箱の外は頭の内

@name4

第1話

 私は電車が好きだ。かといって、俗に言う鉄道オタクではない。電車についてもさして詳しくない。私は随分と限定的に電車を愛しているのである。例えば、車体の違いなんて色くらいしかわからない。そしてその色さえどうでもいい。電車は椅子と手すりとつり革、あと暖房冷房があり、安全に動いてくれれば十分だと思っている。駅の名前だって詳しくない。そして地図を見るのも好きじゃないから、もし名前を知っている駅でも、それが私の住む県のどこにどのように配置されているのかもおぼつかない。

 私が好きなのは電車に乗っている時間だ。しかし、人間が海苔巻きの中の米粒みたいにぎゅうぎゅうひしめきあい、他人の存在を「現代人は孤独だ」などといってられないレベルで感じ、時に芸術作品よりも芸術的(すなわち不可解な)ポーズで何十分も静止しなければならない満員電車はもちろんごめん被りたい。あの地獄の中で喜びや安らぎを見つけられるほどヘビーファンでもマゾヒストでもなく、あくまで私はライト勢である。私は、極めて乗車している人間が少ない電車が好きなのである。少なくとも、向かい側の窓が人影に邪魔されずに眺められるくらいの少なさが理想だ。

 私がいつも乗っている外周線(これが路線の名前だ)には、私の学校の最寄駅と自宅の最寄駅の間に、座山駅という駅がある。この駅は私の住む県の栄えている地区と廃れている地区の丁度境目であり、この駅から私の家の方へ行くほど電車の利用者が減っていく。つまり、上り電車では座山駅から一気に車内人口が増え、下り電車では座山駅から一気に車内人口が減る。そのため二分の一くらいの確率で外周線は座山行きの下り電車が各駅に到着し、座山駅より向こうの地区在住の人々を歯噛みさせる。そのかわり、座山行き以外の〇〇行きへ乗れば全て私の最寄り駅に着く。だからまあ、私は学校の最寄り、家の最寄り、そして座山駅以外の駅の名前はあまり覚えていない。その日乗った小星行きと書かれた電車も、多分何回か見たことがあるのだろうけれど、ほぼ初見みたいなものだった。私は自分の駅よりも地方へは行かないし、行く時は別の線路で行くのである。だから乗り込み、スマホでインターネットを開けば、終点の駅の名前なんて頭のどこかへ行ってしまった。


 アナウンスの声が座山駅に到着したことを告げる。ぷしゅーとドアの開く音、そしてそのドアに吸い込まれていく沢山の足音を聴き終え、スマートフォンから顔を上げた。私は今、車両の真ん中にある長椅子の中央に座っている。周りにはほとんど人がおらず、視界に映る横長の窓を遮るものは何もいなかった。電車のドアが閉まり、誰も乗ってこなかったことを悟ると、自然と口角が上がる。今日はあたりの日である。途中の駅で座席をゲットできた時点で今日はついているという予感があったが、いつもよりも人数が圧倒的に少ないのはさらに嬉しいことだった。

 スマホをポケットに入れて、心地よい座席の暖かさと電車が発車する揺れを感じながら、私は窓の外をぼんやりと見ていた。そう、私が愛するのは、こうして電車の中で、ぼんやりと窓を眺めることなのである。


 電車の窓の外というのは、非常に不思議な景色だと私は思う。見えるのは窓枠より上のみで、非常に部分的。意図せずとも、窓枠は景色を四角くく切り取る。そしてその景色は私の前からすぐに立ち去ってしまう。

 それは私の世界と触れることのない世界のように思えた。だって、走っている電車と、その窓から見える景色はどこまでいったって平行だ。窓を越えてこちらに飛び出してくるなんてことはない。だから、小人の帽子みたいにとんがった屋根をもつあの家も、なんだかわからない植物がお行儀よく並んでいるあの畑も、紫色の空をゆらゆら揺らすあの川も、私の日常とは一切の関わりがない。学校の難しい課題とも、私の友人たちとも、私の家族とも、一切関係がない。よって私は窓の外の世界へ愛想笑いをしたり、無駄な相槌を打ったり、よくわからない会話の内容を灰色の脳細胞(の劣化版)をフル回転させて推理したりするように、何かを取り繕う必要はないのだ。必要はないと、思えるのである。

