さよならは言わなくても

@ibukiasa

第1話

「なるほど!そゆことか!ありがと〜先生。」

「どういたしまして。また何かあればいつでも訊きにきてね。」

嬉しそうに手を振って職員室を出て行く生徒を見送りながら、緑はぼんやりと自分も高校生だったころを思い出した。

 そう、あれは高三の夏休み、緑が初めて塾に通い始めたころ――仲島と出会ったのだ。



 緑はいわゆる名門と呼ばれる男子校に通っていた。当然クラス全員が進学する予定で、今までノホホンとしていたクラスメイトたちも本腰を入れて勉強しはじめた。文系科目はそれなりできたが数学は壊滅的だった緑は、数学だけ塾に通うことにした。家にいるより集中できるので、夏休み中ほとんど毎日塾の自習室に通った。


 その日も、緑は塾の自習室でもらった数学のテキストと格闘していた。

(だっかっらっ…!なんでこっからこういう式変形になるんだよっ!当たり前のようにサラッと書いてるのがまたムカつくっ!出来て当然ってか?)

四十分考えても同じ状態だったので、緑は諦めて講師に質問に行くことにした。

 自習室は八階で、講師室は一階だ。緑はぼんやりとエレベーターを待っていた。

(あ、でも今の時期って講師の先生にみんな質問行くから待ち時間がヤバいんだよな。まぁあの先生、現役生も浪人生も持ってるから仕方ないんだろうけど。んー、さっさと解決したいしなぁ。初めてだけど今日はアドバイザーんとこ行くか。)

 アドバイザーというのは、現役生専用、質問対応専門の講師のことだ。英数国理社それぞれにつき二~三人おり、月曜から日曜まで担当するアドバイザーが決まっている。質問対応の他にも、勉強や進路の悩みにも対応する。

 アドバイザーがいる二階へ着いてみると、思いのほか空いていた。二、三人質問に来ている生徒がいるだけだ。

(ラッキー!数学のアドバイザー空いてるじゃん。)

「数学」と書かれた札の立っている机にいたのは、すらりとした若い男だった。襟足に届くくらいの艶々した黒い髪。切れ長の目に覆いかぶさるような豊かな睫毛と細い顎。滅多に外出しないことが容易に想像できる白い肌。形のよい眉は微かにひそめられ、真剣な様子でノートパソコンを見つめている。整った顔立ちであるがゆえに、その真剣さに一層の凄みがあって近寄り難い。緑は一瞬質問に行くのを躊躇った。

(いやいや、金払ってるんだしあの人は質問対応のために居るんだし!ここで引いてどうする!)

緑は気合を入れるように軽く息を吸い込むと、その男に向かってずんずん進んでいった。

「あのー、質問いいですか。」

男が顔を上げた。にこりともしないその表情に一瞬怯みそうになる。

「どうぞ。」

緑は恐る恐る椅子を引いた。何も悪いことをしているわけではないのに、なぜだか異様に緊張して頬が熱い。

「えっと、この大問二の二番目の問題で、解説これなんですけど、なんでこっからこう式変形ができるのかイマイチ分からなくて…」

テキストの箇所を指で示しながら緑が言う。緊張のせいか、最後のほうは声が尻すぼみになった。男は相変わらず無表情で緑の話を聞き、指をさされた箇所に目を落とした。テキストを自分の方に少し引き寄せ、ざっと問題に目を通す。

「あぁこれは…」

男は仏頂面のまま、すらすらとメモ用紙に式変形を書いていき、あっという間に緑の疑問を解決してしまった。

「あ、あとはもう大丈夫です、これだけ訊きたかったんで…。ありがとうございました。」

ぺこりと頭を下げた緑に、どうも、と小声で返すと男はまたパソコンに向かった。

(なんだ、あれだけ?なんか自分が疑問に思ってた部分が単純過ぎて恥ずかしい…。俺ぜってーあの人に心ん中でこんなんも分かんないのかよって思われてたよな?あんなに終始無表情でいられると、実際にバカにされるよりコワイんだけど…。いや分かりやすかったからいいんだけどさ…。)

