第76話 狩人、或いはアルテミスが変えた猟犬


 流星のように――矢のように。

 黒き虚空を、大袈裟なデブリと細かな塵が流れていく。相対速度によってそれらは真実、矢以上の速度を持つのだろう。

 反射、散乱を行う大気の存在しない宇宙空間において、如何に太陽に照らされたとて宙空は黒く虚ろなままだ。

 陽光が射すことでの変化というものは、ここではさほど強くは感じられない。精々、漂う反射物が強く輝き出すとか、太陽方向に視界を取ると目が焼かれる危険性があるとか、そんなものだろう。

 接触する機体から伝わる振動。人型の作業用重機械は、今やその面影はない。企業のロゴを纏って、速さを追求する生き物に生まれ変わっていた――いや、真の意味で生まれ変わらせるのは自分か。


『――アルテミス! アルテミスが来た! アルテミスが先頭に出た! 若干、なんと十九歳! 十五歳から続けたレース! 四連覇がかかった大事なレース! 先月、同期を不慮の事故で失い、友に誓った大事なレース! 怪我からの復帰、スポンサーの解散、多くの――あまりにも多くのことがありました! それでも、月の女神はここにいる!』


 電波故に、どうしてもそれを拾ってしまう中継。

 それが、振動の齎す雑音に呑まれていく。煩くて、だから静かだ。


『アルテミス! アルテミス・ハンツマンがトップ! 一躍トップに躍り出た! アルテミスが引き離す! アルテミスが引き離す! 誰も追えない、追いつけない! アルテミスが進んでいく!』


 想う。

 地上の空は、どうなのだろう。

 光が射すと明るく変わるという、地球の空。風なるものがあるという地上の空。慣性だけでは飛び続けられなくて、翼を持たないと飛べない空。

 その景色は、どうなのだろう。

 雲とは、本当に白いのだろうか。空とは、本当に青いのだろうか。


『美貌の少女! 銀髪の月の女神! 放たれた矢のように、一直線に躍り出る! アルテミス、アルテミス・ハンツマン! 三冠の女王が今、戴冠する――――! 前人未到の四連覇! 史上初の四連覇! 史上初の女性九冠! うら若き乙女が、真の女王と証明した――――!』


 レーザースモークのゴールラインを振り切って、三分にも満たない飛翔は終了する。

 逆噴射により制動をかける機体に、虚空の彼方へとそのまま飛んでいく幽霊の己を幻視した。

 また、置いていかれた。それとも自分が置いていったのか。遠き速度のその地平は、自分の手をすり抜けていった。


 でも――……まあ、いいかと息を吐く。


 こんな自分に機体を預けてくれた人。

 精一杯に整備をしてくれた人。

 怪我を懸命に治療してくれた人。

 信じて、復帰を待ち望んでくれた人。

 父母を失った娘が、あまりにも多くの幸運に支えられてここにいる――……そう思えば、彼らの場所に戻れることに嬉しさを抱くのだから。


「……どこかに、いい男いないかな。なんて」


 その暖かさに感じてしまう恥ずかしさを誤魔化すように呟いて、機体を反転させた。

 大型の観客船に揺られた観衆や、ゴール付近の整備船に待機するスタッフたちの満足そうな笑顔、祝福、両手を上げた歓声――。

 それに手を振替して、アルテミス・ハンツマンは帰還していく。

 おそらくは彼女の中で、最も輝かしく――清かった頃の記憶。あまりにも遠ざかってしまった記憶の一つだった。


(……ああ、今日は本業の方だっけ)