 もちろん全く関係ないなんてことはないかもしれない。私の前から瞬きする間に消えていくあの家々のどれかは、私の友人の家かもしれない。あの畑の植物はいつか私の家の食卓に乗るかもしれない。でも、そんな窮屈なことは考えたくないから、見ないふりをするのである。

 私は毎日、家から学校の間、なんだかわからない世界を、この弾丸みたいな電車に乗って駆け抜けていく。その世界はきっと、私の全く知らない人々が私の全く知らない日々を送っている。さて、それはどんな日常なのであろうか。もしかしたら、あの謎植物はほっぺたが落ちるほど甘くて美味しい実をつけるのかもしれない。あの川にはものすごく大きな謎の魚が、他の魚たちに「川の主」と呼ばれ恐れられているのかもしれない。あそこにはこっそりと宇宙人の秘密基地が隠されているのかもしれない。私は好き勝手思いついては描き、描いては捨てていく。そうこうしているうちに、外の世界は段々と闇が濃くなっていく。見えないなら見えなくてもいい。その方が好き勝手考えられるので、また違う趣がある。

「ねえ、随分楽しそうに窓を見ているね」

隣でそんな声がして、私は肩を跳ねさせてしまう。声のした方へ顔を向ける。小学校高学年くらいの男の子が、私の横にちょこんと座り、くりくりした大きな瞳で私を見上げていた。そこで私は、初めて車両にいる人間が私と彼の二人きりになっていることに気づいた。ずっと見られていたのかと思うと、にわかに頰が熱くなる。そして同時に、邪魔されたことを恨めしく思った。

「お姉ちゃん、そんなに窓を見るのが楽しいの? ほら、みんないつも、電車に乗ったらスマホばかり見るでしょ?」

しかし、あどけない声で聞かれるとどうも毒気を抜かれる。私は多分、子供には弱いのだろう。

「スマホは電車の外だって見られるでしょ。電車の窓は電車の中でしか見られない」

「それはそうだ」

 彼はうんうんと小さな首を縦に振った。それと連動するように、カーキー色のズボンに包まれた足をぶらぶら揺らす。

「でも、それは、お姉ちゃんが窓の外を好きな理由じゃないよ」

 少年は、私が説明が面倒なばっかりに適当に答えたことを見破ったらしかった。私は小さく息をつく。

「あの窓の外は、多分私の知り合いが誰もいない場所なんだ。本当は違うかもしれないけれどね。電車の窓を通してみると、なぜだかそう思えるんだよ。私はそんな世界に包まれている。そう考えるのが、私は好きなんだ」

 こんな話をしても、小さな少年にはわかるまい。今思うと、小学校時代の私は何も考えていない幸せ者だった。成績なんてあってないようなもの、自分も周りも総じてアホだったから、大して会話の裏を探す必要もない。

 そう思ったが、少年はまたしてもまるい頭を縦に振った。

「なるほど。お姉ちゃんは知り合いが誰もいない場所に行きたいんだ」

 少年の瞳が急に神妙な、落ち着いた色を帯び、私はどきりとした。

 けれど次の瞬間、彼はその色をすっかり忘れて、無邪気な顔で微笑んだ。

「ちょっとわかる。僕も、勉強をやれっていう大人がいない場所に行きたいって、思うもん」

 なるほど、少年はその齢でオベンキョウをしなければいけない暮らしをしているらしい。先程の脳内で思ったことを取り下げ、心の中で彼に謝る。彼は昔の私より数倍賢く、いい子であったらしい。

「僕もね、電車に乗って、こうして座っているとね、いつも思うんだ。このままずっと電車に乗ってさ、誰もいない駅に行ってみたいって。お姉ちゃんはそう思ったことある?」

 私は頷く。

「あるも何も、電車に乗ったら一回は思うね」

少年の顔がパッと輝く。

「だよね!僕もそう思う。だって電車はこんなに速くって、僕をたくさん遠くまで運べるんだもん」

「そう。しかもそれをするのはとっても簡単。電車を降りずに、ここでずっと座っているだけ。あとで親に怒られたって、言い訳するのも簡単」

「ちょっと疲れてて寝過ごしちゃった、って言えばいいもんね」

 私と彼は同時に笑った。けれど彼はすぐに押し黙り、顔を伏せてしまった。

「ねえ、一緒に、終点まで行こうよ」

 彼はそういうと、顔を上げ、上目遣いで私をまっすぐ見つめた。私はなんだか、その瞳に射抜かれているような気分になる。数秒間見つめ合った後、やっとの思いで私は目を逸らし、もう一度向かいの窓へ目を向けた。外はすっかり暗くなっていて、非常に情けない顔をした自分の姿だけがぽつんと窓に浮かんでいた。その瞳は、彼と共にこの電車で揺られ続けることを望んでいるように見えた。

