第2話 父は「普通」を追求する

 ――加藤潔は、バーバーチェアの客の髪の毛を切っている。

 一階は、家族経営している床屋だ。二階は家族の住居なのだが、その二階の天井から「うぉおおおおお」「ぐはあああ」と獣の咆哮が聞こえてくる。


「……あのな……」


 客は、鏡越しに潔に問うた。


「なに、あの……変な声」


 いや、まあと潔は言葉を濁す。


「一緒に住んでいるのは、お母さんと妹さんやったな」


 ええ、まあ……と、潔は声帯を何とか動かし、櫛とハサミを動かす。

 手元が震える。髭剃りでなくて良かった。恐怖と動揺で手元が狂い、この客の首を掻っ切ってしまう恐れがあった。

 ぐああ、イイ、もっどおと、濁った声が聞こえてくる。

 バーバーチェアの客と潔の間に、声を出すのも禁忌と言うべく、重々しい鉛の沈黙が広がっていく。

 二階から、歓喜の雄たけびが轟いた。


「いぐううううううーっ」


 どす黒い桃色の絶叫に、客が顔を上げた。

 潔の手元が狂った。髪を余分に切ってしまった。

 誰がどう聞いても、母親と妹の声に聞こえない。

 肉欲の絶頂に狂うメスの雄たけび、化け物の交合だった。


「3000円です」


 髪を必要以上に短く切られ、持ってきた雑誌のモデルとは似ても似つかないスタイルになった客は、何とも言えない顔で代金を払うと、そそくさと店を出ていく。

 潔は目を閉じ、待合用の椅子に座り込んだ。

 まだ閉店時刻でもない。床にはさっきの客の髪の毛が散乱しているが、掃除をする気力がわかない。

 内線電話が鳴った。


 呼び出し音が心臓を蹴り上げる。潔は受話器に飛びついた。2コール以内に出ないと、あの2人にどんな恐ろしい目に合わされるか分からない。

 交合の後、ドロドロに気だるげなメスの声が、潔の聴覚を殴った。


『ちょいどぉ、わらわは空腹よ』

「は、はいっ」

『ここのマネンは手ごわい……イキまくった……が、わたしたちの力で、少しは封じられたようだ……エネルギーの補給をよこせ』


 カバとゴリラの交合が頭をよぎり、吐き気がした。


『今日はピザをお取り。ファルマッジとテリチキ、ハワイアンとモントレ、イタリアンバジル、Lでね、トッピングはあるだけ全種類。そいからチキンナゲットとフライドポテト、そして鳥グラタンと……』


 潔は震える手でメモを取る。今朝は牛丼とカツ丼、それぞれ5人前頼んだ。

 いったいどれだけ食うんだ。

 電話の相手の背後で、ビールだビール、と男の声が聞こえた。


『それから、もうビールが切れてしまうぞ』

「申し訳ありませんっすぐに配達させます!」

『気が利かねーんだよ。切れる前に持ってこさせろ、ミジンコ野郎』


 受話器の向こうから、ゲラゲラと笑う男の声が割り込んだ。

 内線が切れた。

 しばらく、潔は受話器をフックに戻す力すらなかった。


 あの2人をこの加藤家に連れ込んだ元凶は、妹の穂香だった。

 子供のころから、穂香は我儘と見栄っ張りで出来ていた。父親と母親が、娘を思い切り甘やかして育てたせいだ。

 おかげで、家の床屋を「ダサい」と嫌って、カリスマ美容師のいる店まで、電車を乗り継いでいくような娘になった。


 近所のじいさんばあさんの伸びた髪なんか切りたくないと、美容師の専門校ではなく、そこそこ名の知れた短大に進み、小さな広告会社に入って『ギョーカイ人』になったのだが、そこで夜遊びを知り、ホストクラブにはまった。


「シオンくーん」


 と、目を潤ませ、空を見つめて1人で勝手に泣いたり笑ったりと、恋の妄想にふける妹の姿は不気味としか言いようがなかったが、父親が亡くなり、祖父からの代から続く家業を引き継いで、潔の日々は忙しかった。

 妹にかまう気も暇も余裕もない。かといって、ホストクラブ通いに家の金を持ち出されてはかなわないので、自分の貯金通帳に家の権利書など、隠してしまうなどの予防線は張っていたのだが。


 ある日のことだった。

 営業が終わり、店のシャッターを閉めていた潔の前に、穂香が妙な女と現れた。


「お兄ちゃん、こちらねえ、白薔薇麗華先生と仰るの」


 白薔薇ではなく、ラフレシアだと潔は思った。

 熱帯に咲く、直径は1メートルほどの巨大な花である。

 赤黒い花弁に、ハエを誘発するにおいを発する。

 その顔は、巨体の凶相のカバだった。

 白薔薇を、脂肪で枯らしてしまいそうな女だった。


「とっても良く当たる占い師の先生なの。ヒーリングもされていて……」


 前世とか輪廻とか、ヒーラーとか癒しとかオーラとか、意味不明な単語を口走りながら、穂香はうっとりとした目で、このカバを見つめている。

 カバは、潔を一瞥もしない。

 ただ、半眼で、店の屋根を仰ぎ見て、ブツブツと呪文らしき言葉を呟いている。

 その不気味さに、潔はおののいた。

 商売繁盛の呪文ではない。絶対に。

 突然、シロカバ、いやシロバラが咆哮した。


「恐ろしい、なんて重い業じゃあああっ」

「えええっ」


 穂香が青ざめた。


「まさか、まさかここまでとは……」

「れ、麗華先生、それは……?」

「よいか、ホノカ、うぬの家の商売は、人の髪の毛を切り取ること。人の髪の毛とは、個人の情念を含みながら伸びるもの。それを切り、床に落とす……おお、髪に宿る情念が床だけではなく、土地にも降り積もり、大きな黒い念となってこの家を覆いつくそうとしておる!」


