第9話 最後の『Love Letters』
達也は残された短い時間の中、翔一に明日香に繋がる情報の提供を約束すると、三度目となる『貴船』に向かった。達也の心はすでに、長い刑事経験からある結論を出していたのだ。金沢を離れる前に、それを道子に伝えるためであった。
「お義母さん、達也です。夜分すみません」
達也は、玄関格子の前に立つと、インタフォン越しに謝った。
「達也さん、どうしたのこんな遅くに…、お父さんはもう寝てるけど……」
「確認したいことがあって・・・、あ、その前にこれをお返しします」
達也が上着の内ポケットから取り出したのは、二枚の写真と二枚の葉書であった。
「…、もう必要が無くなったという事ね」
「ええ、・・・」
「……喜んで良いという意味かしら……」
道子は、半信半疑な顔で達也を見た。
「それを確認しに、これから・・・」
「達也さん、はっきり言ってもらっても構わないから……」
道子が強がっていることは分かっていた。引き伸ばしても事実は何も変わらないと、達也は思ったのだ。
「お義母さん、たぶん・・・、無理だと・・・」
達也の声に、道子の膝が突然崩れると、玉砂利の上に座り込んだ。顔を覆った細い指の間から嗚咽が漏れだしている。張り詰めていた心が、障子紙のように破れた瞬間であったのだ。
「明日香、なぜなの? あんなに幸せそうに暮らしてたのに……。あなたの人生なんか、私に比べればまだこれからなのよ……。どうしてなの?…………」
どう説明しても、子を愛する親に理解させるのは無理なのだ。
「・・・、・・・・」
達也は、道子にかける言葉が見つからない。いくら優秀な刑事であっても、所詮人の子なのだ。達也に出来ることは、道子の肩をそっと抱き、労りながら引き起こしてあげることしかなかった。
格子戸の上に設えてある丸い照明が、二人の顔を柔らかい赤い光で染め上げている。
「あなたには、分かったのね…」
「ええ、・・・」
「離婚を許した私が…、悪かったのかしら……」
「いえ、明日香は、自分の未来に自分にしか分からない光を見つけたんですよ。 きっと・・・。そのための行動であったと考えてあげないと・・・」
「…達也さん、私にはあなたの言っていることが分からないわ。明日香がなぜ自分から命を絶たなくてはならなかったのか…、少しも分からない…」
「それは・・・、たぶん20年前のあの事件は、明日香にとっては、まだ終わっていなかったのだと思います。あの時、明日香の心に反して訴えを取り下げるべきではなかった。周りの大人たちの都合の良いエゴが、彼女を追い詰めたんですよ!」
珍しく達也は、冷静な刑事の仮面を脱ぎ捨て、元妻を思う普通の男になっていた。
「……そうなのね。明日香の将来を思って良かれと取った行動が、20年後に娘を追い込んでしまった。…悲しいわね…。でも、この店の暖簾を守っていくことも大事だったのよ」
「僕はその暖簾が明日香を追い込んだのだと・・・」
道子の泣きはらした瞳が、夜空を見上げると何かを捜しているようだ。しかし、鉛色の空に新しい星を見つけることは、出来なかった。
「お義母さん、紀香をよろしくお願いします。僕の口からはとても・・・」
達也には、離婚したとはいえ、明日香にうりふたつの娘が残されていたのだ。
「大丈夫、私に任せて…。達也さんが心配しなくても……」
道子の顔に、少しだけ希望の笑みが戻って来たようだ。
「お義母さん、最後に確認したいことがあって・・・」
「何かしら……」
道子は、弱々しい声で返した。
「明日香は、金沢で車を使ってましたか?」
「ええ、半年前に中古で買った車に乗ってたわ。車がないと不便だって…」
「警察には、届けを出した時に説明をしたんですね」
「もちろんよ、赤い車に乗っていたって……、それと、番号も…」
「その車の車種は? 分かりますか・・・」
「ごめんなさい。急に言われても…、詳しくなくて…」
「分かりました。どうかお元気で!」
「達也さん、こんな夜遅く、何処に行くの?」
「もちろん。明日香のところです‼」
深夜の11時であった。
達也は、『PRADO』をUターンさせると、闇夜の中、能登を目指していた。
海浜向陽台交差点を右折すると『のと里山街道』をしばらく走ることになる。 日本海と並走するが、海の様子が全く伝わってこない。海が荒れていたとしても、
風切り音にかき消されてしまうのだ。里山海道ICで降り『能登空港』を右手に見ながら、一般国道を使ってやっと、珠洲市に辿り着くことが出来た。後はわずかな距離を残すだけである。しかし、制限速度を守ったとはいえ、3時間もかかった事になる。刻は、すでに真夜中の2時を過ぎている。
