第3話

「西山先生。卒業生が来てるみたいですよ。」

二つ隣に座っている国語科教員、宮野の声がして緑は顔を上げた。

「せんせ!」

はつらつとした声の先には、満面の笑みで手を振っている二人の女性がいる。一瞬誰だか分からず戸惑ったが、すぐにその笑顔の中に昔の面影を見つけた。

「長瀬!有田!よく来たなぁ!今そっち行くよ。」

職員室を出て彼女たちを前にすると、その大人びた姿に思わず目を見張った。

「なんか、大学生って感じになったなぁ。」

緑がしみじみと言う。

「当たり前じゃん先生。私らもう二年だよ?」

「高校のときはメイクもピアスもダメだったけど、今はどっちもしまくってるもん。どうよ私ら?」

「いやぁ、なんか感慨深い。見違えるようってのはこの事かぁ。」

「ちょ、それどういう意味?高校のときは私らブサかったって?」

「ちっ、違う違う、ごめん、俺の言葉の選び方が悪かった。そうじゃなくて、なんて言うか、こう…元気いっぱいの高校生から、洗練された大人になった、みたいな…。」

「分かってるよ、先生。ちょっとからかっただけだって。ほんっと先生って昔からイジりがいあるよね~。」

緑は苦笑した。

「で、最近はどうしてるの?キャンパスライフは楽しめてる?」

「うん!もう自由満喫してるって感じ。私ら二人でルームシェア始めたしね。」

「ルームシェアかぁ!いいなぁ、俺も大学のときしてた。」

「まじ?先生も?めっちゃ楽しいよね!家賃も食費も半分になるし、何より友達と一緒に夜更かしできるし。」

「今んとこ有たんは彼氏連れ込んでこないから、私は平和に過ごせてる。」

真面目な顔で長瀬が言った。

「おぉ!有田彼氏できたのか!おめでとう。」

緑はにこにこして有田を見た。その明るい茶髪も、キラキラしたアイシャドウも、彼女のみずみずしさを浴びせんばかりに放射しているようだ。

「ありがと~。ま、女子高行って青春なかった分、大学でハジけてるって感じかな!」

「楽しそうなのが全身から伝わってくるよ。昔の担任としては本当に嬉しいな。ここで話すのもなんだし、あっちのコモンルームに行こうか。」



 どんな教員にとっても、送り出した生徒が卒業後の人生を楽しんでいると知るのは心底嬉しいことである。緑はつい話し込んでしまい、気づけば二時間も経っていた。

 帰っていく二人を見送り職員室に戻ると、宮野がスィーッと椅子を近づけ声をかけてきた。

「あの二人は相変わらず元気いっぱいですね~。見た目は大人っぽくなってましたけど。」

「そうですねぇ。でも、中身もそれなりに大人になってるなぁって思いましたよ。最近二人でルームシェア始めたらしいですし。結構自分たちでちゃんとやってるんじゃないですかね。」

「ルームシェアかぁ!大学生らしくていいなぁ。私もちょっとやってみたいなーと思ってたんですけどね、結局卒業までずっと自宅生でした。」

「あ~。じゃあ飲み会の時とかちょっと大変じゃなかったですか?」

「そうなんですよ!私一人だけ終電のせいで二次会行けないとかあって!もうホント下宿生うらやまし~って思ってました。」

「ははは。」

「西山先生は、大学のとき下宿されてたんですか?」

「してましたね。下宿、というか最初一年半は寮で、そっからルームシェアしてました。」

「へぇ!そっか、そういうパターンもあるんだぁ。え、寮は一人部屋だったんですか?」

「はい。」

すると、宮野が急に茶目っ気たっぷりな表情になってきいてきた。

「え、じゃ、気ままな独身寮生活から、恋人と同棲ルームシェア、みたいな流れ?」

一瞬緑の顔から表情が消えたが、すぐに苦笑いしながら答えた。

「や、普通に仲良かった先輩と住んでただけです。」

「なーんだ。つまんないの~。」

宮野は残念そうに溜息をつくと、自分の机に戻っていった。


 帰りの電車内、緑は次々と視界を過ぎていく建物や街灯の灯りをぼんやりと眺めていた。

(ルームシェア、か…。)

 今日宮野と話してから、どうしてもある人の顔が浮かんできて離れない。そちらに意識を向けないようにしていたのに、仕事終わりで気が抜けたのだろうか。ふと、瞼の奥にはっきりとその顔を見た気がして、緑は鼻の奥がつんとなるのを感じた。急いでつり広告に目を移して気を紛らわす。

 電車を降りてからも、緑は気を張っていた。さっきからずっと、胸に何かがふつふつと湧き上がってくるのを感じる。少しでも緊張を解けばそれが溢れてきてしまいそうで、緑は歯を食いしばって家路を急いだ。

 マンションの入り口の重い扉を開け、上行きのエレベーターのボタンを押す。

(早く…。)

八、七、六…と点滅するエレベーターの位置を示すランプが、今は憎たらしいほど遅く思える。チン、と音がしてようやくエレベーターの扉が開いた。緑は扉が開ききるのも待たずに飛び乗ると、苛立たしげに五階を押した。扉が閉まるのを待つ僅かな時間さえもどかしく、「閉」ボタンを連打する。ヴィィン…という音とともにエレベーターが上がっていく。緑はその鈍い音だけで脳内を満たそうと、目を閉じて必死に耳を澄ました。再びチン、という音とともに扉が開く。緑は体を横にして扉が完全に開くのも待たずにエレベーターから降りると、自分の部屋に向かって駆けだした。走りながら鍵を取り出し、飛びつくように取っ手に手をかける。反対の手でガチャガチャと派手に音を立てながら鍵を開けると、玄関に駆け込んだ。ドアが閉まる音を背中越しに聞くと同時に、緑は力が抜けたようにその場に崩れ落ちた。

「っ…………」

声にならない声が漏れ、涙が頬を伝い落ちる。緑は咳き込むように熱い息を吐きながら、次々と湧き上がってくる感情と、大学時代の記憶に身を任せた。



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