 ――いや、切った髪は集めて捨てているけど。

 そんなぁっと、穂香の悲痛な声が潔の心の声をかき消した。


「じゃあ、じゃあ……まさかシオンくんが、ホノカに振り向いてくれないのも、そのせいなんですね、せんせい!」

「それである。黒い念が最も嫌うのは愛。好むのは邪念と不幸。この家で育った魔念が、うぬの幸せを遠ざけ、シオンの邪心を育てておる」

「いやああっ、シオンくんっ先生、はやく、はやく! そのマネンを祓ってください!」


 穂香がシロバラを店の中に引っ張りこみ、共に2階に上がった。


「なあにぃ、うるさいねえ」


 年老いた母親が、台所から顔を出し、そしてシロバラを見て絶句する。

 棒立ちの母親、そして後を追って上に駆け上がった潔の前で、シロバラは「むふううううっ」と叫んで印を結んだ。


「きぃえええええっ」


 怪鳥の奇声がとどろいた。

 奇天烈な音程で呪文をリピートし、怪鳥の奇声を上げ続ける。

 まさに音声兵器だった。やめろ、やめてくれと、耳を押さえて潔はのたうった。

 歌で殺されてしまうなど、想像したこともなかった。

 突然、どおおんと床がうねった。


「きゃあああっ、せんせーっ」


 穂香が金切り声を上げた。

「せんせい、しっかりして、せんせいーっ」 


 薄く潔は目を開ける。

 穂香が狂ったように、横たわったシロバラを揺さぶっている。


「た、たいへん、魔念が先生を!」


 床の上で、大の字になって白目を向いているシロバラ、取りすがる穂香。

 何が起きているのか、何が起きたのか、どうなっているのか分からない。

 潔は壁に背中をぶつけ、そのまま膝から崩れる。

 その横で、母親が腰を抜かしていた。


 ――シロバラは、この家に巣くう「魔念」との精神的バトルのために、精神エネルギーでもって大天使を召喚し、出来た浄化の剣をふるって「この家を巣くう魔念」と凄まじい戦いを繰り広げたらしい。

 それによって、精神エネルギーを消耗し、倒れてしまったということである。

 傷ついたシロバラは、この家で静養することになった。

 当然、潔は断固拒否した。

 とんでもない、出ていかせろと穂香に詰め寄ったが、穂香の反撃は凄まじかった。


「シロバラ先生は、この家の魔念と戦うために、私たちを不幸と邪悪から救うために来てくださったのよ! 私の恋がいつも上手くいかないのは、この家の土地に魔が住んでいるからなの! お兄ちゃんがその年になっても結婚できなくて、ママの腰痛がいつまでたっても良くならないのはそのせいなのよ! 先生は私たちのために戦って、傷ついたのがわからないの!」