疑問が解決したのは良かったが、もうあの人に質問は行かないでおこう、と緑は思った。


 しかし、それは緑の思い通りには行かなかった。緑がどうしても分からない数学の問題に突き当たる日は、なぜか決まってそのアドバイザーが居る日なのだ。あの男の威圧感に十数分耐えるのと、講師待ちの列で二時間並ぶのとを秤にかけると、ほんの少しだけ前者の方がマシだと判断した緑は、結局いつもあの男に質問に行くようになっていた。


(数学のアドバイザーってもう一人いるのに、なんで俺が質問したい日に限ってあいつが居るんだよ!なんか俺あいつと週四で面談してるみたいじゃね?いや、いつも質問する以外何も話さないけどさ。まぁそれに、あいつホントに説明上手いし何でも一瞬で解決してくれるからいいんだけど。でもなんか近寄りがたいっていうか、コワイんだよなー。まぁ俺もいい加減あの仏頂面には慣れてきたっちゃきたんだけどさ。)

 その日も緑はテキストに出ているいくつかの問題を質問した。男の細くて長い指先に握られたペンが、すらすらと数式を書き出していく。彼は、必要な数式を一旦すべて書いてから口で説明するタイプなので、この時間いつも緑は手持ち無沙汰状態である。ぼんやりと机上の物を眺めていると、いつも立ててある「数学」という札の裏側に、この男の社員証のようなものが貼られているのに気が付いた。

(へぇ、こいつ、仲島(なかじま)蒼(そう)匠(た)っていうんだ。この漢字で『そうた』?読めねーこともねーけど分かりにくいな…。つーか俺、こんな何回もこの人んとこ質問来てんのに、今まで名前知らなかったんだ。)

「この式、ここに文字があるよね。だから…」

緑は仲島の声ではっとした。慌てて意識を数学に戻す。

 訊きたかった質問をすべてし終え、緑が立ち上がろうとしたとき、珍しく仲島が自分から口を開いた。

「西山君、これ。」

そう言って手渡されたのはホッチキス止めされたA3サイズの紙束で、何やら数学の問題らしきものが裏表に印刷されている。緑が戸惑っていると、

「西山君が苦手な分野とか聞かれ方してる問題集めて載せといた。よかったら使って。分かんなかったらまた訊きに来てくれたらいいし。」

緑は驚きのあまり目を見開いた。

「え…あ、ども、ありがとうございます。えと、使わしてもらいます。」

緑は軽く会釈して立ち上がり、人気のないエレベーター前まで来ると、ゴンッと額を壁に打ち付けた。

(えぇっーーーーーーーー‼まっじっかっよっ‼あいつそんな事してくれんの?優しすぎかよっ!え?俺の苦手がどことか覚えててくれたの?んでわざわざ問題探してこんなん作ってくれたの?有り得ん優しすぎマジ神…。てかいつの間に俺の名前知ってんの?ってテキストに書いてあるから当たり前か。あんな何回も質問行ってんだし…俺があいつの名前知らなかった方が非常識なんだよな。えぇー、でもマジで感動した。あんな無表情なワリに俺のことちゃんと見てくれてんじゃん。これからは仲島先生って呼ぼ。)

 それからは仲島に質問に行くことに抵抗が無くなり、緑はたとえ講師が空いていても仲島に訊きに行くようになった。


 夏休みも終盤にさしかかる頃には、二人はすっかりお互いに慣れ、気づけば「西山」「仲島」と呼び合うようになっていた。

「にぃしぃやぁまぁ。全国模試のこの問題は絶対取らなきゃいけない問題なの。何ミスってんだよ。」

「いやだってさ、これ見たとき、『あぁ!この問題定番のやつじゃん!これはできる!』って思ってさー。うぉっーってやったら計算ミスった。」

「何がうぉっーだよ、バカ。できる問題こそ落ち着いてやらなきゃだろ?ったく…」

 仲島は、緑の分からない問題のサポートだけでなく、受験勉強全般のサポートもしてくれるようになっていた。全国模試や志望校別模試がある度に『成績を見せろ』と言って、結果やこれからの勉強法を一緒に見直してくれる。いつの間にか他愛ない会話も交わすようになっていて、緑にとって「仲島に質問に行く」のは「仲島とおしゃべりする」ことの口実にもなっていた。


