30.懐古主義者
「着いたか?」
馬車ががたりと止まり、御者が恭しく扉を開ける。
そこには、あの見慣れた帝都の風景が広がっていた。
広場の中央には円形の噴水がキラキラと水しぶきを上げ、周りのベンチでは多くの人々が憩いの時を過ごしていた。
統一された様式の秩序だった街並みは、いつ見ても美しい。
広場の周りにはカフェやレストラン、服飾・装飾品店などが軒を連ね、以前と変わらぬ賑わいを見せている。
まだ、ノルンに行ってからそれほど長くないというのに、懐かしさが込み上げる。
「長旅で疲れたろう。協会に向かう前に、どこかで食事でもしないかい?」
「そうですね。移動中は簡易的なものばかりでしたから」
「よし! では、行こう。私の行きつけのところでいいかな?」
「はい、お任せします」
アルベルトは馬車を降りると、御者に金貨を数枚渡した。
御者はそれを頭の上に掲げるように両手で受け取ると、嬉々として御者台に飛び乗り、鞭を打つのだった。
そして、私とアルベルトは閑静な通りへと歩いて行く。
あまり行ったことのない方面だったので、まるで異国に来たかのようだった。
確か、こっちは貴族の邸宅が多く建ち並ぶ地域だ。
そこで私は自分の失敗にハッと気付く。
馬車代に何の惜しげもなく金貨を数枚払うアルベルトだ。
名家中の名家が行きつけにしているレストランなど超高級店に決まってる。
そんなところに平民の私が足を踏み入れては、アルベルトに恥をかかせてしまう。
きっとアルベルトはそんなこと気にしないだろうし、彼が一言口添えすれば、無理矢理にでも食事は出来るだろうが、それはそれで店の品位を下げてしまうことになるので店にも申し訳ない。
私は急遽、思い付いたようにわざとらしく声を上げる。
「あー! そう言えば、私、せっかく帝都に戻って来たので、久しぶりに行きたいお店があったんです!」
「ん? そうなのかい?」
アルベルトは何も気付いていない様子で振り返る。
「ごめんなさい。もし、よろしければそちらのお店でもいいですか?」
「ああ! もちろんだよ! クレア君の馴染みの店なんて興味がそそられるよ」
嬉しそうにそう答えるアルベルト。
一応、協会の飲み会で行ったことのあるお店で、貴族もそこそこ出入りしているお店だから大丈夫だろう。
だが、私は念のため釘を刺しておく。
「たぶん、アルベルトの普段行くようなお店とは味も格式も雲泥の差なので、そこはご容赦ください。平民も貴族も変わらず使うようなフランクなお店なので」
「そうか。益々、興味が湧いたよ! 嫌味に聞こえるかもしれないが、誤解しないで欲しい。あまりそのような店に行ったことがないから、純粋に楽しみなんだ」
「そう言って頂けて良かったです! さ、こちらです」
私は冷や汗を拭いながら、反対方向へと歩き出した。
だけど、これはこれでアルベルトの品位を落としてしまっているかもしれない。
いや、これがギリギリのラインだろう。
私はそう自分に言い聞かせる。
帝国に戻って早々これだ。
ノルンという楽園にいて忘れかけていたが、身分の差というものの生き苦しさを改めて実感する。
そうして、私たちは商業区のちょっとした裏路地にある一軒の酒場の前にやってきた。
「……こちらです」
「なかなか趣きがあるね。では」
そう言ってアルベルトが両開きの扉を押し開ける。
すると、昼間だというのにも関わらず、既に陽気な喧騒が店内に響いていた。
純粋に食事をしに来ている者も半分くらいおり、中には貴族と思われるグループもちらほら見かけた。
良かった。他にも貴族がいて。
私はホッと胸をなで下ろすと、空いているテーブルへと着いた。
「ここはラヴィオリのスープがイチオシなんです。結構大味なんですが、大鍋で野菜やら何やら色々煮込んだスープに、肉ぎっしりのラヴィオリがたくさん入ってて、もう旨味のカーニバルって感じです」