 そして、2階の自分の部屋をシロバラに明け渡し、自分は母親の部屋に転がり込んで、かいがいしくシロバラの世話をし始めた。

 シロバラは、牛のように食べた。

 消耗した精神エネルギーを補充するために、多大なる食事が必要らしい。

 穂香は、寝る間も与えられずに、シロバラにこき使われて会社を辞め、外に出なくなった。


 シロバラの信者というより小間使い、奴隷のようだった。

 先生のお世話のためにと、仕事も辞めて外に出なくなり、やせ細り、顔や腕にあざが目立ち始めた。     

 警察を呼ぼうとした潔を、母親が止めた。


「あの子がもっと、ひどい目に遭うかもしれない」


 そういった母親の頬も、赤く腫れあがっていた。

 娘に意見をしてぶたれたのだ。

 ある日、穂香が家から消えた。

 探さないでくれ、とメモ書きが残されていた。

 ――恋する相手、ホストのシオンは実は「女」だったらしい。

 傷心ではなく、精神の重傷を負って家を飛び出した妹の身を心配するよりも早く、潔はマッハでシロバラの根城に走った。

 部屋の前、大声で怒鳴った。


「おい、このくそで……」


 妹がいなくなれば、あの化け物を置いておく理由はない。

 ドアをけ破ってやろうとした潔の目の前で、ドアが膨らんだ。

 鼻が顔にめり込むほどの衝撃が走り、潔は吹っ飛んだ。ドアと共に壁に衝突し、勢い余って階段から転がり落ちた。

 きよし、きよしいいと母親の泣き声が聞こえる。

 むんずと首元を掴まれた。目を上げると、肉食獣の目をしたカバがいた。

 カバの腐った匂いの息が、潔の嗅覚を汚染した。


「なんの用じゃ?」


 体を分解されたような激痛に、潔は呻くだけで答えられず、ただ首をグラグラとさせるしかできない。

 ほのか、ほのかが……と、呻く潔の頭上へ、冷笑の混じる声が落ちてきた。


「うぬの妹、ホノカは負けたのだ」

「……」

「あやつは魔念に敗れた。想い人の性別くらいで揺らぐ愛など、元から愛ではない。まやかしでアル」


 遠ざかる意識の中で、ホホホホホと笑い声が反響した。

 そして、シロバラは家に居座った。

 暴力の前に潔は屈服した。

 穂香の代わりに、母親がシロバラの小間使い・奴隷になった。

 ある日、家の裏口で大量のビールの空瓶と、山のような食事の残骸を出している潔の前に、ゴリラに悪魔が乗り移ったような風体の男が現れた。


 男は「モクレン」と名乗った。シロバラのパートナーだという。

 シロバラは、おお、まっていたぞと、巨大なクッションから立ち上がった。

 潔の目の前で、二人は固く抱擁を交わす。

 愛というより、邪悪の合体に見えた。


「彼は、ワタシの魂のカタワレ、2人で1つ、1つが2人であるのよ」

「……あの、もしかして……もうお2人でここを……」


 ちらっと潔は期待したのである。

 もしかして、このゴリラはこのカバを迎えに来て、家から出ていくのかと。


「そうじゃ、まだここは汚れておる」

「………え」

「この場を巣くう魔念、この巨大な悪のエネルギーに立ち向かうには、私の光の力だけでは足りぬ。モクレンの虹のエネルギーの力が必要だ」

「………」


 ゆっくりと脳死をしかけた。  

 愛したあのヒトは女でした。家の汚れが消滅しようと、全世界が浄化されようと、殺されてしまった私の愛は蘇らないと、気の狂ったポエムを残して去っていった妹、穂香を何としてでも見つけ出し、顔の形が変わるまで殴り倒せばいいのか。

 この場でガソリンを一気飲みし、マッチを己の口に放りめばいいのか。

 シロバラは言い放った。


「魔念は愛を嫌う。私とモクレン、光と虹のエネルギーを合わせて増幅させ、この家に巣くう闇の力を打ち払うのだ!」


 ――潔は、椅子に座ったまま、自分の足の先を見つめ、そして店の外を見た。

 ガラス張りのドアの向こうに見える、外の世界が寒々しい。店の前を主婦らしい2人が。ひそひそと話しながら店の2階を見上げた。

 そして、逃げ出すように歩き出す。

 ああ、また始まった……と、潔は思考の外側で考えた時だった。


「ごめんください」


 客が入ってきた。中年の男客。

 バーバーチェアに客を座らせる。ケープをかけて髪の毛を洗う。

 潔の手は機械のように、無機質に動きをこなしていく。

 2階のメスとオスの声は、あからさまに、そして生々しく響き渡る。

 髪を切られている男が、鏡越しに話しかけてきた。


「お母さん、お怪我はどうです」

「……おかげさまで」


 がああああああと獣の喘ぎが流れる中で、潔はハサミを動かす。

 あれが、魔念を祓う儀式だった。

 シロカバとモクレン、光と虹のエネルギーを合わせて力を増幅させる、その方法が「交合」だというのだ。

 儀式は、毎日、朝昼晩と絶え間なく行われていた。

 声は筒抜けではなく、響き渡っていた。


 ハレンチという言葉が、上品に聞こえるほどの声量だった。

 あそこまで行けば、出羽亀的好奇心どころではない。

 劣情と好奇心ではなく、本能的な恐怖を呼び起こす。


「もう、出て行ってください。このままでは店がつぶれる」

 そう2人に懇願した母親は、凶悪ゴリラに殴られて階段から転がり落ち、足の骨を折って入院中だ。


「この罰当たりが、我々の儀式を冒とくしたからだ」


 シロバラは言い放った。

「モクレンが罰を与えたおかげで、足の骨で済んだのだ。そうでなければ天使長エクシオンさまの怒りによって、親子共々首の骨を折られていただろう。感謝せよ」


「――髭もあたってもらえるかな」


 潔は慌てて、シェービングクリームを手に取った。

 男は静かな顔で目を閉じている。

 2階の破廉恥声が、まるで聞こえないかのように。

 2年前に、古い常連客の紹介で来た「カタノ」という客だった。

 1か月に1度の頻度で来る。

 表面的な世間話で知ったのは、妻と息子の3人家族で、妻は近所のスーパー「ヨーコー」の総菜売り場で働いていること、息子が中学生ということだけだ。 


 傍の公園で、それらしき少年と、黙々とキャッチボールをしていたのを見かけたことがある。多分近所に住んでいるのだろう。 

 2階の声を思考と聴覚から追い出して、潔は剃刀を男のあごに当てた。

 それにしても、この客は声が気にならないのだろうか。

 その時だった。


「あうあうおおおおおおおおおおーっ」

「うわあっ」潔の手元が狂う。


 怜悧な髭剃りの刃先が、男の喉へ滑る。

 心臓と時間が止まった。

 男が、目を閉じたままひょいと首を動かす。髭剃りの刃が空を切った。

 男は、目を閉じたままで潔に問うた。


「……どうした?」

「……」

「続けてくれ」


 何事もなかったかのようなカタノ。

 潔は呆然としていた。


         

 株式会社カワカミフーズは、冷凍食品、海産物加工食品を扱う小さな食品メーカーで、雑居ビルの4階と5階にフロアにある。

 交野次郎は、8時30分きっかりに4階フロアの扉を開けた。

 机につくと、パソコンを立ち上げて、今日明日の営業スケジュールや経費の精算、商品の見積もりなど書類作成の期日を確認し、注文の品の工程表をチェックする。

 遅れや変更はない。

 机の上にある注文書や伝票の整理を始めた時、総務の岡がやってきた。


「お早うさん、その頭は、床屋へ行ったのかい」

「私は営業です。岡さんの教え通り、営業マンとして身だしなみを整えるために、月に1度は必ず『バーバー加藤』へ足を運んでいます」

「……」


 微妙な表情を作る岡へ、次郎は怪訝な目を向けた。

 岡はこの会社の古株であり、総務である。

 3年前「営業未経験者バリバリ大大歓歓迎」と求人広告を出していたこの会社へ入社した時、入社の手続きから社内ルール、昼飯に使う定食屋まで、次郎を一番世話してくれたのがこの男だった。

