第5話
寮に越してきてから、約二週間が経った。が、緑は未だに荷解きを終えていない。慣れない授業課題やサークルの新入生歓迎会、役所への手続きなどに追われて、荷物を整理する時間がなかったのだ。今緑の部屋にはダンボールが部屋のそこかしこに置かれていて、まるでオセアニアの小さな島々が浮かんでいるようだった。
今日は土曜日。一日予定がないので、緑はこのダンボールの群島を何とか今日中に片付けてしまうつもりでいた。
ダンボールと格闘すること云時間、緑はやっとすべての荷物を整理し終わった。ふぅっーと長い溜め息をついて腰をのばす。緑は遮るもののないカーペットを満足げに眺めた。
(なんかひさしぶりに床見るな。)
ふと時計を見ると、なんと午前一時を回っている。
(うっそぉ!いや、まぁ送ってもらった荷物ほぼ手付かずだったからな…。さっさと風呂入って寝よ。疲れたし今日はお湯ためようかな。)
緑が風呂から上がると、枕元に置かれた時計は午前二時をさしていた。すぐに寝るつもりだったのだが、久々にゆっくりと湯に浸かって身体が火照ってしまい、全然眠くない。
(どーしよっかな…。まぁ眠くなくても横になって身体休めることが大事とか言うしな。とりあえずベッド入るか。)
新しいマットレスを引いたばかりのベッドに勢いよく飛び乗ると、ぼふりとくぐもった音がした。やはり新品なだけあってふかふかだ。緑は仰向けになると、暗い天井を見つめてしばらくぼっーとしていた。
と、ガチャリ、と近くの部屋のドアが開く音がした。誰かの足音が続く。この寮のドアは結構重いため、気をつけていても開閉する時にかなりの音がする。廊下も音がよく響く造りらしく、近くの部屋で誰かが出入りする音も、誰かが自分の部屋を通り過ぎる足音も、しょっちゅう聞こえてくる。
(はっきり聞こえたし、結構近い部屋だよな…。仲島かな?こんな時間に部屋出て何してんだろ?)
普段の緑なら近くの部屋の音など気にもとめないのだが、今は目が冴えているせいか、どうしても気になってきた。
(ちょっと見てみてもいいよな?知ってる人じゃなくても、テキトーに挨拶して俺も眠れないんですーとか言っとけばそんな変にも思われないだろうし。)
緑はむくりと起き上がると、そっと部屋のドアを開けた。隙間から首だけ出して周りを見渡すと、右側の廊下の向こうに灯りがついている。ちょうどコモンルームの辺りだ。コモンルームとは、寮生どうしの交流のためにつくられた部屋で、大きな机とソファー、テレビ、広いキッチン、共用の冷蔵庫と電子レンジが置いてある。コモンルームは各階にあり、主に寮生がクリスマスパーティーや新年会などを催す際に使われている。
(コモンルームなんて、普段は部屋のちっせー冷蔵庫に入り切らない食品入れに行くくらいしか使うことないと思うんだけど。何してんだろ…?)
