第3話 恐怖を抱える息子

やはり、俺はまだ「治療費を払え、とまでは言わないよ? でもさあ、ぶつかった相手にゴメンナサイって、ココロばかりのお金を出すくらいはしてもイイんじゃね?」


 あーやっぱりそう来たかと、目の前の2人組相手に、野川太一は力が抜けた。

 学校の帰り道だった。校則で禁じられてはいるけれど、クラスの友達と寄り道してゲーセンで遊び、じゃあなと別れて、一人で歩き始めて数分後。

 荒れた金髪と、眉毛無しというイヤな感じの2人組が、向かいから歩いてきたので、太一は2人をすり抜けようとした。

 すると、腕とカバンに衝撃が走った。肩を掴まれて、路地裏に引っ張り込まれて、背中に壁を押し付けられて、この展開だ。


 この状態では、強行突破して逃げ切れるのか、今財布にいくら入っていたか、どれだけ渡せばこいつら勘弁してくれるか、太一は悩む。

 しかし、学校の制服を着ている。

 どんなやり方で、この場を逃げ切ったとしても、もしもクラスと名前がばれたら?

 もっとやばい。

 こいつらに、金づるとしてずっと付きまとわれるかもと、イヤな想像が生まれ、足がすくんだ時だった。


「なんだよお前?」


 金髪が上げた声に、太一は顔を上げた。


「なんだあ、オマエのおともだち?」


 眉毛無しが、太一に向ってケタケタ笑い、親指の先を横へ投げる。

 その親指の先に、太一は絶句した。

 カタノ、と言いかけた。だが、声が出なくて幸いだった。


「おんなじ制服じゃん、同じガッコのオボッチャン同士のゆうじょお?」

「わあ、せいぎのみかたのトージョーだあ?」


 金髪と、眉毛無しの関心が、太一からカタノ……交野涼に向かった。

 構うな、逃げろ、そう叫ぼうとしたが、声帯が動かない。

 同じクラスの生徒だったが、休み時間、いつも自分の席に座って本を読んでいて、太一とはほとんど話をしたことはない。

 身体が弱いらしい。中等部の入学式で倒れたことがあった。

 体育の授業ですら休みがちな奴が、この場に現れても正義の味方どころか、助けどころか、被害者が増えただけだった。


 黙って、交野涼がポケットに手を入れた。

 出した財布に、2人組が「きゃっぽー」と頭の悪い声を上げた。

 ああ、バカ、と太一は無声で呻いた。

 涼が、財布から札を数枚取り出し、投げる。

 万札4枚が、ひらひらとアスファルトの上に舞い落ちる。

 2人組の笑いが消えた。


「――欲しいんだろ?」


 ようやく、涼が口を開いた。

 表情は、正義や義憤に燃えるものでもない、冷え切った無表情。

 まるで、虫を見るような。


「這いつくばって、拾えよ」


 捨てられた4枚の万札を前に、空気が氷結する。

 数秒後、空気が凶悪に爆発した。


「てめええっ」「ごらぁあっ殺す!」


 2人組が同時に涼へと向かい、殴りかかる。

 逃げ出すなんて許されない、だがどうしてやることも出来ない、動けない太一の目の前で、涼の表情は変わらない。

「え?」太一は目を疑った。

 涼が2人の同時、波状攻撃をかわしている。拳も蹴りも、まるで予測しているかのように当たらない。


 狭い路地の中、涼はまるでステップを踏むように移動する。

 2人組は涼を追う。

 涼が、2人に前後に挟まれた。

 2人同時、挟み撃ちにして涼に殴りかかった。

 その瞬間、涼が体を移動させた。


「ごっ」


 太一は、金髪に殴られて仰向けに倒れる眉毛無しを、呆然と見つめた。

 うろたえる金髪へ、涼が視線を投げる。


「て、てってめええっ」


 金髪が怒りの悲鳴を上げた。

 涼の動きは、同士討ちに誘導するためのものだと、太一はようやく気が付いた。

 金髪が、電信柱を背にした涼に殴りかかる。次の瞬間、響き渡る悲鳴に、思わず太一は目をつぶった。


「あ、あ、ぁ……」


 押さえた右拳を腹に埋めて、金髪が地面でのたうっていた。涼が避けたせいで、思い切り殴ったのは電信柱だった。

 電信柱から、ボルトが一本飛び出していた。

 血の付いた鉄の先端に、太一は思わず目を背けた。


「んぐぁ、が、がぁ……」


 点々と続く血の跡を残しながら、金髪が路地裏から逃げ出す。

 涼は、アスファルト上の眉毛無しに歩み寄った。

 意識がなく、白目を向いている眉毛無し。

 その顔を狙い、涼が片足を上げる。

 太一の意識がはじかれた。思わず叫んでいた。


「た、タンマ! ちょっと待て、それはやめろ、やりすぎ!」


 太一は涼の背中に飛びつき、羽交い絞めにした。


「もう、勝負はついた! それは無しっ」


 涼が、太一をゆるく払った。


「……分かったよ」


 目が、ようやく合った。


「……また」

「?」

「また、助けられた」

「は? 何を言ってんの、交野?」


 助けられたのは、他でもなく自分だと太一は言いかけたが、とりあえず、お礼を言おうとしたその時だった。


「うわぉ、トレヴィアーン、すっごいなあお前!」

 路地裏から、2人を押し分けるように声と拍手が乱入した。


「いや、面白いショーでした! 久しぶりに俺、カンドー!」

「なあなあなあ、少年よ、名前はなんていうの? ウチの学園の中等部だろ?」

 スキップせんばかりに浮かれている3人。自分と同じ学園の高等部の制服と、その3つの顔ぶれに、太一は棒立ちになった。


「名前教えろよ、今の俺、すっごくお前を知りたい!」

 リーダー格は、太一を突き飛ばして涼へ近づき、その肩に手を回す。

 そろって3人とも背が高い。


「ツカサにヒデノリ、ちょっとそこでお茶しないか? 近くにイカシたカフェが出来たじゃん、ディーゼルがプロデュースしたとこ」

「あーイイね、いこか」


 あ、ちょっとと、3人の上級生へ向けて太一は言いかけたが、3人の関心は涼のみ、太一の存在は空気以下だった。

 涼が、三人によって騒がしく連行されていく。

 路地裏に取り残されて、太一は気が付く。

 あの三人の上級生は、もしかしたら自分の災難を、最初から最後まで見物していたのではないかと。

 まさかと思ったが、学園で有名なあの3人の上級生なら、十分あり得ることだった。


 次の日。

 中等部、2年B組の学校の教室、休み時間にて。


「――ウソだろ」

「ホントだってば」


 昨日の太一の話を、ストレートに受け入れてくれた人間は、やはりいなかった。

 クラスメイトの青山裕彦は、離れた席で本を読んでいる涼へ、ちらりと視線を投げた。


「お前は信用するけど、話の内容は想像出来ない」

「アオに同じ」


 花田昭雄がうなずく。ああ、やっぱりかと太一はため息をつく。

 朝一番、太一は涼のところに行った。

 アスファルトから回収した金を差し出し、助けてくれてありがとうと、心の底から感謝の気持ちで頭を下げたのだが。


「別に」


 感謝は切り捨てられた。

 止まった言葉を、太一は懸命に押し出した。


「……それで、交野、昨日の、あの上級生たちだけどさ」

「ああ」

「あのあと、あの三人に何か言われた? どこへ行ったんだ?」

「大したことじゃない」


 感情の無い言葉に、また太一は詰まる。

 あまり、あの3人と関わらないほうが良いと、忠告したかったのだ。

 この私立成英学園は、地域では名の通った小学部から大学までの一貫校だった。

 入学の条件には、それなりの偏差値と、学園の格式や校風に相応しい、家柄や経済力が求められる。

 恵まれた設備と優秀な教師に環境、理由はそれだけではなくて、将来の人脈目当てに子供を入学させる親もいて、生徒たちの家庭に親同士の仕事の関係や、コネクションが存在するケースも多い。