 そしてどこまでも岡は「普通」の男であった。

 そんな彼を次郎は見習い、彼の教えを遵守しようと決めていた。


 しかも、互いの家は近所にあった。


「私に行きつけの床屋が無いのならと、あの店を薦めてくれたのは、岡さんでしょう」


 男たるもの、行きつけの床屋と飲み屋と、ひいきの野球チームが必要だと、岡に教えられたのだ。


「いや、そうやけど……最近、やばいやろ、あそこ」

「やばいとは?」

「そりゃ、あの店の2階から毎回毎回アノ声……朝っぱらから言わすな」


 ああ、と次郎はうなずいた。

 前職のせいで、鈍感になっていた。

 ターゲットを始末するのが、女と寝ている最中という場面が多かったせいだ。

 次郎は内心猛省した。まだ「普通」が足りない。


「確かに……それに店主の仕事の腕が、明らかに鈍っていました」


 ハサミの音、櫛を入れる手際のリズムが以前より狂っている。そして、移動する時、重心がおかしかった。腰を痛めつけられた人間の動きだ。

 顔にも腕にあざがあった。


「そうやろ、みてみ、ワシのヘアスタイル」

「斬新ですね」

「斬新ちゃうわ。失敗や。わざわざ雑誌持って行って、このモデルみたいにしてくれいうたのに、この有様や」

「……店を変えれば?」

「そう簡単にはいかんのや。あの床屋は爺さんの代から通っとる。男は普通、馴染みの床屋をそうそう変えられへん」


 始業ベルが鳴る。ぶつくさ言いながら、歩き去る岡の背中を見送りながら、次郎はふむと呟いた。


「そうか。『普通』は床屋を変えられないのか」


 いつも通りに日常業務をこなし、終業前に営業報告書を出すと「ふむ、今月も交野君は調子が良いな」と課長が目を細めた。

「恐れ入ります」次郎は退社した。

 家に帰る前に『バーバー加藤』へ向かう。

 閉店時間前だというのに、店主が『閉店』の札をかけようとしていた。

 次郎に気が付いて振り向いた顔は、赤と青色で腫れあがっていた。


「す、すいません、もう閉店で……」

「忘れ物を探しに来たので、入れてもらえませんか」

「あ、ちょっと待って下さい」


 慌てる店主、潔の狼狽をしり目に、次郎はさっさと中に入った。

 店に入った次郎は、店主に気付かれないように、革の定期入れを指先で跳ね飛ばした。定期入れはマガジンラックの下に、端だけをのぞかせて滑り込む。


「お客さん、あの……」

「ああ、見つかりました」


 次郎はしゃがみ込んで手を伸ばす。

 その手へ向かって太い足が伸びた。

 足は次郎の手を踏みつぶそうと、床に思い切り叩きつけたが、次郎の手は定期を取り、するりとそれをかわしていた。


「何をする」


 次郎は、足の主を見た。

 足の主は、嫌な目つきのゴリラ男だった。

 その横に立つ巨体のカバ女が、次郎を半眼で見つめている。


「閉店後の店に入ってくるやつなんざ、強盗ぐらいのもんだからよお」

「ふたりとも、やめてください! おきゃくさ……」


 カバ女が、店主……潔を殴り倒した。


「人を入れるなと言ったであろう! 今から儀式を行うのじゃ、この土地そのものが、もう汚れておるのじゃあ! わからんのかッ」

「お、おきゃくさん、でていってください、お願いします!」


 潔にすがりつかれ、次郎はそのまま店を追い出された。

 次郎はその足で、興信所へ向かった。


 数日後の自宅のダイニング。


「ふーん、で、それが、その2人組の調査報告書なのね。でもお父さん、夕ごはん食べながら報告書を読まないの。子供の前で行儀が悪い」

「すまん、もう読み終わる……母さん、ごはんおかわり」


 次郎は、夕食のアジフライを食べながら、興信所からの「バーバー加藤に居座っている男女2人組についての調査報告書」に目を通していた。

 妻と息子の三人家族で住む、駅から徒歩10分、4LDK。四階建ての中古マンション。赤茶のタイル張りの外観は、中々洒落ており、防音もしっかりしている。

 3年前、次郎はこのマンションの4階の一室を、全額現金払いで買った。


 これから3人で「普通」に、家族として暮らしていくのなら、ホテルジプシーではなく、定住する箱が必要と思ったからだ。

 これからは、ごく当たり前の一般市民として生活するのだ。

 そうなると、住宅の購入は世間に倣ってローンを組みたかったのだが、当時は仕事を辞めたばかりの無職だった。

 一般市民として、一度はローンを組んでみたかったが断念した。

 その場で一括現金で支払った。


 不動産屋と家の売主と立ち合いの銀行員と一緒に、一生懸命紙幣を数えたのだが、

 あれは実に面倒くさかった。


「涼、アジフライのおかわりは?」

「もういい」

「あんたって食が細いわねえ。隠れておやつ食べているのなら良いけど、そうでも無いなら育ちざかりの中学生として大問題よ……あ、お父さん、それ、読み終わったなら貸して。私も読みたい」


