第2話

三月も半ばにさしかかり、空は雲一つないほど晴れているというのにまだまだ寒い。緑はほうほうと白い息を吐きながら、以前立ち寄った公園の、地球儀形のジャングルジムで仲島を待っていた。

(黒髪で背高い…黒髪で背高い……っあ!ってなんだ、違う人か…。)

緑は肩を落とした。こんなことをもう二、三回繰り返している。合格したと早く報告したくてしたくてたまらないのに、こういう時に限って待ち人はなかなか来ないものである。

(仲島の今日の出勤時間、二時半ってアドバイザーの出勤表に書いてたよな?いつもわりと早めに来るから、二時くらいにはここ通ると思ったのに…。やっぱ早すぎたかな?)

受かったと言ったら、仲島はどんな顔をするだろう。どんな風に喜んでくれるだろう。そのことばかりが頭に浮かんで、さっきから緑の胸は痛いほど弾んでいた。

(………っあ!)

目の端に、よく知っているすらりとした黒髪の男の姿が映った。

「仲島あああーー‼️」

仲島がビクッとしてこちらを振り向く。

「うかったあああーーー‼️」

その瞬間、仲島の顔がぱっと輝いた。緑は勢いよくジャングルジムから飛び降りると、仲島に向かって一直線に駆け出した。仲島も公園の入り口の柵を軽々と跨いで走ってくる。緑はそのまま、大きく広げられた仲島の腕の中へと飛び込んだ。ぼふっという音とともに、黒色の柔らかいコート生地と、微かに甘い柔軟剤の香りが緑を包みこむ。同時に、緑の両目から一気に熱いものが込み上げてきた。

「仲島ぁ、ありがとぉ!…っう、ほんとおれ、やべぇと思ってたけど…っな、仲島いだがら受がっだぁ!」

「西山ぁ、本当によくやったなぁ!おめでとう!」

仲島が緑の頭をぐりぐりとかき回す。伝えたいことがもっとたくさんあるのに、涙と鼻水と嗚咽ばかりが出てきて言葉にならない。仲島は緑の背中に回した腕にぎゅうっと力を込めた。

「ほんと俺、西山のこと誇りに思うよ。いっつもいっつも俺んとこ質問きて、嫌な教科から逃げないで、よーく頑張ったな。えらいぞ西山!」

「っうぅ……っあ゛、っう゛っ…あ゛りがど…」

仲島は潤んだ目をゆっくり閉じると、小さい子をあやすように軽く左右に揺れながら緑の頭をなでた。今なら思い切り甘えてもよいように思えた緑は、仲島のかたい胸に顔を押しつけ、子どものようにわんわん泣いた。嬉しくて号泣したのは人生で初めてで、それを仲島と共有できたことが、なぜだか何より嬉しかった。

 しばらくして緑の嗚咽が落ち着くと、そっと仲島は体を離した。

「ほら、顔上げろ。いろいろ拭くから。つかなんかこれ、デジャヴだな…。」

呟きながら仲島が緑の顎をそっと持ち上げる。

「ん゛…。」

その瞬間、二人の目がばちりと合った。一瞬世界が止まったように周りの音が聞こえなくなる。緑の目の前には仲島がいた。陽の光に白っぽく反射した黒い髪。細い顎、彫られたような鼻梁、ふさふさの睫毛、真っ黒い瞳。その瞳の中に、緑は自分の姿をとらえた――

(!)

突然、緑の唇を柔らかくじんわりしたものが覆った。それはほんの一秒にも満たない間だったが、とけそうなほど甘く優しく、緑を満たした。

「……」

「ほら、拭くぞ。」

仲島の声で、夢から醒めたように緑の耳に周囲の喧騒が戻ってきた。仲島は顔色ひとつ変えず鞄からティッシュを取り出すと、丁寧に緑の顔を拭いはじめた。

(…っえ?え?…えぇっ‼️いっ、今俺……仲島にキスされた…⁈)