 それは純粋であるべき学園生活に、生臭い世間の匂いが混じり、生徒間にヒラエルキーが生まれる一因でもあった。

 高等部の2年生に、それを具現化した3人がいる。

 鹿島司と沢尾友和、久津秀則。

 テレビ局の役員、大手の総合商社の取締役、茶道の家元と、社会的地位を持つ親を持ち、小学部からの内部進学組だった。


 揃いもそろって、街中でモデルや事務所のスカウトは当たり前なほど容姿に秀で、何度も雑誌に掲載されている「芸能人的」な3人だった。

 家庭環境も、経済誌や婦人雑誌などに、家族そろって取材を受けるほどだ。

 まさに、学園ヒラエルキーのトップにいた。憧れる生徒も多い。

 しかし、一方では黒いうわさも絶えない。

 3人とも、選民意識が突出していた。気に入らない生徒へのいじめや、暴力事件の首謀者でもあった。


 被害に遭った生徒が訴え出ても、金やコネで返り討ちにされる。

 事件は揉み消され、裁判も退ける。

 過去、あの3人に追い詰められた自殺者や、自殺未遂者に怪我人も複数いるが、多額の寄付金と、政治的圧力で「無かった事」にされて、職員室も当てにならない。

 その裏の噂が恐怖を呼び、あの3人の独裁を許す羽目になっていた。

 信じがたい話だが、路地裏で恐喝に遭っていた下級生を、面白がって見物していたのだ。信ぴょう性はあった。


 一方、この交野涼といえば……。

 太一は思い出す。

 去年の入学式、理事長の祝辞の途中で、気分を悪くして倒れた。当時は隣のクラスだったが、隣の列に並んでいた太一が涼の異常に気が付いて、大声で先生を呼んだ。

 人の群れの中にいたら気分が悪くなる体質という噂だった。

 その理由で、全校朝礼は毎回欠席。

 体育の授業も見学が多く、休み時間のサッカーなんて思いの外だ。


 誰かと話すこともしない。教室で、いつも独りで本を読んでいる。

 あの交野が実は強いなんて信じられないと、裕彦に昭雄の言うことも最もだった。


「まあ、頭はメチャクチャ良いよな」


 先日の実力テスト、高等部の授業も兼任している数学教師が、高等部のテスト問題用紙を誤って配ってしまうという事件があった。

 それに気が付かないクラスの生徒たちは、習ってもいない問題に当然苦闘し、ほとんど点数が取れなかった。

 その中で、交野涼だけがさっさと答案を提出し、満点を取ったのだ。

 

「カオも、最初の内は女ども、かわいーとか言って、他のクラスの奴がわざわざ見に来ていたくらいだもん。でも今は、ヒッキーぽくて気味が悪いとか言われてっけど」


 次の休み時間も、涼は席に着いたまま、黙って本を取り出した。


「――交野」


 太一は、声をかけた。


「サッカー行かね?」


 涼が顔を上げる。背中で、クラスメイト達のどよめきが聞こえた。

 まともに目が合った時、太一は躊躇した。

 ――うわ、もしかして交野って、かなりイケメンじゃね? つーか、美人だぞ、コイツ。


「……何?」


 涼の眉が、不快そうに動く。太一は我に返った。

 あ、いえそのと声が裏返ったが、涼の視線の先は、太一の背後だった。

 きゃーカシマセンパイたちだとか、女子生徒の黄色い声が響く。

 同時に、太一の記憶にある声が聞こえた。


「やっほう、リョウ! 誘いに来たよ!」


 クラスの教室が、2つに割れる。

 生徒たちの間を、堂々と歩いてくるのは、あの高等部の3人だった。

 涼が立ち上がり、太一の肩をそっと押す。

 太一は動揺した。まるで、逃げろと言われた気がした。


「何の用?」


 感情の無い声。

 あ、交野の声、久しぶりに聞いたわと、クラスの誰かが呟いた。

 へらへらと久津が笑った。


「ウン、授業が退屈だから、3人で抜け出してどこかへ遊びに行こうって話になったら、オマエの話題になってさ。な、今から付き合え」


 3人の花形男子に、女子生徒たちがミーハーな声を上げている。もうすぐ授業が始まるから、先輩方は出て行って下さいと言える空気ではない。

 涼はといえば、黙ったままだ。


「あ、私たち、交野の代りに、先輩方についていきマース!」


 クラスで一番華やかな女子グループ、リーダーの前原ゆきが手を挙げ、一段と浮かれた嬌声が沸いた、その時だった。


「うるせえ、メス豚」


 教室が、一気に沈静化した。

 手を挙げたまま固まるゆき達へ向け、鹿島が濃い軽蔑を突き刺す。


「俺たちはな、リョウクンをお誘いに来たんだ。豚どもは、あっち行ってぶうぶう鳴いとけ」


 空気が変わった。

 誰も声を出さない、その時だった。

 涼が歩き出す。


「おう、いこーぜいこーぜ、下民に構うことなかれ!」

「イイ子だねえ、リョウちゃん」


 沢尾と久津の腕が、涼の肩に回されてその体を捕獲し、教室を出ていく、

 太一は、それをなすすべもなく見送った。



 成英学園の小学部と大学の敷地は、近隣とはいえ離れていたが、中等部と高等部は同じ敷地の中に校舎がある。

 涼は、高等部の校舎の中に連れてこられた。

 場所は特別校舎棟の端、移転のために、もう使わなくなった理科実験室だった。

 体育用のマットレス、漫画やテーブル、3人がサボるための部屋らしかった。


「ま、そこ座れよ」


 どこから持ち込んだのか、古ぼけた革張りのソファに座り、鹿島が命令した。

 視線は、パイプ椅子に座る涼に集中した。


「な、お前、なんでこの学園に来た?」


 涼へ向けられた顔は、妙に刺々しい好奇心の笑いだった。


「1日だけど、色々とお前のこと、調べさせてもらったんだよね。すごーく興味あったから」


 座った涼の周囲を、久津が看守のように回る。


「お前の親父って、中小企業の下っ端社員らしいじゃない? よくそんな貧民層が、家柄やステイタスも求められる、この学園に入学するの許されたよなって思ったらさあ、スゴイ話聞いてさあ……面接で、理事長が土下座したって、ほんと?」


 なんだよそれ? と沢尾が素っ頓狂な声を上げた。


「理事長が? が、じゃなくてに、だろ。こいつの親父が、子供をどうか入学させてくださいって、理事長に土下座したの間違いじゃないの?」


「いや、それが本当なんだって。理事長、こいつの親2人を見た瞬間真っ青になって……」


 ああ、と涼は思い出した。

 中等部の入学試験の最終は、両親そろって理事長との面接だった。

 成英学園の理事長は、その役職に相応しく「鷹揚・貫禄・自信」が背広を着た男だった。

 しかし、その風格を振りまきながら、涼たちの待つ面接室に入ってきた理事長は、義両親を見た瞬間に硬直、そして「ひぃいい」と喉の奥で音を発して、いきなり土下座したのだ。


