夢を見ている

ひさ

夢を見ている

 

 目を覚ますと、そこはとても広い場所だった。

 僕はベッドの上で、周りには同じようにベッドに横たわっている、たぶん人が沢山いた。

 起き上がっているのは僕一人。

 見渡す限りにそんな景色が続いていたならあっさりと、これは夢だと結論付ける事ができただろう。

 けれどこの空間には限りがあった。

 縦100メートル×横100メートルくらいはあるだろうか。所々に太い柱が立ち、高い天井を支えていた。

 どこかの大きな展示場か何かのようだ。

 けれど、そこに整然とベッドが並べられている光景は、異様としか言えない。

 何が起きたのか。

 眠る前。目覚める前の記憶を辿ってみるけれど、何も思い出せない。

 何もだ。

 それはおかしい。

 僕はこうして生きていて、それなりに育っているし、この状況を観察するだけの知識も持っている。

 それなのに、本当に何も、思い出せないのだ。

 僕は見たところ、子供ではなさそうだった。けれど大人や、ましてや老人でもなさそうだった。

 鏡が無いから、客観的に観察する事はできないので、いざ自分の顔を見てみたら、思ったより若かったとか、思ったより年を取っていたとかはあるかもしれないけれど、極端にズレる事はないように思えた。

 せめて時計が欲しい。

 そして誰か、僕以外の誰かと話がしたい。

 音は無く、時間が過ぎている事を実感できないくらいに、何も動かない。

 僕は掛け布団をよけて、脚をベッドから垂らしてみた。

 思いのほかベッドが高いのか、床の感覚が無い。

 履物も見当たらないがこの際仕方がないだろう。

 床に下りてみようと思った矢先の事だった。

「ダメ」

 第三者の声に慌てて動きを止めた。

 声のする方を振り返ると、そこには同じようにベッドの上に起き上がった少女がいた。

 あり触れた容姿の、どこにでもいそうな日本人。

 けれど、彼女の声で他に起きる者もいない。

 こんな静かな場所に響いた声なのだ。誰かを起こしたっておかしくないのに。

 一通り変化のない空間を見渡した後、改めて彼女を見た。

「何で?」

「降りてはダメ」

 僕の質問に、彼女は繰り返した。

 僕も同じように繰り返した。何で?

「床は無い。よく見て。もう貴方の足は向こうに入ってる」

 え?

 僕は足下を見た。そして理解するより先に足を引き上げた。

 何かをぶち抜いた感触なんて全く無かった。けれど足先は何かの向こう側に埋まっていた。

 自分の足部が何の抵抗もないままに失われていない事を確かめると、少しほっとした。

 それと同時に新しい混乱が押し寄せてきた。

 だったら下はどうなってるんだ?

「向こう側に行った人がどうなったかを私は知らない」

 彼女は俯いて続けた。

「私が知っているのはこれだけ」

「見たの?」

「私が実際に見たのは一人だけ。人のいないベッドがまばらにあるでしょう? 多分アレはそういう事なんだと思う」

 その時、一部の照明が消えた。

 徐々に消灯していく天井の照明。

 暗くなっていく部屋。

 少女の姿も暗闇に呑まれていく。

 まだ訊きたい事があったのに。

「ねぇ」

 声までもが闇に吸い込まれていくようだった。

「もう眠る時間。闇には抗えない。おやすみ」

 全てが暗闇に落ちると、少女の声も消えた。僕も何も言えなくなった。

 まるで金縛りにあったみたいに。

 身体を起こしていたはずなのに、自分が今どんな姿勢をとっているのかも分からなくなった。

 全ての感覚が鈍っていく。そして思考も。

 

 

 ***

 

 

 夢を見た。細切れで、よく分からない夢。

 勉強をしていたけれど、内容までははっきり覚えていない。

 テキストとノートを開いて、ノートに何かを書きつけていた。

 やっぱり僕は学生なんだろう。高校生か、大学生くらいの。

 でも夢だというなら、年齢が現実と違っていてもおかしくはないか。実際はどうなんだろう。

 また別の夢では空を見ていた。

 電車を待っている間に、ただぼんやりと空を眺めていた。そんな取り立てて話すほどの事でもない内容の夢。

 また別の夢では診察室のような場所で、白衣の先生と話をしていた。

 先生の声も、自分の声もよく聞こえなくて、何を話しているのかも分からない。

 夢ってまぁそんなものだよな。

 

 

 ***

 

 