心臓が飛び出しそうなほど高鳴り、全身が溶け落ちそうなほど熱い。考えるのに必要な血液が全て体のほうに回っているようで、今起きたことを脳が処理できない。

(………え?…っえ?俺、い、今、どんな顔すればいいの⁈何言えばいいの⁈っつーか何か言わなきゃいけねーの⁈)

そんな緑の動揺をよそに、仲島は相変わらず落ち着きはらって濡れた緑の顔を拭いている。緑はどうすればよいか分からず、取り敢えずされるがままになっていた。

(さっ、三年間男子高でアオいハルとは縁もゆかりも無かった俺に急にアオいハル与えられても困るんですけど⁈何っ⁈どーゆー意味だよ‼️お、俺、どどどどーしたら…)

 仲島はポンっと緑の肩をたたくと、使い終わったティッシュを丸めながら言った。

「よし、できた。もうお家の人とか学校とかにも連絡したのか?」

「…っえ?あ、うん、朝ネットで見たから親は隣にいたよ。学校にはその後すぐ電話したし、塾にも連絡入れといた。」

「そっか。ん?じゃ、西山わざわざ俺に報告するためにここまで来たの?」

「あ…えっと、うん…まぁその、なんつーか、だって一番お世話になったの仲島だし…仲島の連絡先とか知らねーしちゃんと顔見て報告したかったし…。」

それを聞くと仲島は嬉しそうににっこりと笑った。

「ありがとな、西山。直接教えてくれて嬉しい。」

「べっ、別にたいしたことじゃねーし…」

緑は顔を赤らめてうつむく。さっきから苦しいほど胸が波打っている。

「じゃ、今から帰んのか?」

「え、まぁ…そう、だね。もう塾も来ることねーし学校も卒業したから…考えてみたら、この辺りに来るの最後かも…。」

「そっか。んじゃあ西山、」

そう言って仲島は鞄の中をゴソゴソと探り始めた。あった、という呟きとともに出てきたのは、赤いパッケージに包まれた板チョコだった。

「合格祝い。キットガット一個よりグレードアップしただろ?西山が受験終わったら渡そうと思って買ってたんだ。おめでとう。」

「え!あ…ありがとう。味わっていただく。」

「うん。」

「…でもさ、これ、もし俺が落ちてたらどうするつもりだったの?」

「そしたら、一年間お疲れ様祝いにするつもりだった。っていうか、受かってようが落ちてようが、この一年西山がめっちゃ頑張って成長したってことは変わらねーんだから、板チョコの一枚くらいプレゼントさせてくれよ。」

「いや、別に嫌がってるとかじゃなくてさ…ちょっと気になっただけで…。う、嬉しいよ。ありがと。」

ふっ、と仲島は笑うと、

「分かったらさっさと家帰って、思いっきり寝るなり映画見るなりしろよー?今まで精神的に緊張してた分リラックスしないと、心身に良くないからな。」

「分かってるって。…仲島は、まだこれからもアドバイザーやんの?」

「まぁ今のとこはそのつもりだな。」

「そっか…。」

(じゃあまた、会いに来ようと思えば来れるのか。)

「それじゃな。気ぃつけて帰れよ。」

仲島が緑の肩をぽんぽんと叩く。

「う、うん…。」

仲島はくるりと背を向けると、公園の出口のほうへ歩きはじめた。

(え?これで終わり?)

これが仲島との別れなのだと思うとあまりにも呆気ない。何かちゃんとしたことを言わなければ。でも何を言えばいいのだろう?もどかしさで緑は唇を噛んた。

 仲島が公園の出入り口の柵を跨ぐのが見えたとき、緑は意を決したように顔を上げると、大きな声で呼びかけた。

「仲島、あのさ!」

仲島が止まってくるりとこちらを振り返る。

(えっと…えとえっと…)

引き留めたはよいものの、勢いにまかせて呼びかけたので何を続ければよいのか分からない。言いたいことも、尋ねたいこともたくさんあるはずなのに、その衝動ばかりが先立って、まったく言葉という形にまとまってくれない。

「……今までありがとう…」

絞り出すことができたのはそれだけだった。

 仲島は軽く手を上げると、少し寂しそうな、しかしとても穏やかな笑みを緑に向けた。

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