「合格、いえ、お坊ちゃまをどうぞお入れくださいまし!」


 その後、合格通知を前にして、涼の義両親2人は悩んでいた。


「どっちを見て怯えたのかしら? 私はあの人から、以前に仕事請け負った記憶はないのよね。お父さんの依頼人?」

「俺のターゲットは、組織の裏切り者が大半だった。母さんが忘れているだけじゃないか?」

「そうなのかなあ……確かに、依頼人の顔なんかいちいち覚えてないし、復讐の依頼も何度かあったし……」


 ――思考が、鹿島の声で破られた。


「なあ、もしかして理事長の弱み握って、ウチの学園に乗り込んできたのか? きったねえな、お前の親。それほどして上流階級の仲間に入りたかったか?」


 ゲラゲラ笑う鹿島。久津がそれに続く。


「でもさ、お前って、女みたいな顔してるな」

「女っていうか、娼婦みたいな?」


 沢尾の一言に、2人が腹を抱えて笑い出す。

 そのつまらない、退屈な風景を、涼は見ていた。

 目の前の上級生に、既視感があった。

 自分は選ばれ、力を持っていると思い込んでいる人種。

 人の優位に立つということは、他人の心や体を貶め、利用し、玩具に出来る権利を持っているのだと、そう考えている。


 自分を売った母親を、思い出した。

 外との区別もつかないほど、不潔とゴミで固められたアパートの部屋。

 水道も止まっていた。どこにも食べるものがなかった。

 外に出るなと命令されていた。

 どこまでも続く、飢えと渇き。

 そして無力感を。


「娼婦の顔が分かるのか。良い育ちだな」


 笑い声が消えた。

 沢尾が白っぽい顔で、涼を見つめる。

 立ち上がる涼を、鹿島が止めた。


「おいおいおい、待てよ、怒っちゃった?」

「ジョークだよ、ジョーク。俺、お前のこと気に入ってんだよ。カオ、すごくイケてるじゃん。なんなら親父に頼んで、芸能事務所に口きいてやるよ? 有名になりたくない?」


 道端に落ちている石ころをやる、と言われた気分だった。


「なあ、携帯のメアド教えろよ。遊びに誘ってやるよ」

「携帯は持っていない」


 これは本当だった。今のところ、涼の生活に必要はない。

 はあ?と3人が絶句し、そして空気が険悪化した。


「まじで?」

「おい、俺たちが声をかけてやった、その意味とか有難さがわからねえのか? 仲良くしてやろうと思ってやったんだぜ!」


 涼は、言葉を3人へ投げ捨てた。


「迷惑」


 はぁ? と3人分の声が裏返った。


「お前らは、要らない」


 涼は廊下に出た。

 数メートル離れた時、内側からドアに蹴りを入れたらしい、破裂音が廊下に轟いた。

 それは、いじめゲームの開始の音だった。



「まー、体育の授業の間に制服盗まれて、ごみ捨て場に? それで制服が生ゴミだらけなのね」


 義母の桃子が、泥やソース、ジュースに汁、あらゆる液が染みこんだ制服を、ゴミ袋に入れて口を縛った。


「犯人は?」

「実行犯は、クラスの奴じゃない。でも、多分現場を見ても、見ぬふりしてる」

「で、教室のあんたの机は見つかったの?」

「下の花壇に投げ捨てられていた。これはクラスの誰かの仕業」

「教科書も? 全教科、全部のページを真っ黒に塗りつぶされちゃ、読めないでしょ」

「内容は全部暗記している。問題ない」

「……まあ、制服の着替えは、20着あるけどね」


 ため息をつきながら、桃子が温めた牛乳を溶かしてココアを淹れた。


「陰険をドブに漬け込んで、ヘドロの中で腐らせたような奴らね」


 うん、と生返事をして、涼は学校から帰ってきたジャージ姿のまま、ココアを受け取った。


「嫌がらせの実行犯は、中等部から高等部まで、複数であちこちに潜んでいるんだろうな。命令している首謀者は、高等部の2年、鹿島、沢尾、久津の3人だ」


 自分たちの手を直接下さないことで、いじめや傷害の証拠を残さない。

 今までそうやって、追及の手をかわし、ごまかしてきたのだ。


「相手が分かっているなら、有無を言わさず殴りなさいよ。せっかくあんたに、この私自らが喧嘩の稽古をつけたのにさ」


 涼は、ココアに目を落とす。

 今では、こうやって温かいココアが前にある。

 だが、少し前まで、自分は人間の子供ではなく、石や砂のようなものでもなく、汚物を捨てるための器だった。

 隠れて石を投げつけられても、持ち物を隠され、壊されても、怒りや悲しみ、そういった感情が起きない。

 受容、諦観、達観ではない。もっと暗いものだ。


 産みの母親を思い出す。

 たまに家に帰り、菓子パンやスナック菓子を投げるように置いて。

 そしてまた出て行った。

 涼は、独りでずっと家にいた。

 母親に可愛がられることも、話しかけられることもない。

 母親は涼の給餌器、もしくは餌の運搬係だった。

 いつの頃か、母親は帰ってこなくなった。


 部屋の中が明るくなり、暗くなるサイクルの中で、干からびた虫の死骸と破れた雑誌、空き缶やプラごみの横で、腐臭と蝿と共に涼は転がっていた。

 もう、母親を待っているのか、違う時を待っているのか、解らなくなった。

 考えても、答えがあるはずもないし、食べ物が出てくるはずもない。

 喉の渇きも、空腹も感じなくなったころ、男が家に入ってきた。

 ――お前のママは、生まれ変わって、他の男と違う生活をしたいんだと。おじさんは、そのためのお金をママにあげる代わりに、お前をもらったんだよ。


 アパートから連れ出された。

 女の子の格好をさせられ、赤い首輪をつけられた。

 ダイヤとサファイアを入れた、エルメスの特注品だと、男は得意げだった。

 ある日、男が言った。

 ――なあ、せっかく生まれ変わったお前のママは、男と一緒に殺されちまったよ。

 ――お前を売った金をすぐ使っちまって、次の金欲しさにヘタ売って、見せしめの公開処刑だぜ。最後くらい、お前に一目会いたいくらい言うかと思えば、腐った雑巾みたいなカラダをなげだして、あんたとねるから、たすけてえだとさ。


 怒りとか悲しみという感情は、無駄だから消えたのか。

 それとも、残せば狂気の元になるから、捨てたのか。


「あー、帰ってきた」


 桃子が顔を上げた。しばらくして、玄関のチャイムが鳴った。

 ただいま、と義父の次郎がダイニングキッチンに顔を出した。


「何、学校のジャージを着ているんだ?」

「涼、最近はイジメに遭っているじゃない? 制服を捨てられて、ジャージで帰ってきたの」

「いじめ問題は、今や学校生活の普通だが、感心はしない」


 うーむと腕を組む次郎。

 今の涼は、世間的には交野夫妻の養子として、この2人の「普通の生活」のためのツールとしてここにいる。

 地球人に化けている宇宙人が、ハウツー本を読みながら生活しているようだと、涼は特に、義父の次郎に思う。


「せっかく喧嘩のやり方を教えたのに、いじめられるだなんて」


 ぶつぶつと不満を流しつつ、夕食の支度を始める桃子。

 次郎が背広を脱ぎながら口を曲げた。


「涼に教えているのは、ちゃんとした普通の喧嘩技だろうな。素手でも暗殺技なんて教えてやしないな?」

「私、元は暗器使いだもん。それはお父さんに任せる」

「教える気はない」


 きっぱりと次郎は言い切った。


                