 高い天井が見えた。

 高い天井に規則正しく並ぶ照明器具。

 どうやら再び目を覚ましたらしい。

 僕は身体を起こした。

 昨日と同じ景色が広がっていた。

 水平方向にも垂直方向にもただ広いだけの空間に、ベッドが整然と並び、人が眠っている。

 特徴のないベッドの中に、昨日の彼女を探す。

 確か右側に下りようとしたら後ろの方から声をかけられたから、左か。

 振り向いてみるが、起きている人の姿はまだない。

「誰か?」

 ささやかに声を出してみた。

 闇の中とは違って、声は広さに相応しい手応えで響いた。

「誰か!」

 もう少し大きな声で呼びかけてみた。応答はない。

 いつ再び訪れるとも分からない強制力の強い暗闇。

 アレを知らない昨日とは違って、今日は妙な焦燥感がある。

 うかうかしていたらまたあの闇がやってくる。そして何も分からないままに眠らされてしまう。

 眠気という感覚とは違うけれど、でも一番近いものは、眠り、だろう。夢も見ているようだし。

 夢の内容はなんとも夢らしく曖昧で断片的。覚えているようで覚えていない。

 けれど、昨日目覚めた時から比べたら、その記憶が増えた分だけでも、なんとなく自分の存在に自信が持てた。

 暗闇の訪れを恐れながら、それでも僕は順繰りに右を左を観察した。

 大きく身体を捩じり後ろも見る。

 そんな事を何度繰り返した時だっただろうか。

 彼女とは違う別の誰かが起き上がった。

 子供だ。

「なぁ!」

 咄嗟に声をかけた。

 相手は子供だ。止める間もなしに、向こう側へ呑まれてしまっては気分が悪い。

 そんな事は阻止したかった。

 僕の呼びかけに、子供は顔を上げた。

 状況が理解できていないらしく、ぽかんと口を開いていた。

 当然だ。僕だって同じなのだ。もっと小さい子供なら、よけいに困惑するだろう。

「キミは夢を見たか?」

 この状況について問いかけるのは適切じゃないと咄嗟に思った。

 あの子に分かるわけがない。子供に、年長者の僕が分からない事を問うなんてのは酷だろう。

「……うん」

 子供は少し考えてから頷いた。

「どんな?」

 とりあえず話を続けたかった。些細な事でも、何かの手がかりになればという期待を捨てきれなかった。

「えっと。ママが水をくれるの」

「水?」

「そう。ぽかぽかのあったかいばしょで、わらってくれる。お水おいしい」

 やっぱり夢だな。抽象的でイメージが掴みにくい。

 でも、なんとなく幸せそうな夢だ。こっちまでほっこりする。

 僕が笑うと、子供も笑った。

「ツキトジ、ママだいすき。ママといっしょ」

 名前だろうか。それとも、舌足らずなところがあるから、正しく聞き取れなかっただけなのか。

 それにしても、ツキトジ。どこかで聞いた事があるような。

 そして今日も前触れなく暗闇がやってきた。

 順々に照明が消えていく。

 今日はどれくらい起きていただろう。それもよく分からないままに、僕は闇の中で目を閉じた。

 

 

 ***

 

 

 夢は相変わらずありふれていて、平凡だった。

 僕には恋人がいて、どうやら順調に交際をしているようだった。

 デートの夢。水族館で色とりどりの魚を眺めたりしていた。

 また別の夢では自転車に乗ってどこかへ向かっていた。

 自転車通学の風景かもしれない。

 急な坂道を必死に上っているけれど、僕の脚に疲労は感じない。

 記憶の中だけのシチュエーション。

 朝なのか帰りなのか。太陽が白いから朝だろうか。

 ただ一つ、白衣の先生だけは、少しだけ感覚が強かった。

 ぼんやりとだが声が聞こえて、僕が返事をしたのが分かった。

 僕の声を聞いて、先生が少し嬉しそうに目を見開いた。

 知らない先生だけど、僕も少し嬉しい気持ちになった。

 

 

 ***

 

 

「私はそういうのはよく分からない」

 次に目を覚ました時、少女は起きていた。

 夢の話を訊いたが、期待するような話は聞けなかった。

 結局、夢は夢なのだ。

 覚えている人間とそうでない人間がいるように。白黒で見る人とカラーで見る人がいるように。

 彼女は夢をあまり覚えていないタイプの人間なのだろう。

 対して僕はわりと覚えているタイプらしい。

 目新しい記憶が増えていく事に、喜びと希望を無意識に見出していた僕にとって、彼女の答えは少なくとも僕を落胆させるものではあったが、だからと言って彼女を責められるものでもない。

 僕は顔をそっと伏せた。

 でもいつまでこんな状態が続くのだろうか。

 与えられたベッドから出る事もできず、小刻みに訪れる眠りの時間。

 生きている以上は避けて通れないはずの食事と排泄が無いままに3度目の眠りを迎えようとしている。

 焦燥感は色を濃くしているが、だからと言って何ができるという事もない。

 思いきって向こう側へ自ら身を投げるなんて勇気もない。

 未知のものに対する恐怖があるというだけで、実際のところ向こう側に何があるかを彼女だって知らない。

 知らないままに、僕を止めた。

 僕があの子供にそうしたように。

 