 武骨な兵員輸送車両の中で、ぼんやりとした頭を起こす。

 鼻にかかるほどの野暮ったい銀の前髪。緩やかに膨らむ癖のある長髪。袖のダボついたオレンジ色のパーカーは、どこかインドア趣味の少女の部屋着を思わせる。

 伸びを一つ。

 周囲の男の視線が集まる。現役時には写真集の撮影を打診されたほど、そのバストは豊満だった。

 それを青い瞳で無感情に見詰め返すと、バツが悪いのか男たちは目を背けた――いや、


「よお、アルテミス。まさかレースの女王様とこんな場所で会えるなんて、光栄だな。ところで知ってるか? 競技者ファイターは、一応、違法だってコトは」


 一人、すきっ歯の中年の男がそう笑いかけた。

 何が言いたいのか――は、まあ判る。

 仮にそれをすると彼に対してはそれなり以上のペナルティ――どころでは済まないものが課されるのだが、或いはそれと秤にかけても彼女との一夜は魅力的なのか。

 確かに現役時代も色々と有力者からそんな申し出もあったな、と思い返しながら穏やかな声で呟いた。


「誘い文句にしては悪くないけど。でも私、自分より弱い男には興味ないの」

「へ、へ……つまり、勝てばいいってことかい?」

「んー……勝てるっていうか、まともに飛べるの? その膝……悪いんじゃないの?」


 言えば、男はギョッと目を向いた。


「もし他に余計なことを考えているなら一応言っておくけど、オススメはしないよ。貴方の髪か耳を引くと、頚椎が動く。脊椎もつられて……それから骨盤の付け根が伸びて、きっとそこで激痛が走る。悪いのは膝じゃなくて股関節と足首。もっと言うと、まずは腰の辺りの軟骨が由来。……二度と歩けなくなるよ」

「な、何……何を……?」

「ん、だから、お誘いの話。早めに中央病院にかかった方がいいよ。だから引き分け狙いで、チケット代の確保が先決――……次の試合は勝ちに行くよりも、そうした方がいい」


 まるで超能力者や預言者を見でもしたかのように、兵員輸送車の自分の席に戻っていく男。それを眺めた周囲の男たちもアルテミスに秋波を送るのを断念したらしい。

 それを見てアルテミスは肩を竦めた。

 別に汎拡張的人間イグゼンプトではない。戦時中には噂を聞いたことがあるが、出会ったことも無ければ自分がそうとも思えなかった。

 作業場所への到着――今日は“建築現場アリーナ”ではない――を知らせる赤いランプと共に、アルテミスはパーカーを脱ぎ捨ててタンクトップ一枚とスパッツ一枚に早変わりする。こうした方が、着替えの手間が減る。

 男たちから口笛は――……上がらなかった。意気地がない連中だな、と思った。戦時中の訓練生たちの方が、彼女をデートに誘うだの何だのと賭けをしていただけまだ可愛げがあったというものだ。全員年上だったが。

 そうして船外活動用の防護服に着替え、ヘルメット装着の順番を待つ――正規軍や裕福な企業ならそんな手間は必要ない――その時だった。


「よぉ、アルテミス。次の試合の相手――見たか?」

「誰? というか、どれ?」

「死神だってよ。けったいなマスクを付けた奴だ」

「へー」


 面白い相手だと楽しいだろうな――と、話しかけてきた青年の持つデバイスを眺める。

 そこで僅かにアルテミスは、その深いサファイアブルーの瞳を見開いた。


「……どうした?」

「前にデートに誘ってきた人」

「は? ………………いや、え? え?」

「年上だけど可愛かったよ、色々と。……うん、可愛かった。タイプなの、こういう人。素敵な狩人さん」

「ちょっと……おい、なあ、どういう――」

「秘密。それより、仕事でしょ?」


 鼻歌を歌いながら歩き出すアルテミスの背を、何とも言えない心地のまま狼狽える青年の肩を、周囲の男たちは生暖かい目で叩いていった。

 この日の作業は、廃棄された居住区ボウル付近の宙間を漂うデブリの除去であった。



 ◇ ◆ ◇

 


 十二月の――二十四日、か。

 衛星軌道都市サテライトに潜入してから、十日ほど。

 組める限りの対戦カードを組んだために既に十二連勝を迎えていたが、今度は断られるようになってきていた。


 理由は三点。

 一つが、まずそもそも合法的ではないアーモリー・バトルにおいてそこまで多くの戦闘を開催できないという点。

 あまり衆目に値しない――つまり駆け出しの者だとかグレードの低い者ならば摘発の危険が少ない空域での開催が可能だが、一定度の注目を集めるカードとなるとその舞台も相応のものを用意しなければならず、そうなれば無制限の開催はできなくなる。

 二点目が、その注目を集めるカードというところ。

 つまり主催者はそれを以って賭けのメインカードとしており、あまり容易くはメインのカードを切ることができなくなってくるという点だ。

 三点目は、単に、疲労。

 自分が――ではなく、相手が。どうやら相応に加速圧や衝撃、戦闘ストレスのある試合というのはインターバルを設けるものらしい。こちらは特には感じないが。

 それが故に、連続して試合に出ようとすると止められるようになっていた。特に主催者からしたら、こちらは儲けがいがある駒なのだろう。疲労や消耗による事故などを防ぎたい、ということだ。