 次郎は、妻の桃子に報告書を渡した。


「で、岡さんの一言が気になったからって、わざわざ床屋さんの様子を見に行って、件の元凶らしき2人を目で確認してから、興信所に調査を頼んだのね」

「ああ。店の営業を妨害する元凶を、出来ればご主人の口から話を聞きたかったのだが、向こうから顔を出してきた。初対面の相手の手を踏みつぶそうとし、人を人前で平気で殴るような手合いは、まともじゃない」

「あの床屋さん、一体何が起きているのか、パート先でも興味津々噂の的でさ……何しろエロDVDも木っ端微塵にするような声を、朝から晩まで周囲に振りまいているんだもん。おかげで、店の前、小学生の通学路のルートから外されたってよ」


 次郎はアジフライに専念する。

 桃子は報告書片手にふうんとつぶやいた。


「本名、迫田ひとみに久保正義。へえ、こんな凶悪なご面相でも、人名があるんだ。うわ、2人とも経歴は詐欺と脅迫と傷害と窃盗、器物破損の豪華絢爛な花束ねえ……私の花は一輪しかないのに」

「2人とも、ヒル稼業だ」


 次郎はわかめと大根の味噌汁を飲み、ナスと揚げの煮物を口にした。


「狙った家に上がり込み、そのまま居座って、家人を洗脳や恐怖で支配して、家を食いつぶしていく手合いだ。過去にも5件同じ事をしている。自殺者も出ている」


 痣だらけの潔の顔が思い浮かぶ。恐怖で気力をすりつぶされた目。


「ああなると、警察に通報するとか、助けを求めるという気力すら無くなる。動けば苦痛が与えられる、そう刷り込まれたら、思考することすら出来なくなる」

「あの床屋さんはどうなるのかしらって、私のパート先でも、もっぱらの噂よ……床屋のご主人が毎日のように神戸牛のシャトーブリアン買い占めて、こないだなんか『トリュフとフォアグラ売ってないんですか』って、でこぼこ顔で泣きながら聞いてきたのよ。大根1本が安売りで78円の「スーパーヨーコー」に、そんなものあるはずないじゃないの。もうあのお店もお終いね」