 次郎は考える。

「いじめ問題」は重要だが、それは表面上のものだ。

 涼そのものが持つ問題は、もっと根深く、暗い。

 それでも、いじめ事態は深刻だ。

 そういえば、学園の理事長が桃子か俺なのか、どちらかに対して恐怖の過剰反応を示しているから、ゆすぶってみるかと思った次郎だが、担任を飛び越え、校長をまたいで理事長へ話を持っていくのは、普通の親の抗議行動として正しいのかと、少々悩んでしまう。


 次郎にとっての普通指南の師、息子を育て上げた「普通の父」総務の岡に相談してみようかと思ったが、今は有給休暇中で会社にいない。

 仕方がないので、会社帰りに書店へ寄り道し「親子で読もう・いじめ対策マニュアル」など、数冊の本を買い込んだ。

 袋を抱えて外に出ると、声をかけられた。


「おい、交野じゃないか」

「大川か」


 昔の同業仲間だった。

 次郎と同じように、背広にネクタイの格好をしている。


「久しぶりだな。お前、仕事を辞めたって本当か?」

「ああ、見ての通り、今は普通のサラリーマンをしている」

「見ての通りと言われても、お前、会社員のコスプレはいつもしていたじゃないか。今更見たって、新鮮味はないぜ」


 一杯どうだと酒に誘われた。組んで仕事をしたことはないが、敵対したこともなく、安全な相手である。

 桃子に連絡を入れてから、大川に付き合うことにする。

 軽い調子で誘われたが、入った店は、周囲の音が全く聞こえてこない個室の料亭だった、

 世間話、昔話、業界の噂と話題が巡る中、次郎は今の生活の断片部分を話す。


「ああ、あの子か」


 大川は、涼のことを知っていた。


「あの子の母親のことは、少し知っているぜ。確か、男とつるんで、タニマチ会のパケを横流ししたのがバレて、男と一緒に組長のペット、鰐のナイルくんの餌にされたんだっけか」


 大川は和牛の炭火焼きを、ブルゴーニュのワインで流し込んだ。


「ちょっとキレイな女だったが、男狂いでヤク中。産んだ子だって、タネなんかどれでもいい。子供はシングルマザーの名目で、児童手当に生活保護にって、行政にたかって金をむしるための道具だ。当然学校も躾も必要ない。どんな状態だって、生かせてさえいれば金をもらえるんだから」

「……」

「男と新生活を始めるために、息子を売って資金を作ったんだよ。しかも競りにかけてだぜ。競り落としたのが、臓器売りじゃなくて良かったと言えば良いのか」


 薄い白磁の盃に映る、淡い金色の銘酒を次郎は見つめる。

 酒の向こうにある風景は、あの日、死体の中に埋もれて、泣き叫ぶための声すら失った、実年齢よりも小さな11の子供の姿だった。

 女の子と思っていたら、女の子の格好をさせられていた男の子だった。

 赤い革の首輪をつけていたが、下着をつけていなかった。

 買主は誰なのかは知らない。

 しかし、どんな目的で買われたのかは、想像がつく。


 最初、涼は桃子にも、次郎にも全く口を利かなかった。

 何度も、夜中に悲鳴を上げて飛び起きた。

 大勢の人間を前にするとパニックを引き起こし、小学校にはほとんど行けなかった。

 当時は学校に行けず、授業や教育を受けられなかった涼に、文字を教えたのは桃子だ。

 ――あの子、かなり知能指数高いわよ。文字だけ覚えたら、あとは勝手に本を読んで、色んな事どんどん吸収しているもん。


 しかし、やりすぎたと次郎は多少反省している。

 桃子が面白がって、数学のガロア理論だの量子力学だの、どんどん本を与えていたが、子供の情操のためには「日本昔話」「世界の子供童話」を、ちゃんと涼に読ませるべきだったのではないか。

「だって、戦隊ヒーローよりも、微分積分に興味を示していたんだもん」と、今でも桃子から反論されているが。


「――最近、子供を始末する依頼が来るようになった」


 大川の言葉に、次郎は顔を上げた。


「依頼してくるのは、イジメの被害者の親だ。少年法に守られた、加害者の子供を始末してほしいとね」

「よく引き受けられるものだな」


 ターゲットが神父や牧師、堅気の男女、子供の依頼は、皆避ける。

 大川はしょぼくれた笑いを浮かべた。


「いじめが原因で自殺した子の親にしてみれば、子供を守れなかった後悔と、相手への復讐心で、すでに気が狂っている。とても断れんし、依頼者にやめろとも言えん。それに、首謀者のガキはイジメ殺した子の葬式帰りに、子分を引き連れてカラオケ行くような天使だぜ。子供だから、じゃ済まされない。ガキの内から、すでにクズなんだよ。メーカーは、不良品は回収して廃棄するだろ。この場合、俺がそれをやっている、そういうことだ」

「そうは言っても、簡単に子供を殺せるのか?」


 業界で名を知られていた次郎でも、子供は気分的に無理だ。


「俺は殺さない。下請けに渡す」

「下請け?」

「スナッフ映画だよ。出演してもらう」


 娯楽用の、殺人実録映画だった。


「ひどいな」

「被害者の親は、加害者に究極の苦しみを与え、最悪な死を与えてほしいと、皆がそう言う。 我が子を殺されたんだ。鬼になるも当然だろう。でも俺にはいくら仕事でも、子供を殺すのは寝覚めが悪い。誘拐だけして、下請けに渡す。作品に子供を出演させれば、男でも女でも高額で売れるから、スナッフ映画制作会社は大喜び、依頼人も満足、死体も当然、制作会社が始末してくれるから俺も楽ちん」

「……」

「出来上がった加害者出演のスナッフ作品を手に入れてくれとか、撮影に立ち会いたいと言う依頼人もいる。出来る事なら『いじめ撲滅集会』でこの話を講演してやりたいよ」


 ――家に帰ると、冷ややかな目の桃子が待ち構えていた。

 次郎は、黙ってクッキーの缶箱を差し出した。

 終電帰りではない。まだ寝るまで間がある時間に帰ってきたものの、予告なしの当日に飲みに行ったのだ。夕食の手間を無駄にした時は、妻に菓子の一つは買って帰るべしという、岡の教えに従ってのことだったが。


「涼が、酷い目に遭わされた」

「何?」


 謝罪のクッキーは空振りだった。

 桃子の声は低い。


「顔を隠した大勢の生徒に囲まれて、動けなくなったところを縛られて、校舎の使わないロッカーの中で、ずっと押し込められていたの。野川君って子が、あの子を探して助け出して、連れて帰ってきてくれたのよ。助け出されてからも、泣くわ喚くわパニックで大変だったらしいわ。今は疲れで、部屋に閉じこもっているけど……いじめの首謀者の3人のことを、野川君から聞いたのよ」


 妻の目は「交野桃子」ではなく「デスサイズ」と呼ばれていた頃の目になった。


「今までの被害者は、涼だけじゃないみたい。3人とも親が実力者で、事件を揉み消して表面化させなかったそうだけど」


 次郎は購入した「いじめ対策マニュアル本」を取り出し、ページをめくる。


「待て母さん。首謀者を殺す前に、まず親子の対話が先だ」

「……たいわぁ?」

「そうだ、まず、子供に何をされたのか、具体的な内容を聞き取り、傷害など体に痕があれば証拠として写真を撮り、学校にいじめの調査を要求する。そのうえで、親は何があっても自分の味方であるという信頼感をだな……」