 そんな夏もあっという間に終わり、街路樹の葉が鮮やかな赤や黄色に染まってきた。夏休みに頑張った成果が徐々に緑の成績にも表れはじめ、模試でB判定や、調子のよいときにはA判定が出るようになった。以前は散々だった数学も、人並みか、それよりほんの少し劣るくらいまでは取れるようになっていた。仲島は、緑の模試の結果が良いと心から嬉しそうな笑顔を見せ、悪いと緑が明るい顔になるまで励ました。この頃には仲島は、緑にとってたとえ自分が倒れたとしても必ず受け止めてくれるセイフティネットのような存在になっていた。


 紅葉した葉もすっかり落ち、吐く息が白くなるほど外が寒くなったころ。塾の自習室はいよいよ連日満席になり、みな大学入学共通テストの過去問に取り組んでいた。緑もその一人で、いったん二次試験への勉強をストップし、完全に共通テストへの対策に切り替えた。どの教科でも基本を大事にしてきた緑にとって、共通テストはそれほど手こずるものではなかったが、数学だけは話が別だった。共通テストの数学は、時間が短い割に問題数が多い。長時間悩むことなくさっさと手を動かして解き進めなければならないのだが、頭では分かっていてもなかなかそうは出来ないものである。数学への苦手意識と、急がなければ間に合わないという焦りが相まって、緑は一度どこかで詰まると軽いパニック状態を起こした。こうなってしまうと、もう頭が真っ白になって残りの問題には全く手がつかない。結局いつも、ひとつの大問につき半分くらいまでしか解けずにテストが終了してしまう。

 今日も五年前の数学の過去問と格闘し、無惨にノックアウトされていた。緑は解説を読みながら心の中で呟いた。

(あーあぁ。なーんだそういうことかよ。この詰まったとこさえクリアできてれば、後の問題全部解けたのになぁ。あー悔し。)

思わず机に突っ伏す。

(まあ、試験日まではあともうちょっとあるし。問題に慣れる時間はまだあるよな…。)

少し疲れた緑は、次の教科の演習に移る前に五分ほど目を瞑って休むことにした。眠いわけではなかったので、瞼を閉じるとさまざまな思考が頭の中を駆け巡りはじめる。

(俺、ホントに大丈夫かな…?数学も英語みたいにスイスイ解けたらいいのに。英語で余った時間数学に回したいよ。つかなんでそーゆーシステムになってねーんだろ。……最近なんか疲れてきたっつーかしんどいっつーか。なんでかなー。クラスのみんなも受験受験って感じだし。フツーにしょーもねー話するのが減ったよなー。)

緑は目を瞑ったままゆっくりと右に首を回した。うつ伏せの体勢だったさっきより息がしやすい。

(…話っていえば、最近仲島と話してないな…。共通テストの問題って解説みたら分かるから質問しに行くことがねーんだよな。それに最近みんな本気モードになってきたからアドバイザーも混んできたし。いっつも仲島んとこ列できてるよなー。この前なんか帰るとき、閉館時間ギリギリなのにまだ質問対応してるとこ見たし。…社畜かよ。あー。フツーにしゃべりにいったらダメかな…ってダメだよな、あんな列できてんのに。みんな質問したくて来てんのにお前何ノンキにおしゃべりにしに来てんだよってなるよな。……はぁ。仲島としょーもねーことしゃべって、笑って…久しぶりにあの声聞きて―なぁ…。)