 スポンサーを持たないために、推進剤や武装に関しては大会側からの最低限の供給しか受けられない。

 それで別に構わないところであったが、まあ、休めと言われたら従うだけだ。

 この日も、単なるデブリ除去作業の従事――その筈だったのだが、


「気分は変わったか、死神」


 扱いが変わったために与えられた個室ロッカールームの前で、腕を組んで待ち受ける炎髪の少女――ウィルヘルミナ・テーラー。

 あの日、マスク越しにこちらの唇を奪った少女はまた顔を出していた。

 正直なところ、感心する。その熱意に。ある種の敬意を払いたい気持ちになる――だが、


「確かに変わった。無論、悪くなったという意味だ」

「私にも、変えられるとはな。そんな余地がある男なのか? 存外愉しめる男じゃないか、死神」

「……内心は自由だ。否定はすまい。だが――」


 腕を組んだ薄赤髪の少女のその顔の真横に腕をついて、威圧するようにその顔を覗き込む。

 かち合う金眼とアイスブルーの瞳。少女から向けられる、敵意を籠めたような強い眼差し。

 こちらは、彼女を測りかねていた。

 プライドが非常に高い――何かしらの事情を持った、しかし相応に優しさのある少女。

 この間しでかされたことに対して非常に思うところはあるが、あれがこちらの身から出た錆というなら受け止めよう。いきなり恋人でもない異性の唇を奪うのはそれが男であれ女であれ非常に失礼な行為だと思うが、飲み込もう。

