第30話

 

 私が元の世界へ帰るまで──あと1週間を切った。


「──サラ様」

 着替えの最中、エリンの声ではっと我に返る。不思議そうに私の顔を覗き込んだエリンは眉を下げた。


「……お帰りになるのが、嫌ですか?」

 何かを察したようにそう問いかけた彼女へ向け、首を横に振った。そんなわけはない。私はこの世界に来る前の、自分の日常に戻るだけ。ここでの非現実的な出来事は、長い夢として──心の奥に留めておく。それでいい。


 きっと未来の私は、夢を見ていたと思うのだろう。何の確証も残さないこの世界のことなど、若い頃に抱いた空想だったのだと思う日が来るのだろう。


 それでいいのだ。何を悩むことがある?そう何度も自問自答した。



「……私は寂しゅうございます。サラ様にはサラ様の生活があることも、人間とヴァンパイアである私たちが共に生きていくことがどれだけ難しいかも、承知しておりますが……。エリンはサラ様にいつまでもお仕えしたかったです」


 人間である私の世話を、いくら皇子の命令だからと言っても、嫌がる素振りなど微塵も見せず全うしてくれた彼女。


 エリンの笑顔や言葉、その優しさに救われたことなど数えきれなくて。涙ぐむエリンが可愛くてぎゅっと抱きしめる。


「ありがとう、エリン。エリンのおかげで私はここでの生活に馴染めたんだよ」


「もったいない……お言葉です」


 とても微かな力だったけれど、抱きしめ返してくれた彼女には本当に感謝しているのだ。


「大好きだよ」

 心からの思いを伝えれば、エリンはとうとう号泣してしまって私は困ったように笑うしかなかった。




 しばらくそうしていると、エリンの背を摩る私に向けられた甘い視線とセリフが心臓を射抜く。


「エリンばかり狡いではないか」

 いつの間にか衣装部屋の扉に寄り掛かっていた皇子。とても優しい瞳が私たち二人を微笑ましく見つめている。


「私にも『大好き』などと言ってはくれぬのに」


 そういつものように本気か冗談かわからないことを言った。こんなやり取りも、もう少ししたらできなくなるのか──なんて思えば胸がギュッと苦しくなる。

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