 

 ***

 

 

 いっそ夢の世界の方が居心地が良いのではないだろうか。

 そんな風に考え始めている。

 自分から夢に歩み寄っているせいなのか、だんだん夢には一貫性があるように思えてきた。

 細切れで、前だったり後だったりするのだけれど、それでもこの夢たちは、時系列に並べ直す事ができるエピソードのような気がしてきた。

 登場人物にも見慣れてきた。

 恋人らしき女性。白衣の先生。友人。

 友人の姿を見る限り、やっぱり僕は大学生らしい。

 街並みも覚えてきた。

 学校。最寄り駅。通学路。自宅近くのスーパーやドラッグストア。

 

 

 ***

 

 

 どうせ何もできないし、どこへも行けないのならと、僕は積極的に暗闇を待つようになった。

 目を覚ましても起き上がる事をやめた。

 もしかしたら周りのベッドの上に横たわっている人達も、僕と同じ考えに行きついた人達なのかもしれない。

 それが正解な気がする。

 飢えで苦しむ事も、排泄の欲求も、不自然極まりない事ではあるが、ないのだから。

 あえて苦しみに向かっていく必要もないだろう。

 夢の世界で気楽に生きていられればそれで良いじゃないか。

 僕は消灯を待つ事なく目を閉じた。

 

 

 ***

 

 

 夢は徐々に鮮明になっていった。

 ぼんやりしていた感覚が醒めていく。

 一つの大きな夢の間に、小さい夢が挟み込まれていたようなものから、一貫性のある一つの夢へと繋がっていく。

 声が聞こえ、自分で言葉を発している感覚が戻って来る。

 自分が夢と一体化していく感覚。

 取り込まれていく。

「今日が何日だか分かりますか?」

 白衣の先生が僕に問いかける。

 僕は少し考えてから答えた。

「11月20日」

 前回の夢でも似たような質問をされたのだ。それから確か5回くらい経ったから……。

 先生は微笑んで、正解です、と教えてくれた。

 続いて先生は過去に覚えのある質問をいくつかしてきた。僕はそれにも記憶を辿りながら答えた。

「立てますか?」

 夢の中で動いた事は無かった。

 明晰夢の達人なんかは自由に動けるというけれど、ここで動けたら僕も明晰夢の達人という事になるのだろうか。

 だったら少し面白い。

 僕は座っていた椅子の、車椅子の、ひじ掛けに手をかけ力を入れた。

 尻を前に出し、身体を少しだけ屈め、踵を引いた。

 体重が足の裏にかかるのを感じると、腕の力と合わせて尻を持ち上げた。

 僕の体重はこんなに重かったのだろうか。

 重力が何倍にもなったような気がした。あるいはトレーニングマシーンで、最高に重い負荷で太ももを鍛えようとしているような気分だった。

 けれど間違いなく、これは僕の身体だった。

「ありがとう。気を付けて座って」

 先生の言葉に従って僕はゆっくりと車椅子に戻った。

 

 

 ***

 

 

 この時から僕の世界は入れ替わった。

 現実だと思っていたあの場所が夢で、夢だと思っていたここが現実の世界。

 僕の機能が徐々に安定してきた事を確認すると先生は、僕に起きた事を簡単に説明してくれた。

 全く非現実的な話だけれど、海外で行われた実験の副作用で、特定の条件を満たした生命だけがその影響を受けて、あちらの世界に行ってしまったらしい。

 まだ証言を十分に集められていないために、確信には至っていないが、どうやら向こうでは同じ境遇にあった生命が同じ世界を共有していたようだ。

 巨大な展示場やベッド、人々の風貌なんかは、その中に含まれる誰かの記憶が共有されたものらしい。

 そして世界はそこしかないため、境界のない床の向こう側に落ちた人達も、次のターンでは再びベッドの上に戻ったという話も聞いたという話だった。

 なんとなくほっとした。

 あそこで選択を間違えたとしても、僕という存在が消滅してしまうという事はなかったらしい。

 だったら、まだあの場所にいる人達についても安心だ。

 現実世界でちゃんと覚醒できれば良いのだから。

 それから僕は機能訓練を続けて、1ヶ月後には学業に復帰する事ができた。

 留年は免れた。次年度の単位がキツキツなのは仕方がない。

 あんな妙な体験をしたせいか、以前よりも現実が尊くて、愛しいものに感じるようになった。

 そして、生きているという事をもっと実感したいという欲求が増した。

 そんな僕が選んだのはホームセンターで見つけた多肉植物。カランコエ。

 兎の耳のような形で、小さな細かい産毛のようなものも生えている。可愛い。

 育て方を調べて、大事にしたいと思う。

 

 

 

END


 

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夢を見ている ひさ @higashio0117

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