「ほう! まさにこの酒場を体現しているようだね。じゃあ、せっかくだからそれをもらうとしよう」
私はカウンターへと行き、強面でスキンヘッドのヒゲのマスターに、ラヴィオリのスープを二つ頼む。
マスターは顔色一つ変えず、スープをお皿になみなみ注ぐと、最後に黒胡椒を軽く振る。
私は一緒にパンを数切れ頼み、スープ皿のソーサーに乗せてもらうと、銀貨一枚と銅貨数枚を渡し、席へと戻った。
「ありがとう、クレア君。……そうか、ウェイターはいないのか。……うん、とてもいい香りだ! 食欲を掻き立てられる!」
「そう、これこれ。冷めないうちに頂きましょう!」
私とアルベルトはさっそくスプーンを取り、スープを口へと運ぶ。
もう何が入っているのか良く分からないが、とにかく色んなものの旨味が口の中で爆発する。
それが程よい塩味とほのかな甘み、そして後から来る微かな苦味によってより引き立ってくる。
そして、それらを包み込むように様々な素材の芳醇な香りが鼻を抜ける。
この時点で既に十分幸せではあるが、真骨頂はここからである。
私はラヴィオリを一気に頬張る。
すると、中からジューシーな肉汁が溢れ出し、濃厚なスープに負けないどころか、絶妙に絡み合うことで、この至高の一品は完成する。
さらに、マスターが最後に加えた黒胡椒。
このアクセントにより、ジューシーな肉汁と濃厚なスープがグッと締まり、スプーンがとどまるところを知らず、何杯でもペロリといけそうになってしまうのだ。
私はマスターに向かい、ビッと親指を立てる。
すると、マスターも大きく頷きながら、親指を立て返すのだった。
「これは……暴力的に美味いな」
アルベルトがそう漏らしながら、静かに、だが次々にスープをすくっていく。
暴力的とは言い得て妙だ。
様々な素材たちが酒場の喧嘩よろしく鍋の中でごちゃまぜの乱闘を起こしているような、でもその喧騒がまた一種の祭典であり、酒場の華といった具合で、このスープに濃縮されているということだろう。
「この濃いスープが飲んだ後のシメにもってこいなんですよ」
「……うむ。非常に良く分かる。帝都にこんな良い店があったなんて、私もまだまだだな」
私たちは一滴残らず飲み干すと、テーブルを立った。
アルベルトが支払いということで銀貨三枚を出そうとしたが、マスターに支払った金額を伝えると、驚嘆していた。
お腹も一杯になったところで、いよいよ私たちは治療師協会の本部へと向かう。
この酒場から表通りに出れば、もう目と鼻の先だ。
本当にアルベルトが一緒にいてくれて良かった。
私一人では今頃、緊張でスープも喉を通らず、ボロボロの状態で立ち向かうことになるところだった。
そんなことを思いながら、久々の職場の目の前に私たちは立っていた。
いつの時代からあるのか分からないくらい古い石造りの建物。
確か、かつて帝国がこの地に拠点を築いた際の砦の一部を今もなお利用して、治療師協会の本部としているのだとか。
正面には巨大な癒やしの女神ケレの石像が我々を見下ろしているのだが、それがより一層、厳しい雰囲気を醸し出している。
私たちは石像の足元の横を通り過ぎ、協会本部の大きな扉を開ける。
すると、そこは大広間となっており、幾人もの治療師や協会の職員たちが忙しそうに歩き回っていた。
特に私たちのことを気にする様子もない。
治療師協会の本部だけあって、来客は日常茶飯事だからだ。
それにこれだけの大きな組織であるから、同じ職場に勤める者といえど、同じ部署の同僚や、関わりのある人同士以外は、顔も知らないということは良くある。
つまり、私のことを知ってる人間なんてほんの一握りという訳だ。
だから、彼らには私がアルベルトの従者くらいにしか見えていないのだろう。
まぁ、その方が私にとっても都合が良い。