「お料理本見ながら作る、新妻の料理じゃないわよ」

「怒るな母さん。とりあえず、奴らを殺す前に対話だ」


 次郎は、買ってきた本を閉じ、テーブルの上に置いた。


 ――部屋に、カギはかかっていなかった。

 電気はついていない。廊下から差し込む照明が、涼の部屋をぼんやり浮かばせた。

 壁は本棚で埋まっていた。

 まるで図書室の中に、机とベッドを置いたような部屋だった。

 ベッドの上に、頭から毛布をかぶった涼がいる。

 室内は、静かな泥沼のようだ。

 次郎は、勉強机の椅子に腰かけ、ベッドへ声をかけた。


「涼、父さんだ」


 返事はない。だが、まだ起きている確信があった。


「母さんから、話は聞いた」


 次郎は続ける。


「普通の親として、どう問題を解決すれば良いのかと、いじめ対策マニュアルを読んでみた。しかし、どうやら違うようだ。お前は本のケースに出てくる子供のように、転校すればいじめが解決するタイプではない。問題の根底にあるのは、学校の問題ではなくてお前の過去だ。何しろ虐待というより、地獄の生き残りだ」


 大川の話を思い出す。

 細い首につけられた、赤い首輪が頭をよぎる。

 涼が「人間の少年」として生活を始めてからは、まだ三年しか経っていない。

 普通の生活を送るには、抜本的な問題があるのだ。


「ここにいる以上、お前は、普通の生活を送らなくてはならん。あの時、あの場所で、お前をここに連れてきたのは俺たちだ。子供がいる家庭のほうが、世間に溶け込みやすい。俺たちの、これから生活に必要だからだ。お前も、生きるために俺たちについてくることを選んだ。それなら自分の役目を果たせ」


 のろのろと、毛布の山が動いてずり落ちた。疲れ切った顔が闇に浮かんだ。


「……学校へ、行けってこと?」

「その通りだ」

「……」


 涼が天を仰ぐ。

 空っぽの表情だった。


「お前は地獄で生きるために、怒り、憎しみや悲しみ、そういった感情を捨てた。そして、未だに地獄の記憶の奴隷だ。それを克服しない限り、いじめ克服も普通の生活も無理だ。あの母さんから喧嘩を教わっておきながら、大勢に囲まれてたくらいで抵抗できなかったのがその証拠だ」