仲島の声は特徴的だ。低くてハスキーなのによく通る。歌手のマイリー・サイラスの声を一オクターブ半くらい下げたら仲島の声になりそうだ、と緑はよく思っていた。ぼんやりそんなことを考えていたら、ふと頭の中に今まで仲島と交わした会話とその映像が流れてきた。


志望大の模試の問題を質問しに行った時のこと。

『あぁ、これは難しいな。西山には一億光年早い。飛ばせ。』

『はぁ?バカにしてんのか!』

『してねーけど、こんな出来るやつがあんまいないような問題でウンウン悩んで時間使うよりも、確実に取らなきゃいけない問題を取って平均的な結果を得ることの方が大事だろ?数学は西山の得意科目じゃねぇんだからさ。他の教科で差つけろ。』

『うぐっ…。悔しいけど分かった…。』

『よしよし、素直でよろちいでちゅね~西山きゅん。』

『…やっぱバカにしてるだろっ!』


筆圧の話で爆笑したこと。

『ってかさ、前からずっと思ってたんだけどさ、仲島ってボールペンしか持ってないの?』

『え?あぁー、言われてみればボールペンしかねぇな。俺筆圧強いからこんくらい先太くないと芯折れまくるんだ。』

『うわ、出たぁ~そういう、俺筆圧強いって言って謎のマウント取りにくるやつ~。俺だって筆圧強いけどそんなポキポキ芯折れねーし。ホントは大したことないんじゃねーの?』

『…試してみるか?』

『いーよ。俺のシャーペン貸すから。でもわざとめっちゃ強く書くとかなしな。はい。』

『分かってる。じゃ、「あ」って書くぞ。』

『……まー確かに濃いけど、折れてないじゃん。』

ボキッ。

『………え?芯じゃなくてペン先ごと折れた…?』

『……ワリ。壊した。次までに新しいシャーペン買ってくる。』

『………っ』

『西山、マジごめん。…怒ってる?』

『…っはっはっは、ちょ、マジ、仲島おかしすぎだって‼っひ、ペン先ごと折れるとかどんだけだよっ‼っはっ、お腹痛い…あーもう、っひー…。怒ってねーし買わなくていーからもぅ、っはは。あー、久々にこんな笑った。』

『…西山うるさい。他のアドバイザーに見られてる。迷惑。』


初めてA判定を取った時のこと。

『ん。これ、先週の志望校別模試の結果。』

『……A判?おい、やったな西山ぁっ‼』

『こ、声デカイって。別に、これが初めてだし、これからちゃんと成績安定させなきゃいけな…何その手。』

『ハイタッチ。』

『………』

ぱちん。

『……バレー部かなんかかよ…。』


緑は目を開けた。ノートの上には、折れたものの代わりにと仲島がくれた青いシャーペンが転がっている。これを使っていると仲島が応援してくれているように思えて、緑の密かなお気に入りだった。

(『怒ってる?』だってさ。っふ、めっちゃ不安そうな顔してたっけ。そんなシャーペン一本くらいで怒るわけねーじゃん。……しかもハイタッチってなんだよ。キャラ合わなさすぎだろ。…まぁ嬉しかったけど…。)

 何となくまだやる気が出ず、緑はいったん階下の休憩室に飲み物を買いに行くことにした。一つ下の階だが、自習室を出てみるとちょうどエレベーターが来るのが見えたので、エレベーターにした。中には「高三数学 共通テスト直前対策講座」と書かれたテキストを持った女子と男子が乗っている。二人とも似た制服を着ているので、恐らく同じ学校に通っているのだろう。男子の方が口を開いた。

「あー、数学質問行くのやだな。」

「分かる!今日仲島でしょ?あの人分かりやすいけどコワイよねー。」

仲島、という単語が聞こえて緑は思わず耳をそばだてる。

「マジそれ。説明はうまいけど無表情すぎてさー、こんなんも分かんねーのって思われてる気がする。顔いいから余計怖いっていうか。」

「激しく同意だわー。でもちょっと顔色悪くない?なんか、数学の質問とか以前に生きてますかーって訊きたくなる。」

「っはは。確かに。違う世界の住人っつーか異星人的な雰囲気あるよなー。」

(っこいつら…黙って聞いてれば散々なこと言いやがって…。確かに仲島は心許すまでちょっとコワイけど、実はめっちゃいい奴なんだよっ!人のことちゃんと見てくれてるしすげー優しいし他人の嬉しいこと自分のことみたいに喜んでくれるし!お前らが知らねーだけなんだよ!)