「それが今回の問題だ」


 思わず、次郎は呻いた。


「あの床屋に潰れられては困る。俺の『普通指南』の先生である岡さんによると普通の男とは、行きつけの床屋を変えないそうだ」


 中学2年生の息子、涼が「そうなのかな」とつぶやく。


「お前はまだ、母さんに髪を切ってもらっている子供だ」

「確かに、岡さんの言う通りかも。同じパートの金井さんは、高校生の頃から同じ美容師に髪を切ってもらっているっていうから、普通は変えないのよ、きっと」


 食事を終えた次郎に、桃子が聞いた。


「ところで、興信所の代金っていくらかかったの?」

「3日で、税込み75万円だ。収納ボックスの金を使った」


 マンションを買った残りの金だった。

 束ねることもせずに、無造作に突っ込んでいるせいで、紙幣で中身が一杯の引き出しが開けにくい。

近いうちにちゃんと数えて、整理しなくてはならない。


「75万円か。ウチのスーパーの目玉総菜、エクセレントスペシャルコロッケが、1つ150円として……5000個買えるわね」


 エプロン姿で腕を組む妻。次郎は内心、心から賛嘆した。

『普通の仕事がしたい』

 あの時、そう言った彼女は言葉通りに実行した。

 スーパーの仕事を見つけ、総菜売り場の担当になった。

 今ではどこから見てもパートで働く家庭の主婦で、金銭換算の基準が総菜コロッケの値段という感覚まで身に着けた。


 俺は、まだまだだ。

 次郎は気を引き締めた。


 次の日、出勤した次郎は、いつものように営業の訪問スケジュール、仕事の予定をチェックした。

 総務の岡がやってきて、野球についての雑談を交わす。

 今日の予定は、午前中は必要経費の精算などの事務。

 そして午後から営業に出るが、今日は新規取引先と、売買契約書を交わす日だった。調印は夕方16時、先方の応接室とある。

 バーバー加藤、後始末に立ち寄り先など所要時間、取引先との約束時間を計算する。


「早く済ませなくては」


 次郎は、猛スピードでパソコンの入力を始めた。



 母親が入院してから、潔は2階に上がらなくなった。2階はもう、あの2人によって占拠されていた。

 日夜繰り返される性交の残滓と、生臭い臭気が漂う化け物の巣だった。

 潔は1階の店で寝泊まりした。

 バーバーチェアの上で寝ているせいで、体の疲れは取れない。

 恐怖に支配されながら、それでも潔は、2人をある意味では軽んじていた。

 この化け物たちの目的は、タダで屋根のある家に住み、高カロリーの食事を貪って、獣同士でまぐわうだけだと思っていた。


 ずっと、2階にいるものだと思っていたのだ。

 だが、1階に2人が降りてきた。

 あちこちに、汚いシミを付けた白装束姿で、シロバラが叫んだ。


「この場所が、すべての元凶じゃああ!」


 もう、客足は離れていて、店にいるのは潔1人だった。それが救いだった。

 店の中で、シロバラが踊り始めた。巨体があちこちにぶつかり、備品が床に落ちた。瓶が割れて液体が広がり、床がミシミシと軋んだ。

「髪が、人間の念を宿した何百、何千万本の髪が集まり、1つの魔物となって、この店を覆いつくそうとしておる!」

 モクレンが、タンバリンを割れそうな音で鳴らし続けている。

 気の狂いそうな音と怪女の奇態な踊りに、潔は頭が割れかけた。

 シロバラが叫んだ。


「この地の権利を我々に渡し、うぬはここを離れ、いずこへと去れ! でなければ、身の破滅を招くぞよ!」


 潔は、ショックに頭を殴られた。

 何で気が付かなかったのだ。こいつらの目的は「この店」ではないか。

 寄生ではなく、略奪。加藤家そのものが目的だったのだ。

 潔は、夜中に家から逃げて、警察に駆け込もうとした。

 そして見つかった。

 2人とも、まさかの銃を持っていた。テレビでしか見たことのない殺人の道具が、自分の家の壁に穴を開けたのを見て、潔は腰を抜かしてしまった


 そして、今、自分の部屋に転がっている。

 目に映るのは、馴染んだ部屋のはずだった。

 だが、服をすべて剥ぎ取られ、手足を縛られて転がりながら見る部屋は、部屋でありながら牢獄だった。

 潔は、まるで化け物2匹の供物だった。


「この土地を、浄化しなくてはならぬと言うておるのじゃあああ!」


 獰猛な声が、耳から脳みそをかき混ぜる。


「うぬらは、我々にこの地を明け渡し、この場を去れと大天使長チュリオス様が告げられている。我は天の代弁者、言葉は天の声も同様、それを聞かぬものは天への反逆、万死に値する!」


 もう、どうにでもしてくれ。

 もう楽になりたい。

 もういやだ。

 夜中に捕まってから数時間、絶え間なく蹴られ、殴られ続けるうちに、全裸の羞恥も屈辱も麻痺し、苦痛と激痛も感じなくなった。

 理容師として、指だけは守った。


 それでも、あざのない場所は無かった。身体は内出血と打ち身のかたまりだ。

 手足が冷たい。感覚もない。

 死ぬのか、と思った。


「早く、権利書のありかを言え!」


 モクレンが、潔の首を絞めるようにつかみ上げる。


「土地の権利書、そいつはお前が持って隠しているって、ホノカというバカ女からも聞いているんだよ!」


 妹の名を聞き、潔は口を固く閉じる。

 久保は脂臭い息を吹きかけるよう、顔を近づけた。


「おい、ところで、こないだ店に来たあの野郎、何者だ?」

「……」


 頭の中で、泥がうねっている。誰のことか分からない。

 聴覚の外で、久保がシロバラに何か話している。

 ――気になるんだよ、あの野郎、フツーじゃねえ。

 ――俺に手を踏み潰されかけたってのに、全然顔色を変えやがらなかった。


「寝るな!」


 脇腹を蹴られ、意識が戻った。

 白っぽい視界の向こうで、シロバラが大仰に手を広げている。


「この土地を我々に差し出せ! さすれば我々が、呪われたこの土地を引受ける! さもなくば、おぬしたちは地獄に落ちるであろう、それだけではない、この家の子々孫々、全員が見るも無残な死を遂げるであろう!」