 涼の喧嘩の師は、次郎が手こずる唯一の相手なのだ。


「いいか、お前を苦しめた奴らは、もうこの世にはいない。今では、お前の記憶にしか存在できない、無力な死人だ。お前が勝手に怯えているだけだ」


 かすかに歪む涼の表情へ、次郎は言った。


「恐怖を、飼い馴らせ」



 買われた相手の元で、2年間を過ごした。

 その間、どうやって過ごしていたのか、何をさせられていたのか、涼の記憶は全くない。

 精神を守るための、一種の防衛本能だろう。

『お前に、滅多に見られないものを見せてやろうね』

 大人になっても忘れられないだろうよ、と男が笑った。

 買主の顔は覚えていないのに、声だけは鮮明に思い出せる。

 義父の次郎の声とは、全く違う。あの男の声を思い出すと、いつも生ぬるい優しさ、おぞましいイメージが、粘液のように滴り落ちる。


 ――男に連れていかれたのは、どこかの地下だった。

 真ん中にリングがあり、周囲は人で埋め尽くされていた。

 人々の吐く息と、地下の濁った空気が混じり合い、熱気を放っていた。

 リングの端と端に男と女が出てきたとき、笑いと歓声、熱狂と叫びが急上昇した。

 鐘の音が鳴った。

 観客が叫ぶ、怒鳴る、笑う。


 悲鳴がつんざく。

 咆哮、そして乱射音、潰れる音、壊す音。

 目の前の男の首が、文字通りに飛んだ。隣の女の顔に大穴が開いた。血が降ってきて、全身に浴びた。背後から突き飛ばされ、椅子ごと転んだ。

 逃げ惑う観客の足に、蹴られて転がる生首が見えた。

 誰を狙ってか、銃の乱射が次々と観客を殺していく。


 濃厚で生臭い血と体液の匂いが、涼の嗅覚を殴りつけた。

 眼前の大量虐殺に、魂をわしづかみにされ、引き裂かれた。

 はらわたのように引きずり出された感情は、捨てたはずの「恐怖」だった。


 ――だから、今も大勢の人間に囲まれるのが、恐ろしい。


 昼休みに、同じクラスの男子に、体育館裏へ連れていかれた。

 彼が、涼を置いて逃げるように教室へ帰ってしまうと、建物の陰から次々と、知らない男子生徒が飛び出してきた。

 高等部と中等部で色が区別されたブレザーを脱いではいたが、体格や雰囲気で高等部の生徒だと分かった。だが顔は分からなかった。

 皆、キャラクターやキツネの面で顔を隠していたからだ。


 動かないプラスチックの笑顔や動物、全部で10人以上に囲まれた瞬間、足が動かなくなった。

 心臓は凍り付き、冷たくなった手足が震えた。

 呼吸が苦しくなって、地べたに手足をついたとき、大きな笑い声がぶつけられた。

 目隠しをされ、どこかへ引きずって行かれた。

 手足を縛られ、どこかに押し込められ、カギをかけられた。

 生きたままで、ロッカーに埋葬された涼を助けてくれたのは、野川太一だった。


 次の朝、 登校して教室に入ると、級友の襟元を掴み上げている太一の姿が、真っ先に涼の目に飛び込んだ。


「どうしてだよ!」


 太一は口から炎を拭かんばかりに怒鳴る。


「お前、交野に恨みでもあるのか、それともあいつらから、何かもらったのか!」

「なにも、もらってやしないよ!」


 太一が怒りの形相で詰め寄っているのは、昨日、涼を体育館裏へ連れて行った生徒だった。


「だって逆らえないじゃないか! 俺だってあいつらに取り囲まれたんだ、断ったら俺だって殴られてた!」


 教室は、ざわついていた。

 涼の姿に目を背け、無関心を装う生徒、遠巻きに涼と太一を見つめるもの。

 こそこそと耳打ちをし合っているもの。

 涼は、黙って席に着いた。太一が怒鳴った。


「交野、お前も何か言え! お前、わかってんのか、何されてもすました顔しやがって!」


 級友を放した太一の手が、次は涼を掴み上げた。


「なんでやり返さない! お前、ほんとはすげー強いじゃねーか!」

「……ほっといてくれ」


 嫌なんだよ、と声に出さずに涼は呟く。

 俺を見るな、かまうな。放っておいてくれ。

 何もしたくない、人に見られたくない。人に見られているうちに、暗くて汚い過去が漏れ出しそうだから。

 埋没したい。それがダメなら、イジメられて迫害され、人が遠ざかり、誰も近寄ってこないほうが、はるかに心地良い。


 自分を射抜くように見つめる、太一の目が眩しく、怖い。

 だから、涼はその眩しさを切り捨てる。


「放っておいてくれ。野川には関係ない」


 昨日、閉じ込められた涼を助けてくれたのは、太一だ。

 午後の授業を欠席している涼を不審に思い、「交野は早退しました」という生徒のウソを見抜いて、教室を飛び出して、学校中を探し回ってくれたのだ。

 そんな男だからこそ、怖い。

 地獄にいた頃を見透かされて、真っ暗な闇を知られそうで。


「関係なくない!」


 太一の形をした爆弾が破裂した。


「俺を助けたせいで、あのクソどもは交野に目をつけたんだ、そうだろ!」

「……はなせ」

「ちがうなんて言わせねーよ! お前、ヤンキーから俺を助けたんだからな! お前が何と言おうが、俺は……」

「はぁーい、お早うございまーす。みっなさーん」


 小馬鹿にした声が、教室に飛び込んだ。


「なーに? 喧嘩? リョウちゃん、仲良くしてくれる相手は大事だよ? ゴキブリと仲良くしてくれる相手は、きちょうだよお?」

「すげえなあ、リョウクン。昨日はあんなに泣きわめいてたのに、朝はしれっとガッコに来ているんだから、まさにゴキ並みの生命力だねえ」


 顔色を変えた太一が、鹿島、沢尾、久津の3人へ、足を踏み出そうとするのを涼は制した。

 涼の目に、鹿島が感心と軽蔑を混ぜて言った。


「ほんっと、こいつ図太いな」

「さっさと帰れ、このクズ!」


 太一だった。鹿島たちの顔色が、わずかに変わった。

 教室に静かな動揺が起きる。


「こいつ、借りるわ。別にクラスの不用品だし、イイでしょ諸君」

「何なら君たちの代りに処分しておいてあげるから」

「てめ……っ」


 他の生徒が、太一を羽交い絞めにした。

 涼は、鹿島たち3人と、教室を出た。


 連れてこられたのは、高等部の校舎の屋上だった。

 グラウンドが真下に見える。

 体育の授業のかけ声が聞こえ、生徒たちのざわめきがある。

 涼の首を締め上げ、その背中をフェンスに押し付け、網を軋ませながら、鹿島が言った。


「いーかげん、土下座くらいしろって。俺たちコケにして、申し訳ありませんとか言えないの? 頭悪い?」

「いくら痛めつけても、へーきで学校に来るコイツ、ゾンビ並みに怖いわ。本当は死んでんじゃない?」

「ここから投げ落としたら?」


 楽しそうに、忌々しそうに、嗜虐的に涼で遊んでいる3人に、涼は不思議になる。

 やり返されるかもしれない、という恐怖や、後ろめたさはないのだろうか。

 それぞれの父親は社会の実力者で、政界にもパイプを持っているという噂だが、それが必ずしも身の安全に直結するとは限らないと、知らないのだろうか。

 さっきまで、安全圏に腰を下ろして笑っていた人々が、次々と殺されていくその様を、一気に逆転する生と死の世界を見た涼には、その気楽さが不審でならない。


「イヤな目つきだよ」


 鹿島が真顔になった。


「あのさあ、何で俺たちがお前にここまで構ってやっているか、分かる?」


 涼は黙って見返した。

 どうでも良い問いに答える気はないが、鹿島は滔々と語り始めた。


「ここはな、俗にいう『ちゃんとしたお家のちゃんとした子供』だけを集めて、雑菌が入らないはずの環境なんだよ。つまりはさ、世の中の汚いものとか、ビンボー人は入ってくるはずのない場所のはずだ」

「それがなあ、たまに汚ねえ貧民が、この敷地に紛れ込んでくるんだよ」


 ふう、と沢尾がわざとらしいため息を吐いた。


「身の程知らず、それだけなら勘弁してやるよ。身の丈に合わない世界で、小さくなって過ごしてくれたらそれで良いんだ。ところがそうじゃない、奴らは『ここに来ればオカネモチがいる。そいつらと知り合って、あわよくばオトモダチなって、自分を引き立ててもらおう』なんて、レベルアップや将来甘い汁目当て。ダニや蚊みたいなこと考えて、俺たちに薄ら笑いを浮かべて近づいてきやがる。そんな奴ら見ていると、虫が服の中に入り込んだようにウズウズして、潰してやりたくなるんだよ。お前だってダニや蚊は潰すだろ? おんなじだよ」