 それはそれとして、関わろうとされると困る――というのが本音だ。


と、俺は言った。――警告が受け止められないというなら、どう理解させたらいい?」


 覆いかぶさるように睨みつけながら、顔を寄せる。

 新兵を脅すために、幾度かやった。基本的に人間は己の顔に近付くものを嫌い、或いは怯える。威圧というならまさにそれだろう。

 しかし、変わらず少女は目線を揺らさない。絶対的なプライドの高さ。正面から見据え、見上げ、こちらを試すように口角を上げた。


「誘えばいいだろう。あのとき口にした報酬のように――私を見下したその通りに。……衣を裂いて、肉を味わうだったか? 噛み跡を付けてみるか、死神?」

「……」


 鼻で笑うように少女はワイシャツの襟を広げ、白く艶やかな喉を差し出してきた。

 ラモーナに目線をやる。


「おーぐりー、自業自得だと思う」


 つめたい。どうして。ひどい。


「……貴官の認識がどうかは知らないが、女性から男性に対する望んでいない性的なもハラスメント行為に当たる。……十分な教育を受けていれば、自明の理の筈だが」

「へえ? 嫁入り前の女の腰を抱き寄せて痛いほど腕を掴むことはハラスメントには当たらないのね。勉強になるわ、十分な教育を受けた死神さん? 誰に教育されたの?」

「……」


 今度は高飛車に目を細めたウィルヘルミナ。

 ラモーナに目線をやる。


「おーぐりー、自業自得だと思う」


 つめたい。かなしい。どうして。


「そんなに難しい話をしているかしら、死神さん。ただ私のものになれ――と言っているの。その腕に値段を付けるって」

「俺は人であり、ものではない。それが判らぬ相手に仕えるほどの蒙昧ではない」

「あら。仕えろなんて、もう、言ってあげないわ。使う――と言っているの。このウィルヘルミナ・テーラーが。躾のなっていない犬には、相応の扱いが必要でしょう?」

「……人権がある人を犬としか見做せないならば、病院に行くといい。紹介状を用意する」

「比喩をそのままに受け取る男こそ、病院に行くべきでしょう? 紹介状どころか、手をとって運んで上げるわ?」


 ああ言えばこう言う。非常に困った。

 あの際の言葉は、本当に彼女の高いプライドを大きく損ねてしまったのだろう。必要な措置と言ったが――やはり過剰だった。失策と言っていい。

 世の中には、軽率に損ねるべきではない面子とやらがあるのだろう。自分は面子などよく判らないが、目の前の少女を見ればまざまざと感じられた。


 今までは、意図或いは無意図でこうしてしまったときにどうしていたのか。おそらく、それにかかる直接的な被害だけを気にしていた気がする。

 つまり相手がより面倒な手段に出るならば、こちらも相応の実力を行使して取り除けばいい――――避けられるべき忌まわしき暴力であるが、容易いというのがまた事実だ。

 そんな手合いが多かったためにそう応じていたが、しかし、目の前にいるのは特に腕力も暴力も持たないただの少女だ。それを行うのは明らかに不当だろう。

 ……というかストーカー規制法とかないのかな。助けてくれないかな。法律はどうして人を守ってくれないんだろう。悲しい。


「三顧の礼ではなく、三顧の非礼に返せる返答などない。もし貴官が何かを受け取りたいというのなら、改めるべきは訪問の回数ではなく質だろう」

「受け取るのではなく、奪い取るの。……まだ、私をそれほど生易しく可愛らしい少女だと思ってくれているなら――本当に、貴方の前では少女性を出してあげるべきかしら?」

「結構だ。間に合っている。俺には十分可愛らしい知人もいれば、十分可愛らしい婚約者もいた」

「……へえ?」


 婚約者と――実際は破談したが――その言葉を聞いたウィルヘルミナの瞳孔が細まった。


「なら、知らせてあげるべき? 貴方の元婚約者は、別の女の腰を熱心に抱き寄せました――と」

「本当にやめた方がいい。本当に。いや本当にやめた方がいい。俺のためではなく貴官のために。本当にやめた方がいい。いや本当にやめた方がいいと思う。本当に」

「そ、そう……わ、わかったわ……そう……」


 おそらくあの日急に実は婚約していたこととその婚約を破棄されたことを告げられたメイジーに思うところはないだろうが……いやそれでも形式上でも元婚約者が舌の根も乾かぬうちにそんなことをしたと聞けば、面白くはないだろう。

 怒るメイジーは相当に恐ろしいと、マーガレットやロビンから聞いていた。

 戦い方を考えればさもありなん……あのようにハイライトが消えたメイジーが散弾銃やナタで武装して迫ってくると思うと、背筋が凍る心地になる。それが妄想だとしても。……いや妄想だと思う。妄想で済む筈だ。きっと。


「……とにかく、あまり入り浸られても困る。そも部外者がこんな場所に何度も足を運べる理由が、不思議でしかたないのだが」

「婚約者」

「……?」

「十年来の婚約者と、言ったわ。信じてもらえたのは私の人徳? それとも、貴方の人徳のなさかしら?」

「……………………」


 二重婚約してたことになってる。結婚詐欺師かな?

 とにかく――どうしたものだ、というところだ。このままでは作戦行動に支障が出る。それよりも、やはり彼女を諜報に利用すべきだろうか。

 心理的なハードルは、幾分か下がっている。或いはこちらにそんな良心の呵責を抱かせないためにこう振る舞っている可能性も否定できないの――だろうか。判らないが。

 なんにせよ、


「……令嬢の振る舞いをしたいなら、口の端に付いたソースを拭ってからにしたらどうか?」

「なっ!? えっ、あ、そ、そんな筈が……!?」

「欺瞞だ。……だが、買い食いをした少女は見付かったらしいな。……食欲旺盛で良いことだ。年相応で、な」

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ!? こっ、この、不調法者! ズルい顔をしてっ!」


 投げつけられたペットボトルを躱しつつ、閉まっていく扉を背に作業へと向かう。

 どうやら――【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】と【フィッチャーの鳥】や保護高地都市ハイランド連盟宇宙軍がまた再度、衝突したらしい。比較的新しいサルベージ業者がその戦闘跡の回収を行っていたらしいと、作業員たちは噂していた。

 あのマスドライバーを利用した逃亡劇の後に、彼らは二手に別れたと聞いていた。つまりは陽動と本命か。そう戦力がある訳でもない彼らがそのように隊を二分することに違和感しかないが、或いは灰色狼グレイウルフならそんな奇策も取ると思えた。


 陽動というよりは、演説――に等しいものなのかもしれない。


 我々はこのように【フィッチャーの鳥】と戦い、まさにそれを撃破している――と。

 そしてその戦闘の痕跡は、デブリの回収という形で経済への利になっている。なので協力ないしは最低でも静観してくれ――と。

 敗戦国であり、特に【フィッチャーの鳥】からの強い監視や弾圧を受ける者たちにとっては確かに有用な表現行為になろう。母艦が沈んでしまってはそれもままならないだろうが、兵という意味では次々と補給を受けられる状態であるのだ。

 おそらく、敵母艦の有する兵力も――本隊は相応の軍人などで固めているだろうが、その不適格者や未熟者をもう一つに割り振っているというのは有り得ぬ話ではない。

 そんな彼らを生贄に捧げて新陳代謝を促し、より士気が高いものを集める――そう考えれば悪い作戦ではない。それを兵たちに読み取らせずに行えれば、彼らの不信よりも先に加わる志願者の熱で押し流せる。