勝手知ったる以前の職場だ。
私は手紙の差出部署である管理部へとズカズカ歩いて行く。
大広間を突っ切り、廊下に入り、進んでいく。
そこの角を右に曲がれば管理部のある部屋だというところで、その角からひょいと見知った顔が飛び出して来た。
最低最悪の偶然だった。
「……あ」
それは以前の上司。
第三治療部の師長。
薄ら頭のデルス・ウォーレンスだった。
向こうも私に気付くと、途端に下卑た笑みを見せてきた。
「おやおや、これはこれは。辺境からはるばるお出ましかね」
「お久しぶりです」
「色々と噂は聞いているよ。先任のガスパル氏の失踪事件の主犯だとか。今日はその取り調べかな? そうそう、今後一切ワシに顔を見せるなと言ったが撤回しよう。いずれ絞首台に立つキミの首をワシが直々に見に行ってやろうと思ってるのでな」
そう言って大げさな笑い声を上げるデルス師長。
真実をぶち撒けてやりたかったが、今ここで冷静さを欠いてそんなことをしても相手の思う壺だ。
元々信用されてない私の立場がさらに悪くなるだけだ。
私は唇を痛い程噛み締めた。
その瞬間、背後から柔らかではあるが、強く静かな声が私の頭上を飛び越す。
「妄想するのは勝手だが、事実が明らかとなる前に彼女を誹謗中傷するのは止めて頂こう。彼女は重要参考人であり、現在我々の庇護下にある。彼女へ危害を加えるというのであれば、残念ながら我々はその危険を排除しなくてはならない。その覚悟がお有りですか?」
「なんだと!? 貴様! 誰に向かって口を……」
そう言いかけたところで、青ざめていくデルス師長。
どうやらアルベルトのことはご存知なようで、状況を理解したようだった。
「ふ、ふん! 貴様らが動いているということは、時間の問題だろうが! それに、そんな小娘にかまっている暇などワシにはない! ワシは忙しいんだ!」
そんな負け惜しみじみたことを吐き捨てながら、凄い形相で私を睨み付けて去っていくデルス師長。
なんだか少し溜飲が下がった思いだ。
私は振り返り、顔を綻ばせる。
「ありがとう。アルベルト」
だが、アルベルトはまだムスッとした顔をしていた。
「こんな扱いを日常的にされていただなんて許せん」
その言葉を私はまた嬉しく思い、さっきのデルス師長の嫌味などすっかり忘れてしまった。
思いがけぬ再会を終え、私たちは廊下の角を曲がり、管理部の部屋へと入っていく。
部屋では職員たちがデスクで書類とにらめっこしていた。
読んで字の如く、管理部とは治療師協会という組織の運営管理をする部門だ。
資金管理をする財務部門、人材の登用や育成、人材戦略の策定を担う人事部門、協会の円滑な運営のための事務全般を行う総務部門などなど、一口に管理部と言っても、その中でそれぞれの役割の部門が色々と別れているのだ。
そして、今回私にこのような手紙を寄越したのは、管理部の中でも人事部門の人間だろう。
私は人事部門のデスクの並ぶ島へと近付き、一番手前の人に声をかけた。
「すみません、クレア・エステルと申します。管理部から私宛に召喚状が届きまして」
「はい! クレア・エステルさん、ですね……」
パッと書類から目を離し、元気良く返事をしてくれた彼だったが、私の名前を復唱していく内に固まってしまった。
「す、すみません! すぐ上の者を呼んで参りますので、そちらの部屋でお待ち頂けますか?」
どうやらデルス師長の言っていた色々な噂というのが広まっているようだ。
私たちが会議室に通されると、彼が震える手で紅茶を出してくれた。
せっかくなので頂いて待つことにする。
しばらくすると、部屋の扉がガチャリと開けられる。
そこに立っていたのは銀縁の丸眼鏡を掛けた、細身の若い男の人だった。
濃い紺のベストに懐中時計の銀鎖を垂らしており、一見地味ではあるが、全体の雰囲気から漂う優雅さは相当な貴族に違いない。