「なあ、お前の親もそうなんだろ? 我が子に上流階級のオトモダチを作らせたいって、どうせそんな奴だろ。お前、顔は良いもんな。ゴールは逆玉?」


 いや、と涼は口を動かした。


「寄付金さえ積めば、何しても許される学校を両親は探していた」

「はああぁ?」

「体質的に、体育の授業も朝礼も出られないから……でもここなら、寄付金さえ積めば、そんな勝手なことも許してもらえる……お前らもだろ?」


 静かに、涼は3人をえぐった。


「去年、高等部の生徒が自殺した事件を、お前らの親が学校に圧力かけて、寄付金でもみ消したらしいな」


 3人が沈黙する。

 鹿島が、わざとらしいほど明るい声を上げた。


「なあ、ここから、こいつを投げ落とそうぜ」

「誰も見てないしね。突発的な自殺、学校の嫌われ者って動機もあるもんね」

「目撃者もいないし」

「やめておけ」


 涼の命乞いではない口調に、3人が鼻白む。

「東方向の6階建てのビル屋上から、誰かが望遠レンズでここを覗いている。それくらい、気が付けよ」


 涼の言う方向へ顔を向けた後、鹿島は涼を突き飛ばして、屋上から屋内へ入った。

 屋上に、一人になった。涼は制服の襟を直した。

 その時だった。


「交野!」


 入れ違いに太一が入ってきた。涼が無事なのを知ると、一瞬安堵の顔になったが、すぐに激昂する。


「あいつらっ」

「もういい、放っておいてくれ」

「おい、交野」

「触るな」

 振り払われた手を、そのまま空に浮かべたままの太一から、涼は顔を背けた。

「俺にかまうな」


 去年の入学式の日、PTA会長の祝辞の中、大勢の生徒たちに囲まれた恐怖感に限界がきて、気分が悪くなった。

 涼の異常に気が付いて、大声で先生を呼んでくれたのは、隣の列にいた太一だった。

 同士討ちに追い込んだヤンキー、取り残された一人を見ているうちに、破壊的な衝動に駆られ、顔を踏みつぶそうとした。

 それを止めてくれたのは、太一だ。


 そして、ロッカー。

 まさに、棺桶の中だった。真っ暗で、呼吸が苦しい。孤独感と恐怖、絶望に支配され、気が狂いかけた時に、自分を救ったのは太一が自分を呼ぶ声だ。

 太一の前だと、自分が揺らぐ。

 このまま、ずっと太一が前にいたら、今の自分を保てない。


 もらったことが無いものを差し出されても、どうやって手を出せばいいのか知らない。 何を返せばいいのか、どうふるまえばいいのか分からない。

 一言口にするたびに、太一を傷つけているのは分かっている。

 そして、同時に自分を切り刻んでいる。

 それでも太一が怖い。

 空にあった、太一の手が落ちた。


「わかったよ」

「……」

「でもな、お前がどう言おうと、俺はあいつらが許せない。それだけは譲らないからな」


 太一が顔を背けた。

 太一が教室へ戻っていく。

 一緒に帰ることもできず、見送ることが出来ず、涼は屋上に立ち尽くしていた。


 授業を受ける気になれず、涼はそのまま早退した。

 自宅マンションは、誰もいない。義父は仕事、義母もスーパーの仕事に出ている。義母が戻るのも、早くて午後だ。

 リビングを抜けて部屋に入る。ブレザーを放り投げて、そのままベッドの上に転がった。

 明日、学校へ行くのに気が重い。

 いじめより、太一に会うのが怖い。

 だが「普通の生活を送る、交野家の息子」の役目を果たすのが、この場所にいる条件だった。


 恐怖を飼い馴らせ、と義父は言った。

 だが、実体のない、そのくせ恐怖だけが鮮明な化け物を、どうやって操れというのだ。

 ――ドアが開く音、たっだいまあ、と声が聞こえた。


「あれー、涼、帰ってるの?」


 足音が聞こえた。

 ドアが開いた。

 反転し、枕の中に顔をうずめると、細い指が髪をくしゃくしゃとかき回してきた。


「あのね、学校のほうは、必要な出席日数さえ足りればよろしい。あんた、授業の内容は、どうせ地平線のはるか先まで終わらせたんでしょ」


 声は出さず、頷いた。


「だから後は、化け物を倒すための作戦に集中しなさい。お昼ご飯にするわよ」


 昼ご飯は、義母の桃子が作ったうどんだった。

 キツネに海老天、肉に卵が入ったカレーうどんをすすりながら、桃子が言った。


「一度、カレーうどんにタネを全部のせて食べてみたかったのよね」


 ふんふんふんと鼻歌を歌いながら、食後の片付けをしている桃子へ、涼は思う。

 義父の次郎に、義母の桃子は、恐怖というものはないのか。

 あの日の風景、観客たちの前に舞い降りた、悪魔と死神を思い出す……あるとは思えない。

 リビングで、本を読んでいたら桃子が覗き込んできた。


「高井有一か。あんたにしては、軽いの読んでいるわね」

「うん」


 淡く無機質な目で、風景を見ている文体が、読んでいて落ち着く。

 桃子が手芸用具を持ってきて、パッチワークを始めた。最近始めた趣味だ。

 小さな布切れをつなぎ合わせると、色と色、柄と柄が合わさり、不思議な柄と色彩が出来上がっていく。

 たまに桃子の手元を眺め、そして本に目を戻しながら、涼は時を過ごした。

 ――インターホンが鳴る。


「俺が出る」


 マンションのエントランス前のカメラに写っているのは、成英の女子生徒だった。

 怯えているように見えるが、知らない娘だった。

 共有スペースのエントランスに、彼女を入れる気にもなれず、涼は外に出た。


「何?」

「これ、あなたに渡せって」


 スマートホンとメモだった。


『動画を再生しろ』


 涼は、両親から携帯は渡されている。使い方も知っている。ただ、持ち歩かないだけだ。

 動画を再生した。

 画面に映ったのは、縛られた太一だった。


『てめー! 交野、おい、来なくていいからな!』


 叫んだとたん、フレーム外にいる誰かの拳が、太一を殴った。


『リョウクンって、テストのセーセキがメチャクチャイイんだっテ?』


 太一の撮影者らしい、ヘリウムを吸った甲高い声に、フレーム外がどっと沸く。

 ウルサイヨーと甲高い声は言い、続けた。


『これはゆーじょーのテストだよ、リョウクンはいい点とれるかな?』

『交野は、俺に構ってほしくないって言ったよな?』

『今夜22時、サンズ川沿い、県道沿いのG公園にきてねーっ でなきゃ、ともだちカエシテあげないっ』

『くるなよカタ……!』


 誰かの足が、太一の腹にめり込んだ。


『おべんきょーだけじゃ、ジンセイわたっていけないゾ! ともだちテスト、がんばろーね!』


 スマホを持つ手が、震えた。

 動画が終わってから、涼はスマホの持ち主を確かめた。

 案の定、太一のものだ。

 目の前で、女子生徒は泣きそうな顔になっている。多分、あの3人の誰かに脅されて、使いとしてスマホを持ってきたのだ。

 声が割り込んだ。


「お嬢ちゃん、ごめんね。おつかれさま、帰って良いわよ」

「!」


 顔を上げると、桃子がいた。


「お駄賃よ」


 カラフルな飴玉を握らせる桃子を、女子生徒はポカンとした顔で見た。

 女子生徒を帰らせた後、桃子は涼の持つスマートホンに目をやった。

 そして、言った。


「ガキの範疇を、超えた奴らね」


――指定された公園は、一級河川の堤防沿いにある。

 川を横切る県道の大きな橋もあるが、コンビニは無い。向こうにマンションはあるが、夜になると人通りはほとんどない。

 外套に照らされる、滑り台とブランコは、異世界のオブジェのようだった。

 何の工事をしているのか、黄色いバリケードの一角があり、2階建てのプレハブが建っている。


 滑り台やブランコの周りに、十三人の小鬼たちが集っていた。

 手にはバットや木刀が握りしめられていた。

 顔を隠したプラスチックの面。体育館で襲ってきたのと同じ奴らだ。

 公園の前で、涼の足はすくんだ。

 太一の姿はない。

 どこにいる? 唾を飲む。

 どこかでまだ監禁されているのか?

 だとすれば、あいつらから聞き出すしかない。


 体育館前で取り囲まれた、あの恐怖が蘇った。悪寒がじわり、と背中をあぶる。

 心臓が小さな爆発を繰り返し始めた。

 それぞれ短い木刀を握る両の手に、汗がにじむ。

 氷の針が、毛穴の一つ一つに差し込まれる。

 涼に気が付いた数人が、頭の悪そうな歓声を上げた。


 脳裏に、太一の姿が浮かぶ。

 ――俺にかまうな、と確かに言った。お前が怖い。

 でもな、と涼は歯をかみしめた。

 ――お前がそんな目に遭わされるのは、また別問題だ。

 獰猛な感情が、涼を突き破った。


 破壊、戦闘、激情がうねる。

 それが怒りだった。

 恐怖が怒りの嵐で吹き飛ばされる。

 公園に飛び込んだ。

 目の前から、金属バットが襲い掛かってくる。背後に木刀を持った奴が回り込む。

 桃子の教えが浮かぶ。


『多数を相手取るときは、頭を使って効率的にね。敵が多ければ、同士討ちも起きやすい。敵の攻撃を敵に向けさせるの』


 涼の頭を横殴ろうとしたキツネ面の金属バットが、涼の頭をとらえ損ねて、木刀を持ったミッキーの頭を殴り飛ばした。

 ミッキーが倒れ、そのまま動かなくなった。

 金属バットを持って、キツネが固まる。

 涼は腰を落とし、木刀でキツネの脛を打ち払う。 


「ぎゃあああああー」


 砂の上を転がるキツネ面に、つまづいて転ぶポケモンの背中を踏み台にして、涼は次の相手に飛びかかった。


『1人を多数で、なんて奴らにはね、相手を嬲ること以外考えてないんだから。こっちも手加減する必要もなし! 今後の教訓かねて、ボロボロのずたずたに、その粗末な根性に、恐怖と後悔を太文字のゴシックで刻んでやりなさい』


