第48話


「……とうとう、この日がやって来てしまいましたね」

 私の髪を梳いてくれていたエリンが今にも泣き出しそうな顔で告げる。その言葉をうまく飲み込めなくてただ込み上げてくるものを押さえ込んだ。


「この世界に、さよならだね」

 苦し紛れにそう言ってみても、気分なんて晴れなくて。



「……どうしても、行ってしまわれるのですか」

 引き止めてくれるエリンにも、どんな顔をしたらいいのかわからなくて。


「……そこが私の、在るべき場所だから」

 焼けるように熱い喉が、目頭が、どうにも邪魔してうまく喋れない。


 覚悟は決めたはずでも、気持ちをコントロールできるかどうかは全くの別物。それならいっそ、本当に夢ならばよかったのに。そうすれば諦めだってつくものだ。



「私も聖なる泉まではお供できません。サラ様のお帰りの際はノア様がお一人で付き添われるそうですよ。最後にお二人きりで──過ごされたいと、ノア様ご自身が仰っていたそうです」


「……そう」

 二人きりの時間なんて、いらない。名残惜しさが増すだけだもの。


 だけど最後に皇子に会えないのも私はきっと嫌なのだ。どこかでホッとしたのもまた事実だから。




 ──結局、一晩考えても答えは出なかった。

 皇子の腕の中、その温もりを感じて“幸せ”を噛みしめることしかできなかった。


 こうやって考えている間にも、私が元の世界へ帰る準備は着々と進んでいる。私はされるがまま、それに従うだけ。



「……こうされていると、初めてサラ様がここに来られた時のことを思い出します。本当についこの間のことですのに、懐かしく思えますね」


 初めてこの世界に迷い込んだ、あの日に着ていた制服に身を包む。この世界に来てからは目立つので一度も着なかったから、袖を通すのも、なんだか何年ぶりかのような感覚だった。


「これで私は、もとの……ただの高校生だね」

「コウコウセイ?」

 不思議そうに首を傾げたエリンに曖昧に微笑む。

 そう、私はアテナでもこの国の光でもない。もう皇子のものでも、なくなる。ただの平凡な高校生なのだ。



 コンコンと扉がノックされる。

「サラ、そろそろ……」

 さあ、夢から覚める時が来た。

「……サラ様っ」

 涙を零すエリンをぎゅうっと抱きしめて、皇子が待つ扉を開けた。


「……ばいばい、エリン。本当にありがとう」

 涙を堪えて誰よりも慕ってくれた彼女に背を向けた。


「お元気で……っ。誰よりもお幸せになってくださいませ!」

 きっとエリンは深く深くお辞儀をしているだろう。


 ──あなたこそ。人の幸せだけじゃなく、自分の幸せを見つけて。

 私に向ける可愛くて胸が温かくなる笑顔を、大切な人に。

 もっと素敵な人になってね。「次に会うときは」なんて言えないけれど。



「大好きよ、エリン」

 そう呟いて、扉を抜けた先で差し出された皇子の手を掴んだ。

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