「権利書よこせって、わからねーのか!」


 泥が詰め込まれたような思考の中で、昔の光景がぼんやりと浮かぶ。

「ダメダ」という小さな声が聞こえた。

 か細くて、途切れがちな1本の糸だったが、切ることが出来ない糸だった。

 この店を出したのは、祖父だ。

 そして父が継いで。

 店を継ぐのを嫌がった穂香に、親父は悲しそうな顔をして、でも俺が初めて店に出て、客の髪を切った日の晩、ビールを飲んで泣いた。


 ――吐しゃ物と血の味だけしかない、口が動いた。

 ナニガ、マネンダ。

 ゴメン、カアサン。


「ああくそ! コイツしぶといぞ。すっげえむかつく、俺、こういう奴でえっきれえなんだよ! 石にへばりついて、取れねえナメクジみてえでよぉ!」


 久保の手に、拳銃がある。

 銃口が額をぐりぐりとえぐった。


「殴るにも疲れちまったよ。もう殺っちまって、山の中埋めようぜ。権利書のありかは病院のババアに聞けばいいじゃないか」

「しかたがないのう。これだけ言うても、天とわらわに背くか」


 シロバラの手にも、銃があった。


「しかし、モクレンよ。こやつを制裁するはわらわの役目じゃ。天の代理人として、わらわがこやつを殺す。そして山へ行き、後始末はそなたじゃ」

「楽な方取りやがったな。まあいいぜ、ハニー。惚れた弱みだ」


 モクレンがわざとらしい溜息をついた。


「もうこの古汚え家に居座るのも飽きたぜ。さっさとこの店手に入れて、更地にして売りとばそ……」

「それは困る」


 声が割り込んだ。


 この3人の、誰のものでもない声。

 ドアが開く。モクレンが目を剥き、シロバラが止まった。

 潔は、ぼんやりと顔を上げた。

 腫れて半分ふさがった視界の向こうに、男がいる。

 部屋に入ってきた男は、部屋の中央、シロバラとモクレンの間に立った。


「この店が無くなっては、困る」

「何者じゃ、お前は」


 ワイシャツの上に、作業着を着た男は答えた。


「普通人だ。食品メーカーの営業をしている」

「ざけんな!」

「久保正義、金龍会の三下だな。銃もそこから手に入れたか?」


 モクレンが黙った。目が蛇のように光る。

 潔は男を見つめた。

 ――カタノ、という客だと、ようやく気が付いた。

 あの、まるで特徴のない男客だ。

 常連になってくれたというのに、客の顔は一度で覚えるのに、何故か彼だけは顔を覚えるのに時間がかかった。

 仕事で手に触れる頭の形、髪の毛の特徴でようやく「ああ」と思い出せたほどだ。ようやく顔を覚えたのは、5回目の来店だった。


 ――なぜ、ここにいるんだ。

 しかし、疑問を掘り下げる体力も、気力も空っぽだった。

 自分の素性を知られている。モクレンが怒鳴った。


「シロバラ、撃て! コイツ、いつかの妙な奴だ!」


 男は、シロバラの銃、モクレンの銃に挟まれて立っている。

 目の前で、人が殺される絶望。

 だが、潔の目の前で、男の体はふわりと浮いた。

 重力を感じない跳躍、男はシロバラの頭上で一回転してその背後に着地する。

 その滑らかさ。

 潔の目に死神が映った。

 カタノの顔をした死神は、シロバラに取り憑いたかに見えた。


 死神の手が、シロバラの腕と重なって銃を構えた手を伸ばす。

 シロバラに銃を向けられて、モクレンが引き金を引いた。

 巨体に、二発の穴が開いた。シロバラが目を見開き、痙攣する。

 死相で歪むシロバラ、死人の持つ銃が火を噴いた。

「が」モクレンの、最後の言葉は短かった。

 額と心臓をほぼ同時に撃ち抜かれ、モクレンが絶命する。


「――店主」


 ――カタノの声で、潔は縛られていた体が自由になっていることに気が付いた。

 服が体の上にかけられている。

 カタノが、中身の入った巨大な黒い袋を二つ、部屋の外に運び出そうとしているところだった。


「あ、そ、それ、黒いの、それ……」

「死体袋だ。2つ、この家にあった。どうやらあなた方に使う気だったらしいな。丁度良かったので、これを拝借する」


 寝ているのか起きているのか、死んでいるのか生きているのか、霧に思考をかすませながら、潔は「はあ」と口を動かした。

 あの化け物たちがいない。狂った夢の中で、全てが終わっていた。そんな気分だ。


「今見たこのことで、警察に通報したって無駄だ。止めておけ」

「……」

「証拠は全て始末した。悪いが医者は自分で呼んでくれ」


 カタノが後姿を見せて出ていく。

 潔は、部屋の中を見回した。

 化け物2人はいない、死の痕跡も無くなっていた。



 金龍会の本部事務所は、繁華街にある6階建てのビルだった。

 組員の出入りは頻繁で、出入り口はもちろん、その周辺も見張りを多数配置している。

 建物にある監視カメラやテレビカメラは、まるで夏のトマトのように、鈴なりに壁に取り付けられていた。

 最上階にある組長の執務室に入るには、防犯カメラの列の前を歩き、廊下の壁に、長々と並んで整列する見張りの兵隊の前を通らなくてはならない。


 本部事務所は、見張りとカメラで出来た要塞だった。

 その組長の執務室のドアが、文字通り吹っ飛んだ。

 部屋の脇に控えていた弾除けの用心棒が、銃を抜く前に吹っ飛んだドアの下敷きになった。

 ドアから、黒い死体袋が2つ投げ込まれた。

 銃弾の穴で、ぼろぼろになっていた。

 壊れたジッパーから、同じく穴だらけの女の顔がべろりと顔を出した。

 もう一つの袋からも、ゴリラの肉塊がごろりと転がり出た。


 マホガニー製の執務机に座っていた四代目組長の大高は、投げ込まれた死体を前に、文字通り飛び上がった。

 まさか、という思いだった。何人ものヒットマンを葬ってきた忠実な組員たちと、そして堅牢な監視システム。

 侵入不可、難攻不落の要塞ビルが破られたのだ。

 そして、入ってきた男を見て椅子から転がり落ちた。


「お、お前は……っ」

「久しぶりだな」


 悲鳴を上げようとした、大高の声帯は凍っていた。

 この男を知っていた。何故なら仕事を依頼したことが何度もあったからだ。

 業界では『魔人』と呼ばれた男だった。

 この男のターゲットとなれば、世界の果て、深海の底まで逃げても無駄だ。

 我が要塞が破られたのも、無理はない。

 信じたくないが、あり得る話だった。

 大高がしたように、誰かがこの男に、大高の始末を依頼したのだ。


 もう終わりだと思った。命乞いさえ忘れるほどの、絶望に落ちた。

 人生の走馬灯が猛スピードで回転した。

 人生のフィルムを巻き戻しすぎて、幼児退行を起こし「ばぶう」と赤ちゃん言葉を口にした。

 その時だった。


「このゴミ2つ、始末しておいてくれ」

「……は?」

「ゴミの一つは、この組の三下だ。このでかいのと一緒になって、カタギに手を出していたんだから、組長として責任を取ってくれ。ここなら、持っている捨て場所、山にある穴の2つや3つあるだろう」