 その詐術が露見するよりも先に勢いのままに次の状況へと達してしまえるなら、それは合理的だ。

 それも全て脊椎接続アーセナルリンクという操縦技術の補正があってのもの。教育や訓練の足りない兵を即席で戦力にできる技術と相俟ってしまえば、有用な戦術にはなるだろう。


(……変わったというなら、マクシミリアン――君もだ)


 おそらく、勝手な感想かもしれないが――彼らの内にも、何らかの思想的な分断ないしは汚染が発生したのではないだろうか。

 その瀉血として、そして最大限に腐肉を活かす方法としての二分であるのだ。

 替えが利く兵士と異なり、戦闘で損耗する機体の問題は付き纏うが……おそらくは【ホワイトスワン】の解析が完了し、その売り込みも決定した。そう考えれば合点はいく。補給や提供の目処が立ったならば、真実その船以外は全てが代替可能な駒となるだろう。

 ……味方の死を、生贄を前提とした作戦。

 かつての灰色狼グレイウルフ――ライール・アンサン・グレイウルフならば行わなかった手段であるが、彼もまたあの戦争で決定的に何かが変わってしまった側というのか。

 全ては単なる想像だ。だが、それなりに説得力のある仮説だと思えてしまった。


「おい、オーグリー……いや、ロウドックスさん」

「何か問題が?」


 作業中も思索に没頭してしまっていたためか。

 前半作業は、驚くほど早く過ぎていった。割り当てられた作業箇所は終了し――そんな終わりの帰還中のことだ。

 除去用の機材ステーションから離れた、操縦室以外には窓らしい窓もないコンテナ船。回収されたデブリ牽引区とは別に、作業員が詰められるコンテナがある。

 元より作業者も少ない聖誕祭クリスマス前日のこと。

 非正規労働者であるこちらにはあまり休暇は関係なく――それでも有給休暇などにより作業員が少ない中にあって、その内の一人が呼びかけてきていた。


「助かったよ。これで、家族と過ごせる。あんたがいると作業が早いんだ。娘に土産も買えるし、一緒にも居られそうだ。助かったんだ、本当に」

「喜んで貰えたなら俺も嬉しい。……ところで、俺に何か?」

「あ、ああ……実は娘のためにサインを書いて欲しいんだが――……いや、それとは別に……その、あんたはこのあとどうするんだ?」


 窺ってくる彼の言葉に、僅かに眉をあげる。

 食事の誘い――という訳でもなさそうだ。何か不審がるような、そんな意図が含まれていた。


「別段、おかしな予定はないはずだが……何か、あったのか?」

「いや……あんたに会いたいって女がいるって、本部の方から通信があって――」

「女……?」


 ますます不可思議だ。

 そう、眉間に皺を寄せたときだった。


「なあ、お前、変なフェロモンとか重力とか出しちゃいないか? いくらなんでも女に寄り付かれすぎじゃねえか?」

「気のせいだろう。生憎と恋人には恵まれない」

「……恵まれたっつってたらお前の機体を爆散させてやったからな? 婚約者と、それにあの姪っ娘の嬢ちゃんを放って女と遊ぶなんて……」

「整備士に対する接し方は十分に心得ているつもりだ」


 それから本部に帰還し――そして。

 関係者以外立ち入り禁止の表示がされた灰色の廊下に佇む、目が覚めるような銀髪の美人。

 ダボついたオレンジ色のパーカーと、短いスカートの裾から剥き出しにされた黒いスパッツ。足を惜しげもなく晒しながら、膝から下を包む武骨なブーツ。

 そのアンバランスさの内にあってなお、色褪せないほどの女神の美貌。

 そんな女性が、パーカーの袖から僅かに指を出しながら手を振ってきて――


「こんにちは、


 反射的、だった。


「お久しぶりであります、教官殿!」


 直立不動による敬礼。隣を歩く男たちが、何事かと目線を向けてくる。

 しまった――と思う暇はない。教育を受けた軍人特有の、どうにもできない予備動作。鬼教官に対して骨身に染み込ませられたパブロフの犬の涎。


 アルテミス・ハンツマン――十九歳。今は、二十四歳だろうか。

 衛星軌道都市サテライトのレース走者にして、生涯十一冠の絶対女王。月に暮らす狩りの女神アルテミス。機動の達人。

 そして――亡命者にして義勇兵。

 かつて、【アクタイオンの猟犬ハウンズ・オブ・エークティオン】の指導教官を行った人型機動の教導者にして、我々を主の狩人すらも狩る猟犬の中の猟犬へと変えた、月女神アルテミスであった。