頭に血が上った緑は思わず反論しようと口を開きかけた。しかしその瞬間、仲島なら「こんなバカどもを相手にするのは時間の無駄だ」と言うに決まっている、という考えが頭をよぎった。

(…っなら相手にせずに反撃することだって出来んだよ!)

緑はエレベーターのドアが開くと、出る間際によろめいたふりをしてエレベーターのボタンが並んだ部分に体をぶつけ、残りのボタンをすべて押した。閉じていく扉の隙間から、完全に呆気に取られた二人の姿が見える。

(っへ、ざまあ~♪八階から二階までいちいち止まるのはまじでイライラするぞ~。)

仲島がここにいたら呆れられそうだとも思ったが、緑はとても満足だった。


 受験生の時間はあっという間に流れていくもので、気がつけば共通テスト本番まであと二週間をきっていた。緑の成績は、数学以外は順調に伸びてきて、得意の英語についてはほぼ毎回満点を出すようになっていた。しかし問題の数学は、伸びどころか過去問をやればやるほど悪くなってきている。時間内に解ききれないという焦りと、本番直前なのに成績が伸びないという二つの焦りが脳内を占めているせいで、問題文がまったく頭に入って来ないのだ。落ち着かなければいけない、と思えば思うほど焦ってしまう。その焦りが「過去問演習を増やそう」という強迫観念に変わり、それがさらなるプレッシャーになり、いわば緑は自分で自分の首をこれでもかというほど締め付けている状態に陥っていた。

 その日も緑は自習室にこもって共通テストの対策に取り組んでいた。ふと顔を上げると、時計は二十時を指している。自習室が閉まるのは二十二時だ。

(今から数ⅡBの過去問したらちょうど答え合わせと直しまで出来そうかな。よし、もう本番まで二週間ないし去年の過去問やってみよ。)


 一時間と少しが経過した。緑は茫然と自分の回答用紙を見つめている。

(………俺、終わった……。)

四十点。過去最低の点数だった。頭が真っ白になった緑は、その後しばらく何も考えられず、自習室の管理人が閉室を告げに来るまでその場で固まっていた。


 塾を出たが、緑は何となくそのまま帰宅する気になれず、塾から最寄り駅まで行く途中にある小さな公園に入ってみた。鞄を無造作に地面に下ろすと、そばにあった地球儀のような形のジャングルジムによじ登る。てっぺんまで登ろうかと思ったが、鉄の棒が思ったより冷たかったので億劫になり、赤道のあたりで腰を下ろした。体勢を整えて顔を上げると、高校生や浪人生と思われる学生たちが駅の方へ向かって歩いていくのが見える。

(あいつらも受験生なんだろうな。)

緑の塾から最寄り駅までは一本道だ。塾が閉まるこの時間帯に学生のような恰好で駅の方へ歩いている人は、十中八九緑と同じ塾に通う高校生か浪人生である。二、三列になってずらずらと同じ方向へむかう姿は、まるで遠足か集団登校のようだった。


 二十分ほど経ったころだろうか。帰宅途中の塾生の姿はほとんど途絶え、鉄棒の冷たさが布を通してじわりじわりと緑の手や腿に凍(し)みてきた。それでも緑はその場から動く気になれず、寒さの中でぼんやりと行き交う車や街灯の光を眺めていた。