彼は物音一つ立てず、スッと部屋に入ると、私たちの向かいに座った。
そして、無機質な声で話し始める。
「エドガー・エメリッヒです。本日はご足労頂きありがとうございます。あいにく私の上司が来週まで不在にしておりますので、私一人で話を聞かせて頂きます」
そう言って、羽根ペンを取り出すエドガーさん。
「……ところで、そちらは神殿騎士の?」
「アルベルト・クローディスだ。彼女は現在、モーリアン教会の庇護下にある、重要参考人だ。この場での全ての会話については、我々教会にも聞く権利がある」
「……仕方ありません。分かりました。では、話を伺いましょう」
信じてもらえるかどうか分からないが、私は早速ノルンで起こったガスパルさんとの一連の出来事の説明をしたのだった。
「……そうですか」
一息に説明をし終え、私が紅茶で喉を潤していると、最後の一文を書き留めたエドガーさんが、眼鏡を外し、疲れたように目頭をつまむ。
「正直、信じ難い話ではありますね。……それに、ハウザー氏がそのような行いをしたのであれば、貴殿は治療師協会の治療師、ましてや貴族に異端審問をなさるおつもりですか?」
切れ長の鋭い瞳がアルベルトに向けられる。
その質問にアルベルトは平然と答える。
「それが事実であれば、ね。神の前には人は皆、平等だというのが私の信条だ。そのため、ノルンに駐在し、教会の管轄の下、事実確認を行っている。神聖なる異端審問に余計な横槍が入っては困るからね」
あくまで建前上はそういった形でアルベルトはノルンに残っていてくれている。
この場で馬鹿正直に私情が入っていることを告げたところで意味がないどころか、弱みとして握られかねない。
それゆえアルベルトの答えは至極当然のものだ。
「なるほど……。教会も相応の覚悟があるようですね……」
エドガーが顔をしかめながら、そう呟く。
身内の人間が不祥事を起こしたとなれば、協会もただでは済まないだろう。
だが、それはモーリアン教会も同じだ。
これまで特権階級として貴族への異端審問など行ったことがなかったところに、クローディス候爵家のアルベルトが異議を唱えたのだ。
これにより本当にモーリアン教会が貴族も平民も関係なく、異端審問を行うという決断を下すのであれば、エドガーさんの言う通り、相応の覚悟があるということだ。
「お話は理解しました。これまで伺っていた話とは真逆過ぎて理解に苦しみましたが……」
「真逆ですか?」
「ええ。ちょうど先程、あなたの元上司であるウォーレンス氏にこれまでのあなたの人となりや、ハウザー氏の失踪と異端審問の原因についての噂を伺っていたところでしたから」
なんというタイミングだ。
だから、廊下であんなにバッタリと会ってしまったのか。
でも、デルス師長の後で良かった。
エドガーさんの聞いたという噂をこの場で直接訂正出来る。
「一体、どんな噂が流れてるのですか? 私の話と真逆ということですから、相当ひどい内容だとは思いますが……」
「要点をかいつまんで話せば、左遷されたあなたがその腹いせに、銀髪赤眼の悪魔たるノルン人に魂を売り、ハウザー氏を亡き者にした後、ノルン支部の治療師の座を奪ったと見なされているようです」
「私がガスパルさんを!? そんなこと有り得ない! 意見の違いはあれど、尊敬しているただ一人の上司です!」
私が昂ったようにそう言うと、エドガーさんは眼鏡の奥で、一瞬目を見開いた様子を見せた。
だが、すぐに元の無機質な表情に戻ると、静かに言った。
「残念ながら、それが治療師協会で囁かれている噂です。いえ、噂というよりも、それが真実だと思われています。御多分に漏れず、私もその一人です」
「そんな……」
「私の直属の上司も、既に今後のあなたの処遇については決定していたようで、極寒の北部戦線へ無期限の派遣だという話です」