 ◇ ◆ ◇



 今回の仕事は、宙間発着場――つまりは所謂空港から打ち上げされる便を利用してのものだった。

 本来ならばコストの関係で、数日から一週間程度に宙間待機している作業ステーションに泊まり込みにて交代で行う作業であるのだが、今回は聖誕祭クリスマスにかかる特別人員ということでその日の内に着艦し発艦する、そんな手筈であった。

 あまり大きいとは言えない空港。

 それでも終戦から三年、またいずれの観光業を見込んでか整備され直した施設は瀟洒かつ美麗に整っていられる。利用客は疎らで、発着機数もさほど多いとは言えないが。

 そんな、ガラス張りに大きく宙を移すようなラウンジで、カウンターテーブルに身を預けた女性がグラスを傾けながら、こちらへと肩を崩す。


「もう少し、楽にしたら?」

「は。……いえ、は」

「堅苦しいぞ、キミー。私の言うことが聞けないのかー?」

「……ご容赦を」


 頬を突かれることに何とも言えない心地になった。かつての教官時代とはまるで違う態度に驚きはあったが、それでも怯えの方が勝る。

 一体何人の同期が、彼女の苛烈な機動動作訓練で吐瀉物をぶち撒けて地に附しただろう。何度、腕立て伏せをさせられただろう。

 恐ろしい記憶だ。

 対G訓練や空戦機動の専門家だったエディス・ゴールズヘア大尉と、人型機械の動作特性習熟教官であったアルテミス・ハンツマン。あとは緊急脱出訓練の教官だとか、近接射撃訓練の教官だとか――……とにかく恐ろしい記憶だ。六週間足らずだったが。

 ハンス・グリム・グッドフェローが、真実、軍人としてのハンス・グリム・グッドフェローとして調教され尽くして完成したのはあの訓練によるものだったと言わざるを得ないだろう。

 降り注ぐ【星の銀貨シュテルンターラー】の中で、それでも行われた決死行である特殊作戦のための訓練。あまりにも苛烈過ぎたとは、言うまでもない。軽く人格が変わったと思う。多分。

 背筋に冷や汗が伝わる。そんな気も知らず、年下の彼女は悪戯な少女のように笑いかけてくる。


「久しぶり、ね。誰だっけ? オーグリー・ロウドックスくん、だっけ?」

「……どうも、オーグリー・ロウドックスです」

「んー? あれー、随分と積極性を失ったー? あのときはデートに誘おうとしてくれたのに?」

「……訓練生特有の冗談です、マム。ご容赦願います」


 その美貌故に、アルテミス・ハンツマンへと懸想をする者は当然ながらに多かった。

 そんな訓練生たちの中で、罰ゲームのように――というよりはそれに託けてだろう――ある日の訓練にて、最下位をとったものが彼女に誘いをかけるという賭けが行われた。

 ……こちらは何とか鍛えきろうとそれどころではなかったし、そも婚約者のメイジーがいるのにそのような不貞行為は避けたかった。彼女に合わせる顔が益々なくなる。

 そう思って、とにかく、トップを取るように努めた。努めて、やけに熱心に行う訓練生たち――てっきりそれだけ彼女が恐ろしいと感じているのだろうと思った――を蹴散らして、頂点に立つ。

 そこまではよかった。

 その後に、賭けの内容がアルテミスにとうに知れてしまっていて、その上で「どうせなら一番の狩人に。評価三ツ星に」と第一位にその栄光が譲られていたと気付いたのは後の祭りだろう。

 ……勿論、形式上は誘ったが、婚約者がいるから受けないでくださいお願いしますとか何とか言ったと思う。多分、そんなふうに恥をかかせたことを根に持たれている筈だ。


「……それで、一体、どのようなご用件で」

「用件を聞きたいのは私の方かなー? てっきり、私の狩人さんが月まで私のことを迎えに来てくれたのかなー……って思ったんだけどなー? 三年も放って置かれるなんて、そんなに魅力なかったかなー? グラマーはお嫌い?」