道の駅の駐車場は、静寂に包まれていた。この時間から、灯台を目指そうとする人間などいる訳がない。当たり前の話なのだ。
目を凝らすと、数本のわずかな街燈の明りに照らされ、数台の車が停まっているのが見えた。二台は見覚えのあるキャンピング・カーであり、他の一台が黒いワンボックスでこれも車中泊であるらしい。一見して、他に車はないようである。無駄足だったのであろうか・・・。
しかし、確かに達也の記憶の中には、赤い車が存在していたのである。
達也は、車から降りると冷蔵庫の中のような寒さの中に身を晒した。駐車場は、日の出前の氷点下にあるらしい。
薄手のウールのトレンチコートでは、やすやすと冷気が袖口から侵入して来る。 しかし、今更悔やんでも、どうなるわけでもなかった。
50mほど先の大きな枝ぶりの木の下に、小さな黒い塊が見えた。期待もせずに近づくと、それは、赤い塊であったのだ。黒く見えたのは、街燈の灯かりによるいたずらであったようだ。
記憶の底からぼんやりと赤い車が蘇って来た。確かにこの車だったような気がしてくる・・・。
車は、赤の『DEMIO』であった。運転席から中を覗くと、助手席にウールコートとトートバックが見えた。突然、達也の肩が震え出したのは、寒さのせいだけではなかった。ため息が、白く染まると風に流された。
それらは、達也が普段から見慣れたものだったのだ。懐かしい感情が、熱く蘇ってくる。「・・・明日香、・・僕はとうとう君を見つけた・・よ・・・」
蓮司を憎んだ。自分の手で殺したいほど心の底から憎んだ。
「なぜ、なぜ、俺に言わなかったんだ? 助けて欲しいって、なぜ俺に・・・」
あとは言葉にならなかった。我慢していた涙が溢れ出していた。
頬を伝う涙が熱いまま、達也の唇を濡らして行く。塩辛さだけが、口の中に広がる。
「なあ、明日香、お前はほんとに水臭いやつだな。いくら離婚したとはいえ、20年も一緒に暮らしたんだ。お互い、いっときは相手がいなければ生きてはいけないとさえ、思い合った仲だったはずだよ。それが、たった紙切れ一枚のせいで・・・」
達也が、運転席側のドアノブに手を掛けると、軽い音とともにドアが開いた。鍵は、掛かっていなかったのだ。運転席に座ってみる。
あたかも今まで明日香が座っていたかのように、かすかな『eau de toillette』の匂いがした。『DUNE』であった。付き合うようになって、初めて買って上げたプレゼントだったのだ。懐かしい想い出とともに、再び苦い悔しさが立ち上って来る。
外からの街燈の弱い光がフロントガラスを通り抜け、ダッシュボードの上にある封書の存在を浮かび上がらせている。それは、二通の手紙であった。達也は、一通を手にすると駆け出していた。明日香に会うためである。
「明日香、そこで待ってろ!」
駐車場の脇道を駆け上る。灯台までは登坂が400mも続いているのだ。しばらく運動をしていない身体は、しだいに悲鳴を上げ始めた。息が上がって来る。足が思うように前には進まない。
紗月がこの坂道を歩いた時にも、明日香は待っていたのだろう。間違いもなく。
達也が耐えきれず、荒い息を吐きながら立ち止まると、それは白く凍り、粉のように地面に落ちて行く。
長い登り坂の終点は整地された公園になっていた。100m先に薄墨色の灯台が見えた。断崖の上に建っているせいか、それほどの高さはない。幾筋かの太い光の束が天空に向かって伸びている。灯台に歩み寄るにつれ、しだいに白さを増してくる。
探し当てた灯台にそっと触れてみる。それは意に反して、単に冷たいだけで無機質なものであった。
達也が、灯台の裏手に歩いて行くと、50m程の切り立った断崖が待っていた。下には、千畳敷と呼ばれる浸食棚が広がっているはずである。闇の中、潮騒が断崖を駆け上がりその音が聴こえてくるだけで、海の様子を確認することは出来ない。 しかし、不思議と心が落ち着いて来る。達也は、灯台まで戻ると、外灯の灯りを頼りにして、明日香の書き残していった手紙を読み始めた。
*
【 わたしの達也へ
あなたが、この手紙を手にしているという事は、私を捜し出してくれたというこなのでしょうね。本当にごめんなさいね。私が果ててからも、迷惑を掛けることになってしまった。
あなたとの20年間は、本当のことを言えば十分幸せだったのです。あなたが言った、『別れる意味が分からない』というのは、事実でしたから・・・。
半年間の期限をつくり、私が金沢に帰った理由は、あなたの推察の通り彼の気持ちを確かめるためでした。20年も前の約束です。一時的な心の迷いであった可能性も、十分あり得たのですから・・・。