 2本の木刀をそれぞれ操ることで、左右の攻撃と防御が同時に、瞬時に切り替えられる。

 そして攻撃範囲も格段に広がる。

 痛めつけるのではなく、攻撃力を奪え。

 両側から襲い掛かるクマとライダーを、涼の木刀は同時に迎え打つ。

 クマの腹に木刀がめり込み、ライダーの額が割られた。

 ウルトラマンが泣きながら、折れた足を抱えて転がっている。

 仮面ライダーの面がずれて、潰れた鼻と頭から血を流す素顔がむき出しになった。


 相手を5人まで減らしたところで、涼はプレハブへ向かって走った。

 プレハブについている外階段を駆け上がる。残りがやはり追ってきた。

 2階の事務所のドアのカギは、かかっている。


「ぶわーか、行き止まりだ! 袋のねずみぃっ」


 殺してやる、階段の下で夜の公園に声を響かせる5人を、涼は見下ろした。


「バカは、どっちだ」


 ――あの時、俺はまだ何もできなかったから、恐怖を洗い流すことが出来なかった。

 人の子供ですらない、無力な玩具だった。何をされても抵抗できず、力がなかったから、目の前の恐怖に怯えるしかなかった。

 今は、戦える。

 戦う理由もある。


「恐怖を飼い馴らせ、か」


 そして、従わせろ。野川を助けるために。

 木刀を構えなおした、その時だった。


「かたのおおおおっ」

「!」


 太一の声が突き刺さった。

 階段上から見える公園の入り口。大挙して押し寄せる群れ。

 同じクラスの生徒たちだ。その中に入っている太一の顔が、涼の網膜を焼いた。


「交野、野川は救出したぞ!」


 誰かが叫んだ。


「安心しろ、思い切りやれ!」


 残りの5人が明らかに動揺したが、やけくそのように階段の上に突っ込んでくる。


「うおおおおおっ」


 涼の頭を粉砕せんと、鉄棒を振り上げるゴジラの面。

 そのがら空きになった咽喉へ、涼は鋭い突きをいれた。

 ぐぼ、とひしゃげた声をだし、ゴジラ面が階段から落下する。その下の4人が、巻き添えをくって階段を転がり落ちていく。

 その体を次々と踏みつけ、涼は階段を駆け下りた。

 木刀を放り出す。


 目の前に太一がいる。

 抱きついた。


「うわわ」と太一の声を聞いた瞬間、涼は安堵で瓦解した。

 目の奥から、熱い津波がこみあげた。衝動が胸を押し上げ、心の壁を粉砕した。

 泣いていた。

 そして笑い、笑いながら泣く。

 おいカタノと、太一のうろたえた声が聞こえるが、涼を押しのけようとはしない。

 えー、これ、カタノがひとりで? マジかよとか、オニツヨイとか、聴覚の外から何人もの声がするが、どうだっていい。

 太一を抱きしめて、涼はひたすら泣いて、笑っていた。


「――涼に、ケガはないみたいよ」


 公園の向こう岸。堤防の公園を望遠鏡で覗き見しながら、桃子が言った。


「そうか。ならば良しだ」


 次郎は、停車した車にもたれて立っている。


「クラスの子たちに取り巻かれているっぽいけど、もう恐怖症は克服したみたいね……ところでさ、お父さんは、あそこのマンションのベランダから公園を覗いていた、面白い3人組に気が付いてた?」

「ああ、ベランダから顔を出して何やら騒いでいた、高校生くらいの男連中の3人だろ?」

「そうそ。最初はやんやと騒いでいて、だんだん大人しくなって、今は部屋に引っ込んじゃったけどね。さあ、どうやって黒幕どもに、この落とし前つけさせるかな」

「母さんが涼を覗いている間に、奴らはマンションから出て、車に乗せられた。その車はもう走っていった……ところで、母さんは大川って知っているか?」

「名前だけなら、知ってる」


 3人の少年を乗せた車は、大川が運転していた。


「3人への落とし前は、諦めろ。彼らは俺たちの手の届かない場所へ行ったようだ」

「えー、何よそれ!」


 地団駄踏んで怒る桃子。次郎は大川が去っていった方向を見やる。


「落とし前は、先着順だ。すでに俺たちの前にいたらしい」


 さて、あの三人は大川によって、どこに連れて行かれるのやら。


 太一を救出出来たのは、クラス全員が手分けして、校内を探し回った結果だった。

 皆、涼へのいじめに対するじくじくたる気分と、罪悪感に自己嫌悪感があった。

 そして、太一が上級生たちに連れて行かれた時、鹿島、久津、沢尾に対する怒りが連鎖爆発を起こし、クラスによる「野川太一・大捜査網」につながった。

 あの日以来、涼の目の前は変わった。

 暗い沼の中から明るい空間へ顔を出して、新鮮な空気の中で呼吸している気分だ。


 午前の授業の終わり、涼は太一や他の級友たちと連れ立って、特別教室から教室へ帰る途中だった。

 級友の青山裕彦が言った。


「な―、あの鹿島に沢尾、久津、3人そろって、こないだから行方不明だってよ」

「へえ、警察は?」

「家族が警察に届けたらしいけど、手掛かりなし。勉強部屋代りに買った、沢尾のマンションから3人とも消えたとか」

「ふーん、神隠しかな」


 全く無関心に太一が突き放した。花田昭雄が言った。


「ところでさ、高等部の生徒が10人ばかり、例の夜に骨折だのなんだのって、大怪我して入院しているらしいね。皆、怪我の理由を話さないらしいけど」

「……」


 思わず天を見上げた涼の顔に、3人が笑い出す。


「いーのいーの、交野、自首なんか考えるなよ!」

「たった1人に複数でかかって返り討ちなんて、そんな恥をかかせてやるなよ!」

「いや、かかせてやれ。俺はあの夜、奴ら全員の素顔を携帯で撮って保存してある」

「いいぞ野川! 晒してやれ、お前にはそれをする権利がある!」


 3人の喝采に、複雑な表情の涼。

 その涼を抱えこみ、3人はじゃれ合いながら教室に入る。


「おい、交野。昼食べたらサッカー行くぞ」


 うん、と太一へ頷いたとき、声が飛んできた。


「やーねえ、男同士でいちゃついてる」

「男同士で、それ楽しいの? やだあ」


 女子のグループだった。前原ゆきたちが、意地悪な笑顔で涼たちを見ている。

 こそこそ耳打ちをし合う女子たち、その先頭のゆきに向かい、涼は笑顔を向けた。


「前原」

「え?」

「その通り。前原たちといるよりは、ずっと楽しい」


 ……女子グループが硬直する。

 え? とゆきの顔が、赤くなって膨張した。

 え、交野くんに笑いかけられた? しかも名前を呼ばれた? と、他の女子の視線が、ゆきに突き刺さる。

 しばしの沈黙。

 そして火山が爆発した。


「うそ、やだずるい!」

「たちってなによ「たち」って! 交野くん、ちゃんと一人一人の名前呼んでよ!」


 ガタガタと椅子を引き、次々と立ち上がる女子たち。

 自分の引き起こした事態、その影響の意味が分からず、涼は立ち尽くす。


「交野、サッカー行くぞ!」

「え? 昼ご飯の後だろ?」

「今はサッカーが先だ。逃げろ、飯食ってる場合じゃない!」

「走れ!」


 よく分からないが、涼は太一たちに連れられて教室を飛び出す。

 後ろから、女子生徒たちの声が追いかけてくる。

 分からないが、妙に楽しい。笑い声が出た。

 気が付けば、涼は太一たちと笑いながら校庭へ向かって走っていた。



 休暇を終え、総務の岡は九州の温泉から帰ってきた。

 休暇の使いかたが「温泉旅行」で、その土産も「温泉饅頭」そのありきたりぶりに、次郎は、岡への尊敬を厚くする、

 そんな彼に、次郎は問うた。

 もう涼のいじめ問題は解決したが念のため。いじめの普通の対処法、岡の考えを学びたかった。


「……いじめの対処法やと?」


 はい、と次郎。

 岡はふむと天井を仰いだ。


「ウチの息子が、中学の時にイジメにおうてな。登校拒否になりかけたんや」


 正にそれだ、と次郎は内心頷く。いじめの定番ケースだ。


「こういう場合、やはり親子の対話で息子の心を癒し、いじめの証拠を集めて学校へ調査依頼を……」

「まだるっこしい。せえへんわそんなもん」

「え?」

「理事長の家に怒鳴りこんだったわ」

「……」

「下っ端教師なんかアテになるかいな。能無しの校長に何が出来るねん。理事長を締め上げて、ボスのおまえが、イジメの一つも抑えられんのかと、こう首をグイグイとな。それから、いじめがのうなって、息子も学校行き始めたわな……ん? どうした。何かショックか?」


 ふらふらと、次郎は机に戻った。

 そして、肩を落とす。

 俺は、まだまだだ、と。

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