返してきていた。

 仕方なかった。

 仕方なかったのだ。


 あの胸筋スケベすぎる。それまでは柔らかいのに身体を丸めるとゴツゴツ浮いて強烈に自己主張してくるあの胸筋は兵器では? 押し付けてくるのはハラスメントでは? 動くハラスメント。ハラスメントの彫刻。スタチュー・オブ・ハラスメント。

 あと腹筋。力が籠もるとやっぱりすごい。おろし金かな。すりおろされちゃうのかな。抑えつけられちゃうのかな。すごい。大変。固い。ズルい。良くない。

 あれは良くない。本当に良くない。有罪。そこに服があるのに、そうなってしまうとまるで服がないみたいだった。そう思わせてきた。そう思わざるを得なかった。そう思わせて来る方が悪いと思う。有罪。なんでそういうことするんですか。ハラスメントですよ。服がないだなんてそんな。なんのときなんですか。ナニしてるときだって言いたいんですか。ナニなんですか。ハラスメントですよ。ハラスメントなんですよそれは。


 正直、なんか半分ぐらい話が入ってこなかった。


 当たり前じゃないですか。誰かに抱き締められたことだってないっていうのに。親にも。なのに。当たり前じゃないですか。それなのに服がないみたいな感触させるなんて。当たり前じゃないですか。ハラスメントなんですよ。ハラスメントは酷いことだから落ち着ける訳がないんですよ。酷いことされて落ち着いて考えられる訳ないんですよ。何を考えてるんですか。ナニを考えさせようとしてるんですか。ナニを……――ハラスメントですっ。それはハラスメントですよ。

 ナニを考えさせようとしてたんですか。ナニを。駄目です。それはダメです。もう少し手順を踏んでください。早いです。半歩ぐらい早いです。せめて半日ください。いや半時間。早いです。ダメです。ハラスメントです。ナニ考えさせようとしてるんですか。あんなふうに。どうしろっていうんですか。どうしよう。どうしよう。どうしてもなのかな。どうしよう。

 とにかくっ……ハラスメントです。セクシーハラスメントです。セクハラです。いけないことです。つまり風紀違反です。秩序を乱してます。その腹筋と胸筋と二の腕は秩序を乱してます。世紀末です。世紀末筋肉伝説セクシーハラスメントの件です。ハラスメントです。


 …………いや違くて。


 違うんですよ。違うって言ってるじゃないですか。しつこいですね。訴えますよ。違うんです。悪いのは大尉の方です。だから仕方ないんです。そもそも違うんです。やめてください。訴えますよ。勘違いしないでください。

 なんですか。おかしいじゃないですか。言葉がいちいちおかしいじゃないですか。前々から思ってましたけど、言葉の端々がおかしいじゃないですか。なんだか例えが性的じゃないですか。いつもいつも。匂わせじゃないですか。いい匂いがする。匂わせじゃないですかああいうの。なんで言葉選びがいつもいつも変な感じに匂わせてくるんですか。男の人の匂いを。すんすん。匂いを。すーはー。おかしいじゃないですか。訴えられますよ。訴えられたら普通に負けるんですよそれは。わたしは許してあげますけど。優しいから。ハラスメントを。許してあげますけど。

 あんなに簡単に女性の肌に触るのは良くないと思います。わたしだからまあ百歩譲って許してあげてもいいですけどハラスメントです。だめです。ハラスメントはだめです。ほっぺたとか髪とか触るのは親しい相手しか駄目です。親しい相手にしかしちゃいけないことだし、そんな相手にしかしないって心理学で示されてるんです。さっき調べました。だから間違いないです。正しいんです。正しいんですきっと。認めてください。ハラスメントです。大尉は明らかにハラスメントをしようとしてハラスメントしたんですよ。


 そんなに親しいと思ってるんですか。もうそれぐらいしてもいいと思ってるんですか。それとももっとその先もですか。そ、そんなに……っ。ハラスメントです。駄目です。ハ他でやったらハラスメントです。駄目です。まだ駄目です。駄目です。着替えさせてください。せめて。もっとかわいい格好にさせてくださいよ。わたしがこんなものじゃないって思わせてあげますから。それまで駄目です。