何も悪いことをしているわけではないのだが、何だか後ろめたく感じてしまい、緑は抜き足差し足でコモンルームに向かった。
コモンルームのドアにはガラスがはめ込んであり、中が見えるようになっている。緑はそこにいる人に気づかれないよう、壁から顔の左半分だけをずらして部屋をのぞいてみた。正面にある大きなテーブルには誰もいない。その右にあるテレビとソファーの方にも誰もいない。変だなと思いながら、部屋の左方にあるキッチンに目をやって、緑は心臓が止まりそうになった。
(仲島っ…⁈)
冷蔵庫の扉に、仲島が額から倒れこむようにもたれかかっている。もともと白いその顔色が、今は病的なほど青白い。身体全体から醸し出されている空気が、部屋の外からでも分かる程どよんとしている。緑は慌ててドアを開けると仲島に駆け寄った。
「ちょっと仲島!どうしたんだよ⁈」
仲島は、垂れた髪の間から目だけ動かして緑を見た。
「……にしやま?」
「ちょっ…まじで大丈夫?」
「腹、減った…」
消え入りそうな声で言うと、仲島は力尽きたように緑へ倒れ込んだ。緑は慌てて仲島を抱きかかえる。
「うわっ!ちょっ、ちょっとまっ…。と、取り敢えずソファー行こ、仲島、なっ?っと……ほら、あと五歩くらいだから頑張って。もうちょいだから、ちょ、お願いだから足動かせって…」
緑は仲島をずるずると引きずりながら、何とかソファーへたどり着いた。仲島を仰向けに寝かせると同時に、ごろごろと盛大な腹の音が部屋に響いた。
「めちゃくちゃ腹減ってんだな…。なんか作るから、ちょっと待ってて。」
「……サンキュ…」
十五分後。仲島の目の前には、卵を溶いたあつあつの粥が置かれていた。
「熱いからちゃんとフーフーしてから食べろよ。」
「ん。」
仲島は匙で粥をすくうと、言われた通りふぅふぅと息を吹きかけはじめた。緑は二、三回すれば十分冷めるだろうと思っていたのだが、仲島は五回、六回…と何度も息を吹きかけている。
「…どんだけ冷ますんだよ。仲島って顔に似合わず猫舌?」
「うん。」
緑がこんな風にからかうと普段の仲島なら鋭い切り返しをしてくるのだが、今はその元気もないらしく、素直にうなずくだけだった。
十五回目のふぅふぅの後、やっと仲島が匙を口に入れた。
「うまい。」
「よかった。んな弱ってんのに消化の悪いものつくるのはどうかと思って、お粥にしたんだ。でもちゃんと栄養は取ってほしかったから卵溶いて、味付けにカツオ出汁もちょっと入れた。」
「めちゃうまい。西山って料理上手いんだな。」
「へへっ、どや~。」
仲島は見ていて気持ちの良いほどぱくぱくと粥を食べている。
「…なんか、けっこう気に入ってもらえたようでよかった。」
「うん。まじで美味かった。西山に専属料理人になってほしいくらい。そしたら俺もちゃんと食事しようって気になる。」
最後の一匙を口に運びながら、真面目な顔で仲島が言った。
「え、飯ちゃんと食ってねーの?」
「うん、まぁ…一日三食決まった時間に食べる、みたいなのはないな。小説書いてるうちに飯のこと忘れるとかしょっちゅうあるし。今回も筆が乗って何食か抜いてたみたいで、気が付いたら腹空きすぎて失神寸前になってた。」
「はぁ⁈何してんだよバッカじゃねーの⁈身体がちゃんとしてないと小説書くも何もできねーだろ!」
「…だから気絶する寸前で最後の力を振り絞ってここの冷凍庫物色しに来てたんだよ。だいぶ昔に入れといたアイス、まだ残ってないかなーと思って。まぁ冷凍庫の前で力尽きたけど。」
「っんとに何してんだよ。食事はすべてのキホンだぞ?俺が高校の時にキホンを大事にしろって何回も言ってたの仲島だろーが。」
「それは数学の話。これは俺の健康の話。」
「キホンが大事なのはどっちも一緒だ!もーしょーがねーな、んじゃ明日の朝ごはん、仲島の分も作っとく。」
「え、いいの?」
「いいよ。ただし!俺と食べること!手渡すだけとかだと、仲島結局小説に夢中になって食べるの後回しにするだろ?」
「よく分かってんな。」
「俺をなめんなよ?それくらいお見通しだっつーの。」
仲島はふっと微笑んで言った。
「ありがとう。洗い物は俺がするから。」
それから、二人で食事をすることが多くなり、気づけば特に予定のない限りいつも一緒食事するようになっていた。食費も半分ずつ出し合って、平日の買い物は基本仲島が担当し、休日は二人で買いに行く。緑が仲島の部屋に料理しに来て、丸テーブルで一緒に食べ、食べ終わると仲島が皿を洗う。平日の昼は緑が寮にいないので、仲島用の弁当を作って朝手渡す。仲島はいつもきれいに弁当を平らげ、緑が夕食を作りに来るまでには必ずきちんと洗っておく。いつしかこのような事が二人の当たり前になり、食事の時間は緑にとっても仲島にとっても、他愛ない話で笑い合う大切なひと時になっていた。
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