「…………は、いえ、あの」

「あはは、大丈夫だよ。お互いの話は御法度だって判ってるから。……私の方が酷い目に遭うからね。わかる?」


 彼女がスッと目を細めた。

 民間人ながらに軍に――それも生まれと違う敵軍に携わり、屈強な男たちに囲まれながらも教官を勤め上げたその偉容。背筋が凍りつくように、サファイアブルーの瞳が冷徹さを帯びた。


「……状況は、悪い?」

「は。……話せる範囲内ですが、ミス・ハンツマン――貴官もこの都市を抜けた方がよろしいかと思います」

「へえ? それは、プロポーズの一つ? 一緒にここを出て地球で暮らそう――って? オーグリーくんに射止められちゃうのかなー? ね、私の三ツ星の狩人オリオンくん?」


 ね?――と肩に両手を置かれる。こちらの肩の上で腕を組むようなその動作。ニコニコ顔が頬に寄せられて――だが、その青い目はまるで笑っていない。諜報を警戒してだろう。


「【衛士にして王ドロッセルバールト】と名乗る残党が、地球圏で活動を開始しました。……おそらくは、外宇宙船団の帰還と関係があるかと思われます」

「外宇宙船団……」

「戦争に巻き込まれるか、或いは彼らが兵員の募集を考えるかは判りませんが……もしかつての情報部に所属していた者があちらにいた場合、貴女の立場が危ぶまれます。……何故、また衛星軌道都市サテライトに?」


 関係者以外立ち入り禁止の区画に寄っていた彼女は、また、今は同じく競技者を努めているのだろう。

 既に存在しなくなってしまったレースのかつての女王がアーモリー・バトルに加わる。それは、多くに諸手を上げて受け入れられるだろうということは判る。だが……。

 だがそもそも、彼女は、そのまま保護高地都市ハイランド連盟に帰属するものだと思っていた。

 間違いなくあの戦争の勝利へと繋がる――最初期に行われた反抗作戦である【アクタイオンの猟犬ハウンズ・オブ・エークティオン】。その立役者となった彼女には、軍や首脳は敬意を以って接しただろう。アルテミスの作った猟犬こそが、天に座す杖を握る神の喉笛を食い千切る神猟犬ガルムと育ったのだ。

 訓練生の中には――無言で、そんな意識もあった。

 ただ己の暮らした都市国家のためだけではなく、義憤と義勇によって保護高地都市ハイランド連盟に教官として加わった彼女の有用性のために――手柄のために、尽くしてくれたその献身に応えるべく飛ぶのだと。


「空を見たかったの、私」

「は」

「でも、血に染まってしまった。……貴方達、猟犬の血で」

「……は」


 不意に、彼女は消え入りそうな口調と共に肩から手を離した。

 そして、グラスにまた向かい合う。無言でストローを加えて、何も言わずに啜っている。

 横顔を見ながら、思った。

 あの【アクタイオンの猟犬ハウンズ・オブ・エークティオン】も殆どが戦火の中で散っていった。第三国への救助活動中の敵軍による奇襲――ドレステリアの悲劇により、ほぼ、壊滅した。

 生き残りは悲劇のその内にあって敵全機を殺し尽くした自分と、別の任務に従事していたヘイゼル・ホーリーホックとロビン・ダンスフィード。

 あとは運良く被撃墜からの帰還のために難を逃れていた“海賊”ライオネル――ライオネル・“ザ・バッカニア”・フォックスだとか、そも機体ごと海上遊弋都市フロートへの亡命を行ったジャスパー・“タマ無し大戦犯シェイムレス”・スポイラー。

 怪我にて戦線離脱し、その後の作戦にて死亡した――メイジーと同じ船に補充兵として赴いた――銀髪の貴公子サイファー・“ロード”・スパロウや、数名。

 そんな彼らの存在を死の引力によって引き抜かれると同時――彼女の中にあったアルテミスを成り立たせていた何かも、喪失してしまったのかもしれない。……己でさえもそうなのだから。


「さて。……聖誕祭クリスマスは予定あるかな?」

「……何故、と聞いても?」

「デートのお誘い。あのとき恥をかかせてくれた分のお返しじゃあ、ダメ?」

「…………いえ、あの」


 そういうジョークはよろしくないと思う、という言葉を呑み込んだ。これでもし万が一仮にジョークでなかった場合は――いや明確に自惚れだろうが――彼女の面子を損ねることになる。