 本当に駄目です。どうしてもって言うなら……少しぐらい。ちょっとぐらいは、まぁ、仕方ないですからね。いいけど。認めてあげてもいいけど。わたしは心が広いので。仕方ないので。

 でも駄目です。まだ怖いです。優しくしてくれないと駄目です。駄目なんです。優しくしてくれないと許さないです。駄目です。早いです。優しくしろってことは別にずっと優しくしろって訳じゃないってことをちゃんと判ってくれるまで駄目です。早いです。駄目です。ちゃんとそういうの察してくれるようにならなきゃ駄目です。まだ駄目。多分まだそうできないから駄目。言葉にしなきゃ判らないとか言うなら駄目。恥ずかしいじゃないですか。そうなったら。こっちが。言葉にしろだなんて。辱めですよそれは。ハラスメントです。

 なので駄目です。まだ。駄目です。……駄目って言ってるじゃないですか。ちょっとぐらいなら許してあげますけど。それでも駄目です。駄目なんです。……駄目。駄目なのに。あと駄目って、別に駄目ってことではないんですからね。わかりますか? 分かるか分かりませんけど。でもそういうところも駄目です。そこが直らないと駄目です。恥ずかしいから。

 直してください。控えてください。あと他の娘にそういうことやっちゃ駄目です。絶対駄目です。訴えられますよ。訴えますよ。駄目なんですよ。訴えます。乙女心擾乱罪と乙女心煽動罪と乙女心誘拐罪で訴えられますよ。乙女心殺人未遂罪。訴えます。他の人にやったら。訴えます。本当に訴えますから。嫌いになりますよ。なりませんけど。でもそういうのは嫌いです。怒ります。だから駄目です。


「ふーッ、ふーッ……!」


 心拍数の上昇を機体の生体センサーが知らせてきた。

 うるさい。乙女の秘密を。ハラスメントだ。大尉と違って本気で怒ります。乙女の秘密を。デリカシーがない。それにきっと誤報だ。もう落ち着いたんですから。落ち着けたんですから。誤報です。ハラスメントです。

 あれだけ時間をかけて落ち着いたんですから。誤報です。うるさい。誤報ったら誤報なんです。うるさいうるさいうるさい。うるさいんですよ。『感知しました』じゃないんですよ。完治してるんですよもう。うるさい。


 ……なんか、感触を、まだ覚えてる。

 そしてそんな意識に同調するように、コックピット内にも展開する力場が勝手にその再現をし始めた。

 つまりは、あの、頬にぶつかる男らしい力強さを意識させてくる胸筋だとか、思わず自分と比べてしまう硬い腹筋だとか、背中と腰に回された腕だとか――


「はっ……はッ……ハ、ハ、ハハハハラスメントですっ! ハラスメントですっ! ハラスメント!」


 手をブンブンと振ってその力場を掻き消す。

 頼んでもない無意識が作り出した力場の幻影。頼んでない。今は頼んでないのだ。

 それらは消えたが、だが、頬にその感触が残り――同時に記憶の扉が開かれるように、思い返された。


 耳元で囁かれる――――……〈シンシア〉。


 リフレインする痛いほどの腕の力――〈君を攫って、誰も来ないどこかの塔の中に隠してしまえば……〉。

 腹の底から絞り出すような、苦しげな声――〈壊れるほどに君を抱けば、俺の気持ちは伝わるのか?〉

 怖いほどに情熱的に、獣の唸り声のように、こちらを見詰める真剣な瞳――〈……こんな俺の、穢れた想いが〉。

 

「ハッ、ハッ、ハラスメントですっ! そんな呼び方ハラスメントですっ、ハラスメントっ! たっ、たっ、大尉はっ! ハラスメントですっ! 全部っ!」


 思えば前々からそうだった。

 やけにイヤらしい例えを口にしたり、やけに甘く囁いたり、やけに顔が近かったり、とにかく無意識にしてもスケベすぎる。スケベ大王。無自覚ドスケベ大王。ドスケベ軍人。スケベが服を着て歩いてるようなスケベ。スケベの御柱。スケベ・ザ・セクシーハラスメント。