「……用事はそれか?」

「そうだ」


 殺しに来たわけではないらしい。

 大高は落ち着きを取り戻し、立ち上がってからまじまじと死体袋を見つめた。


「おい、これひでぇな。2つともグチャグチャ、穴ぼこだらけじゃねえか」

「ここに来るまでに、弾除けにした」

「これからは、来る前に連絡しろよ。それに山の穴は定員オーバーだ。鉄の檻に入れて海に沈める手もあるが、この巨女を入れるとしたら、特注品の檻になる」

「じゃあ特注してくれ」

「仕方がない、分かったよ」


 大高は椅子に座り直し、思い切り嫌な顔を作って見せてやった。殺しに来たわけではないのなら、相手はただの昔馴染みだ。


「おい、ここに来る途中、俺の見張りどもはどうしたんだ」

「気絶だけだ。死人はない」

「ならいい。おい、久しぶりに会ったんだ。1杯飲んでいけよ」


 大高は、いそいそとホームバーへと歩き、とっておきのカミュのミッシェルロイヤルバカラを出した。そして思い出した。


「あれ? お前、噂じゃ仕事をやめたって聞いたが……」

 バカラのグラスを2つ持って振り向いた。

 黒い死体袋を残して、再会の相手はいなくなっていた。


 社用車を泊めておいたのは、コインパーキングだった。

 次郎は死体袋をビルまで運んだ台車をたたみ、車のトランクに入れる。

 運転席に乗り込むと、作業着の上を脱いで、きっちりとネクタイを締めた。消臭スプレーをして硝煙の匂いを消し、背広の上着を着て時計を見る。


「うむ、時間通りだ」


 営業の心得、相手との約束の時間に遅れてはならない。

 満足げにうなずき、車のエンジンをかけた。

 時間きっかりに取引先に到着。

 契約のテーブルに双方が着いたのも、予定通りだった。

 相手と一緒に契約内容と注意事項を確認し、契約書に調印する。


「ありがとうございます」


 次郎は、応接のテーブルで深々と頭を下げた。


「今後も、末永いお取引をお願い致します」

「いえいえ、こちらこそ、今後どうぞよろしくお願いします」


 契約手続きを終えたら、気を緩ませたらしい。商談相手の女性課長が笑った。


「でも、交野さんって不思議な方ですね」

「そうでしょうか」


 次郎は背中を伸ばした。普通を目指す以上、己の中にある人とは異なった要素を潰していく必要がある。


「商品の説明や、取引の内容を話し合う間、私が心の中で思った疑問とか、しようとした質問を先回りして話されるんだもの」

「……」

「心を読まれているようで、ちょっと怖かったわ」


 用事が終わり、建物を出て駐車場へ向かう途中、次郎はビルとビルの間に見える夕方の空を見ながら考えた。

 相手の視線の先や手の動きを見て、思考や次の行動を読み取るのは、身に着いてしまった前職のスキルの1つ、すでに癖にもなった技だった。

 いかん、と反省する。


 今期の営業ノルマ達成のため、相手先の信用を得て契約を取るためとはいえ、つい前職のクセを出してしまい、課長が目で追う契約書類の文字や、商談中に向けた視線の先、考え込んだ時に見せた仕草などで、相手の思考を読んでしまった。

 前職の名残り、それ自体が市民生活の中では邪道だ。それは、普通の営業マンを目指す身として封印する必要もあるのか。


「いやしかし、おかげで商談もまとまった」


 会社設立以来、何十人と営業マンを傍から見てきた普通指南・総務の岡によれば、営業マンの王者となるためには、相手の信用を得ること。

 そして商品を売るためには、余計な悩みを持ってはならないという。

 まあいい、と次郎は真横を向いた。ショーウィンドウに、己の姿が映っている。

 月に1度、カットしている髪の毛を撫でつけた。

 とりあえず「普通」の一つは守ったのだ。


 次郎は車に乗り込んだ。

 早く帰社して、契約書を事務の社員に渡し、業務日誌を書かなくてはならなかった。



 客足がない日もあったが、それでも店を開けて、ひたすら待っているうちに客は徐々に戻り始めた。

 周囲に響き渡る痴女とゴリラの声が消えたので、皆はこの床屋の事態が収拾したと悟ったらしい。

 痣だらけの潔の顔に驚きながら、客はバーバーチェアに座る。

 店は、ゆるやかなクラシックのBGMが流れている。


「やっぱり、馴染みの床屋で切ってもらうのが一番だわ」

 常連の1人がそう言った。


「形の好みとか、髪の長さとか、微妙なニュアンスが伝わるのは、長年切ってもらっていた人だもんねえ……ところで、おかあちゃんは大丈夫?」


 鏡越しに、潔は笑いかけた。


「来週、退院します」

「そりゃ良かった」


 ――あの「カタノ」が店に現れたのは、それから約1か月後のことだった。

 潔は動揺した。あの2人の化け物は悪夢として、過去の奥深くにしまい込んでいる。

 目の前にいる男は、その悪夢の一部でもあった。

 しかし、どう見ても普通の人間だった。

 だが間違いなく、あの2人を死にやった死神と同じ顔だった。

 あの2人をどうしたのか、あなたは一体何者なのか。

 感謝と恐怖が渦巻いている。


 それでも、一番伝えたいのは感謝だった。

 ありがとうございます、だがその言葉だけでは、感謝を伝えきれなかった。

 本当の正体は、死神かもしれない。あのシロバラやモクレンを凌駕するほど、恐ろしい存在なのかもしれない。

 だが、このカタノは「この店が無くなっては困る」と言ってくれた。

 自分と店を助けてくれた。


 本性は何であれ、この男に救われた。彼のおかげで、こうやって店に立っている。

 カタノは、何も言わずにバーバーチェアに座り、潔に髪の毛を切られている。

 どう伝えればいいのか。

 悩んだ。そしてようやく口を開いた。


「……いつか、息子さんの髪も切らせてください」

 カタノが目を上げる。

 鏡越しに目が合った。

「親子で来るのは、よくあることか」

「親子でこの店に来てくれるお客さんは、多いですよ」

 ふむ、とカタノが目を細めた。

 満足げな笑いだった。

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