「無期限!? そんなデタラメ聞いたことありません!」
普通、戦争地域への派遣は長くても一年だ。
それが帝国軍と治療師協会で交わした協定だったはずだ。
つまり、これは私への死刑宣告ということだ。
ガスパルさん失踪の真実はどうあれ、その責任を私に負わせ、そのまま闇に葬り去る気なのだろう。
協会としては適切な対応を取ったとして、体裁を取り繕うことが出来る上、面倒事を一気に片付けられる。
いくら私が真実を語ったところで、モーリアン教会が異端審問の許可を出さなければこの状況を打開出来ず、私はこのまま協会の辞令に従うしかないだろう。
では、いっそのこと治療師を辞めて、ノルンに亡命するか。
それでどうするというのか。
ノルンには新たな治療師が派遣されるだろうし、私が隠れて治療を行えば、絶好の機会とばかりに帝国軍が私を捕らえに来る。
ということは、一生、治療を出来なくなった私は、かつて故郷で抱いた絶望感を再び胸に宿しながら、老いさらばえてただ死を迎えるのだ。
それだって緩やかなだけで、私にとって死刑執行と何ら変わりはない。
やっぱり、ノルンには二度と戻れないという嫌な予感は的中してしまったのか。
私は虚無感に襲われ、うなだれる。
だが、その寸前だった。
そこへ声色は無機質だが、その奥に少し熱を帯びた声が投げられる。
「……ですが、その辞令も再考の余地が出来ました。あなたに実際会ったことで」
私はうなだれかけた頭を勢い良く持ち上げる。
そして、その目に飛び込んできたエドガーさんの表情は、最前と変わらず無表情のままだったが、その瞳は妖しく光っているような気がした。
そんなエドガーさんが声を潜めながら、先を続ける。
「今日は直属の上司がいなくて本当に良かった。……私は仕事柄、人を見る目には自負があります。あなたには嘘を吐いている様子が一切なかった」
「ほ、本当ですか!? 私の話を信じて頂けるのですか?」
予想外の展開に私は浮足立ちそうになる。
だけど、エドガーさんのあの瞳。
素直に喜んではいけないと、私の直感が告げている。
「完全に信用するまでは至りませんが、かと言ってあなたの話の全てを否定するのは合理的ではない」
そこで、エドガーさんは深い溜め息を吐くと、滔々と語り出した。
「合理的かどうかというのは、非常に重要です。私はですね、エステルさん。あなた方、現場の人間と違って、組織において管理・運営側の人間であり、いわば裏方です。時には見解の相違により現場と対立することもあります。ですが、それは当然のことです。我々、裏方の人間はいかにこの治療師協会という組織を発展させるかということを第一に考えているのですから」
「は、はぁ」
今まで、きちんと管理部の人と話したことがなかったから、エドガーさんの話は新鮮だった。
現場の治療師はまず患者のこと、そして自分がいかに大きな手柄を上げるか、ということが第一の人たちが少なくない。
だから、組織を発展させるというのは私の中でこれまでにない発想だった。
だけど、唐突な話の展開に付いていけず、まともな反応が出来なかった。
そんな私の様子はお構いなしに、エドガーさんがさらに続ける。
「協会の発展を最大の目的と考えた時、あなたのこれまでの治療の話が本当であれば、私はあなたの今回の処遇について、実に惜しいと考えています。あなたの戦線送りは全くもって合理的ではない。これは協会にとって大きな損失です」
「あ、ありがとうございます。あ、あの話がよく見えないのですが……」
すると、エドガーさんが初めて口角をほんの少しだけ上げて見せる。
ここからが本題なのだろう。
私は黙って耳を傾ける。
「……今、協会には治療が必要なのです」
エドガーさんが銀縁の眼鏡をクイと上げる。
私はその不穏な単語に固唾を飲む。