 と、目の端に、すらりと背の高い男の姿が映った。

「!」

緑が驚いてそちらを向くと、まるで視線を感じたかのように男がふと緑の方を見やった。

「…西山?」

緑は返事の代わりに軽く手をあげた。

「西山だよな?寒みぃのにそんなとこで何やってんの?」

「……」

暗がりの中、仲島の姿をした人影が近づいてくる。

「西山、どした?」

ぼんやりと浮かび上がった仲島の心配そうな顔を見た瞬間、緑の中で何かがぷつりと切れた。

「…っきょ、ⅡBで…四十点とっ、た…」

視界がじわりと曇ったのと、仲島が微かに眉を上げたのが見えたのが同時だった。次の瞬間、緑は堰を切ったように大声をあげて泣き出した。自分の言ったことの内容に自分で悲しくなって、嗚咽が止まらない。仲島は、腕を伸ばしてそっと緑の肩に触れると、何も言わずに優しくなでた。

「っおれ、ほんと、K大落ちるっておもって、て……っん、学校、クラスみんあ、頭いいし、っうっ、きょうつ、テスト、っすがく、まんてんとかいっぱいいる、し……い、っくら、英語よく、っも…すうがく、っよ、よんじゅってん、と、か…っう、っく……なんっ、も、意味ねぇ、っ……」

仲島は緑の肩に手をおいたまま、じっと話を聴いている。

「お、れの、塾の、クラス…っで、おっなじ、こうこのひ、と、いないっだ…。っう…す、がく、あんな、できねの、おれ、だ、けっだからっ…。っん、なっ、なんでっ?…なんでっ、上がんっんねぇっの…?おれ、ちゃんっとべんきょ、してんのにっ……!できっこと、ぜっんぶやって…っのに!っ……なかじ、ま、も…こん、っん、なじゃ…おれの、こと、あっ…きらめる、よな…こん、なっ、っんび、びぃびぃなっ、いてっ……」

言葉にしようとすればするほど声が震えてしまう。今まで見ないようにしてきた不安が後からあとから湧き出してくる。緑は恥ずかしさと悔しさと悲しさで、心の中も顔もぐちゃぐちゃだった。

 と、今まで黙って聴いていた仲島が、緑の肩をひょいと抱え上げ、ジャングルジムから下ろした。緑が顔を上げる間もなく、仲島は優しく緑を抱きしめた。なだめるようにゆっくりと背中をさすり、静かな声で言った。

「なぁ西山。その四十点ってのは、数学っていう何千年も昔からある膨大な規模の学問の、ほーんのちょっとしたカケラみたいな範囲を取り出して作った、ちっちぇーちっちぇテストの点数なんだよ。だから、ホントは四十点も百点もたいして変わんねぇんだ。」

仲島の腕の中で、緑ははっと目を見開いた。

「それにな、その点数は、このしょーもねーちっちぇテストで四十点ってだけで、西山自身が四十点ってわけでは絶対ねーんだ。西山は、そのまんまで百点満点だよ。」

緑の見開かれた目から、大粒の涙が溢れていく。

「西山みたいに頑張り屋で、熱心で、しっかりしてて、面白くて、ときどきドジで、からかい甲斐のあるやつなんて他にいると思うか?そんなバランスの取れた豊かな人間、どんな大学だって欲しがるよ。だから、もしこんなテストくらいでK大が西山のこと不合格にしたなら、それはK大のロスだ。西山のロスじゃない。」