でも、彼は待っていてくれたのです。それも、一度も結婚をすることもなくです。
私は、そのことの事実を知ると夜が明けるまで泣き続けました。自分の薄情さを恨んでのことです。彼は、約束通り2、3年で私が戻ってくると思っていたそうです。
それが、1年、2年と季節が移ろい、気が付いた時にはいつの間にか、20年という歳月が流れてしまっていたのだと・・・。とても信じられないことだったのです。 彼の誠実さを考えると、自分の身勝手さを悔やむしかありませんでした。
私たちが結ばれたのは、お互いの愛を確認してから20年も経っていたある日の事です。それは、私が『金村』に入社した記念の日でした。彼は、覚えていてくれたのです。彼は、私がまだ既婚者だったこともあり、ここまで待ったのだからと言って、断って来たのです。それが彼の持つ流儀なんでしょうね。関係を強く求めたのは私の方からでした。それが私の贖罪であったからなのです。
私はこれ以上何も語らず、このまま書き終えようとしたのですが、出来なかった。やはり、あなたのこれからのことを考えれば、文字に残して置いた方が良いのではと思い直したのです。
私は、これからの人生を彼に捧げるためにある決心をしなければなりませんでした。それが、あなたとの婚姻の解消でした。本当に、ごめんなさいね。
でも、彼と私の結婚を阻むものが再び現れてしまったのです。それは、私が金沢を離れなければならない原因を作った張本人、金村蓮司の出現でした。
彼は、再び蓮司が戻ったことを知りません。蓮司は、再び私たちの仲を裂くように、私と関係することを迫って来たのです。蓮司の私に対する執着心は、異常でした。再びあの時のおぞましい記憶が蘇って来たのです。
私たちがこのまま結婚をしても、私たちの家庭に幸せが訪れないのは明らかだったのです。蓮司に、この世から消えてもらうしか道がなかった。でも、責任はとることにしたのです。私は、自分の犯した罪に怯えながら彼と生活するなど、考えられないことなのですから……。これは、警察官であるあなたの影響かも知れないわね。結局私は、消えることのない永遠の愛を選んだのです。
今度は私が、彼を待つことになるけれど、これでお相子ですから。
今だから正直に言うわね。20年前に一度蓮司をあやめようと思ったことがあるのです。それは、金沢を離れる前日の事でした。私と、直美は『狼煙の灯台』に蓮司を呼び出し、海蝕棚に突き落とす計画を立てたのです。でも、当時の私達にとっては、恐ろしい大それたことだった。今考えてみれば、あの時に…とは、思うのですけれど……。
でも、実行していたなら、あなたとの結婚はなかったのでしょうね。あなたは、優秀な警察官でしたからね。すぐに犯罪者と見破られてしまいますもの。
私がこの場所を選んだ理由を話してあげますね。ここは、私達3人にとっての友情の『聖地』と呼べるものだったのです。
そして、もう一つの理由は、消え去るには条件の揃った格好の場所なのですから…。
最後に・・・
この手紙は、遺書だとは考えないで下さいね。
私から達也への最後の『Love Letter』のつもりなのですから。
本当に幸せな20年でした・・・。本当にありがとう・・・。
明日香 】
*
達也が読み終えた時には、もう涙は流れていなかった。なぜか、清々しい気持ちがしたのだ。今度は、明日香が翔一を待つ番なのであろう。それは、20年を超えるかも知れないのだ。しかし、明日香にとっては、ほんの一瞬であるかも知れない。
白い羽のような雪が『Love Letter』の上に舞い降りては、文字を滲ませると小さな水滴に変わっていく。涙ではないはずである。
黎明の天空を見上げると、達也を包むように雪が舞っている。これが最後の『雪の果て』なんだろうと、達也は思った。もう、積もることもなく、地上に落ちると解けて消えて行くだけである。
達也は、明日香に別れを告げると、駐車場に戻った。残された一通を手にするためである。宛名は、『金村翔一様』であった。たぶん、これを届けるのが、達也に残された最後の仕事なのであろう。
刻は、午前5時である。
春の暁には、まだ時間がありそうであるが、かすかに西の空が、色付き始めている。達也は、『PRADO』のスターターボタンを押すと、紗月の待つ『ランプの宿』に向かって車を走らせた。
小終結部
( そして、epilogueへ続く)
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