「あなたもこれまで受けて来たと思いますが、この協会には身分による格差が不文律、暗黙の掟として確かに存在している」
「無論です。私がその最下層民でしたから」
「何を今さらとお思いでしょうが、聞いてください。……私はその掟を、壊したいと考えている」
衝撃だった。
まさか、同じ治療師協会の人間からそんな言葉が出るなんて思ってもみなかった。
だって、自らその既得権益を放棄すると言っているようなものだ。
にわかに信じられなかった。
「クローディス様、教会の人間であるあなたには、これからの話は他言無用でお願いします。あなたも身分に関わらず異端審問を行おうとしているという意味では、同じ思想を持っていると思うからこそ、こうして話をしておりますが、あくまでこれは治療師協会の身内の話。余計なことをされては、エステルさんの処遇について、再考の余地はなくなるものとお考えください」
「承知した。お安い御用だ。言いふらしたところで、私にとって何のメリットもない」
エドガーさんは鋭い瞳でアルベルトに一瞥くれると、今度はそれを私に向けた。
「エステルさん、あなたの考えていることは分かります。なぜ、そんなことをするのか。それは先程、言った通り、組織の発展を第一に考えた時、この身分による差別というものが発展を阻害する最たる要因に他ならないからです。かつてモーリアン教会から独立した治療師協会の始祖たちは、自らの地位と権利を獲得するため、その治療の実力によってそれらを勝ち取っていったのです。それから月日が流れ、今ではご存知の通り、爵位さえ高ければ実力が伴わなくとも上に立ち、その逆も然りという有様です。これでは組織として衰退していくことは明らかです。そこへ志を同じくした、懐古主義者と呼ぶべき者たちが現れた」
者たち。
つまり、エドガーさんだけではなく、協会内部にはそのような考えを持った人たちが複数いるということだ。
エドガーさんがデスクに両肘を立て、口元で手を組むと、銀縁の眼鏡が反射した。
「……言うなれば私たちは劇薬です。重病の治療には当然、痛みを伴う。ですが、その痛みを乗り越え、病巣を取り除いた時、私たちはかつての力を取り戻すのです」
正直、悪い話ではないように思えた。
と言うより、私自身そのような考えでデルス師長に食って掛かったからこそ、ノルンへ異動になった訳で。
しかも、実力さえ認められれば、平民である私でも他の治療師と対等になれるのだ。
だけど、何か引っかかる。
素直に従ってはいけないような気がする。
しかし、私の置かれた立場を覆すには、彼の話に乗るしかない。
「お話は理解しました。それで、辞令について再考の余地があるとのことですが、私はその懐古主義者の方々にどのような協力をすればよろしいのでしょうか?」
手元で隠れた口元が微妙に緩むエドガーさん。
「実に聡明です。あなたがなぜ、これまで本部で活躍の場を与えられなかったのか本当に理解に苦しむ。そして、運も良い。実は、直属の上司は根っからの権威主義者ですから、こんな話は当然出来なかった。もちろん、私が懐古主義者だとは露程も思っていないでしょう」
「そうですか」
「……ですが、果たして本当に治療師としての実力があなたにあるのかどうか、私もたった今、話を聞いていただけですので、そこまで見定めることは出来ません」
「それは確かに仰る通りですね。過去においても、帝都で治療なんて行ったことはありませんでしたから、そんな記録もありません」
「そうです。あくまで中立な立場として話を聞いていた私でさえそう思うのですから、協会のほとんどの人間はあなたのことなど全くと言っていい程、信用なんてするはずがない。そこで、です」
エドガーさんがクイと眼鏡を上げ直す。
「あなたにやって頂きたいことは、とある病気の治療法を見つけて欲しいということです」
病気の治療法?