 面子を損ねる恐ろしさは、今、身に沁みて判っている。

 というか、単に、怖い。多分あのときのような毅然とした命令口調をぶつけられたら脊髄反射的に直立不動になる。そんな確信がある。敬意と畏怖の対象なのだ。

 なのに彼女は親しげにこちらに身体を押し付けつつ、


「知りたいこと、色々と教えてあげるよ――――ね?」


 そう、悪戯な少女にして妖艶に――笑いかけてきた。



 ◇ ◆ ◇



 そして、夜も更けた――つまり宙間にあってはあまり代わり映えもしない夜間の、ネオンに彩られた公園の内で。

 手摺りに身を預けて、煙草を蒸す。

 酸素や空調の関係から、喫煙というのは全般的に強烈な制限を受ける。電子タバコでも法外な税金がかけられていて、貴重品である紙巻きタバコは言うに及ばず。葉巻は論ずるのも馬鹿らしい。買うのにも、吸うのにも金がかかる。

 電子デバイスに登録された使い切りの『喫煙許可証』――も残り数本分。二十本で平均的な月収の十分の一程度の価格ともなれば、だからこそ衛星軌道都市サテライトの映画にて成り上がりや悪役こそに喫煙描写が多いというのも頷けるだろう。酸素を自由にできるのは、裕福な者のステータスという訳だ。


 見下ろす先の広場には、家族連れが多い。

 ホログラムで行われていた噴水は、今や、野外映画館に様変わりしていた。内容は――なんだろうか。家族でも見られるとなると、それなりの映画だと思われるが。

 こちらには、あまりその音声も届かない。公園の中でも、高台――人工の植林が並ぶ静かな区画だった。

 色とりどりのサーチライトめいて踊る光の柱が、遠くに望んでいるだけだ。聖誕祭クリスマスカラー。赤と、緑と、白と――この街で眠る子供たちは、メッセージカードやプレゼントを受け取れているだろうか。


「私の誘いを断った理由が、これ?」

「……は、教官どの」

「しばらく見てたけど、女の子と会うわけでもなしに……人を眺めてるだけだったけど、キミの任務か何かだった?」


 口を尖らせて見上げてくるアルテミス教官を前に、首を振る。


「……忘れそうにならないように」

「何を?」

ということを。……俺が、それを忘れてしまわないように」


 静かに、目を閉じる。

 怒りに支配されてしまうとき、或いは世界とか人類だとかそんな言葉を使うとき――その中で生きている人たちは、きっと、自分の中で記号になってしまう。

 重さも持たない数字。

 熱を持たない単語。

 そんな幽霊として見てしまうから、だから、手触りを確かめなければならない。生きている彼らの手触りを。

 それすらも失ったときに、きっとこの手は命の重さを確かめることもできなくなるだろうから。


「相変わらずだねー、ハンスくん。自由、公正、博愛――三つの星を胸に宿した狩人さん?」

「……貴官に関わる狩人ならば、アクタイオンと呼ばれるべきかと。鹿になった狩人――それ以上でも以下でもない」

「で、また、私のことをフっちゃうんだー?」

「……ゴールズヘア教官の奥方に手を出すだけの度胸がない、とお考えください。その後、結婚されたとお伺いしましたが」

「元奥方、ね。……あーあ、男運ないなー。フラレちゃうかー。酷いなー。本当にハンスくんのこと待ってたのになー」

「……」


 チラチラとこちらを眺める彼女に何と言っていいものか、口を噤んで煙草に火を点けるしかない。

 本数が増える。つまりは、感傷だ。

 彼女の誘いを断った理由は、もう一つある。

 その約束が実現されないとしても――自分は約束したのだ。彼女と。ならば違えることはできない。彼女がおらずとも、この日は、あの少女に捧げると決めていた。

 プレゼントも用意せず。

 メッセージカードだけを胸に入れて。

 そんな――意味もない感傷。どうしようもない救えない感傷。機能としての軍人を求める者には、不要なもの。

 折りたたみ式のオイルライターで、カードに火を点けるべきかと考えたそのときだった。


「ね? よかったね。この私の誘いに乗らないんだったら――きっと安心ってことでしょう? 同じ月の女神の名前を持つ私からの、クリスマスプレゼントだよ。女神のキスを」


 何を、と伺う暇もない。

 そして、息を止めることになる。

 誰かに話しかけるアルテミスの息吹を聞きながら、振り返ったその先には――


「――――シンデレラ?」


 居るはずがないと思っていた金糸の髪を持つ小柄な少女が、パイロットスーツの上に飾り気のない黒パーカーを纏った少女が、立っていたのだから。





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