「それはとても心惹かれるお誘いだね」

 私はそう言って、窓から目を逸らし少年へ微笑みかけた。彼はとびきりの笑顔を私に向ける。

「でもね、私はなるべく地図を埋めたくないんだ」

 彼の顔がサッと陰る。大きな瞳が困惑したように私を捉えた。

「私はね、実を言うとこのせいで地理の成績が壊滅的に悪い。終点の駅が地図の上のどこにあるのか未だに見当もつかない。この電車が宇宙とか、別世界とか、下手したら天国なんかに繋がっててもいいし、繋がってて欲しいと思っている。でもね、まああり得ないけど、もし万が一、電車の終点が宇宙や、別世界や、竜宮城なんかにに繋がっていたとしても、実際にそこへ行って、ああここは宇宙だったのか、とか、別世界だったのか、とか、竜宮城だったのか、とか確認してしまうのは嫌なんだ。どんなにこの電車が現実にはあり得ない、夢みたいな場所に繋がっていたとしても、直接目で見て耳で聞いて肌で触れてしまった場所は、私の頭の中を追い越したりはできないよ。だってそれは私の場所じゃないからね」

そう答えると、彼は一瞬泣きそうな顔をした。けれどすぐに目を伏せてしまった。彼は「そうだね」と呟いた。それは会話の流れ的には私への返答なはずなのに、自分に言い聞かせるような響きがあった。

「どこへ行ったって、例えそれが天国でも、そこは僕の行きたい場所じゃないよ」

 私は小さく頷いて、そっと窓の方へ視線を移す。真っ黒の世界に浮かぶ少年は、どこか不貞腐れるように手を椅子に置き、自分のつま先を見つめているようだった。その隣にいる私は、苦い何かを誤魔化すような、不恰好な微笑みを湛えていた。

「別に、現実の場所が大っ嫌いってわけじゃないのにね。だから、私は終点には絶対行かない。行けない場所じゃなくって、行かない場所にしたいんだ」

 それはまあ、強がりでしかないけれど。

 丁度よく電車が駅に止まる。彼はぴょこんと立ち上がった。

「僕の駅はここなんだ。僕も、これ以上先は行かない。バイバイお姉ちゃん」

 彼は私に手を振って、電車から降りた。


 それから数分電車に揺られ、ドアの上の電子画面を見る。「儀来河内駅」という文字が写っていた。これが次の駅かと思ったら、その後「低顔駅」の文字が映る。何を隠そうこれが私の最寄駅だった(何度見ても情けない名前だ)ので、最初に映った駅名はこの電車の終着駅だろう。

 電車が止まり、私は見慣れた自分の駅に降り立つ。黄色い線の内側を歩きながら、ぼんやりと少年のことを考える。これがホラー小説だったら、あの子は絶対幽霊だよなぁとか、生産性のないことを考える。実際、窓を見た時自分の姿しか写っていなかった時はギョッとした。でも、二度目に見た時はきちんと彼の姿が見えたので、きっと目の錯覚か何かだろう。それにこれがホラー小説だったら、間違いなく彼は駅を降りずに私の腕をふん掴んででもぶらり電車旅を続けていたはずである。私は小さく息をつき、もう見慣れすぎて想像する余白もない自分の町へ向かった。

 後日、今度は朝の電車で私はあの少年と再会することになる。彼は珍しいことに、私服の私立小学校へ通っているらしい。そしてこの小さな少年は、あの日自分の駅を通り過ぎ、あのまま終着駅まで行く気でいたのだという。遠く、遠く、そこに自分の感じる、漠然とした息苦しさから逃れる場所があると願って。

 まあ、電車の中の少年が幽霊などではなかったように、彼が下車した世界だって、電車を隔てず見てしまえば同じだろう。いつか私も彼も、終着駅に降りなければならない時が来るのかもしれない。けれどそれは、今じゃなくてもいいじゃないか。例えそこが天国でも、降りてしまえば現実だ。

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