どんな病気だというのだろうか。
そんな私の険しい顔を察知したのか、エドガーさんがフッと軽く目を細める。
「ご心配には及びません。命の危険があるような重病ではありません。症状は軽いのですが、罹患者が一定数出ており、何より問題なのは、原因が分からず、治療法が確立していないということになります。これが国民の不安を余計にあおり、帝都ではちょっとした問題となっています。ですので、この病気の治療法を見つけることが出来れば、あなたの実力について認めざるを得なくなり、戦線送りを免れることが出来るかもしれません」
とことん合理的な人だ。
患者には申し訳ないが、これは私へのテストということなのだろう。
優先すべきは国民の健康ではなく、組織の健全化ということか。
だけど、私にとってもこれ以上ないチャンスではある。
しかし、私が治療法を見つけたところで、それを報告しても、横取りされ、揉み消されはしないだろうか?
「あの、エメリッヒさん。失礼ですが、私が無事、治療法を見つけたとして、きちんと私が治療法を見つけたと公表出来ますか? 正直、あなたの爵位が貴族の中でどれ程のものか私には分かりかねますが、協会の中での役職はあまり高くないですから、例えばその直属の上司に事実を揉み消されるという事態にはなりませんか?」
「……あなたは本当に素晴らしい。その慧眼、洞察力、ぜひ、あなたが欲しい、クレアさん。……そう呼んでも?」
「は、はぁ」
突如、恍惚とした表情で私を見つめるエドガーさん。
つい、勢いに押され、相槌を打ってしまった。
「確かに、私自身の表面上の地位は協会内では低い。ですが、仲間の中には協会の上層部に席を置く者もおります。ですので、そちらについてはご心配なさらず、裏方の我々に任せて、あなたは存分に治療法の発見に注力してください、クレアさん」
なるほど。
それなりに力はあるみたいだ。
とすれば、彼ら懐古主義者が協会を治療するというのも、あながち夢物語ではないかもしれない。
「分かりました、エメリッヒさん。必ず、誰よりも先に治療法を見つけます」
「ええ、期待してますよ。クレアさん。そうそう、私のことはエドと呼んでもらって構わないですよ」
そう言って手を差し出すエドガーさん。
私はその絹のような肌の手と、端正な顔立ちで切れ長の目を挙動不審に見比べる。
いくら同僚とは言え、さすがに平民の私がエドなどと軽々しく呼んではダメだろう。
私は一瞬思案し、手を握る。
「よろしくお願いします。エドガーさん」
すると、エドガーさんはやや悲しげに口角を上げると、すぐに元の無機質な表情に戻り、会議室の扉を開けた。
私たちはそれに従い、部屋を出ると、そのまま真っすぐ治療師協会を後にするのだった。
「ふぅー! 疲れた! 一時はどうなることかと思いましたよ」
治療師協会の建物を出た瞬間、私は大きく伸びをする。
「賢明な判断だったね、クレアくん」
隣を歩くアルベルトがそう呟く。
「まぁ、彼らを信用していいのか分かりませんが、今はそっちに乗っかるしかないですからね」
さすがのアルベルトも協会の派閥争いのことまでは知らなかっただろう。
今は判断材料が乏しいため、懐古主義者が信用に足るか見定めることが出来ない中で、アルベルトもこれが最善の策だと考えてくれたみたいだ。
「いや、そうではなく、エドなどと呼ばなかったことだよ。……あれは変態の目だ」
……全然違った。
「またそんなこと言ってー」
私はいつもの如く、軽く笑ってその冗談を流そうとした。
だけど、アルベルトの反応はどうも違った。
「あれは食えない男だ。クレア君が彼をエドなどと呼んで、全面的に心を許してしまわなくて、安心した。さすがだよ」
アルベルトが私の肩にポンと手を掛ける。
そして、私に優しく微笑む。
私は今更ながらに背筋が寒くなるようだった。
もし、私が平民でなかったらどうだっただろう。
もし、私が貴族だったなら、あの場面でエドガーさんのことを、エドと呼んでしまっていただろうか。
それは分からない。
だけど、あの瞳……。
不思議と無意識の内に、魅了されていた。
彼らは本当に味方なのだろうか。
しかし、今はとにかく治療法を見つけ、信頼を勝ち取る他ないだろう。
それが、治療師として、私が私自身でいられるための、唯一の方法なのだから。
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