緑は、胸にじいんと熱いものが広がっていくのを感じた。仲島の背中に腕を回すと、緑は子どものように声をあげて泣いた。


 ひとしきり泣いたあと。

「…落ち着いたか?」

緑は涙で濡れた顔を上げ、うん、と小さく頷いた。

「ちょっとそこのベンチ座ろうか。」

二人で近くのベンチに腰掛ける。

「ほら、俺のハンカチ使っていいから。袖で拭いてるとカピカピになんぞ?」

そう言って仲島は綿の青いハンカチをポケットから取り出すと、緑の目元や頬を拭った。

「…別に、拭くくらい自分でできるし。」

「うっせえな。鏡ないと自分の顔見えないだろ。」

「………っつーか仲島、ハンカチ常備してんだ。意外とちゃんとしてんだな。」

「意外とってなんだよ。」

仲島の手つきは壊れものを扱うように繊細で心地よく、緑は気を付けていないと寝落ちしてしまいそうだった。

「よし、もう大丈夫だ。」

「ん、ありがとう。」

「眠そうだな。家、近いの?」

「んーまぁ。そこの駅から電車一本。でも一時間くらいかかる。俺ん家の最寄り駅ショボいから普通しか止まらない。」

「えぇ!んじゃ今から帰ったら家着くの十二時回るんじゃねーの?早く帰れ高校生!」

「だいじょぶ。電車待ってる間親に連絡しとく。」

「それでホントに大丈夫なのかぁ?まあ俺も電車だから途中までは送れるか。」

「仲島どっち方面?」

「北駅方面。」

「なんだ、反対じゃん。」

「じゃあま、駅までお供しますわ。」

二人はベンチから立ち上がると、久々に他愛もない話をしながら駅へ向かった。二人とも、あまりにもあっという間に駅についてしまった気がした。

「じゃ、ここで。」

「うん。あの、仲島、その…ありがと。なんかめっちゃ元気出た。」

「別に俺大したことしてねーけど、元気出たんならよかった。今日はもう何も考えずに風呂入って寝ろよ。それから、本番まで勉強の計画一緒に立て直すから、明日は一番に俺んとこ来るよーに。」

「分かった。」

(俺が落ち着くまで、テストの話すんの待っててくれたのかな。あんな点数取ったし、めっちゃカッコ悪いとこ見せたのに、まだ見捨てないでいてくれんだ。)

アドバイザーという立場上それは当たり前のことなのかもしれないが、緑はとても嬉しかった。

 一瞬、二人の間に沈黙が流れる。もう話すことはないのに、何となく立ち去りたくない。

「…あ、西山、あのさ」

仲島は言いながら鞄の中をゴソゴソと探ると、何かを取り出し、それにマジックで何かキュッキュッと書き始めた。

「よし、出来た。手、出して。」

緑が手を出すと、そこにポトリと落ちてきたのは、赤いプラスチックに包まれたチョコレートだった。

「キットガット?」

「ん。裏にちょっと書いといたから。」

裏返してみると、『西山=満点』というメッセージと、その右下にヤシの木が生えた無人島の絵が横並びで二つ書いてあった。よく見ると、その島には顔がついており、にっこり笑っている。さらに左右の島から手も伸びており、握手を交わしている。

「あ、ありがとう。でも何この島?」

「仲良しの島。仲島。俺。」

「……は?」

「笑ってるだろ?どっちの島も。握手もしてるし。仲良しなんだよ、この二個。」

「え、なに、じゃこれ、仲島のサインみたいな?」

「そ。俺のロゴ。」

「………」

下を向いた緑の肩がプルプルと震えている。

「なんだよ。」

「っぶふっ、仲島やっぱオカシイ!そーゆーとこ意味分かんねーっつーかボケてるっつーか…っくくっ、もーなんだよ仲良しの島って!」

緑は可笑しさのあまり腹を抱えて仲島の肩にもたれかかった。

「なんだよ、俺の長年のロゴに文句あんのか?」

ひぃひぃ言いながら目尻の涙を拭っている緑を見ていると、何だか仲島までも笑えてきた。

「っふっ、何がオカシイんだよ。」

「だってっ……っくっひっひっひっ」

「っははっ、西山の引き笑い激しすぎだろ。」

二人でひとしきり笑ったあと、仲島がぽつりと言った。

「ま、西山が笑顔んなってくれてよかったよ。」

何気ない一言に緑は一瞬どきりとしてしまう。

「うん…もう大丈夫。仲島ありがとう。」

「じゃ、気を付けて帰れよ。」

「仲島も。」

寒い中ずっと外にいて緑の体は冷え切っているはずなのに、胸のあたりだけはなぜかほかほかと温かかった。

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