 理性的で貞淑な自分でなければ絶対耐えられなかったと思う。あんな言葉回しも。あんな声の出し方も。絶対良くない。女の子に勘違いさせようとして生きてるとしか思えない。教育に悪い。情操教育とかにきっと悪い。悪い。歩く風紀違反。動く成人指定。喋るハラスメント。駄目ぜったい。ハラスメント駄目ぜったい。人道法違反。国際人道フェロモン法違反。

 良くない。つまり良くない。悪い。良くないのだ。良くないというのはそういうことだ。悪いのだ。悪い。大尉は悪。悪役。ズルい。つまり悪役だ。ラスボス。良くないのだ。全部。悪いことになるのは大尉のせいだ。良くない。誘惑してくる悪魔だ。良くない。大尉がいけないんですよ。大尉が悪いんです。あんなことするからいけないんです。悪いんです。反省してください。それ以上は良くない。いや続けて。続けないのはもっと良くない。反省してください。そういうのは女の子に言わせちゃ駄目なんです。察してください。恥ずかしいじゃないですか。


 夢の中でまであんなことをしてきて。

 一体何を覚えさせようとしてるんですか。大尉の何を覚えさせる気なんですか。なんのために。なんのために、ナニを覚えさせるつもりなんですか。もう匂いは覚えたんですよ。それなのに何を覚えさせようとしてるんですか。ナニを覚えさせるつもりなんですか。ハラスメントです。覚えさせようだなんて。……そ、それはハラスメントですよ。ハラスメント。覚えさせてやるだなんてハラスメントです。訴えます。う、訴えますよ?

 う、訴えますよ? いいんですね? 大尉は人道法違反だって訴えますよ? う……訴えますよ? 本当に訴えますよ? 口封じしなくていいんですか? う、訴えちゃいますよ? 訴えるって言ったら本気ですよ。本気で訴えちゃいますから。い、いいんですか……? と、止めるなら今ですよ? 大尉ならあんな風に簡単に止められちゃうでしょうから、止めるなら今ですよ? い、今ですよ?


 ……いや違くて。


(……ふー、すー。落ち着け。あれはただの夢。落ち着いてシンシア・ガブリエラ・グレイマン。あれはただの夢なんです。夢なんですから)


 数度深呼吸をして、なんとか意識を取り戻した。

 あんまりにも刺激が強すぎて思考がバグった。

 抱きしめていたカーキ色のフライトジャケットを着直す。何度か鼻で深呼吸する。すんすん。あんな夢を見てしまったのは、この服が原因だろうか。すーはー。


(……夢。本当に、夢? それにしては――)


 前に見たときは、もっと、自分に都合がいい夢だった。

 到底彼が口にするはずもない言葉と、夢から冷めたあとはあまり思い返せない夢特有の声色。

 そんな、ただの夢だった。

 だというのに目覚めてからも記憶に残り続けるその声は、それが夢とは思わせない――一番の理由だ。


 ……先ほどと違うような心臓の乱れが、胸騒ぎがする。


(……大尉。全部終わったら、また、会えるんですよね。どこかに行ったり、しないですよね……?)


 それは、不安だ。

 自分たち【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】は、乾坤一擲の機会を逃してしまった。

 目前にした神の杖運搬用アーク・フォートレス、スノウホワイト――【雪衣の白肌リヒルディス】を前にそれは阻まれ、奪われた。


 【衛士にして王ドロッセルバールト】と【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】及び【フィッチャーの鳥】の軍事衝突に合わせる形での武装蜂起を行った【蜜蜂の女王ビーシーズ】。

 彼らはその中核指導者たるアンドレアス・シューメーカーを失いながらも、ウィルへルミナ・テーラーという少女の下に作戦を続行。

 そして【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】と【フィッチャーの鳥】の衝突に付け込む形で、秘密裏に運用されていた衛星軌道高々度爆撃兵器を奪取したのだ。


 現時点では、彼らから【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】及び【フィッチャーの鳥】への接触は行われず、また保護高地都市ハイランドにも宣戦布告をする気配もない。


 だが――だからこそ、それは、不気味だった。


 まるで、終わりが近付いているような。

 決定的に救えない断絶を、そんな崖を前に向けて歩を進めているような。

 それが迫りくるような、恐ろしい予感があった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る